授業におけるコミュニケーションの分析― 講義の読み取りから見えてくること ― 筑波技術短期大学電子情報学科情報工学専攻1 ) 同聴覚部一般教育等2 ) 同教育方法開発センター(聴覚障害系)3 ) 同電子情報学科電子工学専攻4 ) 新井 孝昭1) 小林 庸浩2) 新井 達也2) 三好 茂樹3)内藤 一郎4) 加藤 伸子4) 大塚 和彦4) 要旨:本学(筑波技術短期大学)聴覚部において、授業時における教員の発言を学生が苦労せずに読み取れる状況になることは、教員が意図した教育的成果を期待する上でも、必要不可欠な教育環境である。そこで我々は、授業記録テープをろう学生と聴者教員のそれぞれが読み取り、それらの比較・分析をおこなった。その結果、授業における学生の読み取りの誤りが、聴者教員(話者)に気づかれることなく、いくつも生じていることが改めて確認できた。  本稿では、読み取り分析から明らかになった表現の問題点を指摘し論考するとともに、本学での教育的成果を上げるためにも、ろう(または「難聴」)学生に通用するもう一つのコミュニケーションスタイルの必要性について論述する。 キーワード:手話表現 コミュニケーション 読み取り能力 教育プログラム ろう教育 1.はじめに  聴者である教員とろう者(または「難聴者」)である学生との間に行われる授業は、教室という空間を共有しているにもかかわらず、様々な障壁をも共有している。例えば、学生の基礎学力不足は教員の予定通りに進まない授業の進捗状況を生み出し、教員の授業力の欠如は学生の勉学意欲を矮小化することにもなる。しかし、両者の間にある何より大きな障壁は、授業時におけるコミュニケーションスタイルの違いである。それは、聞こえる学生は、視覚から得られる情報を切り離しても、聴覚からえられる情報だけで話者が送る意味内容をほぼ再構成できるが、ほとんどのろう(または、「難聴」)学生にとっては、口形の読み取り(口話)を抜きにしての意味内容の再構成はおよそ不可能だからである。まさに、ろう(または「難聴」)の生徒・学生の学習環境における最大の障壁は、ここに原点があると言える。  そこで本稿では、このような問題意識を背景にして、教員の発言がどのように読みとられ得るかということを検証・分析する。そしてそこでは、①学生が読み取れる表現になり得ているか、②音声と手話や身振りとの適合性はどうか、③間違った表現(手話や身振りなど)についての吟味、④教材の使用・提示方法についての妥当性はどうか、さらには⑤音声表現による一方通行的コミュニケーションへの反省的思考、などについての論考・考察も同時に展開する。 2.ビデオ記録の取り方と起こし方  我々は昨年(2001年)度の学内研究発表会[1]で、本学学生の授業中における会話や発言の分析と授業中に教員が読み取れていない学生同士の会話や発言の分析を行った。その際に用いた授業記録は、授業を受けている全ての学生(11名)と授業担当者である教員の動きを4台のカメラで同時にビデオ撮影をするのと同時に、その場で4画面に合成した記録テープを作成するものであった。本来、教育現場でとられる授業記録は、一般論として、教師と学生の両者を同時に記録するものでなければ、それは不備なものとならざるを得ない。なぜなら、教育においては、その行為が教師と学生との共同作業(相互作用)だからである。  しかし、今回の授業のビデオ記録は、その目的が教員の発言や表現を学生がどのように読み取るかということであるため、4画面合成記録ではなく、もっともよく撮れる教室の一番後ろ中央から板書の状態と教員の発言(発信)のみを連続撮りしたテープを記録として用いた。対象とした授業は、技術系の本学における一般基礎科目として重要な科目である物理(一般教育)であり、本研究の共同研究者が記録対象となった。記録起こしは、3名の者がおこなった。当該授業を受けた経験をもつ学生(以後「A」と記す:本学2年次生、聴力両耳とも約110dB、物理は苦手、聾学校出身)、当該授業を受けた経験をもたない本学卒業生(以後「B」と記す:筑波大学院修士1年生、聴力両耳とも約100dB、数学が好き、一般校出身・他大学で教員免許取得)、そして本研究の共同研究者である本学教員(以後「C」と記す)の3者がそれぞれ個別におこなった。3名の中で、聴者は同僚教員のみであり、他2名はともにろう者(本人の意思表示を受けて、以後論文中では、二人に対して「聴障」「難聴」は用いない)である。読み取りは、ビデオ記録の画面と音声から得られる情報のみをもとにおこなわれた。