身体を使ってグラフを考える-専門基礎教育における新たなアプローチの検討- 電子情報学科 内藤 一郎、新井 孝昭、加藤 伸子 一般教育等(聴覚障害系) 森本 明、小林 庸浩 教育方法開発センター(聴覚障害系) 三好 茂樹 要旨:近年、若者の理科離れが指摘され、実際に本学の学生も高等学校段階で物理などを選択せずに入学してくるケースが増加している。また、専門基礎教育において十分な数学・物理学の基礎的な概念が定着せず、その結果、専門教育で苦しむケースも多くみられている。こうした傾向は、聴覚障害学生の場合にはコミュニケーション環境に問題を抱えてきたために、強く現れると考えられる。こうした状況の中、我々は専門基礎教育への新たな試みとして、授業の中で学生達自らが体感できるような実験を実施し、その内容や結果を学生達に討論させることで、基礎的な数学的・物理学的概念の定着を促すような授業方法の検討を進めている。本稿では、今回行った実験授業の概要とその結果に関して考察する。 キーワード:数学、物理学、専門基礎教育、グラフ、速度、カリキュラム 1.はじめに  近年、若者の理科離れ・理工系離れが指摘されており、実際に、本学の学生においても平成5年度以降の入学者では、物理や理科の全領域を学ぶ理科1の履修の減少傾向が報告されている[1]。  しかし一方では、都立の教育研究所などの報告を見ると、小学生の好きな科目の上位には必ず理科が入っており、必ずしも初めから理科が嫌いだったわけではない[2]。小学校高学年から中学生にかけて理科嫌いが起きる原因の一つとして、理科や数学の授業の中で、ただ問題を与えられ、それを解くために必要な公式を教えられてそれに数値を当てはめて計算していくような授業形態がしだいに興味を失わせて行ったのではないかと指摘されている[3]。  こうした状況の中、本学においても、専門基礎教育において十分な数学・物理学の基礎的概念が定着せず、その結果として専門教育で苦しむケースが多く見られている。我々は、こうした問題を少しでも解決していくために、学生から興味をひきだし、学習への動機付けを促すような専門基礎教育カリキュラムの検討を進めている。  今回、数学や物理学に関連した実験授業を実施し、その結果を分析することで専門基礎教育カリキュラムへの新たなるアプローチの模索を試みた。 2.実験授業の概要  今回我々は、運動に対する距離と時間のグラフ作成を題材とした実験授業を試みた。これは以下の点に留意したためである。 (1)数学がよくできる学生でも、数学の問題を離れると適切なグラフの選択やグラフにおける座標軸の特定が難しいことが指摘されている[4][5]。 (2)座標軸の中でも時間軸は空間軸と異なり視覚的には理解しにくい面があると考えられる。 (3)適切なグラフを作成できる能力は、重要な概念である関数の基礎的な理解につながる。 (4)運動における距離、速度、加速度の関係は、物理学における力学の基礎的概念である[6]。  我々は十分な数学力を持たない学生も視野に入れてカリキュラムの検討を進めている。そうした観点から、今回の授業内容が学生の数学力に依存するものかどうかを検証するために、同一の授業を、入試に数学を課していないデザイン学科の1年生と入学時の数学力が最も高いと考えられる電子情報学科情報工学専攻の1年生に行った。なお、実験授業中の様子ならびに変化は4台のビデオカメラと授業観察者の筆記により記録し、授業後に分析を行った。 実験授業の実施日時、場所は以下の通りである。 11月30日(火) 15:30~17:00 体育館武道場 デザイン学科1年生11名 12月3日(金) 9:00~10:20 体育館武道場 情報工学専攻1年生9名 図1 システムの概略図 3.実験授業の内容 3.1 システムの概要  今回の実験授業に用いたシステムの概略図を図1に、装置の写真を図2に示す。Texas Instruments社のグラフ計算機TI-83と距離センサーCBR(超音波により距離を計測)を用いて、センサーと人との距離を精確に測定する。そして歩行に伴う距離の変化をリアルタイムにOHPでスクリーン上に投影し、学生達に示す。そのため、学生は歩きながら自分の歩行に伴う距離の変化をグラフで確認することができる。歩行する学生の様子を図3に、スクリーンに投影されたグラフを図4に示す。 3.2 授業の内容  今回の授業では、グラフにおける時間軸の理解を主目的とした。そのため、提示するグラフの座標軸とセンサーに関しては学生に対して何も説明せず、学生達に考えさせる形式を採用した。