日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)の設立と展開 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター1) 産業技術学部2) 白澤 麻弓1) 根本 匡文1) 三好 茂樹1) 長南 浩人1) 河野 純大2) 要旨:一般大学で学ぶ聴覚障害学生の支援のためには、聴覚障害に関する基本的な知識はもちろん、情報保障者の確保や養成といったさまざまなノウハウが必要とされる。しかし、現在のところこのような知識やノウハウは十分に整理されて提供できる状態になっておらず、このことが少なからず個々の大学における支援体制向上を妨げる要因となっている。本学障害者高等教育研究支援センターでは、こうした状況を改善し、より多くの大学で充実した支援体制を構築できるよう、2004年10月に日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワークを立ち上げ、聴覚障害学生支援に関わるノウハウの蓄積と発信に努めてきた。本稿では、設立から本年度に至るまでのPEPNet-Japanの活動について報告するとともに、今後の方向性について検討したい。 キーワード:聴覚障害学生,高等教育,支援体制,PEPNet-Japan 1.はじめに  現在、我が国では約3割の大学・短期大学(以下、大学)に何らかの聴覚障害学生が在籍しているとされている。しかし、このうち授業においてノートテイクなどの支援を受けている学生は約半数に過ぎず[1]、現在でも多くの学生が何ら支援を受けることのできない状態で就学を続けている。  このような状況を改善し、より多くの大学で充実した支援体制を構築できるよう、本学障害者高等教育研究支援センター支援交流室聴覚系WGでは、日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(以下PEPNet-Japan:The Postsecondary Education Programs Network of Japan)というネットワークを形成し、聴覚障害学生支援に関するモデル事例の構築と情報発信を行ってきた。  本稿では、2004年10月の設立から現在に至るまでのPEPNet-Japanの活動について振り返るとともに、この後の方向性について検討する。 2.PEPNet-Japan の概要  PEPNet-Japanは、これまで積極的に聴覚障害学生を受け入れ、先駆的な支援体制を構築してきた13大学・機関間(図1)の連携ネットワークである。この中には、本学はもちろん、日本福祉大学のように多数の聴覚障害学生を受け入れ、全国に先駆けて障害学生支援センターを設置するなど長い支援の歴史を持つ大学や、広島大学、同志社大学、東京大学等、近年充実した体制が社会的に注目されているような大学等が含まれている。また公的な機関のみでなく、関東聴覚障害学生サポートセンター(旧:関東学生情報保障者派遣委員会)や宮城県・仙台市聴覚障害学生情報保障支援センターのように、聴覚障害学生の運動から設立に至ったボランティア団体にも協力をいただき、当該団体内で蓄積されてきた現場のノウハウを提供いただいている。  事務局は、上記WG内に設置されており、本学障害者高等教育研究支援センターおよび産業技術学部教員の他、聴覚障害学生支援に関する他大学の有識者数名によって構成されている。  また現在は、日本財団の助成によるPEN-Internationa(l聴覚障害者のための国際大学連合)の事業の一部として実施されているが、徐々に学内資金への移行をはかっている段階である。 図1 PEPNet-Japan連携大学・機関 2.PEPNet-Japan設立の経緯  PEPNet-Japanが設立される前、2000年代初頭の我が国では、大学が中心となってノートテイカーを養成・派遣するなど、大学の手による支援が徐々に広がりを見せてきた時期であった。障害学生支援委員会等の全学的組織を立ち上げる大学が急増し[2]、ちょうど聴覚障害学生の自助努力による就学から、大学が主体となった支援体制の整備へと、大規模なパラダイム転換がはかられようとしていた時期であったとも言える。  こうした中、国立大学協会第3常置委員会は、全国の国立大学における障害学生支援の実態調査報告の中で、大学内の障害学生支援体制をより一層向上させていくために、今後は全国あるいは地域ごとの拠点となる大学を設置し、これを中心として大学間のネットワーク化を進める必要性を提言している[3]。この提言は、全国の聴覚障害学生支援に関わる関係者の間で大きな反響を呼び、ネットワーク設立を求める声が各地からあげられた。しかし、現実的には本学を含め既に中核大学として機能しうる大学・機関が複数存在するにもかかわらず、関連機関同士の繋がりが持てず、ネットワーク形成のきっかけがつかめない状況にあった。  一方、聴覚障害学生支援の先進国といわれるアメリカでは、PEPNet(The Postsecondary Education Programs Network)とよばれる聴覚障害学生支援のための高等教育機関間ネットワークが存在し、連邦政府による支援を受けて運営がなされていた。