物理学の言葉 障害者高等教育研究支援センター 小林 庸浩 要旨:物理学や自然科学史の授業を通して考えてきた物理学と言葉の問題について論ずる。特に、新しい力学である量子力学で生まれた言葉[相補性]に関する理解を促すと共に、「相補性」からわれわれ人間社会にどんなことがいえるのかという量子論的社会論の一端を論じてみたい。更に、こうした議論を通し、「相補性」という言葉がわれわれ社会の基本を考える上で大切な言葉であることを示す。 キーワード:物理学,自然法則,言葉,量子力学,相補性 1.はじめに  短大時代から物理学を教えて通算9年目になる。30年近かった東京教育大および筑波大時代の教育とは違い、物理学を専門としない学生に教えるようになり、物理学がかなり多くの学生にとって大変難しいと感じる科目になっていることに驚き、また、理解に苦しんだ。数学を必要とするといっても、教養科目の物理学で使う数学は、簡単な関数の微積分と三角関数の知識程度で十分であり、少し繰り返せば慣れてしまう程度の内容である。しかし、ここ2~3年になってやっと難しいと感じる理由が分かるようになった。物理学を専門にしている人とそうでない人では言葉に対する感覚が違ってしまっているということだった。数学で使われている言葉は、この大学で使っている教科書を開けて目次をみれば分かる通り、方程式、不等式、関数、指数関数、対数関数、三角関数、数列、2項定理・・・・といったように我々の日常生活ではほとんど使われない言葉のオンパレードである。従って、はじて勉強する人は当然のことながら新しい言葉を覚えるしか仕方がないと覚悟する。一方、物理学の言葉はどうだろう、物理学の基本用語である速度、加速度、力、仕事、エネルギー・・・・は我々が日常生活の中でなんでもなく使っている言葉ばかりである。大学に来る人でこうした言葉を使えない人はまずいない。みんな分かっていると思っている。では、本当に分かっているのだろうか?速度の正しい定義は運動を表す関数の微分であり、加速度のそれは速度の微分である。この程度のことでも、知っているのは高等学校でかなり物理学を勉強してきた学生だけである。ましてや、力はニュートンの第二法則で定義される量であり、仕事、エネルギーとなると第二法則を基に定義される言葉であることなど思ってもみない。物理学は自然を記述する学問であるから、そこで使われる言葉は、当然、我々が日常的に使っている言葉が出発点になる。みんな知っている言葉ばかりである。だから分かっていると思っている。私は、自然科学史の講義のはじめに、必ず、「知っていること分かっていることとは違う」ということを強調する。我々が日常当たり前に使っている言葉は分かっているようでいて、[正しい定義は?]と問われるとほとんど答えることができない。「知って」はいても「分かって」はいないということなのだと説明する。「理解している」のほうが適切であるが、普通「分かっている」を使うので、これからも「分かっている」を使う。(困ったことに、この二つの言葉は手話では同じ表現になってしまう。この二つの言葉を違うものと表現する必要のあるときは、仕方がないので、「知っている」は普通の手話表現(胸を平手でたたく)を使い、「分かっている」は理解といって、「り+知っている(胸をなでおろす)」で表現する。)数学が全く新しい言葉を作る理由は、すべての言葉に定義を与え、他の言葉と混同しないように考えているからだ。物理学を論理的学問として記述するためには、数学と同じように、一意的に定義された言葉を使わなければならない。したがって、物理学のはじめにやらなければならないことは、学生たちに普段使っている言葉の定義を教えることである。言葉の定義は覚えるしか仕方がない。しかし、これまで慣れ親しんで、知っている言葉の正しい定義を覚えろと言われると、なんと七面倒なことか、と思ってしまう学生が大半なのである。「そんな言葉、分かってるよ」と学生たちは言いたいのだろうけれど、そういう態度で臨む限り物理学の理解はありえないことなのだ。言葉の定義を覚えさせるため、授業のはじめに繰り返し基本用語の定義を覚えているかテストをする。どうしようもない学生は、何回やっても覚えようとすらしない。何とか覚えた学生のほとんども、テストのために覚えたのであり、実際の問題を考える際使おうとしない。だから、当然のこととして、問題は解けない。確かに、日常会話では物理学で使うような定義から考える必要はまずない。