楽善会訓盲院の盲唖生徒が製造した駅逓用封筒の発見-前島密と楽善会訓盲院- 保健科学部保健学科鍼灸学専攻 大沢 秀雄 要旨:楽善会訓盲院(現・筑波大学附属視覚および聴覚特別支援学校)の開設当初、楽善会訓盲院の生徒が学資の補助のために製作したと思われる駅逓(郵便)用封筒を発見した。これは当時駅逓頭であった前島密がその販売を斡旋したものである。前島密は楽善会の設立メンバーとして、その開設に尽力すると共に、その後の東京盲唖学校でも商議委員を務め、終生、盲唖教育発展のために貢献した。 キーワード:楽善会訓盲院,前島密,駅逓用封筒 1. はじめに  前島密(図1)は日本の郵便制度を創業した人物として知られている[1~4]。また楽善会訓盲院の設立に貢献し、その後、東京盲唖学校の商議員として、盲唖教育に尽力した[5]。  楽善会訓盲院の開設当時、当時、駅逓頭であった前島密は、訓盲院生徒が学資の補助のために製作した駅逓用封筒(郵便用の封筒)の販売を斡旋した[6]。  今回、楽善会訓盲院の生徒が製作したと思われる駅逓用封筒を入手する機会を得た。  2007年12月、逓信総合博物館及び筑波大学附属視覚特別支援学校に問い合わせを行い、入手した封筒の実物をそれぞれの担当者に検分して頂いたところ、初めて見たとの回答が口頭であったため、今回、紹介することとした。  最初に、この封筒製造の歴史的背景となる、前島密及び楽善会訓盲院について概説し、その後、入手した封筒を供覧する。  なお、本論文中の表現は、当時の引用文献の表現を用いた。旧漢字は現在の字に直して表した。 2.前島密  楽善会に関連する事項も含めて、前島密の経歴を概説する[3]。  前島密は1835年(天保6年)1月7日、越後・中頸城郡津有村字下池部(現・新潟県上越市)で生まれた。父は豪農上野助右衛門、母はてい(貞)の次男として生れた。江戸で洋学を学び、全国を遊学後、1866年(慶応2年)幕臣の前島家の養子となり前島姓を名乗る。「漢字御廃止之儀」を将軍徳川慶喜に提出する。  明治維新後は新政府に出仕する。1870年(明治3年)、東海道の宿駅を利用した新式郵便制度を立案。その後、イギリスに赴き、郵便事業を学ぶ。密の後任の杉浦譲(後に楽善会に入会する)によって1871年(明治4年)4月20日に郵便の取り扱いが始まった。  イギリス留学から帰国後、駅逓頭・駅逓総監などを歴任し、郵便為替・郵便貯金、万国郵便連合(UPU)への加入など我が国近代郵便制度の創設に尽力した。  1876年(明治9年)、杉浦譲の紹介により楽善会に入会し、訓盲院設立に尽力する。  1881年(明治14年)、逓信総官を辞し、野に下る。大隈重信らと行動を共にし、立憲改進党結成に尽力する。  1887年(明治20年)、東京専門学校(現早稲田大学)校長になる。  1888年(明治21年)、逓信大臣榎本武揚に請われ、逓信次官になる。電話事業の創始にあたる。  1891年(明治24年)、逓信次官を辞す。退官後は再び実業家として活躍する。  1901年(明治34年)、東京盲唖学校商議委員になる。図2に文部省よりの辞令を示す。  1902年(明治35年)、勲功により男爵を贈られ、華族に列せられる。  1904年(明治37年)、貴族院議員になる。  1917年(大正6年)、東京聾唖学校に皇后陛下行啓の際に、拝謁し、お菓子一折下賜の上、「本校創立に力を尽し、引続き今日に及ぶと聞く、且本日は態々遠方より出頭の由奇特の至り、尚此後共自愛して意を注ぎ本校のために便益を図ることを望む」とのお言葉があった[1]。  1919年(大正8年)、4月27日、神奈川県西浦村(現在の横須賀市芦名)の別邸・如々山荘で没する。享年84歳。 また、5月2日の告別式に東京盲学校長、職員総代石川教諭並びに生徒総代4名が参列している[6]。 3.楽善会訓盲院の創設とその後の歩み[6~9]  1875年(明治8年)5月22日、の発意で古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香、およびボルシャルド(中村正直の家塾「同人会」の教師)の五名が英人医師・宣教師、ヘンリー・フォールズ宅にて会合し、始めて訓盲のことを相談、古川正雄を会頭、岸田吟香を書記に選び、「楽善会」を組織した。