授業ではまず学生達を3名程度のグループに分け、次に挙げる学習ステップにしたがってグループ内で討論を行いながら進めた。グループ内の人数を3名程度に限定したのは、議論や推論を他人任せにせず全員が議論に参加するように促すためである。また、各学習ステップでは、必要に応じて学生にみんなの前で討論の内容などを説明させた。なお、学生に説明させる際に、教師側はその内容に関して決して結論を与えず、常に学生側に考えさせるように心がけた。学生達が討論する様子を図5、図6に、みんなの前で説明する様子を図7に示す。 図2 使用した装置 左から距離センサーCBR、グラフ計算機TI-83、透過液晶モニター 図3 歩行する学生 学生は自分の描くグラフを見つめながら歩行している 図4 スクリーンに投影された歩行のグラフ 図5 グループで討論する学生達 <ステップ1>  まず最初に、教師側から簡単なデモンストレーションを示す。授業の中で教師が歩行により学生に提示したグラフを図8に示す。これにより、提示されたグラフと歩行運動の関係を学生達にグループ内で討論させる。 <ステップ2>  ステップ1での討論の結果を確認させるために各グループに実際に歩行運動を行わせる。結果が予想通りの場合にはどのように考えたのが良かったのかを、結果が予想に反した場合にはなぜ予想と違ったのかを、グループ内で再度討論させる。 <ステップ3>  各グループに最初の課題として、途中で停止や速度の変化を伴うようなグラフを与え、どのように歩くとそのグラフが得られるのかをグループ内で討論させる。そして、グループから代表者を選び実際に歩行させる。この場合も結果が予想通りの場合にはどのように考えたのが良かったのかを、結果が予想に反した場合にはなぜ予想と違ったのかを、グループ内でさらに討論させる。学生達に与えた課題のグラフを図9に示す。 <ステップ4>  各グループに自分達が描いてみたいグラフを考えさせ、どのように歩行すればそのグラフが得られるのかをグループ内で討論させる。そして実際に歩行させる。この場合も結果が予想通りの場合にはどのように考えたのが良かったのかを、結果が予想に反した場合にはなぜ予想と違ったのかを、グループ内でさらに討論させる。実際の授業で学生達が考えたグラフの例を図10に示す。 <ステップ5>  最後に今回のグラフの垂直軸と水平軸がそれぞれ何を表しているのかをグループ内で討論させ、その結果をステップ4でのグラフに関する討論の結果とともに発表させる。  なお、すべての学生が実際にグラフを描く実験を経験できるように、各ステップでの代表者の選択は教師側で配慮した。 図6 歩行のアドバイスを行う学生達 図7 みんなの前で説明する学生 図8 教師が歩行して提示したグラフ 図9 学生達に与えた課題のグラフ 図10 学生達に考えたグラフの例 4.実験授業の評価  今回、学生達が考えたグラフは、不連続なグラフ(デザイン学科の学生達の考えたグラフ)や減衰する振動(情報工学専攻の学生達が考えたグラフ)など多様なものであった(図10)。不連続なグラフは、グループ全員で協力して歩行しないと得られないものであり、今回の授業の意図、すなわち各軸の意味を十分に理解できたことを示している。また、減衰する振動のグラフは、振動現象が正弦波になることとその振幅が何を表しているのかを理解できていることを示しており、専門基礎教育カリキュラムの中でさらに発展させられる内容である。なお、振動のグラフを滑らかに描くために、歩行でなく道具(紙)を使うというアイディアも学生達の討論の中から創出された(図11)。  最終的に学生からは、次の結論が得られた。 (1)横軸は、時間が流れていることを表している。(デザイン学科学生) (2)歩く速度がグラフに表れている。(情報工学専攻学生)  このことより、今回の実験授業の当初の目標はどちらのクラスも達成できたことがわかる。  授業終了後、学生達に授業に関するアンケートを実施した。今回実施したアンケートは、評価値もしくは評価内容を選択するとともに、その理由も自由筆記してもらう形式のものである。  まず、今回の授業を受けた感想を質問した。その結果を図12に示す。デザイン学科の学生、情報工学専攻の学生ともに今回の授業に関しては強い興味を示しており、特にデザイン学科の学生に高い評価が得られた。学生は、理由として、グループに分かれて協力し合いグラフを作って行くことが楽しかった、身体を使っていろいろな問題を解いていくことが数学らしくなく楽しかった、などを挙げている。  次に、授業の中で印象的だった内容を複数回答を許す形式で質問した。その結果を図13に示す。