しかし、この点をクリアしないと、物理学の理解は絶対にできない。要するに、数学や物理学では「知っている」は使ってはならず、すべて「分かった」状態で議論を進めてゆかねばならないのである。  このように言葉の持つ意味を正しく考えるのは難しい。しかし、こうした厳密な過程を経て作られた物理学の言葉は実に広範囲の自然現象に適応できる。この解説では、物理学の発展を大きく動かした言葉と、自然を表すためにどうしても必要と思われている言葉を選び、いろいろな側面から考えてみたい。我々人類も自然界の一生命体である以上、人類が構成している社会現象も自然を言い表す物理学の言葉と無縁ではありえない。そこには、我々社会の問題を考えてゆく基本もあるように思える。特に、現在の社会を考える時、物理学の最も新しい形態である量子力学からの考察は大変興味深い。古典物理学の言葉から始めて、量子社会論まで考えてみたいと思っている。 2.古典物理学の言葉  現代物理学は通常、古典物理学と量子論に分けられる。古典物理学とは、量子論を基礎にしていないすべての物理学、すなわち、力学、電磁気学、熱力学、相対性理論等を総称した呼び名である。ここでは古典物理学で生まれた言葉について考えてみる。  現代物理学は慣性という言葉から始まった。まさに、ギリシャから2000年間、科学の世界を支配してきたアリストテレスの考えからの決別を告げるべくガリレオ・ガリレイが名付けた初めての自然法則に対する言葉だった。慣性という言葉から物理学の「慣性の法則」を思う人はごくわずかであろうが、力が働かなくても物は動き続ける。まさに「あいつは慣性が大きいから動き出したら簡単には止まれないんだよな」などと日常的に使っている慣性である。力が働いていないときには等速直線運動をする。このことの理解が科学の出発点だった。ガリレイはさらに、運動の相対性を理解する至り(いかなる慣性系(慣性の法則が成り立つ座標)においても自然法則は変わらない)、動いている地球で科学を研究することにはっきりとした意味を与えた。ガリレイ以降、すべての科学者は地球が動いていることに不安を持たず、研究に専念できるようになったわけである。ガリレイが現代科学の父と言われるゆえんである。ガリレイは科学の実証性を自ら示すとともに論理性を「自然は数学という言葉で書かれている」とまで言って理解していたが、ついに次の段階、ニュートンによる第二法則には至らなかった。重力による落下運動が質量に関係ない等加速度運動であることまで調べ、その運動の時間に対する関数まで求めながら、力と加速度の関係に入れなかった。ガリレイは、宗教裁判というあまりにも大きな試練に時間と労力を割かれた点、大変気の毒ではあったが、力学の扉をほとんど開きかけたところで逝ってしまった。  では、ニュートンがガリレイを超えたのは何故なのだろうか?それは、ニュートンが人類で始めて「瞬間」という言葉を正しく理解したところにある。瞬間という言葉は、無論、昔から使われ、誰にも馴染み深い言葉であるが、ニュートンは「瞬間は微分で表される」ことを理解するに至り、速度が運動の関数の時間微分、加速度が速度の関数の時間微分であることを示した。人類がようやく運動の関数・速度・加速度の3つの量の関係を正しく理解できたのである。このことにより、第一法則:「力が0の時は等速直線運動(速度は方向も含めて変化しない)をする」の裏返し、「力が0でなければ、速度は変化する」、すなわち、「加速度が生ずる」ということを基礎に、実験の繰り返しから一つの関係式にまとめた。ニュートンの第二法則(力と加速度の関係)である。こうしてニュートンは、「力が分かれば加速度が分かる」ことを示した。3つの物理学量の間の微分の関係は数学的には等価な積分の関係としても表すことができ、この積分の関係を使って、力から求めた加速度から速度、速度から運動の関数を求める解析的手法を確立したのである。誰もが、知っていた「瞬間」という言葉の正しい理解が新しい世界を導く案内役になったのである。ニュートンが考えた時間発展を表す方程式(微分方程式)は、その後あらゆる分野で応用され、現在多くの人によって使われている。コンピュータによるしシミュレーションはニュートンの時間発展に対する解析的手法の応用に過ぎない。瞬間という言葉を解き明かすことで、これほど大きな影響を与えるとは、発見したニュートン自身考えもしなかったであろう。  ニュートンの後なかなか新しい言葉は生まれなかった。