新約書ヨハン第9章を、凸文字で製造することを決め、アメリカへ注文した。  同6月、古川正雄・津田仙・中村正直・岸田吟香の4名が訓盲院設立の事を東京府知事大久保一翁に「訓盲院取立度建言書」を出願したが許可されなかった。同11月、再び4名で連署して東京府知事に請願したが、またも許可されなかった。  1876年(明治9年)になると、内務省地理局長・杉浦譲(中村正直のすすめにより入会)、駅逓頭・前島密(杉浦譲の紹介)、小松彰(杉浦譲の紹介)、工部大輔・山尾庸三(古川正雄のすすめ)、高津伯樹(津田仙の紹介)が新たに楽善会に加入した。2月27日に岸田、古川、津田、中村、小松、杉浦、前島の連署で楽善会規則及び目的を添付し、3度目の請願書を東京府権知事楠本正隆に出したところ、3月15日に許可を得た。  同年12月22日には設立に向けて明治天皇から三千円を下賜された。これはかねて山尾庸三から訓盲院設立を聞いていた木戸孝允が賛意を表し、斡旋したものである。  1877年(明治10年)2月の楽善会の会合で、会友のその年度の寄付金の荒積みを定めており、前島密は山尾庸三の240円についで多く、200円の記載がある。その後各方面に寄付を募り、建築費用を集めた。1878年(明治11年)に、施工を開始し、1879年(明治12)年12月、築地3丁目の海軍省用地に楽善会訓盲院の校舎が完成した。  1880年(明治13年)1月5日、楽善会訓盲院の業務が開始され、2月13日、初めて盲生2名の入学を許可され、授業を開始した。6月1日には唖生2名の入学が許可された。  1884年(明治17年)5月26日「楽善会訓盲院」は「楽善会訓盲唖院」と改称された。  山尾は寄付金などによる経営では、恒久的な事業の継続が困難であることから、文部省直轄学校として運営してもらったらどうかとの提案をした。1885年(明治18年)10月に楽善会の総会の議決に基づき、文部卿・大木喬任あてに直轄願いを提出し、11月21日にその願い出が認められ、12月1日、文部省直轄学校となった。  1887年(明治20年)10月5日、「東京盲唖学校」と改称する。  1890年(明治23年)7月1日、小石川区指ヶ谷町薬草試植園跡(現・文京区白山)に移転する。同年11月1日、第4回点字制定会を開き、石川倉次の案を採用する(日本式点字の誕生)。  1910年(明治43年)、「東京盲学校」と「東京聾唖学校」に分離し、「東京盲学校」は現在地の小石川区雑司が谷(現・文京区目白台)移転する。 4.駅逓用封筒の供覧  図3と図4は何れも、東京より差出され、信州小県郡に宛てた封書(料金2銭)である。  図3の封筒裏面の郵便印より、東京、明治15年1月1日の差出と判読される。封筒裏面右下に「訓盲院生徒製造」の印があり、印の大きさは縦32mm、横12mmであった(図5A)。  写真4の封筒表面の郵便印から、東京、明治17年9月3日の差出、信濃・田中、9月7日の到着が判読される。封筒裏面右下に「東京楽善会訓盲院盲唖生徒製造印」の印があり、印の大きさは縦21mm、横11mmであった(図5B)。  封筒は和紙で作られ、サイズは縦187mm、横67mmである。図4には封筒上部に15mmの糊しろが見られる。 なお、郵便印の判読は文献[10]を参考に行った。 5.駅逓用封筒製造に関する記録  駅逓用封筒製造に関連すると思われる東京盲学校六十年史(昭和11年刊行)の記載を示す[6]。  明治13年5月18日:大内青巒創造する所の一器具を以て盲生に書状の封筒を製する事を始む。(注:大内青巒は楽善会訓盲院の初代院長)  明治13年6月30日:4月中院務綜理委員大内青巒盲児をして書状の封皮を製作せしむべき一器具を製造し授業の余閑之を試験せしむ、然るに其の器具果たして能く盲児の手術に適し漸く封皮製造の業を起こす、之を本院生徒に工業を授くるの第一歩とす。  明治13年10月26日:内務省駅逓局(前の駅逓寮)へ本院生徒製造の封筒三万四千枚を売却す、本院生徒の製品を売却するは本日を以て始めとす。  