音声と手話や表情などの不一致は、読み取り者個々の判断において文字化した。少々長くなるが記録の一部を引用しながら以下において分析をおこなう。 3.読み取りのずれの所在と分析  授業展開の時系列にしたがって、3者による読み取りの比較検討をする。ろう学生の読み取りは手話と口話が中心であり、音声(音)と身振りは補助的なものとして利用した。教員の読み取りは音声にできるだけ忠実におこない、聞き取れないときには手話や身振りを参考にしている。 「・・と・・」の表現の重要性  下線①のように、音声では「仕事とエネルギー」と発音しているが、手話では「仕事」と「エネルギー」という手話単語を並べただけの表現になっていたために、二人のろう学生(A、B)は「仕事エネルギー」という一つの単語として認識していることが分かった。授業の始まりでこのような読み取りをされてしまうと、重要なキー概念であるだけに学生へ混乱は大きなものになると考えられる。したがって、このような表現をする場合には、「『仕事』を表現した後にすぐ人差し指を差し示し、『エネルギー』を表現した後に中指を差し示す」、「表現した単語を空間にイメージしてそれぞれ指さす」または「単語と単語を表現する時の時間間隔を十分にあける」さらには「手話単語を表現する時に手話文法としての顔の動きをつける」などの手話表現を使いこなす必要がある。 「・・の・・」についての重要性  論理的思考を求める文脈(話)の中で、下線③のように音声で表現される助詞を正確に読み取り、スムーズに意味を把握していくことは極めて困難なことであることが、学生(A)の読み取りにも現れている。音声で「・・の・・」というときには、その「の」がもっている意味を手話で表現すると読み取り間違いや分かり難さを減らすことができる。例えば、下線③を「運動がもつエネルギー」というような説明的表現にかえることで、その後の表現の読み取る視点を確かなものにすることができる。 音声の意味と手話表現の不一致  下線②の「やります」と「あります」は、手話表現が「やる」で音声が「あります」という記録場面である。音声では、「やります」と「あります」は区別できるが、口形では同じである。つまり、学生(A)は手話表現の「やる」に引きずられて、口形から「やります」と読み取ったことになる。もちろん、聴者の教員(C)は音声から「あります」を聞き取っているので、手話表現としての「やる」は見捨てることができるのである。このように、口形(音声日本語)と手話表現の不一致は、思考を混乱させる雑音のような影響を与えてしまうことになる。  下線④の「とっても」と「もっとも、一番」は、音声と手話の不一致の中では、学生(手話表現が分かる)には手話表現が優先されることを示している。手話と口話を使えるろう学生にとっては、ことばとして分かりやすい手話を優先することは当然のことである。しかし、ここで重要なことは、教員が学生に伝えたい意味内容はどちらか、と言うことであり、この場面で言えば音声表現の「とっても大切な・・」であろう。大切なものはいくつかあり、その中でとても大切なものの一つであるということなのだから、最上級的な表現の「もっとも」や「一番」と読み取られない表現を使う必要がある。  下線⑤の「しっかり」と「きちんと」では、卒業生(B)は口形を読み取り、「しっかり」と文字化しているが、同時に手話表現の違いも指摘している。在学生(A)は口形に注意せずに、手話の読み取りとして「きちんと」というように文字化している。この事例の場合は、手話表現だけであれば「きちんと」と読み取れる状況であったが、「しっかり」という口話が比較的読み取りやすかったことから、卒業生(B)は音声の聞き取りと一致する読み取りをおこなったことが分かる。文脈としては誤解の生じない例ではあるが、読み取る側に齟齬を生じていることもあり、「しっかり」という手話表現を別に用意することが必要になる。 物を持ちながらの説明・板書を指しながらの説明  下線⑥や⑧から分かることは、物を持ちながらの説明や板書をしながらの説明が、学生(A)にとっての読み取りを極めて難しくするということである。聴者の教員は、物や板書という実態を学生に見せている上に音声の説明をしているのだから少しは分かりやすくなっているいはずだという錯覚に陥りやすい。しかし、学生は視覚情報として物や板書を優先せざるを得ず、当然のこととして口話の読み取りは難しくなる。さらに、物や板書の内容に対する指示代名詞(語)が多くなると読み取りはいっそう難しくなる。このように、目と耳を同時に使うような聴者のスタイルとしてのプレゼンテーションは極力避ける必要がある。