2003年日中国際交流プログラム活動報告 筑波技術短期大学聴覚部一般教育等1) 同機械工学科2) 同教育方法開発センター(聴覚障害系)3) 同電子情報学科電子工学専攻4) 同視覚部一般教育等5) 細谷 美代子1) 岡田 昌章2) 三好 茂樹3) 大塚 和彦4) 荒木 勉2) 須藤 正彦1) ポーリー・マーティン・エドモンド5) 要旨:2003年3月、PENインターナショナルによる国際交流事業の一環として、筑波技術短期大学の教官・学生が中国の天津理工学院聾人工学院を訪問し、同校を視察するとともに交流を深めた。以下にその準備活動から帰国報告会開催まで、一連の活動概要を報告し、併せて今後の課題を提示する。 キーワード:PENインターナショナル、国際交流、天津理工学院聾人工学院、聴覚障害学生、視覚障害学生 1.はじめに  PENインターナショナル(the Postsecondary Education Network International)は日本財団の補助金によって2001年に構築された国際的な聴覚障害者高等教育機関ネットワークで、本部を米国のナショナル聾工科大学内に置く。  筑波技術短期大学はPENインターナショナル創設時よりのメンバーで、他の加盟機関には中国の天津理工学院聾人工学院、ロシアのモスクワ聾工科大学などがある。  天津理工学院聾人工学院は、総合大学である天津理工学院を母体として1991年に開設された特殊教育部を基礎に、1997年11月5日に3年制の聴覚障害者高等教育機関として誕生した。現在は3年制から4年制への転換が進行中である。  筑波技術短期大学はPENインターナショナルの活動を通じて天津理工学院聾人工学院との交流を深めてきた。2001年秋には教官・学生5名がナショナル聾工科大学のメンバーとともに同校を訪問し、2002年春には同校の教職員・学生の訪問を受け入れた。  今回報告する2003年春の訪問は初めての単独訪問である。 2.出発まで  2003年1月17日のPENインターナショナル定例テレビ会議において、天津理工学院聾人工学院 鮑国東院長から筑波技術短期大学の教官・学生10名を招待する旨の申し出があり、それを受諾するかたちで本プログラムの実施が決定された。日程は2003年3月24日~2003年3月28日である。  須藤を中心に派遣希望学生の募集・選考が行われ、並行して引率教官も固まっていった。派遣学生6人(注1)と引率教官4人(細谷・岡田・三好・大塚)が確定したのは2月末である。  聴覚部におけるこの種の派遣歴で今までになかった新しい点として特筆すべきは、視覚部学生1名の参加である。障害を異にする視覚部学生の初参加の意義を重視し、関係者間の慎重な協議を経て最終的には視覚部所属教官も派遣団に同行することとなり、11人目のメンバーとしてポーリーが加わった。 2.1 第1回準備会 2月26日(水)  学期末試験期間中ではあったが、あえて第1回準備会を開き活動をスタートさせた。出発までの準備期間は一ヶ月もなかったことに加えて、メンバーの内2人が試験後約2週間の北欧視察に出かけ不在になるという事情もあったからである。  この日は、聴覚部メンバーの顔合わせと渡航のための必要書類確認など事務連絡手配が中心であったが、出発までに何をすべきか、どのくらいの時間が必要かなど準備作業量の見通しを持つことができた。  派遣学生の選考後も引き続き須藤が米国のPEN本部や天津との連絡調整に当たった。 2.2 第2回準備会 3月4日(火)  旅行代理店担当者も交えて、行程・中国事情の学習をする。今回から視覚部の教官・学生が加わった。さっそく起きた問題はコミュニケーションをどう取るかである。聴覚部学生は視覚部学生の唇は読めないと言い、視覚部学生は聴覚部学生の発音は聴き取るのが難しいと言う。手話も使えない。残る手段として大きな文字での筆談なら何とかやりとりができることが分かり、すぐに実行に移された。  この日の重大案件は中国での発表テーマの検討である。前回(2001年11月)の訪中団の発表と重ならないように、また、今回の6人のテーマも互いに重ならないようにという視点から検討する。  大塚の提案により、メンバー間の連絡手段としてメーリングリストを活用することにした。大塚が全体用と教官用の二種のメーリングリストを設定し、以後、教官は連絡内容によって使い分けた。