国語教育の課題と展望 聴覚部一般教育等 細谷 美代子 要旨:学校週五日制に合わせた新教育課程が2002年度から実施される。国語科では音声言語コミュニケーション教育・作文教育・古典教育の三分野が殊に注目されるものであることに鑑み、この三分野を考察する。それぞれにおいて課題の所在を明らかにし、問題点克服の方向性を探るとともに展望を示した。 キーワード:国語教育 新教育課程 音声言語コミュニケーション 作文 古典 1.はじめに  教育課程審議会の「審議のまとめ」(1998.6.22)、小学校・中学校の次期学習指導要領案(1998.11.18)など初等・中等教育に関する重要な発表がすでになされた。数次にわたる学習指導要領改訂のなかでも、完全学校週五日制実施に連動した今回の98年度改訂は戦後教育の歴史的な転換点となろう。このような状況の下で、国語教育においてもさまざまな課題があるものの、本稿では音声言語コミュニケーション教育・作文教育・古典教育の三分野について普通教育・聾教育双方の視点から考察する(1)。 2.音声言語コミュニケーション教育  近年、「音声言語コミュニケーション能力(の育成)」という長い用語が喧伝されてきた。これは「話すこと・聞くこと」あるいは「話しことばの教育」と同じであるのか、それとも何か違うのであろうか。 2.1何が違うか  近代的な学校教育が始まった明治期は国語教育の草創期でもある。明治28年の「高等女学校規程」にはすでに「話方」という語が登場する。しかし、この「高等女学校規程」を考察した安(1990)は、「『話方』は国語科の-領域ではない,というのが第1の性格である」とし、「話しことば教育は,朗読を通じての話し方,朗読を通じての読書といった,いわゆる独話の範囲を超えず,討論などの対話・会話については十分に意識されているとは言えない。」とする。  明治33年の「小学校令施行規則」に「話シ方」の項が設けられてから、話しことば教育の歴史が始まったと見ることができよう。  明治政府にとっての関心は、国民が一定の標準的な日本語を使用するようになること、にあった。したがって、方言は駆逐されるべきものであり、児童生徒が計上のない標準的な話しことばを使うことは学校生活全体を通じて期待されることであった。放送というマスメディアが誕生していない当時にあっては、話しことば教育は発音の標準化をも含むものであった。それは「形」を整えるということであるが、その意味では発音に限られたものではない。従前の話しことば教育はいわば「よそ行きの場」における音声言語表現を念頭に置くものであった。  たとえば、学芸会や運動会で来校者に対して挨拶を述べる、司会進行役を務めるなどの場がある。発言はいずれもあらかじめ準備されており、ある種の筋書きに沿ってなされる。その多くは一方通行的発言である。つい先頃までの話しことば教育はいわばこの路線上にあったといえよう。少なくとも、そこから大きく離れようとはしてこなかった。そして、それに対する反省・批判が「音声言語コミュニケーション能力」に対する注目として出てきているのである。  村松(1998)は「モノローグ型」と「ダイアローグ型」という視点から問題を分析している。  表1に見るように、従前の話しことば教育において想定されていた型は「モノローグ型」と捉えることができる。対するところの「ダイアローグ型」こそ、今関心が集まっている音声言語コミュニケーションの型である。すなわち双方向的発言であり、言葉の受け答えを必須とするものである。それは言葉がただ行き交えばよいのではなく、言葉のやりとりが創造的なものであることを目指すものである。  言葉のやりとりが創造的なものであるとは何か。それはあらかじめ用意された台本を双方がそつなぐ演じることでもなければ、一方が他方を予定された結論に導いていくのでもない。対話者が共同で道を探りつつ、双方が納得できる価値ある結論を築きあげることをいうのである。単なる知識の伝達、連絡事項のやりとりは創造的な対話ではない。  村松の表で注目すべき点は「5 冗長性の評価」の項である。