自分で歩いてみたこと、グループで相談したこと、すぐに結果がグラフで見られたこと、などが多かった。また、全体としてデザイン学科の学生の方が多くのことに興味を示していた。このことは、授業への感想の結果も含めて、今回の授業が学生の数学力に依存せず興味や関心をひきだしていることを示している。なお、理由としては、グラフは難しそうなのですぐに結果が見られると親しみがわく、グループで相談していろいろな考えが組み合わされて次々と問題が解けるのが楽しかった、などを挙げている。  さらに、今回の授業と関連のある科目は何だと思うかを複数回答を許す形式で質問した。その結果を図14に示す。今回の授業内容から予想される通り、物理学と数学を挙げた学生が多かったが関連性を感じた科目は広範囲に及んだ。国語・聴覚障害学・総合などを挙げた学生は、みんなの前で説明することを関連していた理由に挙げている。また、これに関連して説明する際の手話の必要性を痛感したと記した学生もいた。  最後に、今回のような授業方法を普段の授業の中に取り入れることをどう思うかを質問した。その結果を図15に示す。この問いに関しても学生の評価は高かった。理由としては、勉強は机でやるものというイメージが強いが今回の授業だと興味がわき嫌いな科目でもできそうだ、身体を使った実践の方が身につき理解しやすい、こうした授業だとみんなが積極的に授業に取り組む、などが挙げられた。  以上の結果から、次の結論が得られる。 (1)今回の授業形式では、学生の数学力に関係なく学生から興味をひきだし、学習への動機付けの形成が期待できる。 (2)内容を欲張らずにテーマを絞り込むことで、どのグループにも確実に目標を達成させられることが期待できる。 (3)少人数のグループ内での討論や他の学生への説明を通して様々な考えに触れ、より着実な基礎的概念の定着が期待できる。 (4)自らの身体を使って実験に参加し、その結果を討論することで、より積極的、主体的に授業へ取り組む姿勢の形成が期待できる。 図11 道具(紙)を使って振動を描く 図12 授業への感想 図13 印象的な内容 図14 関連する科目 図15 普段の授業への導入について 5.今後の課題  今回の実験授業の結果から、本学の専門基礎教育において、我々が考えている授業形態や授業内容が、学生の数学力に関係なく、学習への動機付け、主体性の形成、などで有効であることが考えられる。実際に、授業中の教師の説明を見つめる学生の視線は終始真剣なものであった(図16)。特に、数学力の乏しい学生は数学や物理学などの授業に消極的で受け身的になる傾向が強いため、こうした授業方法は極めて有効であろう。しかし、数学、物理学などの専門基礎科目のカリキュラム全般を考える際に、今回の内容をどのように現存のカリキュラムの中になじませていくのか、また、カリキュラムの流れとの関連から授業内容や授業方法のより詳細な検討も必要になる場合が考えられる。  内容的には、今回はテーマを絞り込んだものであったが、数学や物理学の基礎的概念の定着をより確実なものにしていくためには、時間と距離のグラフの傾きが速度になっているということ、振動現象が正弦波になるということ、など今回の内容に付随するような内容の授業方法もさらに検討し実施していく必要性がある。  近年、認知心理学的な見地から、学習における本当の理解には学生同士ならびに教師―学生間のやり取りを通して学生達の考える場、いわゆる学習共同体のより自然な形成を促すような授業方法・授業形態が重要であることが指摘され、こうした考え方に従った実践報告も多くなされている[7][8][9]。  本学の学生のようにコミュニケーション環境に問題を抱えてきた場合には、学生がどうしても教師側の提示する内容を受け身的に取り入れていく傾向が強くなってしまう。こうした傾向にあるからこそ、学生同士ならびに教師―学生間のやり取りを通した学習共同体の形成はより重要であると思われる。したがって、今回の授業における学生達の討論や教師とのやり取りなどを詳しく分析していくことで、より自然な学習共同体の形成を促すような授業内容、授業方法も検討していくことは極めて重要であろう。  我々は、今回の結果を整理し、さらに詳細な分析ならびに詳細な検討を進め、より内容のある豊かな授業方法や授業内容、そして専門基礎教育カリキュラムの在り方を提案していきたいと考えている。 図16 教師の説明を真剣に見つめる学生達 謝辞  今回、実験授業を実施するにあたり、鹿児島大学教育学部 土田 理助教授より有益な助言と貴重な資料を提供していただきました。ここに、深く感謝いたします。