次に現れた大きな変革は熱機関の発展に伴う熱力学から現れた「エントロピー」である。この言葉はまだ一般にはなじみは薄いが、かなり多くの分野で使われるようになって来た。無秩序性を測る量と考えてよい。秩序だったものはエントロピーが小さく、無秩序になるほどエントロピーは大きくなる。熱力学の第二法則は「エントロピー増大の法則」とも言われ、自然現象では全体のエントロピーは必ず大きくなることを意味している。すなわち、自然現象は常に無秩序になる方向に進んでゆくことを表している。簡単に言えば、「放っておけば、熱いものは必ずさめる」ということである。皆さんが知っている、全く当たり前の事実に過ぎない。しかし、この事実の中にニュートン力学とは全く違った力学の芽があると考えて生まれたのが熱力学であった。こうした当たり前の現象をエントロピー増大という科学の言葉に置き換えた時、新しい力学、「熱力学」が完成したのである。この言葉の発見の意義は大きく、ボルツマンにより力学とのつながりを見出されるに至り、「統計力学」という新しい力学に進み、多くの物質の性質を研究する理論「物性論」として大きく花開いた。その成果は、現代のハイテク技術を支える基本理論として我々の生活に大きな影響を与えている。  これとは違った道を進んだのが、「相対性」という言葉だ。ガリレイにより意味付けられたこの言葉は、数学的には「ガリレイ変換と呼ばれる変換により自然の法則は変わらない」で表され、ニュートン力学以降のあらゆる理論の基礎となってきた。この考えに異を唱えたのが、アインシュタインである。光速度があらゆる慣性系で変わらないという考え(実験事実に基づいた)から、慣性系間の変換はガリレイ変換ではなく「ローレンツ変換である」ことを示した。異なる慣性系を結びつける数学的には無限にある変換のひとつを指摘しただけのことではあるが、物理学的には、ニュートン以来の時間という概念を覆し、全く新しい世界に我々を導いた。その考えの正しさは、あまりありがたくない面もあるが、原子力という形で我々の世界を揺るがすひとつの大きな要因にさえなっている。更に、その考えを一般相対論的変換にまで広げ、重力に対する新たな理解をもたらすと同時に、宇宙を理解する基本理論を作り上げるに至った。ここに来て、「自然界における相対性」の意味がほとんど完全に理解できるようになったと言っていいだろう。ガリレイから始まって、ほぼ300年の時を要した。  長くなるので、物理学の古典論の言葉としてはきわめて基本的な言葉にとどめて、量子力学の言葉に入ろう。 3.量子力学の言葉  量子論を説明するのは難しい。物理学科を卒業した学生ですら、3分の2はよく理解していないと言ってよい。物理学の研究者ですら使い方(量子力学的計算方法)は知ってはいても、基本的な点まで理解している人は多くはない。量子力学自体が実験を含めると完全に閉じた論理系になっていないという問題を抱えており、仕方がない面もあるが、少々残念でならない気がする。量子力学の理解の難しさの原点は、あらゆる物質が粒子としての側面と波としての側面の二つの性質を同時に持つというところにある。ガリレイ、ニュートンに代表される物体の運動を調べる粒子派とホイヘンスから始まる波の発展を考えてゆく波動派とは二つの異なる流れとして物理学の中では発展してきた。特に、光は粒子か波かという議論は古くからあり、ニュートン力学の全盛時代には粒子として考えられていたが、19世紀に入り波動方程式の発達と電磁気学の発展があり、19世紀末には光は電磁波という波であることが証明されたと考えた。しかし、アインシュタインは光電効果の実験を通して、光は粒子としての性質を持っていなければならないことを示してしまった。光は波か粒子か?この問題を全く違った形で捉えたのが、ドゥブロイである。彼は光が両方の性質を持っているならば、粒子と考えられている原子もまた波の性質を持つのではないか?と考え、波動力学を提唱した。間もなく、銀の原子の干渉実験により原子も波としての性質を持つことが分かり、この考え方の正しさが示された。20世紀のはじめのことである。あらゆる物質が、波という性質と粒子という性質の両方の性質を持つ。自然が我々に提示したのは、我々の感覚では想像もできなかったような姿であった。  少し話は戻るが、この問題の糸口となったのは1900年に発表されたプランクによるエネルギーの離散的性質とそれを支配する定数h(プランク定数)の存在である。