学生を含む全体用も大いに活用したが、教官用のメーリングリストには特に助けられた。 2.3 第3回準備会 3月12日(水)  派遣学生の最大の責務である発表準備についてまず取り組む。一人ひとりのテーマ・発表予定内容を紹介し、資料提示手段についても全員で研究した。決定したタイトルは以下の通りである。 筑波技術短期大学の地域貢献について(注2)伊藤 興平 ペーパーカーレースについて(注3) ・・・・・・・篠原 弘樹 筑波技術短期大学の情報保障手段、装置について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 裕司 日本における障害者欠格条項について・・・・・重藤 まゆみ 筑波技術短期大学の組織等について・・・・・・・・・森田 雄大 視覚部学生の日常生活について・・・・・・・・・・・・・小林 尚礼  学生発表の骨子が固まっても検討を要することはなお山積していた。任意参加の観光旅行ではない以上、細部の詰めをゆるがせにはできない。  中国から送られてきた日程表と照合しながら、鮑院長表敬訪問時にはスーツ着用、万里の長城遊覧には歩きやすい服装にスニーカー、などとドレスコードを確認する。  おみやげは各自で小物を用意することにしたが、筑波技術短期大学のロゴと写真が入った特製クリアファイルがPENの費用で作成されていたので、それも持参することにする(注4)。  準備の中には、帰国後の報告会に備えての打ち合わせもある。報告会の資料とすべく、全行程の記録をビデオ撮りすることにする。教官と学生がそれぞれの視点から記録できるようにビデオカメラ2台を手配し、充電に必要な変圧器等も手配した。教官側の撮影担当は三好に決まる。 2.4 第4回準備会 3月19日(水)  冒頭、中国側と約20分のテレビ会議を持ち、顔合わせをする。これは荒木のコーディネートによるものである。 日本側は派遣メンバーに加えて、西條 一止学長(当時)、大沼 直紀現学長、須藤らが出席した。中国側は鮑院長、李強、韓梅、張健青の諸氏が出席した。  その後、学生の発表リハーサルを行う。ほぼ準備を済ませている者がいる一方で、半分も進んでいない者がいる。また、進捗状況とは別に、発表内容・資料提示方法・文章表現等の面で検討を要する部分が数多くあった。 6人全員のリハーサルは長時間に及んだが、互いに率直に意見交換し、問題点を指摘しあった数時間はチームとしての結束力を高めたように思う。一人ひとりの残された課題が明確になったこと、親善大使としての責務を改めて自覚する契機になったという意味でもきわめて有意義であった。とはいえ、この後も発表本番直前まで少なからぬ時間をかけての指導が必要であったのは言うまでもない。 全員が顔を合わせる最後の準備会として、出発当日の行動の細部についても再度打ち合わせ、万遺漏なきを期した。 3.天津訪問 3.1 出発 3月24日(月)  朝、全員の健康状態を確認する。不調の者なし。  午後3時前、視覚部でメンバー2人を乗せたマイクロバスが聴覚部に到着。待機していた聴覚部メンバーと合流し、つくばセンターへ向かう。  今回の訪中は米国のPEN本部の強い意向として日本から直接天津入りすることが求められ、関西国際空港発着の直行便を利用しなければならなかった。そのため、つくばから羽田空港経由で関西国際空港へ移動し、翌朝の午前便に搭乗することになっていた。 関西国際空港近くのホテルへチェックインしたのは夜の10時ごろであった。  国内の移動に数時間をかけ、さらに1泊するのは負担が大きい。やはり成田から北京へ飛び、北京から天津入りするのが合理的だと思われる。 3.2 天津へ 3月25日(火) -天津濱海国際空港-  入国審査で思わぬ障碍に会う。ビザはオリジナルのほかにコピー2通が必要だと係官は言うが、旅行会社の担当者からはそのような説明は一切なかったので、コピーの用意などない。係官はビザのオリジナルを持って奥へ引っ込んだまま出てこない。他の旅客が皆居なくなってしまっても我々の一行は足止めを食らってゲートの外に出ることができない。見ればゲートの向こうには出迎えの人らしい姿が見え、一向に出てこない我々に不審そうな様子である。しばらくして、ようやくゲートを出ると先に天津入りしていた荒木を先頭に、張建青、鄭雅誠、李強、康順利の諸氏が我々一行を出迎えてくれた。  迎えのバスで天津理工学院宿泊所へ向かう。部屋割り、宿泊者カードの記入を済ませ、食堂で遅い昼食をとる。 