村松は、コミュニケーション能力を育成する「ダイアローグ型」教育では、言葉の繰り返しや「えーと、あのー」「~ね、~よ」などを必然的で不可欠なものであり、矯正の対象にはしないとする。先にも述べたようにこれまでの指導が「形」を重視していたこととは対照的で、画期的なことである。 2.2聴覚障害教育における対応  まず、誰もが考えるのは聴覚に障害を有する児童生徒にとってはこのような双方向型の「音声」を中心に据えた学習活動はやや抵抗のある課題ではないかということであろう。  モノローグ型のコミュニケーションであるならば、十分時間をかけて準備した原稿を、これまた時間をかけて朗読できるよう丁寧に指導することで乗り切ることができたかもしれない。しかし、ダイアローグ型となるとそうはいかない。その場その場で相手の発言を正確に聞き取り、それに対して的確、かつ、明瞭に応答しなければならないからである。とはいえ、「聴覚に障害を有する学習者には無理→この分野は聴覚障害児童生徒を対象とする国語教育の場から省く」という対応で問題は解決されるのであろうか。いうまでもなく、そのような対応は何も解決したことにならず、さらに問題を生み出すだけにすぎない。  課題の根元を今一度確認したい。何のための音声言語コミュニケーションであるのか。期待されているものはダイアローグ型のやりとりを通じて創造的な活動に導くという点ではなかったか。そもそも、「音声言語コミュニケーション」というのは多数派の聴者のネーミングである。人と人が顔を合わせた場における、双方向の意志の通い合いによる「問題の共同解決能力」が目指す点であるならば、聴覚障害教育の場にあっては当然「手話や指文字等、視認できる伝達手段を活用したコミュニケーション」と置き換えられるべきものである。いたずらに「音声言語」の文字に拘泥して、求められていることの本質を見誤ってはなるまい。本質を正確に捉えて教育目標の中に位置づけたい。 2.3カリキュラムの可能性  次に、このような教育課題に対応したカリキュラムの可能性について述べたい。  聾学校では近年在籍数が減少している。当然ながら、-クラスの人数も非常に少なくなっている。コミュニケーション能力の育成を目標とする指導において、このようなクラスサイズは長所もあろうがまた短所もある。  何よりもまず多様な意見.考えに接することが制限されるという問題がある。成長段階にある学習者にとって、これは実に大きなマイナス要因である。学校教育において児童生徒への言語情報は量とともに質、そして多様性が確保されねばならない。聴覚障害教育において、量と質を問題にすることはあっても、多様性についてはこれまでどのように配慮されてきたのであろうか。この点の検証は重要であると考えるが、これについては別稿に譲る。本稿では多様性を今後いかに確保するかという課題に応える方策の一つとして「異学年交流」を提案したい。一学年一クラスの規模でも複数の学年が同じ時間を共有することで数人のクラスサイズを構成することは可能である。  学年を異にするメンバーで学習に取り組むことは新鮮な刺激を生み出す。なぜなら、そこでは学力による教室の力関係とは異質の力学が働くことが予想されるからである。そのような力学はクラブ活動など、クラスの枠をくずした活動の場における観察によってすでに明らかなところである。加えて、複数のクラスを結合することで教師の数も複数となる。一つの学習集団を複数の教師が見るというのはT・T方式の実践ですでに報告がなされている通り、可能性に富む授業方式である。一般にはその教育効果が高く評価されながら、もっぱら予算問題が壁となって普及しない方法である。しかるに聾学校等における小規模クラスの合同授業は一般にはネックである予算問題に振り回されることなく、その果実を手にすることができるものと考える。  一学年に複数のクラスが置かれているならもう一つのプランも用意できる。複数のクラスを合同させるという点は同じであるが、その際、教科目を合同させるのである。