視覚障害をもつ鍼灸師が特に注意すべき医療過誤-附属診療所における6年間の記録- A Few Types of Acupuncture Negligence to which Visually Impaired Therapists Should Pay Particular Attention-A Six Year Survey Study at a College Clinic- 筑波技術短期大学附属診療所 山下 仁,津嘉山 洋,丹野 恭夫 筑波技術短期大学鍼灸学科 形井 秀一,西條 一止 要旨  本学附属診療所鍼灸治療部門において発生した過誤は,鍼の抜き忘れと温灸などによる熱傷であった。鍼灸師の晴眼対視覚障害の割合を考慮に入れて検討した結果,鍼の抜き忘れと熱傷の発生頻度に視覚障害の有無は関与していないと考えられた。しかし視覚障害をもつ鍼灸師によって起こされた熱傷の方が,重症度が重い傾向があった。刺した複数の鍼を確実に抜くという過程には視覚よりも記憶の方が重要であるが,皮層の発赤の具合を確認しながら適度な温熱刺激を加える場合には視覚を用いた迅速な判断が必要かもしれない。過誤のほとんどは視力に関係なく鍼灸師個人の注意深さの問題であろうが,視覚障害をもつ鍼灸師が温熱療法を行う際にはより細心の注意が必要であると思われる。 キーワード 視覚障害,鍼灸,過誤,鍼の抜き忘れ,熱傷 1. はじめに  鍼灸臨床において起こる有害事象(adverse event)は,有害反応(いわゆる副作用),過誤,および偶発事故に分類される1)。我々は本学附属診療所における調査から,適切な教育とトレーニングを受けた鍼灸師が生命を脅かすような重篤な有害事象を起こすことは稀であることを示してきた2)。しかしながら軽い有害事象は日常の鍼灸臨床においても遭遇することが多く,その中には明らかに鍼灸師の落ち度による過誤も存在する。今回我々は,本学附属診療所における記録にもとづいて,鍼灸の過誤と視覚障害との関連について述べる。 2.本学附属診療所における鍼灸の過誤の記録  本学附属診療所鍼灸治療部門では,有害事象を認めた際には即座に所定のレポートフォームに記載して報告することを義務付けている。これらの報告記録の中で,鍼灸師の落ち度によって生じた有害事象すなわち過誤は,鍼の抜き忘れと温熱療法による熱傷であったり。以下,これら2つの過誤についての集積結果と考察を述べる。 3.鍼の抜き忘れ  鍼の抜き忘れの例を集計して表1に示す。6年間で合計27件の鍼の抜き忘れがあり,そのうちの11件(41%)は,頭部,仙骨部,臂部といった毛髪や下着,タオルなどで隠れやすい部位の抜き忘れであった。鍼を発見したのは15件(56%)が患者自身であった。発見の状況は,治療終了後の着衣時に見つかるものから帰宅後にトイレや入浴で発見されるものまで様々であり,抜鍼は少なくとも11件(41%)については患者自身によって行われた。全ての例が当該鍼灸師または診療所スタッフによる口頭での陳謝のみによって患者に許容されていた。レポートフォームに記されている以外の印象としては,患者のほとんどが寛容に受け止めてくれたが,一部の患者からは不安と怒りの声を聞いた。  晴眼の鍼灸師が起こした抜き忘れの件数は17件であり,弱視の鍼灸師は10件,全盲の鍼灸師は0件であった。本学附属診療所における鍼灸師の晴眼対視覚障害の割合を考慮に入れて,鍼灸師を障害の有無で分けると,晴眼の鍼灸師全体のうち鍼の抜き忘れを起こした者は21%であり,視覚障害をもつ鍼灸師全体のうち鍼の抜き忘れを起こした者は20%であった。すなわち鍼の抜き忘れに視覚障害の有無は関与していなかったと思われる。  鍼の抜き忘れが起こる理由は鍼灸師個人の不注意によるものであろうが,患者によって数十本の鍼を用いたり,鍼を刺す鍼灸師と抜く鍼灸師が別である治療グループがあることが,発生頻度をより高くしていると思われる。しかしこれらの治療形態は,治療の効果や効率の面を考えると変更しがたい。よってカルテ記載による伝達を更に徹底し,また鍼と鍼管がセットになっているデイスポーザブル鍼の特徴を利用して,鍼を抜いた際に鍼管と鍼の数が合っていることを確認する作業を義務化することによって発生頻度を減らせるのではないかと考え,現在この方策の普及を図っている。 表1 6年間に報告された鍼の抜き忘れ 表2 6年間に報告された熱傷 4.温熱療法による熱傷  熱傷の例を集計して表2に示す。6年間で合計7件の熱傷事故が発生し,そのうちの5件(71%)は棒温灸(文を巻き煙草のように丸めたものを燃焼させてその輻射熱で間接的に体表を温める方法)によるものであった。また知覚が鈍麻していると思われる部位に対する施術が2件(29%),患者が熱いのを我慢してしまった例が2件(29%)あった。熱傷の重症度はⅡ度が5件(71%),Ⅲ度が1件(14%)であり,最も重症であった12×11cm四方の第Ⅲ度熱傷の例は大きな癩痕を残して回復するまでに2年以上を要し,診療所で加入している施設賠償責任保険が適用された。  