食べ終わる頃、1人の青年が遠慮がちに話しかけて来た。 日本語を学ぶ中国人学生かと思えば、日本人留学生であった。天津理工学院にはかなりの日本人留学生が居るとのことであった。 -古文化街等見学-  昼食後、古文化街・フードセンターへ向かう。案内役は聾人工学院副院長姜海燕氏と聾人工学院生である。  姜氏は2002年5月の聾人工学院訪日団の一員として筑波技術短期大学を訪問している。その折、東京の浅草を訪れた経験から、古文化街は浅草に雰囲気が似ていると説明された。土産物店が軒を並べている様子は確かに浅草の仲見世に通じるところがある。フードセンターは中国料理の食材や菓子類を扱う店が集中しているところで、レストランも入っている。日中の学生はすぐにうち解けてグループで散策している。 3.3 聾人工学院 3月26日(水) -鮑院長表敬訪問-  聾人工学院に赴き、鮑国東院長を訪ねる。鮑院長の歓迎の辞に対し、訪問団は謝辞を述べ、持参した記念品を贈呈した。また、『筑波技術短期大学概要2002』・『TCT Education of Disabilities 2002』・『ママ、えがおがきこえるよ!』(筑波技術短期大学デザイン学科卒業生の菊池 樹理氏著)の3点を大学紹介資料として寄贈した。 -学内視察・参観-  続いて姜副院長らの案内で聾人工学院内の施設・設備を視察し、授業を参観した。  参観したのは服飾デザイン学科とコンピューター学科の授業である。服飾デザイン学科の中国美術史受講生数は20名前後であったが、コンピューター学科のウィンドウズに関する講義は30名以上であった。クラスサイズがこのように大きいことは意外だった。また、補聴器をつけている学生が少ないことも気になったので聞いてみると、補聴器を役立てられる学生が少ないからだとのこと。補聴器が高価であることから、幼時よりの補聴器装用が広まっていないのであろうか。聴覚障害の程度についても聞くべきであったと後から反省した。  課外活動として、天津理工学院は武術団のレベルの高さが有名だとのことで、その練習風景も見学した。剣道部と体操部を合わせたような雰囲気である。武術団員には特別入学枠があり、天津理工学院はトップレベルの演技者を全国から選抜して入れているという。こうした特別入学枠は他大学にもあり、各大学が特色を出すために特定のスポーツ種目を独自に選んでいるという説明を受けた。 -周恩来・鄧穎超記念館-  昼食後、学生発表に先立って周恩来・鄧穎超記念館を見学した。同館見学は当初の予定にはなく、当日朝、姜副院長から打診されたものである。館内には日中関係・国際関係の歴史的に貴重な資料が豊富に展示されている。しかし、学生は周恩来が日中関係に果たした役割や中国での高い評価について認識不足であったためか、あるいは日本語の説明がなかったためか、やや退屈そうにも見えた。  国際交流が珍しさや楽しさだけを求めるものでない以上、今後の訪中にはこうした方面の事前学習が必要であると思われる。抗日戦時の展示を前に気配りを見せてくれた中国側の心遣いを無にしてはなるまい。 図1 聾人工学院の学生たち 図2 鮑国東院長(中央) 図3 服飾デザイン学科の授業風景 -学生発表会-  発表は今次訪中で最も大事な活動の一つであり、準備にも多大な時間とエネルギーを費やしてきたところである。多忙な鮑院長も会議の合間を縫って顔を見せてくださった。6人の学生は中国側の教員・学生を前に、いずれも落ち着いた態度で発表を行うことができた。リハーサル時に寄せられた改善・修正意見を採り入れた発表には、明確に成長の跡が見られた。  1人の持ち時間約20分の予定で発表資料を準備してきたが、日本語手話・音声日本語・書記日本語を音声中国語・中国手話に通訳するのでどうしても時間がかかる。途中休憩なしで2時間を越える長時間の発表にもかかわらず、日中双方の学生は疲労の色も見せず、発表終了後はおみやげや記念品を交換し会場は和やかな雰囲気に包まれた。我々もまた、鮑院長から記念の盾をいただいた。 -交流会-  夜は、学内のレストラン「馨園」で院長主催晩餐会があり、その後、院長らとともに学生交流会に臨んだ。  会場の健身房という名のホールに数十人の学生が集まって、我々を歓迎してくれた。椅子は片づけられており、皆、床に腰を下ろしていた。細谷が両膝を折って座ると、茶目っ気のある学生がさっそくまねをして周りの学生を笑わせる。