アインシュタインによる光電効果の考え方はまさにこの定数の正しさを示したわけである。この定数は、さらに、ボーアにより原子核の構造の解明に発展し、1925年ハイゼンベルグとシュレーディンガーにより全く違った形式による基礎方程式を基にした量子力学の出発となるわけである。しかし、間もなくこの似ても似つかぬ二つの理論は数学的には全く同等の内容であることが示され、数学的にはノイマンによりヒルベルト空間の理論として定式化された。また、波動方程式として書かれているシュレーディンガー方程式の解はいかなる波なのか?という問に対して、物質の存在確率を表す確率振幅であるという答えに行き着く。当然のこととして、この確率振幅としての波動はわれわれの観測に直接かかるものなのか?という問が発せられた。現在の主流としては、確率としては観測量になるが、振幅そのものは観測可能でないという考え方に落ちついている。しかし、いまだに論争は絶えない。更に、ノイマンは彼の数学的定式化を示した本の中で、量子力学は観測問題に重大な未解決の問題が含まれていることを示した。この観測問題はその後の量子力学の発展の中で幾多の論争を呼んだが、いまだに解決の糸口が見えない。量子力学の大問題として、しかし、量子情報伝達理論との絡みで、最近最も注目されている問題でもある。  この二つの性質を持つことの現実的な意味を考えてみよう。この問題は観測との絡みで考えなければならない。すなわち、すべての観測において粒子という性質を見ようとするのか、あるいは、波としての性質を見ようとするのか、どちらかを決めて実験しなければならない。二つの性質を同時に観測するような実験はできないのである。我々がある物質を観測しようとすると、粒子としての性質か、波としての性質のどちらか一方だけになってしまう。これがヒルベルト空間という数学上に築いた論理に確率振幅という物理学的な解釈を与えた現在の量子力学の姿なのである。しかし、この奇妙と思えるような考え方こそが、これまでのあらゆる現象に適合し、現在のハイテク技術を支えているのである。従って、この論理に重大な誤りがあるとは考えられない。こうして、あらゆる物質は粒子と波の二重の性質を持つものという理解が、自然を最も正しく記述することが分かった。この二重性は、数学的には二つの演算の順番を入れ替えたとき同じにはならず、先に述べたプランク定数に比例する差が生まれる。このことを数学では非可換性、物理学では不確定性関係と呼んでいる。プランクが見つけた定数は、非可換性の大きさを決めている数であることがわかる。こうした非可換性を持つのは、ある決まったペアーになっている。たとえば、位置と運動量、時間とエネルギー等が代表的な例として知られている。したがって、量子力学ではある粒子の位置を特定しようとすると、その粒子の運動量は決められない。こうした関係をボーアは「相補性」という言葉で呼んだ。言葉通り、二つの量は物理学的な状態を記述するには不可欠な量であるが、同時には観測できない。お互いに、観測という意味では相容れない関係であるが、物理学的考察には両者が不可欠である。正と誤、正義と悪というような相対立する概念ではなく、「両者とも不可欠な要素でありながら、両者をともに満足するような場合はない関係」とでもいうように理解していただきたい。自然は「一つの面だけから眺めたのでは全体を正しく理解できない」ことを我々に示したといえる。  では、この粒子と波の相補性は我々の世界に何をもたらすのだろうか?我々が日常多くの物質に囲まれ、それらを使いながら生活している。そうしたもののほとんどは波の性質など持っているとは思えない。しかし、あらゆる物質が波としての性質を持っていることが示されているのだ。波の性質とは何か?そのもっとも重大な性質は、干渉現象である。すなわち、二つの波が重なり合うと、互いに強めあったり弱めあったりする現象である。そのことが、ある特定な原子核の軌道に電子を閉じ込めて安定な原子を作ることを許しているのである。我々の生命現象を支えている化学反応も、元はと言えばこうした特別な状態を作り出している干渉現象から来ているといってよい。(粒子の統計性の問題が深く絡んではいるが。)我々はあらゆる現象に干渉が現れることを前提にしなければならない。この「相補性」という言葉こそ量子力学が我々に教えたあたらしい言葉であり、その結果として表れる干渉現象こそ我々にとって新しい世界を予言するものであると思ってよいだろう。