晴眼の鍼灸師が起こした熱傷の件数は3件であり,弱視の鍼灸師は3件,全盲の鍼灸師は1件であった。本学附属診療所における鍼灸師の晴眼対視覚障害の割合を考慮に入れて,鍼灸師を障害の有無で分けると,晴眼の鍼灸師全体のうち熱傷を起こしたものは7%であり,視覚障害をもつ鍼灸師全体のうち熱傷を起こしたものは9%と大差はなかった。しかし視覚障害をもつ鍼灸師によって起こされた熱傷の方が,重症度が重い傾向があった。これは皮膚の発赤や患者の苦痛の表情を,より早く察知することが困難であることによるのかもしれない。  このように熱傷に関しては,少なくとも本学附属診療所において,視覚障害をもつ鍼灸師によって起こされた場合の方が重症度が重い傾向があるというのが事実であった。鍼の抜き忘れと同様,鍼灸師個人の慎重さが最も重要な要素のひとつであることは言うまでもないが,視覚障害をもつ鍼灸師が温熱療法を行う際にはより細心の注意が必要であると思われる。また視覚障害の有無を問わず,外傷や手術の癩痕部位への施術や,片麻漉などの中枢神経障害をもつ`患者,ニューロパチーなどの末梢神経障害をもつ`患者,高齢者などでは温熱療法が禁忌である場合もあるため,施術を行いたい部位の皮膚知覚が正常であるかどうかを充分に確認する必要があろう。また熱いのが治療だと信じて疑わず我慢をしてしまう患者もあるため,不快を感じたらすぐに教えるように念を押しておくべきである。  なお棒温灸による熱傷が続いたため,ホルダーで棒温灸を固定することを禁止し,必ず術者が手で持って皮膚を温めるようにしてから,棒温灸による熱傷の過誤は生じていない。 5.おわりに  何度も繰り返して述べているが,鍼灸臨床における過誤は一般の医療過誤と同様に,そのほとんどが鍼灸師個人の注意深さの問題である。しかし視覚障害をもつ鍼灸師が過誤を起こした際,それが個人の慎重さではなく視覚障害であることに帰せられる恐れがある。もし理由もなくこのような評価を受けることがあれば,視覚障害をもつ鍼灸師が職業的に自立する上で社会的な不利を被ることになる。そこで今回は敢えて視覚障害の有無に分けて集計し,過誤の発生に視覚障害が関与したかどうかを検討した。その結果,鍼の抜き忘れに関しては視覚障害の有無は関与していないと思われたが,熱傷に関しては関与している可能性が示唆された。鍼をどこへ何本刺したかを覚えていて,それを確実に抜くという過程には視覚よりも記憶の方が重要と思われる。一方,皮膚の発赤の具合を確認しながら適度な温熱刺激を加える場合には,視覚を用いた迅速な判断も必要であろう。このことから今回の検討結果には妥当性があると思われる。  鍼灸臨床で発生する過誤には,本学附属診療所で報告されたものの他に,気胸,感染,脊髄障害,異物(折鍼)などが報告されている:M1。これらを起こさないための教育およびトレーニングに必要な知識のための資料を,特に感染過誤防止策に重点を置いて実験や調査により作成しているところである5-91.視覚障害をもつ鍼灸師を養成する教育施設においては,障害を前提とした教育資料を更に充実させることが過誤の防止に役立つと我々は考えている。 文献 1)山下 仁,津嘉山 洋,西條 一止:鍼灸臨床における有害事象,過誤,および偶発事故-筑波技術短大附属診療所5年間の調査-.全日本鍼灸学会雑誌,48(1),pp99(1998). 2)Yamashita H.,Tsukayama H.,Tanno Y. and Nishijo K.:Adverse events related to acupuncture. JAMA,280,pp1563-1564(1998). 3)Norheim, A.J.:Adverse effects of acupuncture: A study of the literature for the years 1981-1994. The Journal of Alternative and Complementary Medicine,2(2),pp.291-297(1996). 4)形井 秀一:鍼治療後に発症した「劇症型A群レンサ球菌感染症」による死亡報告について.医道の日本,652,pp7-9(1998). 5)高橋 昌巳,山下 仁,一幡良利:手指の常在菌に対する直接消毒法の効果について.全日本鍼灸学会雑誌,44(1),pp81(1994). 6)山下 仁:経験医術を科学の目で(6)鍼灸臨床における手指の衛生管理.月刊東洋医学,1994年1月号,ppB(1994). 7)一幡良利,山下 仁,高橋 昌巳:鍼灸に関連する微生物とその処置.丹沢・尾崎編鍼灸最前線.初版,pp76‐79(1997),医道の日本社. 8)山下 仁,一幡 良利,高橋 昌巳:鍼灸臨床における効果的な手指消毒剤に関する検討.筑波筑波技術短期大学テクノレポート,5,pp27-31(1998). 9)山下 仁,渡辺 海作,堀 紀子,一幡良利:消毒用エタノール綿花を用いた皮膚消毒の効果.理療の科学,21(1),ppl5-23(1998).