授業における指示語は音声ではなく、指さしや顔の動きを使った手話表現で行えば、「読み取り不可能」や「意味の把握の困難さ」をかなり減らすことができるであろう。 手指の動きには注意が必要  下線⑦は、音声としては「か」の発音はなく「『しょ』そくど」と発音しているのにもかかわらず、文脈の中では教員の手指が指文字の「か」に似た動きから始まっているために、学生(A、B)は二人とも、その手指の動きを「か」として読み取り、続いて手話単語の「速度(速さ)」を読み取ったのである。これが「加速度」と読み取られてしまった理由である。  一般に、冗長度の高い音声言葉が発せられているとき、手話として読み取れる手指の動きが目にはいることは、ろう学生にとって困惑、誤解を与えることになると言える。教員にとっては何気ない動きであっても、ろう学生は意味を持つ言葉としてそれを読み取ってしまうというである。 記録①:授業開始直後、導入部の記録 記録②:授業開始5分後、板書した内容を利用しながらの授業の記録 記録③:10分を超え、基本概念を確認するために話に力が入ってきた頃の記録 手話単語のみでは間違いやすい  下線⑨の部分では、教員が「働いている力」と発声しているにもかかわらず、教員の手話表現からだけでは「仕事エネルギー」と学生が読み取ってしまうこともあり得ることを示している。物理概念として重要な「仕事」と「働く」、「エネルギー」と「力」、さらに下線⑯のように「重力」なのか「力」なのかの手話表現は、その手話単語の正確さが重要であるとともに、説明的な手話表現を省かずに出すことが必要である。例えば、「働いている力」を手話で伝えるためには「働いている」という意味内容を手話表現に替えておく必要がある。 不適当な手話単語は誤解の元  下線⑩は、教員からの「どういうふうに表せるか」という問いかけであったものが、学生(A)の読みでは「何を表せますか」となってしまった。この最大の原因は、「どういうふうに」という音声日本語を「なに?」という手話表現で代用したからであった。「なに」という手話を読み取った学生(A)は、文章として意味が通るように「を」という助詞を付けて、「何を表すことができるか」という文脈を創作したのである。卒業生(B)は、口の動きにより注意したため音声通りに読み取ってはいるが、瞬時に読み取らねばならない授業においては、不適当な手話単語が学生の読み取りを攪乱することは間違いない。 問いかけ(疑問)か、言い切り(肯定)か  下線⑪~⑮には、2種類の「オーケー」が出てくる。音声での聞き取りからはっきりしていることは、下線「⑪、⑬、⑭」は学生への問いかけであり、「オーケーなの?これでいいのかな?」という疑問の投げかけである。また、下線⑫は肯定の意味の「オーケー」で、「問題はない」という言い切りである。  卒業生(B)は、下線⑪と⑫は読み取らず、下線⑬と⑭を問いかけとして読み取っている。読み取れた範囲では誤読がない。 一方、技短学生(A)について見ると、下線⑪では全く別の意味として「困ったな」と読んでいる。これは、教員の手話表現が「困る」という表現に似ていたことからの誤読であったことがビデオ記録からわかった。  下線⑫は、板書の「F=Mg」を指しながらの説明であったために、「F」と「Mg」のどちらを読み取るかに曖昧性が高くなり、聴者(C)は「Mg」と聞き取ったが、それができない学生(A)は板書の式の中にある「F」を優先的に読み取ってしまったのである。黒板に書いた語句を用いて説明するときは、明確に指し示す必要がある。音声で読み上げても、口形がはっきり見えないときは学生にとっては曖昧度を増すことになるからである。一方、この文脈が肯定文であることを学生(A)が誤解せずに正しく読み取ったのは、教員の「オーケー」という表現(口で「オーケー」と言いながら、両手で「大きな○」を表現)がはっきりしていたためであることもわかった。  下線⑬では、まず、教員の「どうなんだろう」という音声発信が「何?」という手指の動きが伴っていたために、学生(A)には「何か?」という発信として受け取られている。「どうなんだろう、これでオーケーかな。」という発信は問いかけであり、卒業生(B)のように単に「OK?」と読み取った方が発信者の文脈を捉えたことになる。しかし、学生(A)は、「何か?○。」というように齟齬を感じさせる読み取りをしている。このような文字化をしてしまう学生の文章力については別に論じるとして、ここでは「どうなんだろう、これでオーケーかな」という文脈を学生に伝える表現の問題を指摘しておく。  