また、今回の実験授業とそのアンケート調査に快く協力してくれた学生諸君にも心から感謝します。  なお、本研究は平成10年度教育方法改善経費(学長裁量経費)「聴覚障害学生のための専門基礎教育の検討」(代表者:新井 孝昭)並びに平成11年度教育方法改善経費(学長裁量経費)「聴覚障害学生の専門基礎教育カリキュラムに関する基礎的検討」(代表者:小林 庸浩)の研究成果によるものである。 参考文献 [1] 土田 理:国立聾工科大学(NTID) におけるカリキュラム改革―基礎学力の向上と個々の適性の一致―.聴覚障害者を対象とする日米大学の教育実践. 筑波技術短期大学と国立聾工科大学(NTID), 筑波技術短期大学, pp.1-6 , 1997. [2] 山崎 孝:科学白書を斬る, 理科離れの真相, 朝日新聞社, pp.141-187 , 1996. [3] 佐伯 胖:理科の「わかり方」を変える―「科学する文化」をつくる―.理科の教育(1):4-7, 1996. [4] 土田 理:学生実験報告書に見られるグラフ記述の誤りとその原因の推察. 筑波技術短期大学テクノレポート4:79-83, 1997. [5] 土田 理, 長州南海男:物理実験におけるグラフ作成過程に関した中等学校生徒の実態―「グラフの特定」および「横軸・縦軸の特定」を主として―. 日本科学教育学会20周年記念論文集, pp.541-551, 1996. [6] 内藤 一郎, 土田 理:身近な素材を活用した物理実験―速度・加速度の概念をいかに理解させるか―. 筑波技術短期大学テクノレポート6:57-62, 1999. [7] 松本 伸示:考える場を保障した理科授業―批判的思考の育成を目指して―. 理科の教育, (6):4-7, 1998. [8] 溝辺 和成:やりとりの中から生まれる「わかり」.理科の教育(1):20-22, 1996. [9] ヒレル・ワイントラウブ:Me and Media(私とメディア)というコースを通じての学習と指導の再考.コンピュータ&エデュケーション5:45-51, 1998. New Approach in Science Teaching for the Hearing Impaired Students Ichiro NAITO* Takaaki ARAI * Nobuko KATO* Akira MORIMOTO** Tsunehiro KOBAYASHI** Shigeki MIYOSHI*** * Department of Information Science and Electronics, Division for the Hearing Impaired ** Department of General Education, Division for the Hearing Impaired *** Research Center on Educational Media, Division for the Hearing Impaired Abstract : Recently, the students show the tendency not to attend scientific classes in Japan. And the students who passively act in mathematics and physics are increasing. It is thought that such a tendency appears strongly for the hearing impaired students, because they have problems in their communication environment. Now, it is hoped that the students acquire independent activities. We have been examining the education methods and the curricuram in science teaching for the hearing impaired students. In this report, we consider new approaches which we are examining in science teaching now. Key word : mathematics, physics, science teaching, graph, velocity, curriculum