たとえば、二つのクラスを併せ、国語と理科の合科学習として教案を準備するということが考えられる。  こうして特別な予算措置を待たずに、①多様な意見・考えに接する機会の確保、②T・T方式の導入、③合科学習の導入など、それぞれの教育現場に合わせて実践に移すことが可能である。 表1 モノローグ型話しことば教育とダイアローグ型話ことば教育 3.作文教育  「作文」という言葉から一般に想起されるのはどのようなことであろうか。 3.1学校行事と作文  学校時代、遠足や運動会などの学校行事の後に決まって作文を「書かされた」という思い出は多くの人が持っていよう。  遠足は明治以来の学校教育の歴史の中で、長らく児童生徒にとって刺激的で印象深い経験をする貴重な場であった。多くの場合、遠足の作文を綴ることは楽しい時の再来であり、わくわくした思いの再現であった。それは文章を綴ることの困難・負担感を軽減する方向に作用した。  運動会も同様である。遠足の魅力が主に「学校や居住地域を離れたところを舞台にする」という点にあるとするなら、運動会は「日常の場がその日に限り非日常の場に変わる」という点に魅力があった。さらに「勝敗・スリル.晴れがましさ」などというものが生み出す混沌としたエネルギーもそこには在った。  こうして学校行事は作文を書く大きな契機であった。しかし、「遠足も運動会も楽しみだけど、その後の作文がいや」といわれるようになって久しい。 3.2読書と作文  読書感想文も同じような軌跡を描いている。かつて、家庭に子供用図書を備えることに意を用いる親は極めて少数であったに違いない。そもそも、子供用図書の出版そのものが今とは比較にならぬほど少なくもあった。そのような時代、本好きな子供にとって学校こそは宝物の在る場所であった。今は、子供が本好きであれば親は喜んで欲しい本を買い与えるであろう。図書館といえば、学校図書館しか身近になかった時代から、地域図書館が根付く時代になった。本が身近にあるようになった今、「子供が本を読まなくなった」「読書感想文が嫌われる」という事態は残念なことである。 3.3作文の読み手  行事作文といい、読書感想文といい、これらに共通する問題の原因はどこにあるのであろう。それを考える時、「いかに書かせるか」という視点から問題を見ている限り答えは出て来ない。必要なのは「書かれたものを読む」という視点からの考察であろう。 3.3.1「読む」とは  問題は、読み手は誰かということに関わるが、まず「読む」ということについて考えたい。それは「読んでもらう」のか、「読ませる」のか、「読ませてあげる」のかという点を検証するということである。同時に読み手は「一人」か、「複数」か、「不特定多数」かという「数」についても考察する必要がある。この「読むこと」「読み手の数」という二種の要素を組み合わせる中で、本来は幾通りものバラエティに富んだ「書かれたものを読む」という行為が学習の場で保証されるべきであった。しかし実際はごく限られたパターンしか用いられなかった。それは「担当教師一人」に「読んでもらう」という組み合わせである。どうかすると「読まれる」であったかも知れない。  この組み合わせでは何が問題か。それは、書き手からすれば「書いた甲斐がない」という事態がまま発生しがちであったということである。せっかく書いた作品が一人の大人の眼に触れるだけ、それも評価という眼差しによってである。多くは、朱を入れて返却されるであろうが、担当教師の指摘に違和感があっても児童生徒がそれを自分から申し出るというのはなかなか難しいことである。納得できないまま作文用紙を鞄にしまい込む。検印だけということも少なくはない。教師にしてもそのような指導で済ませざるを得ない状況に忸怩たるものを感じつつ、一方で、通り一遍の指導と批判されることには納得できないであろう。  双方に不満が残る作文教育は特定の学校の特定の教室に限られたものではない。 3.3.2新しい読み手の登場  限られた人員と時間とで何ができるかというのが現場の正直な気持ちでもある。そのような中でどう活路を開くのか。