次の節では、量子力学が予言する相補性は我々の社会現象の中ではいかに捕らえられるものなのかを、いくつかの例を挙げて議論してみよう。また、十分なスペースがあったら、量子論的干渉現象を我々の社会、現代社会の現象の中に探し、考察してみたい。 4. 量子論的社会論-相補性の適用-  前節で述べたように、量子論で自然を正しく表すための基本用語として新たに「相補性」という言葉が現れた。相補性が本当に自然を表すための不可欠な言葉であれば、あらゆる、すなわち、我々人間社会を含めた自然現象に適用できるはずである。ここでは相補性が我々人間社会の中でどう捉えられるべきかという問題と、相補的な関係にある言葉の現在の社会における重みから何がいえるのか?を考えてみたい。  量子力学の育ての親といえるボーアは相補性という言葉を最も重大に受け止めた科学者であった。事あるごとに相補性という言葉を口にするので、ある科学者がボーアに少々意地の悪い質問という意味も込めて「ボーア先生。真理に対する相補的な概念は何ですか?」とたずねたという。周りの人たちもボーアがなんと答えるかと一瞬固唾を飲んだという。しかし、ボーアは全く躊躇うこともなく答えたという。「それは、明晰性である」と。これには尋ねた本人も含めてまったく反論できなかったという。真理と明晰性が相補的な関係にある。これは重大なことである。真理を探れば、明晰な答えは見つからない。明晰な答えでは完全な真理を表すことはできない。まさに、粒子性と波動性の関係である。真理はあらゆるものが粒子的性質と波動的性質を持つことを言っている。しかし、実験(我々が直接見ることができる自然現象をもっとも明晰な形で示す方法)により見られるのは、常に片方だけの性質であり、真理の持つ二重の面を直接の実験から見ることはできない。数多くの異なる実験の結果として二重の側面を納得するより仕方がないのである。真理はすべてのものは粒子でもあり、波でもある、という我々からみれば不可思議な形態なのだ。我々は「真実は一つしかない」というような言葉で、何事に対しても一つの答えを見つけようと努力してはいないだろうか。数学の答えは一つしかないと思い込んでいる人が多いが、それは間違いだ。一つの論理体系の中では一つの答えを持つことが普通であるが、数学の論理体系は無数にあり、互いに公理が違うため結論に違いがあっても問題ない。たとえば、1+1の答えは整数論では2であるが、集合論では1でも2でもありうる。真理は1+1の答えすらはっきり示すことを拒むのだ。我々は日常生活ではこうしたことを知っていながらもはっきり理解して考えることはしない。私はこうしたことを理解させるため、ここ10年以上物理学のはじめの授業で1+1を問うことが多い。2以外の答えをはっきり答えたのはこれまでに2人の学生だけである。しかし、チョークやマーカーの色をたとえに(集合論の例として)1+1を尋ねねば、無論、誤った答えをする学生は一人もいない。皆、1+1=2以外の答えのある場合を知ってはいても、それを正しく理解してはいない。我々は日常生活であまりにも、「当たり前」とか「当然」という言葉をはっきりした理解のないまま使いすぎている。この世の中に、なんら前提条件がなく(数学では論理系を決定することなしに)「当然」という言葉を使える問題はありえない。議論の中で、そうした前提条件が正しく提示されているかを確認することなく進められる議論は、まったく不毛な議論なのだ。また、あらゆる議論が何らかの前提条件を下に進めている以上、いかに論理的に導いた結論であろうとも、その前提条件が成り立たない場合にはその結論が正しくないということが起こりうるということを忘れてはならない。相補性に対するボーアの考えが正しければ、明晰な言葉(たった一つの答え)で表せる真理は存在しないのだから。  もう少し我々の身近な言葉で相補性を考えてみよう。今の社会で蔓延している言葉、「効率」に対する相補的な言葉は「ゆとり」と言ってよいだろう。教育の現場でもこの二つの言葉をめぐって混乱が続いている。この二つの言葉が相補的な関係にあるとすれば、どちらか片方にあまりにも重きを置けばゆがみが現れる。今の社会は「効率」万能のような考えに陥っている。こうした社会が、あらゆるところで社会のひずみを生んでいることは明らかだ。「効率」を求めることは正しい。しかし、ゆとりを忘れた効率は、それ自体が誤った方向に答えを導いてしまうということだ。「ゆとり」という言葉は、時として「怠惰」と混同される。