例えば、語順を考えた場合(これは授業実践の中で確かめねばならないことだが)、「何?」という手指表現が「オーケー」という表現の後になされていたら、「○。何?」→「○?」→「オーケー?」という文脈として読み取ることが容易になったと考えられるからである。  下線⑭、⑮においての教員からの「オーケー」という発信は、問いかけであり疑問の投げかけの「オーケー」である。しかし学生(A)の読み取りは、それとは正反対の言い切り、肯定の「オーケー」となっている。その背景には、手話表現での重要な要素である表情(顔、視線)の不一致があった。卒業生(B)の読み取りが正確であったことを理由にして、学生(A)の読み取り能力の貧弱さを指摘することはできない。なぜなら、多くのろう学生にとって「問いかけ・疑問の投げかけ」か「言い切り・肯定・断定」であるかの判断基準は、教員の音声のニュアンスではなく顔の表情に基づいているからである。本記録の分析によって、語尾が疑問なのか肯定なのか判断しにくいのは、手話としての疑問文になっていないからであることが確認できた。  また、同じ下線部で「重力の大きさ」を「重力に全部」と誤読したことは、教員の表現の問題と学生の物理概念や日本語力の問題が重なり合っていると考えられる。繰り返しになるが、学生の基礎学力(日本語力を含む)の問題は稿を改めて論ずる予定である。 教室内でのやり取りは学生にも読める必要がある  読み取れるのは下線⑰ぐらいで、座っている学生からの読み取りはほとんど不可能だと思われる。授業を共有している教室という空間では、授業中に生ずる教員と学生の話のやり取りが、内緒話は別にして、他の学生も読み取り(盗み見)できることは大切である。なぜならば、聴者の学生を教室で教える場面を想像してみれば明らかである。教員と学生のやり取りが自分に役に立つ会話なのかということは、学生自らが教室の中で読み取る(盗み見できる)中で判断すべきことだからである。 記録④:15分を過ぎ、学生を前に呼び出し説明を与える場面の記録 4.授業におけるコミュニケーション力を高めるために  授業記録の読み取りの分析を通してさらにわかったことは、話が佳境に入って行けば行くほど三者の読み取れる(聞き取れる)情報量に差が出てくることである。本学学生にとっては、読み取り不可能となる場面が増えてくるのである。このような状況は、教授(教え授ける)学習法を行う学校教育現場(大学であれ例外ではない)においては極力避けなければならない。今回の授業記録のみならず、他のいくつかの授業記録からも似たような状況が読み取れた。  80分の授業記録から教員が共有でき得る分析結果を述べてきた。それは、教員とろう・難聴学生との間の双方向的コミュニケーションを前提にした授業の成立を目指したいからであり、一教員の授業の上手い下手を論じるためでは決してない。聴者である教員の多くは、聴者であるが故のコミュニケーションスタイルを持っており、ろう・難聴学生の多くは、ろう・難聴であるが故のコミュニケーションスタイルを持っているのである。この両者が学校という場で、教員(聴者)と学生(ろう・難聴者)という立場で向き合うとき、どのような状況が起きているのか。そのことを知るための一手段が本稿で示した授業記録の分析である。  言うまでもなく、授業のビデオ記録を分析する(させる)ことは、当事者である教員にとって勇気の必要なことである。それは、自らの授業の問題点をさらけ出すことにもなるからである。しかし、そこまですることが意味のある成果を得るためには必要であると考えたからこそ、本研究のプロジェクトが成立し得たのである。その成果とは、大きく次の二つのことであった。一つは、授業研究を行うことによって教員自身が授業方法の改善を意識し実行できるようになることであり、もう一つは、ろう・難聴学生の授業に関する新しい知見を教員同士が共有するということである。すでに本稿で分析したように、有益な成果が得られたと確信している。今後も当事者である我々は、自らの授業をお互いに分析しつつ、さらに新しい知見と個々の教員の授業力を高めるための授業研究を行う予定であるが、それらの様々な授業研究の成果をより生かすためにも、教員に対する研修・指導システムの確立と迅速な運用が急務であることを強く指摘しておきたい。 5.おわりに  本研究は、学長裁量経費による学内プロジェクト「聴覚障害学生の専門基礎教育カリキュラムに関する基礎的検討」の一環としておこなわれた。