中国では日本の正座にあたる座り方をしないのでもの珍しいらしい。  寸劇や伝統的な踊りが披露され、また、日中のチームに分かれてゲームに興じた。筑波技術短期大学の学生はことばの通じないなか、ゲームのルールを素早く理解し、ちょっとしたハプニングにも落ち着いた態度で応じるなど、堂々たる親善大使ぶりであった。 3.4 黄崖関長城見学 3月27日(木)  早朝7時にバスで出発する。同行は世話役の鄭雅誠、李強、康順利の三氏の外に、服飾デザイン学科の女性教員も加わった。出発まもなくは天津市街の喧噪の中を走っていたが、やがて郊外へ出る。殺風景な街道を走っていると突如真新しいマンション群が登場し開放経済の成果を目の当たりにする。田舎道をバスに揺られることさらに4時間、左右に険しい山容が見え始め、ようやく到着したことを知る。  長城の登り口には万壽公園がある。「壽」の字を様々な書法で記したタイル様の石板が周囲の壁にびっしりはめ込まれている。よく見れば、一枚一枚の石板の隅に「父母の健康を祈念して 李某」などと刻まれている。これらの石板は一種の商品であるらしく、お金を払って家族の長寿を祈る文言を刻んでもらうようだ。どうやら石板の位置や大きさによって値段も異なる仕組みとなっているらしい。ここにも経済改革の波が押し寄せていると見るべきか、日本の神社仏閣で目にするのと同じ昔ながらの寄進方法と見るべきか。  万壽公園を経て長城へ進む。昔、周の幽王がその美しい妃の笑顔見たさに偽の狼煙のろしをあげさせ、それがために国を滅ぼした故事をガイドが説明し、彼方に見える櫓やぐらがそれであるという。  万里の長城というと、八達嶺の長城が有名であるが、そちらに比べてこの黄崖関長城は訪れる人も少なく、静かで鄙びた趣がある。 -日本の手話に関する学習会-  前日、日本の手話に関する学習会への参加を李強氏から要請された。我々は、特に資料の用意もないので答えられる範囲でよければということで出席を受諾した。少人数の学習会と考えていたところが、夕食後に岡田・三好・大塚と有志の学生が案内されたのは講義室で、大勢の天津理工学院生が詰めかけていた。手話そのものより、日本に関心を持つ学生も多かったようだが、日本の手話を紹介し、質問に答えた。聾人工学院以外の天津理工学院学生と交流した貴重な一夕であった。 図4 学生発表 図5 発表を終えて 図6 手話を教え合う両国の学生 3.5 帰国の途へ 3月28日(金)  鮑院長以下、姜副院長や韓梅氏など、滞在中我々の世話をしてくださった方々が宿泊所まで訪ねて来られ、バスで空港へ向かう我々を見送ってくださった。さらに鄭氏、李氏は空港まで同道してくださった。復路も天津濱海国際空港・関西国際空港・羽田空港・つくばセンターと乗り継ぎ、筑波技術短期大学に夜10時頃に帰着した。  出発から帰着までの間、バスの乗車券など現金支払いのものが一部にあった。中国では現地通貨で支払う場面もあったが、こうした煩瑣な金銭管理のすべてを岡田が適切に処理した。 4.帰国後  帰国して鮑院長宛礼状を出した後、SARS(重症急性呼吸器症候群)が天津にも広がっていることを知る。幸い、帰国後に体調を崩した者もなく安堵する。 新学期が始まり、学生が大学に戻ってきたのを待って最後の責務である報告会に向けての準備に入る。 4.1 第1回報告準備会 4月16日(水)  卒業して他県に就職した学生1名を除く全員が再び顔をそろえた。報告会の日程をまず検討した結果、5月14日(水)とすることが決まる。  報告内容は、行程に沿った全体報告を中心にした部分と学生の個人発表の紹介部分で構成し、それぞれ7:3ぐらいの時間配分とする。報告会用資料としては、加工しやすいビデオ資料・写真資料・個人発表時のパワーポイント資料などが豊富にあるので、それらを活用することができる。新しく作らねばならない資料はさほど多くないと判断し、次回には訪中準備会の要領でリハーサルをできるところまで準備を進めておくこと、2回目の全体準備会はゴールデンウィーク前に開くことを確認して解散した。 4.2 第2回報告準備会 4月23日(水)  前回の確認にもかかわらず、大半の学生の準備が進んでいないことが判明し、訪中団の意義・参加学生の親善大使としての義務などをおさらいすることになる。  責任を明確にするためにパートごとの担当者を決める。聴覚部の4人は、全体報告の1日目、2日目、3日目それぞれに1人、学生発表の紹介にも1人という割り振りにする。  