これは、全米を4つの地区に分け、それぞれの地区に中核大学を設定し、ここを拠点として地区内の聴覚障害学生支援を進めるもので、我が国の関係者の中でも、こうしたPEPNetの取り組みをモデルに支援ネットワーク構築をすればとの指摘があげられていた。  こうした中で、本学では大沼学長の呼びかけにより、これまで先駆的に聴覚障害学生支援を進めてきた大学・機関の代表者とともに、アメリカPEPNetの取り組みを視察する機会を得た(2004年4月14日~25日/PENInternational事業の一部として実施)[4]。本学教員のほか、日本福祉大学や関東聴覚障害学生サポートセンター、宮城県・仙台市聴覚障害学生情報保障支援センターからの代表者が参加したこの視察では、米国の実践から我が国における連携ネットワーク構築のためのさまざまなヒントを得ることができた。加えて、視察を通してこれまで先駆的な活動を行いながらも、横のつながりのなかった大学・機関間に有機的な繋がりが生じ、これがその後のPEPNet-Japan設立の直接的な契機となった。 図2 第1回聴覚障害学生高等教育支援アメリカ視察の様子 3.PEPNet-Japanの設立とこれまでの活動  前項で述べたアメリカ視察の後、参加者を中心としたいくつかの連携事業の実施および他大学との連絡調整を経て、2004年10月本学の呼びかけにより、第1回日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク関係者会議が開催された(図3)。13連携大学・機関より18名の参加を得て開催された本会議では、今後定期的に同様な会議を開催して、互いの活動に関する情報交換を図っていくとともに、そこで得た知見を他大学に向けて発信していくことが決議された。  以来、PEPNet-Japanの愛称で親しまれることになったこのネットワークでは、年複数回の関係者会議開催の他、国内外調査、およびシンポジウムの主催、研修会の開催、支援に必要なコンテンツ作成などさまざまな事業を展開してきた(巻末資料)。以下に、これまでに行ってきた活動のうち主なものを内容ごとにまとめて報告する。 3.1 関係者会議および情報交換会の開催  PEPNet-Japanの活動の軸となるのが、年数回実施されている関係者会議とこの中で行われる情報交換会である。これまでに実施した7回の関係者会議では、PEPNet-Japanの運営に関する協議に加え、各大学が持つ聴覚障害学生支援に関するノウハウの共有を行ってきた。以下はこれまでに取り上げられたテーマである。いずれも先進的な取り組みを実施してきている大学ならではの報告がなされており、連携大学・機関間の充実した情報交換の場となっている。 ①各大学の取り組み報告 ②我が国における聴覚障害学生支援体制に関する実態調査報告 ③情報保障者養成カリキュラムに関する情報交換 ④アメリカにおける聴覚障害学生支援視察報告 ⑤米国聴覚障害学生支援コーディネーターを招いての勉強会 3.2 国内外実態調査の実施  聴覚障害学生支援の全国的な現状について把握し、現在の大学が抱える問題点について検討するとともに、今後我が国が進むべき方向性を見定めるため、以下の国内外実態調査を実施してきた。特に、聴覚障害学生支援先進国のアメリカにおける実態調査は毎年継続的に実施されてきており、この成果は報告会および報告書を通して広く国内にも発信している。 ①2004年7月~1月聴覚障害学生のサポート体制についての全国調査  全国の大学・短期大学1200校に対する調査を元に、在籍する聴覚障害学生に対する支援の実態を明らかにした。 ②2005年1月4日~8日アメリカ北東地区テクニカルアシスタントセンター(以下NETAC)の設立経緯に関するヒアリング調査(ロチェスター市)  PEPNetを構成する下位ネットワークのひとつであるNETACの本部を訪れ、国内ネットワークの構築過程についてヒアリング調査を実施した。 ③2005年2月13日~24日第2回聴覚障害学生高等教育支援アメリカ視察(ロチェスター市・ニューヨーク市)  アメリカの中でも最大規模の聴覚障害学生支援体制を有するNTIDを訪問し、支援体制の概略について情報を得るとともに、ニューヨーク市内の個別大学における支援の取り組みについて調査を行った[5]。 ④2006年3月29日~4月9日第3回聴覚障害学生高等教育支援アメリカ視察(ロチェスター市、ルイヴィル市)  NTIDにおける聴覚障害学生支援の体制について追加調査を実施した。また、ルイヴィル市にて開催されたPEPNet全米大会2006に参加し、PEPNet-Japanの取り組みについて報告を行うとともに[6]、アメリカ全体における支援の動向について情報を収集した。 ⑤2007年1月7日~11日聴覚障害学生支援のための先端情報保障技術(メイン州ポートランド市)  リアルタイム字幕および遠隔支援技術を中心に、聴覚障害学生支援のために利用可能な技術について、より専門的に情報を収集した。 3.3 日本聴覚障害学生高等教育支援シンポジウムの開催  連携大学・機関間の情報交換により蓄積されてきたノウハウを広く一般の大学に向けて発信するため、毎年秋に全国規模のシンポジウムを開催している。