まず、せっかく書いたものを教師一人が読むだけに終わらせないということはすぐにでも実践可能である。それはクラスの作品を教室で読み合うのである。もちろん「いやだ」とか「恥ずかしい」との声は出る。しかし、「同級生の作品を読むのはいやだ」という声はまず出ない。「つまらない」と言う声も出ない。生徒は読みたいのである。本音は、「自分の作品を読まれるのは恥ずかしいが、人の作品は読みたい」である。生徒は前半部だけをぶつけてくる。教師はその勢いに押されて、後半部の気持ちを見落としてはならない。  ただし、注意すべき点はある。あらかじめ、「皆で読む」という授業の方針を伝えておくことである。そうでないと、時には個人的な悩みや訴えを書いた生徒を窮地に追い込むことになる。テーマを与えるなら当然皆で読み合うに適するものにすべきである。それは当たり障りのないことを書かせるということとはまったく次元の違うことである。  心情を吐露した作品を書かせることが国語教師の手柄ではないということも肝に銘ずる必要がある。  自分の書いた作品がどう扱われるのかは誰しも関心のあることである。書き上げた作品を複数の人間が「読んでくれる」という見通しを与えられると生徒は落ち着く。筆者のこれまでの実践経験では多くの場合、プラスに作用した。  比較すると次のような差がある。  ここには「書きっぱなしでない」・「友人の作品による刺激」・「複数の眼からの批評の重み」・「読むことの訓練」など多くのプラス要素が存在する。「書きっぱなし→書かせっぱなし→とにかく升目を埋めるだけ」という悪循環を絶たねばならない。  クラスサイズにもよるが、回覧だけなら1時間で十分である。  ここに示した「新しい読み手を確保する」というプランは先に音声言語コミュニケーションで考察した「双方向性」を作文学習の場に導入したものでもある。書き手と読み手の間に双方向性のコミュニケーションが成立するとき、作文は孤独な作業ではなくなる。行事作文に代表される作文のマンネリズムを打破するためのこの提案は、聾学校にも普通校にも共通に適用できるものであると考える。 3.4添削の視点  聴覚障害児童生徒の作文に特徴的なこととして、助詞などの誤用が見られる。それらの作文の添削にあたり、不適当な表現は大小問わず、徹底的に朱を入れるという「善意の丁寧さ」はいかほどの効用があるのであろう。聴覚障害児童生徒を対象とする作文教育において、「て・に.を・は」の誤用箇所の指摘を控えたら表現力は急落するのであろうか。  助詞を正確に使いこなすよう指導することはなるほど大事なことではある。しかし、助詞の誤用に関する個々の指摘がすぐに次回の作文に生かされ、誤用が根絶されるというわけのものではない。繰り返し添削しても「て・に.を・は」の整った文章を書かせることがいかに困難であるかは日々の教育にあたっている人間なら誰しもが思い知らされている点である。「善意の丁寧さ」はその期待に反して、児童生徒に自信を失わせ、達成感を得る機会を奪うばかりでなく、作文に対する苦手意識を持たせる大きな原因ともなっているのではないか。  およそ物事は時宜に適うか否かが常に吟味されねばならない。日々育ち行く子供達を対象とする学校教育においてはなおさらである。初等・中等の十年以上に及ぶ国語教育のなかで「て・に.を・は」を終始同じ重みで扱い続けてよいはずがない。どの年齢で、どの学習段階で、どのくらいの期間、どういう方法・教材で指導するのがよいのかということは基礎的な研究課題であるはずだが、今日までどれほど明らかにされ、教育実践に生かされてきたのであろう。  後期中等教育段階では、時には助詞の誤用には目をつぶって、指導の重点を全体構成・内容に置く方法も試みてよいのではないかというのが筆者の立場である。構成や内容に関する大局的な指導は書く力を育てるには必要不可欠なことだからであり、そうした指導は次の作文機会に生かしやすいからである。構成や内容は自覚的に書くことで自力改善が期待でき、書き手の達成感も高い。  添削を受けて「ああ、そうか、次はこう書こう」という意欲がわくような、書き手を支援する前向きのコメントでありたい。