視覚部生には、当初、中国での個人発表をほぼそのまま利用して、視覚部の組織・構成・授業風景・寄宿舎内の様子などを聴覚部生に紹介してもらう予定でいた。しかしその後、視覚部の学生として参加した視点からの訪中報告をしたいという当人の意向を尊重し、その方向で発表することに変更する。結果として、ひと味違う彼の報告は聴覚部の学生によい刺激となったようである。 4.3 報告会 5月14日(水)17:20~18:50筑波技術短期大学講堂  予定よりやや遅れて開会したが、来場者は延べ70人を超えた。開会直前に視覚部の学生がバスで到着した。入学式、卒業式を除くと聴覚部と視覚部の学生が同席することはほとんどないという現状のなかで、ポーリーの呼びかけに応えて、十数人の視覚部学生が来場してくれたのは嬉しいことだ。  一方で視覚部生の参加を予想していない情報保障態勢は急遽修正しなければならなくなった。視覚部の学生には聴覚部の学生の発言は聞きとりにくく、映像資料は見えない、見にくいという問題があるからだ。視覚部生に対する情報保障として、大塚が中心となって手話の読み上げと映像資料の口頭説明を加えた。  講堂の機器の操作は三好が学生に指導した。  出席した学生の感想で多かったのは、日中の学生が互いにコミュニケーションが取れていることに対する驚き、自分も中国を訪問したいという希望、この種の国際交流活動を今後も継続してほしいという要望などである。 図7 万壽公園 図8 黄崖関長城 図9 帰国後のテレビ会議 4.4 テレビ会議 6月17日(火)  荒木のセッティングにより、2回目のテレビ会議を行う。昼休みに聴覚部食堂前のギャラリーを会場にして天津と30分間交信し近況報告をした。ギャラリーでは荒木の撮影した写真を中心に訪中報告展を開いていたので、その展示の様子を紹介し、また、訪中報告会に多くの学生・教職員が出席したこと、中国に関心を寄せている学生が多いということも伝えた。 鮑院長からは今後も両校の交流を深めて行きたいとの発言があった。 5.総括  今回派遣された学生6人は準備から報告会までの活動の中で多くのことを学び、一人ひとりが成長した。気楽な海外旅行をしたければ安い費用でいくらでも行ける今日、責任や義務を負い、事前事後の活動にもかなりの時間を取られる派遣学生となることの意味は彼ら自身が一番よく知っているはずだ。決して楽ではないが貴重な経験を通じて自己を成長させうる、こうした機会を今後もより多くの学生に与えたい。  今後の国際交流活動をより充実したものにするための課題と申し送るべき事項を以下にまとめておきたい。  まず、視覚部生の参加の意義はきわめて大きい。しかし、今回の成果を見て、両部の学生の派遣を容易なことと考えてはなるまい。今回参加した視覚部生は、当初、この訪中団の性格、親善使節の役割について十分な情報を持っていなかった。障害を異にする他のメンバーとのコミュニケーションも既述のように困難があった。しかし、準備活動を通じて理解を深め、積極的に日中の聴覚障害学生と交流することができた。これは本人の能力と個性に負うところが大きい。  視覚部の学生に参加を呼びかけるのであれば、「聴覚部の学生とともに、聴覚障害をもつ外国の学生と交流することの意味は何か」という基本をよく考えてもらうなど、募集段階からの丁寧な指導と慎重な選考が必要である。  次に、手話通訳専任者を同行する必要がある。教官が手話通訳を兼ねている限り、学生は教官を通じてしか情報のやりとりができない。これではせっかくの異文化交流の機会を学生は十分に活かすことができない。学生が教官を介さずに、自由に、知りたいことを尋ね、伝えたいことを伝えられる態勢を用意することが大事であろう。同じことは教官についても言えるのである。学生も教官もそれぞれが自律的に活動するためには手話通訳専任者の同行が不可欠である。  最後に、長城など歴史的建造物等の見学に当たっては、可能なら日本語ガイドがほしい。中国語ガイドの解説を中国人通訳が日本語に訳し、それを手話に再通訳して学生に伝えるのは難点がある。きわめてスムーズな通訳が行われたとしても、やはり相当の時間がかかり、学生はその間待たされることになる。また、中国史に関する日中双方の「歴史常識」のギャップという問題もある。