確かに、十分な仕事もせずに、ただ何もやりたくないというところから「ゆとり」を求めたのでは単なる「怠惰」に陥りかねない。しかし、先に述べたように、あらゆる議論には前提条件があることを考えたとき、「効率」を求めて得た結論がどんな前提条件に立っているのかもう一度考えてみること。そして、その前提条件が社会的・人間的に見て十分納得できるものなのかを皆で考える機会を持つこと。その辺に「効率」と「ゆとり」を両立させる基本があるのではないだろうか。  これと同じような関係が「利潤」と「人間性」の関係だろう。あるファンドマネジャーが言った言葉「金儲け、悪いですか?」に対してわれわれは簡単に「悪い」とは言えない。それは「金儲け」自体は何も悪いことではないからだ。しかし、金儲けだけに徹して、その相補的な概念「人間性」を忘れてしまっては、もはや正しい言葉の使い方にはならない。どんなに金儲けが上手な人も、その能力は我々人間社会だけで通用するものであり、人間としての、すなわち、我々が基本的に持っている「人間としての資質」である「人間性」を忘れての「金儲け主義」は決して人間社会の真実を語る言葉にはならないからだ。  では、「お金」そのものに対する相補的関係にある言葉はなんだろう。「知」だろうか?これを認めると、「金」が使われる前には、「知」という概念がなかったことにはならないか?という疑問は残るが、この二つのどちらを人間が先に使い出したかを調べるのはかなり難しいことになりそうなので、ここではやめにし、議論を進めることにする。今でも「知的財産保護のための法律」などもあり、「知」は一般的には「お金」ではあがなえないものと考えているように思う。しかし、最近の法律を見ると「金儲けのための知の保護」と受け取れるのは、私だけだろうか。しかし、少なくとも、禅の修業に見られるようなある種の知の追求には今でも金の価値で測れるとは思えないものが存在する。また、今でも、純粋に学問を続けている人も少なくはない。いかなる金の額よりも、新たな真実を見つけることにひたむきな人は希少になったとはいえ、ゼロではない。少なくとも、少し前の大学にはそんな人を探すことができた。しかし、今はどうだろう。法人化され、国立大学にはもはや自治などという言葉はなくなった。学問などまったくわからない役人に支配され、社会現象的な効率と透明性を求められ、毎年成果を問われるようになった大学に、もはや純粋に「知」を求めるような研究は許されない。金を中心に動く「企業」と純粋な知を求める「大学」はある時期まで相補的な関係として両立してきた。それでこそ人間社会全体が大きくゆがむこともなく進んできたと思える。しかし、今や大学も社会全体の中では企業のひとつに繰り込まれ、「効率」と最近では「金儲け」すら要求されるにいたっている。そこには「企業」に対する相補的な立場を失った大学の姿しかない。相補的な相手を失った「企業」はもはや正しい方向での発展は望めない。今の企業が利益追求のためなりふりかまわず邁進してゆく姿はおぞましい。企業の利益は働く人間に還元されるのが当然という考えを最早企業は失ったようだ。企業そのものが一つの生命体のように、ひたすら自己の成長を求めている。最早、そこに働く人間は単なる構成物に過ぎず、使い捨ての歯車である。社会が人間社会から企業社会に変わりつつあるということだろう。企業には真理など関係ない。従って、金銭と相補的な概念である知は必要ない。大学が知を求める価値観を失った瞬間、大学の存在価値は単なる企業のための人づくりの立場に落ち、企業と対等な相補的な存在価値を持つ立場から滑り落ちた。最早、今の日本の大学に社会を啓蒙する誇りも、未来を提示する力も残っていない。 5.終わりに  相補性の関係を調べることは面白いと同時に、限りない例が作られるだろう。一つの文明論として「戦争」と「祭り」の相補性に関して書いたことがあるが、いずれ、相補性の観点から論ずる社会論を一つの体系としてまとめてみたいと思っている。この文章は、少々中途半端な形に終わってしまうが、そうした体系を作る準備作業として理解願えれば幸いである。ただ、この文章から分かって欲しい大切なことは、相補的関係を見出せない言葉に、真実を語ることのできる言葉はないということ。そして、相補的関係を見出すことができる言葉(真実を語れる言葉)であっても、常に相補的な関係を大切にしながら発展してゆかねば、必ず破綻すること、の2点である。今の社会はあまりにもはっきりした結論を求めすぎる。