明治13年12月25日:前期以来其の技術を試験せし封筒製造は本期9月1日を以て初めて盲唖両生徒に課し爾来毎日時間を定めて其の製造に従事せしめしに本日に至り其の売り上げ代金57円88銭5厘を得たり、此の中紙代其他諸雑費を去りて純益金9円54銭を製造に従事せし生徒に分与す、本院生徒の工業に依て資材を領収せる蓋し之を権與となすべし。  明治14年12月24日:(省略)而して従前授くる所の封筒製造は頗る巧手に至れりと雖も本年其の需要者に異常ありしと料紙の価格騰貴せしが為に其の利益甚だ少なく即ち売上代金32円03銭4厘を得たる内紙代其他諸雑費を差引き純益金僅かに8円51銭7厘を得たり、仍て例に随ひ預証書を生徒に与え其の金円を前期の分と合せて駅逓局貯金に預けたり。  明治15年12月31日:(省略)盲唖生徒の封筒製造は漸く巧手に至り且つ需要者の購求増加せしを以て其売上代金及び純益金共に増加せり。  大正8年4月28日:商議委員男爵前島密薨去す、同男爵は本校の前身楽善会訓盲院創立当時駅逓頭たりしが明治9年1月楽善会に入り、その会幹として尽力せられし上に巨額の金円を寄付し楽善会友を勧誘し駅逓局用封筒を盲唖生徒に製作せしめて学資の補助を得しめたる等の斡旋に努め文部省移管後商議委員として本校の発展に資する所大なりき。  さらに、前島密の自叙伝である「鴻爪痕」の追懐録に当時の学校長・小西信八による追悼文が収録され、封筒に関して以下のような記載がある[1]。  明治13年5月18日:大内青巒氏の創案する所の一器に依り、盲生に状袋を造らしめ、之を前島氏に依り郵便局に売り捌き方を依頼し、大いに販路を拡張せり。 図1 前島密(逓信総合博物館所蔵) 図2 東京盲唖学校商議委員辞令(逓信総合博物館所蔵) 図3 「訓盲院盲生徒製造」の印の押された封筒(原寸大) 左:表面、右:裏面、右下に「訓盲院盲生徒製造」の印が押されている(矢印) 図4 「東京楽善会訓盲院盲唖生徒製造印」の印の押された封筒(原寸大) 左:表面、右:裏面、右下に「東京楽善会訓盲院盲唖生徒製造印」の印が押されている(矢印) 図5 封筒の製造印(実物の1.5倍) A(左):訓盲院盲生徒製造 B(右):東京楽善会訓盲院盲唖生徒製造印 6.考察  駅逓用封筒の製造は、東京盲学校六十年史及び「鴻爪痕」の小西信八による追悼文の記述から、前島密の斡旋により、楽善会訓盲院初代院長の大内青巒が作成した器具を用いて、明治13年5月18日より、盲生徒に、同年9月1日よりは、盲唖両生徒に行わせた。  図5Aに示す「訓盲院盲生徒製造」の印が押されている封筒は盲生徒のみに行わせた明治13年9月1日以前の初期に製造され、図5Bに示す「東京楽善会訓盲院盲唖生徒製造印」の印がある封筒は、明治13年9月1日以降の、盲唖両生徒に製造させた封筒と思われる。また、明治17年5月26日に「楽善会訓盲院」は「楽善会訓盲唖院」と改称されているので、これ以前の製造と思われる。  初代訓盲院院長で当代切っての啓蒙的仏教家である大内青巒は前島密の紹介で楽善会に入会している。封筒製作のために大内が創案した器具が具体的にどのような物であるかは、今回の調査では不明であったが、図4に示すように、封筒には糊しろの部分も正確につけられており、精巧な仕上がりであることが伺われる。  封筒の作成を開始した明治13年5月当初は盲生徒のみに行わせており、これは盲生徒に対する職業訓練の一環としても行われた事も考えられる。明治13円9月以降は、学資の補助の目的もあり、唖生徒にも製造を行わせたと思われる[8]。  今回示した封筒の郵便印から図3が明治15年1月、図4が明治17年9月であり、これら封筒の製造時期は少なくとも、この消印の日付以前であることは間違いないが、正確な製造時期の特定は難しい。また、郵便局での封筒の売りさばきは駅逓頭・前島密の斡旋との記載があるが、具体的な方法については、今回の調査では不明であった。また、封筒製造が何時頃まで行われていたかは、今回の調査からは確認できなかった。今後、さらに封筒の収集を行い、使用実態の調査を継続するとともに、文献などの関連資料の調査、当時の関係者の遺族などへの聞き取り調査を行う必要がある。 7.