渡航前の事前学習を改善することに加えて、日本人向けの解説のできるガイドを付けることで少しでも情報のやりとりをスムーズにできるものなら、それに越したことはないと考える。 注1 重藤 まゆみ(聴覚部 デザイン学科1年) 伊藤 興平(同 機械工学科3年) 篠原 弘樹(同 機械工学科2年) 佐藤 裕司(同 電子情報学科情報工学専攻2年) 森田 雄大(同 電子情報学科情報工学専攻1年) 小林 尚礼(視覚部 理学療法学科3年) 学年は2002年度のものである。 注2  つくば科学フェスティバルに出展し、地域社会の一員として貢献していることを報告するもの。「つくば科学フェスティバル」は、つくば市、つくば市教育委員会、つくば科学フェスティバル実行委員会などによって運営される。青少年に科学を身近に感じてもらう、その楽しさや面白さを知ってもらうことを目的としたイベントで、毎年秋に開催される。 注3  筑波技術短期大学機械工学科のCAD授業の成果を示すための取り組みとしてペーパーカーレースがある。ここでは東京家政学院筑波女子大学や聾人工学院との共同レースについて報告するもの。 注4 このファイルは筑波技術短期大学庶務課研究協力係が管理している。 The International Exchange Program between China and Japan - March, 2003 HOSOYA Miyoko1 ) OKADA Masaaki2 ) MIYOSHI Shigeki3 ) OTSUKA Kazuhiko4 ) ARAKI Tsutomu2 ) SUTO Masahiko1 ) PAULY, Martin Edmund5 ) 1)General Education, Division for the Hearing Impaired, Tsukuba College of Technology 2)Department of Mechanical Engineering, Tsukuba College of Technology 3)Research Center on Educational Media, Division for the Hearing Impaired, Tsukuba College of Technology 4)Department of Information Science and Electronics, Tsukuba College of Technology 5)General Education, Division for the Visually Impaired, Tsukuba College of Technology Abstract:We report on one of the many activities for improving education and international exchange and understanding sponsored by PEN-International. In March, 2003, students and faculty members from the two divisions (Division for the Hearing Impaired, Division for the Visually Impaired) of the Tsukuba College of Technology visited the Tianjin Technical College for the Deaf, part of the Tianjin University of Technology. In this article we will discuss our activities; from preparation activities, to educational and cultural activities in China, to Final Report to assembled faculty and student body of TCT. Key Words:International Exchange Program, PEN-International, Tianjin Technical College for the Deaf, Students with Hearing/Visually Impairment