明晰な(一意的な)答えには必ず欠けた側面、すなわち、相補的な側面があることをしっかり認識して欲しい。我々が働く大学という場を考える時、前節で述べたように、人間にとって重要な概念であった「知」を守り続けてきた大学の役割は、少なくとも日本では消えようとしている。すべてを金の量(たか)で測る現在の社会が人間社会に破綻をもたらすことは自然の法則だと思う。もう一度、社会における大学の本当の役割を大学人が考え、社会に発信してゆくことを願って、この文章を終わりにしたい。  皆さんの中のかなりの方がこの文章を読んで、何も「相補性」というような大それた言葉を使わなくても、「真理に2面性がある」ことぐらい誰でも分かっている、と思われると思う。その感覚は正しい。自然科学は自然現象を語っており、我々すべてが自然の産物である限り、自然法則に従って行動し、考えている。従って、物理学で見つけた真実というものは、すでに我々すべてが共通に持っている生得的な知識と考えてよい。慣性にしろ、相対性にしろ、我々は感覚的に知っていたことであり、エントロピーも熱いものが必ずさめるという知識としては知っていたわけである。自然科学がやっていることは、そうして感覚的に知っていることを論理的言葉を使って顕在化させることなのだ。多くの事柄がひとつの言葉で表されることを理解することで、多くの問題における共通の側面を正しく理解することができるようになり、また、議論の際に何を考えてゆかねばならないかということもはっきり理解できる。自然科学は、あまりにも技術の発展との絡みでのみ語られ、相補的な側面である我々の持っている生得的知識の顕在化の側面が忘れ去られているということなのだ。この文章を読んで、自然科学をこうした違った側面から考えてみる機会にしていただければと願う次第である。  量子論の確率波という概念が、現在の社会に現れている兆候についても議論してみたいと思っていたが、この文章の論点が散漫になる可能性があるので、ここでは議論しないことにした。量子論的干渉とは何か?その社会現象への影響等については、いずれ次の機会に議論してみたいと思う。 謝辞  この文章を書くきっかけとなった文明論の問題は、この夏、本大学の産業技術学部藤澤教授を長とするペルー海岸地帯の古代遺跡の調査団に参加し、ペルーの文明に関して多くの異なる分野の研究者たちとの議論する中で得た考えであった。長年温めてきた量子社会論を実践的に使う初めての機会を与えてくださったことに対し、藤澤教授にお礼を述べるとともに、多くの議論をともにしてくださった同行の方々に心より感謝したい。 Words in Physics KOBAYASHI Tsunehiro Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, National University Corporation, Tsukuba University of Technology Abstract: Problems on words used in physics are discussed in this paper. This theme has been studied in lectures on physics and the history of natural science. The novel complementarity that has been used in quantum mechanics is interpreted. The meaning of “complementarity” is investigated with regard to the problems in present human society. Research shows that this word has a very important role in comprehending complex situations in the present world, and also discovering a new viewpoint from which to discuss the problems in human society. Keyword: Physics, Laws of Nature, Words, Quantum Mechanics, Complementarity