そのためには添削の視点が十年一日のごときものであってはならず、学習段階に応じて「今年は何を」、「今回は何を」、「次回は何を」というきめ細かな指導計画が欠かせない。  これまでの作文教育研究には書き上げるまでの方法についての論究が多い。しかし、作文教育は一本を書き上げたところで終わってはならないのである。書いた後にも「学習と指導」は必要である。なぜなら、それが次の作品を書くための有益な準備となるからである。今後は書いた後の「読む」「添削」についての実践研究がいっそう強力に進められねばならない。 3.5漢字書記能力  筑波技術短期大学に入学してくる学生の中には漢字の書取りに熱意と関心を持つ学生も多い。ただ、筆者が問題であると感じるのは、正確に書くという力量と一字一字に対する理解とがアンバランスな学生が時に見られるという点である。たとえば、書取テストでなら書けるある漢字が、熟語として初めて目の前に出てくると「読めない」「意味が分からない」ということになる。漢字練習帳などでコツコツと努力してきたのであろうが、応用がきかない、文章の中での意味理解が不適切であるという者もいる。いうなれば、漢字テストに対しては高得点を期待できるが、運用力という点で不安のある学生が存在しているのである。  また、今ひとつの問題は学生の意識の問題である。漢字を書けることが国語力であると思っている学生が毎年いる。ここでの「書ける」とは、漢字を構成する線や点をコピーする力というほどの意味である。そうした「コピーカ」に自信のある学生のなかには自分の漢字運用力や理解力の実際を正確に把握できないものがいる。入学後、早い段階でそのことに気づいてほしいと思うが、本人の意識を変えるのはなかなか難しいこともある。  漢字テストの得点に惑わされず、使える知識となっているかどうか慎重な見極めが必要である。その見極めのための方法開発が急がれる。 図1 提出後の作品の流れ 4.古典教育  古典教育は、古典に親しむ態度を育成する、というのが基本姿勢である(2)。しかし、古典教育の中心的な担い手である高等学校においては、古典教育は将来的に縮小されるのではないかという懸念が広がっている。  現行の高等学校学習指導要領には必修科目として「国語Ⅰ・4単位」が指定されている。これは<総合国語>という理念に基づく科目である。つまり、どの社のどの教科書を採択しようと、現代文・古文・漢文の三本の柱から構成されていることには変わりがない。この現行の「国語Ⅰ・4単位必修」に対し、次期教育課程では「国語表現Ⅰ・2単位」か「国語総合・4単位」のうち、いずれか-科目を「選択必修」とするという方向が示されている。 4.1古典教育のカリキュラム  なぜ、「国語総合・4単位必修」ではないのか。また選択必修を導入するとしても、なぜ「国語表現Ⅰ・4単位」が用意されず、「国語表現Ⅰ・2単位」であるのか。これについては多様なカリキュラム構成のために2単位科目が求められたということではある。であるならば、「古典Ⅰ・2単位」・「古典Ⅱ・2単位」が姿を消して、「古典・4単位」に統合されているのはなぜか。伝わるところによれば、現行の科目数「8」をとにかく減らす方向で検討されたということであるが、教育理念においても、整合性においても問題が残る。4単位というボリュームは一筒学年ではなかなか確保しにくい。必然的に二箇学年にわたって履修することにならざるを得ないが、それこそは、個を生かした多様なカリキュラムの障害になるものではなかったか。高等学校国語の科目編成に関しては疑問点が多いと言わざるを得ない(3)。 4.2古典教育の課題  古典教育の本来の意義を見失わず、「古典に親しむ態度を育成する」という目標にどうアプローチするかという点が焦点である。そのためには古典教材の見直し・発掘が不可欠となる。 4.2.1古典をめぐる幻想  基本的な古典文法を学び、重要古語を覚えれば初見の古典作品でも読めるというのは幻想である。  しかし、古典学習の基礎を終えればある程度は読めるはずと教師も生徒も思いこんでいるような節がある。