いずれも3つの分科会および全体会からなる1日のプログラムで、160名を超える参加者とともに、我が国が目指すべき聴覚障害学生支援モデルについて熱心な議論が繰り広げられている。  これまでの開催地およびディスカッションテーマは以下の通りである。 ①第1回 筑波技術大学(2005年10月8日) 分科会1:聴覚障害学生のエンパワメント―被通訳者からユーザーへの転換― 分科会2:ニーズに応じた支援体制を目指して―支援の立ち上げから維持、発展まで― 分科会3:大学における情報保障の専門性―手話通訳・ノートテイク・PC通訳― 講演会:ロチェスター工科大学における聴覚障害学生支援 パネルディスカッション:次世代型情報保障を求めて―利用者から発信する情報保障のあり方― ②第2回日本福祉大学名古屋キャンパス(2006年11月18日) 基礎講座:ゼロから始める聴覚障害学生支援体制作り 分科会1:質的・量的充足をめざした情報保障者養成 分科会2:聴覚障害学生とともに考える情報保障 対談:NETACサイトコーディネーターに学ぶ聴覚障害学生支援 パネルディスカッション:聴覚障害学生支援におけるコーディネーターの役割-さらなる支援体制充実のために- 3.4 支援コンテンツの作成  全国の個別大学において、より効果的に聴覚障害学生支援を推し進めていくためには、支援の担い手となる大学教職員への啓発や実際に支援を進めていく上で用いることのできるツールが必要とされる。PEPNet-Japanでは、こうした大学教職員を手助けするための支援コンテンツの作成にも力を入れてきた。  特に2005年度~2006年度前半にかけて立ち上げた3つの事業では、聴覚障害に関する啓発や情報保障者の養成、全学的支援体制の構築に焦点をあてた情報収集とコンテンツ作成を行ってきており、その成果は各種研修会やホームページ等を通して広く公開されている。以下はその概要である。 ①日本版TipSheet作成事業  聴覚障害者とのコミュニケーション方法、情報保障の手段など、聴覚障害学生支援を実施するためには、様々な知識が必要とされる。こうした知識をトピックごとにまとめ、容易に配布可能なリーフレットとしてまとめたのがTipSheetである。もともとはアメリカのNETACによって開発されたものであり、PEPNet-Japanでは静岡福祉大学 平井 利明 教授の協力で和訳版も作成している。しかし、ADA法の存在や確保できる情報保障者数の違いなど、我が国の実情とは合致しない部分も多いため、これを参考に新たにトピックを選定し、大学の現場に即した形で執筆・編集を進めてきた。現在、「聴覚障害」「聴覚障害学生支援の全国的状況」「情報保障の手段」など15トピックが作成されており、PEPNet-JapanのWebサイトよりダウンロードできる形となっている。  また、TipSheetの内容をもとに、より手軽に情報収集が可能なFAQも作成済みであり、こちらもWeb上にて一般公開している(図5)。 ②講義保障者養成技術教材作成事業  聴覚障害学生の支援のためには、ノートテイカーやパソコン要約筆記者、手話通訳者などの情報保障者の養成が不可欠である。現在一部の大学では、正規の授業内でノートテイカーを養成する等の取り組みも行われているが、その数は多くはない。本事業では、こうした取り組みを一般化し、情報保障者のスキルアップにも対応していくために必要な指導ノウハウを収集し、情報保障者養成のためのDVD教材およびカリキュラムの開発を進めてきた。  2006年9月24日には、これらの成果をもとにノートテイカー指導者養成講座も開講しており(日本財団、同志社大学、金沢大学、愛媛大学(インターネットを用いた多地点同時開催))、テキストとしての「ノートテイカー養成の手引き[8]」は、各大学で利用可能な指導書として公開されている(図6)。 ③講義保障システム構築・運営マニュアル作成事業  聴覚障害学生に対してより充実した支援を提供していくためには、制度や委員会を設けるなど全学的な支援体制の構築が必要である。現在はこうしたノウハウや情報が散在しており、各大学・機関が個々に試行錯誤しなければならない状態にある。そのため、本事業では今後より充実した支援体制を構築したいと考える大学に対し、必要な情報を効率的に提示するため、他大学の事例を基に支援体制構築マニュアルの作成を行っている。  これらの成果は、第43回・第44回日本特殊教育学会(それぞれ金沢大学、群馬大学にて開催)の中で設けられた自主シンポジウムにおいても報告されており、より専門的な見地からの議論を経て、今後一般にも公開していく予定である。 3.5 その他  聴覚障害学生支援に携わるコーディネーターのための各種研修会を開催したり(2006年12月15日「ICTを活用したはじめての聴覚障害学生支援」メディア教育開発センターとの共催など)、メーリングリストやホームページ(http://www.pepnet-j.com)を活用した情報発信を行っている。  特に、コーディネーター間の情報交換やそこで得られた知識の蓄積と発信は、今後の聴覚障害学生支援の発展を支える上で非常に重要な鍵となると考えられるため、今後の事業展開の中でも大きな柱としていく必要があるだろう。 