そして、本学聴覚部における聴覚障害学生への授業改善のために、共同研究者の一人でもある一般教育物理担当教員からの授業記録が取り繕うことなく提供されたおかげで成立した。 最後に、これを明記して本稿を終わる。 参考文献 [1] 新井 孝昭,内藤 一郎,他:授業におけるコミュニケーションの分析 ― 学生の表現はどこまで読めるか ―。筑波技術短期大学(第6回)研究発表会抄録集:2001 Findings from Analysis of Records onto Videotape in the Lesson for Deaf Students ARAI Takaaki1),KOBAYASHI Tsunehiro2),ARAI Tatsuya2),MIYOSHI Shigeki3) NAITO Ichiro4),KATO Nobuko4),and OTSUKA Kazuhiko4) 1)Department of Information Science and Electronics -Information Science Course-, Tsukuba College of Technology 2)Department of General Education, Division for the Hearing Impaired, Tsukuba College of Technology 3)Research Center on Educational Media, Division for the Hearing Impaired, Tsukuba College of Technology 4)Department of Information Science and Electronics -Electronics Engineering Course-, Tsukuba College of Technology Abstract : In order to draw satisfactory educational effects from lectures, it is required of educational surroundings for deaf students that they have no trouble reading and following the teacher’s expressions with Signed-Japanese or Japanese Sign Language. In our experiments we compared a transcript done by a deaf student, of the teacher’s expressions recorded onto digital video-tapes, with an other transcript by a hearing teacher, of the same recording in the lecture. As a result, our study reinforces the reality that there are many situations which give rise to misunderstandings of the students and communication gaps between the teacher and the deaf students, and that the teacher cannot notice them by himself in the lesson. We also found that it is necessary for the teacher to understand the character of communication with hearing impaired or deaf students. Furthermore, we found that the teacher has to prepare the communication style to keep good educational surroundings for the students. Key Words:Sign language and expression, Communication, Improvement of instruction, Educational program, Deaf education