かつて益田 勝実(1976)は「目的と手段が顛倒し、古典文学そのものを学ぶのではなく、それを読むための準備をするのだ」「他日学校を出て社会人として暮らす時、自力で広くクラシックが読めるよう、基礎学力をつけてやるのだ、という非現実的なタテマエが、その顛倒を支援している。」と厳しく批判した。この状況は今も変わらないだろう。読めないのは勉強が足りないからだとされる。そこで努力する者はひたすら励むが、投げ出すものは投げ出して恥じることがない。  まず、頭を切り換えて、古典を自由に読みこなすことは無理であるということを正面から見て、学習目標の設定を再検討すべきではないだろうか。 4.2.2視覚情報の活用  聾学校の卒業生のなかには、後期中等教育の段階でほとんど古典教育を受けていない者がいる。さまざまな理由からその出身学校では国語の学習領域のなかから古文・漢文をカットないしは縮小していることがうかがわれる。  言語情報の受け取りにハンディのある生徒に対する古典教育は高等学校の現場が直面している古典教育の困難にさらにもう一つの困難が加わるだろうということは予想されることではある。しかし、その「古典教育の困難性」がある種の学習法寸すなわち、文法・重要古語の暗記を中心に据えた学習を念頭に置いてのものであるなら、考え直されねばならない。  原文を解剖するかのような学習や「口語訳」と称してことばを置き換えるだけの学習がすべてではない。視覚情報を活用した学習プランなどは今後大いに研究の余地がある。たとえば絵巻と説話を組み合わせた案が考えられる。  貞観8年(866)、応天門が放火により焼失するという事件があった。『宇治拾遺物語』の「伴大納言応天門を焼く事」はこの事件をめぐる世俗説話の一つとして伝わる。『伴大納言絵巻』(出光美術館蔵)は事件の300年ほど後に描かれたものであるが、そこに残された詞書は『宇治拾遺物語』とほぼ同じである。そこで、『伴大納言絵巻jを手がかりに『宇治拾遺物語』を読み解くというプランが可能となる。筋書きは、伴大納言が時の大臣を放火犯と名指しし、大臣が無実の罪に陥れられそうになったが、関係者の子供の喧嘩が発端となって真犯人である伴大納言が逮捕されるという起伏に富むものである。絵巻の、炎をあげて燃えさかる応天門、子供の喧嘩に飛び出してくる親の表情などまことに興味深い。  扱いはいろいろ工夫できよう。絵を見てから文に入ってもよいし、逆に文から絵をたどってもよい。また、冒頭から終末部までを扱ってもよいし、生徒が興味を持った部分に絞ってもよい。場面ごとにグループが担当して発表するのもよかろう。絵と文を組み合わせることで、生徒は双方の資料を往復して情報を得ることができる。鑑賞したり、自分で読む姿勢が生まれるということがこの素材の強みである(4)。  絵巻という視覚に訴える資料は背景となる当時の生活や社会に対する理解を深めることにも非常に有益である。 4.2.3原文の扱い  多様な古典学習というとき、原文主義を否定し、訳文だけで良しとする考えがある。筆者は、古典が漢文を含め、日本の古典として学ばれるのである以上、原文を読むということは譲れない要件であると考える。先に、少々の勉強では古典を読解することは困難であると述べたが、それとこれとは矛盾するものではない。自力で初見の古典を読めるようになるのは一般に考えられているほど簡単ではないということを述べたのが先の記述である。教室で適切な指導を受けながら学ぶ古典学習ではやはり原文を取り上げるべきである。文章というものは表記に用いる字、言葉の音・リズムなど複雑な要素が絡み合って一つの調和を作っている。  聴覚に障害があるから古典のリズムなどわかるまいとか、不要だなどいうことは断じてないのである。その生徒が主に日本語を用いて考え、自己表現をし、成長していく環境におかれているのであれば、古典のリズムに近づける工夫のある学習計画が必要であろう。なお、優れた古典評論を古典教育の教材として原文とともに用いることは有益である。