図3 第1回日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク関係者会議の様子 図4 第2回日本聴覚障害学生高等教育支援シンポジウムの様子 図5 TipSheet(左)とWeb上で公開されているFAQ(右) 図6 ノートテイカー養成の手引き(左)とノートテイカー指導者養成講座の様子(右) 4.まとめ  本稿では本学障害者高等教育研究支援センター支援交流室聴覚系WGが中心となって活動を展開しているPEPNet-Japanの設立とこれまでの成果について概観してきた。今後はこれらの活動成果をもとに、より多くの連携・大学機関をネットワークの中に取り込み、活動の幅を広げていくとともに、そこで得られた成果を積極的に全国の大学に向けて発信していきたいと考えている。 参考文献 [1] 白澤 麻弓:一般大学における聴覚障害学生支援の現状と課題~全国調査の結果から~. 第2回「障害学生の高等教育国際会議」予稿集:9-10,2005. [2] 日本障害者高等教育支援センター:大学の支援(サポート)組織に関するアンケート調査報告書.第1版,日本障害者高等教育支援センター,東京,2004. [3] 国立大学協会:国立大学における身体に障害を有する者への支援等に関する実態調査報告書. 第1版,国立大学協会第3常置委員会,東京,2001. [4] 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク:聴覚障害学生サポートネットワークの構築をめざして~第1回アメリカ視察報告書~.第1版,日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク,つくば,2005. [5] 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク:聴覚障害学生サポートネットワークの構築をめざして~第2回アメリカ視察報告書~.第1版,日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク,つくば,2005. [6] Mayumi Shirasawa: The Postsecondary Education Programs Network of Japan. PEPNet 2006: 10, 2006. 巻末資料 PEPNet-Japanの活動記録 Establishment and Development of Postsecondary Education Network of Japan Mayumi SHIRASAWA1) Masafumi NEMOTO1) Shigeki MIYOYSHI1) Hirohito CHONAN1) and Sumihiro KAWANO2) 1) Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired 2) Faculty of Industrial Technology Abstract: Supporting students with Deaf or hard of hearing requires certain amount of knowledge and skills, such as how to get and train interpreters, or how to communicate with students with Deaf or hard of hearing. However, those knowledge and skills have not been provided in appropriate way so far, and it causes some trouble to universities and colleges when they try to establish the support system in their institutions. To solve this problem and support the institutions which would like to develop their support services, research and support center on higher education for the hearing impaired in national university corporation Tsukuba University of technology established Postsecondary Education Programs Network of Japan (PEPNet-Japan) in October 2004. In this paper, the projects which PEPNet-Japan has done so far will be shared and the future plan which PEPNet-Japan has to do will be discussed. Keywords: Students with Deaf or hard of hearing, Postsecondary education, Support system, PEPNet-Japan