まとめ  明治10年代、楽善会訓盲院(現・筑波大学附属視覚および聴覚特別支援学校)の開設当初、楽善会訓盲院の盲唖生徒が学資の補助のために製作したと思われる駅逓(郵便)用封筒を発見した。これは当時駅逓頭であった前島密がその販売を斡旋し、初代訓盲院院長の大内青巒の作った器具によって製造されていたものであった。また前島密は楽善会の設立メンバーとして、多額の寄付を行い、開設に尽力すると共に、その後の東京盲唖学校でも商議委員を務め、終生、盲唖教育発展のため尽力した。 謝辞  本論文中の前島密肖像ならびに前島密辞令(明治37年5月 東京盲唖学校)の写真は逓信総合博物館より提供を受けました。  日本郵政株式会社・郵政資料館・資料専門員 井上卓郎氏、筑波大学附属視覚特別支援学校高等部 岩崎洋二教諭から貴重なご示唆・ご助言を頂きました。深謝いたします。 文献 [1] 鴻爪痕(改定再版) 前島密伝,財団法人前島会,1955 [2] 行き路のしるし,橋本輝夫,日本郵趣出版,1986 [3] 郵便事業の創始者 前島密の人生と業績 前島密一代記(第3版),井上卓郎編集,逓信総合博物館,2004 [4] 前島記念館資料集,日本郵政公社郵政資料館編集,逓信総合博物館,2007年 [5] 佐藤親雄,特殊教育への着眼-楽善会訓盲院設立の経緯-逓信協会雑誌,4巻(前島密50年祭記念特別号),40~43,1969 [6] 東京盲学校六十年史,東京盲学校,1935 [7] 盲・聾教育八十年史,文部省,1958 [8] 東京教育大学附属聾学校の教育-その百年の歴史-,東京教育大学附属聾学校,1975 [9] 図説盲教育史事典,鈴木力二,日本図書センター,1985 [10] 日本郵便印ハンドブック2008,日本郵趣協会,2007 Discovery of Postal Envelopes made by a Blind and Deaf Student at the Educational Institution for the Blind (a philanthropic society named Rakuzenkai) OHSAWA Hideo Department of Health, Tsukuba University of Technology Abstract: I discovered postal envelopes that were apparently produced by a blind and deaf student of the Educational Institution for the Blind (a philanthropic society named Rakuzenkai) (the predecessor of the Special Needs Education School for the Blind and the Deaf, University of Tsukuba) for purposes of reducing school expenses in the early days of the establishment of the Educational Institution for the Blind. Hisoka Maejima, who was the chief of the Japanese post office (Ekiteiryo), recommended the sale of these products. Hisoka Maejima worked on the establishment as a member of a philanthropic society named Rakuzenkai. Furthermore, he acted as a negotiator for the Tokyo Blind and Deaf School contributed to the development of blind and deaf education. Keyword: Hisoka Maejima, Postal envelope, the Educational Institution for the Blind