教材の「精選」というかけ声の下で、かつては教科書教材として採用されていた古典評論が削除され、工夫なく原文だけが並べられていることも、原文否定の訳文絶対主義に力を与えている結果となっている。 5.むすび  初等・中等教育における国語教育、また聾学校における国語教育、いずれにも共通の課題がある。教育をめぐってさまざまな動きが錯綜する今日、新しい実践の試みには大胆に、新しい用語の使用には慎重でありたい。国語教育全体に日頃から目配りしておくことは必須であるが、何か-つの領域を自分の立脚点として持つことを考えたい。そうしたものがないと流行の用語・術語の大波に足をさらわれる。足場があれば、膨大な情報のなかから「意味のある新しさ」と「意味のない新しさ」とをかぎ分けることができよう。この識別の力を備えることこそ、今、最も求められているものである。 注 1.高等学校用と聾学校用の学習指導要領(案)は本稿執筆段階でまだ発表されていないが、内容は「審議のまとめ」に沿ったものと考えてよいであろう。 2.教育課程審議会の「審議のまとめ」では、古典教育に関して次のような文言が示されている。 ・古典に関する指導については、我が国の文化と伝統を尊重し、生涯にわたって古典に親しむ態度の育成を重視する。(4各教科・科目等の内容(2)小学校、中学校及び高等学校①国語ア改善の基本方針の(ウ)) ・古典に親しむ態度を育成するため、親しみやすい文語調の文章について音読を中心に指導することとする。(上記①国語イ改善の具体的事項(小学校)の(オ)) ・古典の指導については、古典に親しませることに重点を置く。その際、言葉のきまりについては、細部にわたることなく教材に即して必要な範囲で指導することにとどめる。また、文学史については扱わない。(上記①国語イ改善の具体的事項(中学校)の(オ))  高等学校(上記①国語イ改善の具体的事項(高等学校))は科目ごとに記されているが、古典に関わる文言の一部を示せば次のようなものである。 「古典の表現法や語句、語彙等も関連的に取り扱うようにする」(国語表現I) 「古典の世界に親しみがもてるよう指導の在り方について工夫する」(国語総合) 「ある程度系統的に古典に接し、各領域の言語活動を通して読むことの能力を伸ばし、古典に親しむ態度を育成する」(古典) 「教材として、古文と漢文のうち、まとまりのある文章や作品を取り上げ、各領域の言語活動を通して、古典に親しむ態度を育成するとともに、我が国の文化と伝統に対する関心を深める。この場合、古文と漢文の両方又はいずれか一方を取り上げることができるものとする」(古典講読) 3.教育課程審議会における審議の様子は同審議会委員の次の報告に詳しい。 ・緑川 祐介「高等学校国語科の新しい指導について」 『新しい漢字漢文教育』第27号,pplO~21,1998 4.こうした視点から教材化されたものに次のものがある。 ・「応天門炎上」『高等学校国語I』pp.35~43,1985(改訂版1988,三訂版1991),三省堂. 、『伴大納言絵巻』の参考文献には次のようなものがある。 ・『日本絵巻大成2伴大納言絵詞』1977,中央公論社. ・上野憲示解説『国宝絵巻伴大納言絵巻双書美術の泉38』1978,岩崎美術社. ・宮 次男「図版特集説話絵巻の展開」『図説日本の古典8今昔物語』pp.141~155,1989,集英社. ・五味 文彦『絵巻で読む中世』1994,筑摩書房. 引用文献 益田 勝実:「古典文学教育の場合」,解釈,22巻5号,ppl3~18,(1976) 安 直哉:「中等話しことば教育成立史研究一『高等女学校規程』(明治28年)に見る『読方話方』についての考察一」,人文科教育研究,17号,pp73~83,(1990) 村松 賢一:「モノローグ型話しことば教育観からの脱却が必要」,月刊国語教育研究,No313,pp4~9,(1998). 本稿は平成10年度筑波技術短期大学公開講座「現代聴覚障害教育研修講座」(1998.7.27~29)における口頭発表を骨子として加筆修正したものである。(1998.12.21)