情報・理数点訳ネットワークの開設-重度の視覚障害を持つ大学生等の学習環境の改善を目指して- 障害者高等教育研究支援センター1),視覚障害系支援課技術係2) 長岡 英司1) 大武 信之1) 辰巳 公子1) 光岡 裕一1) 小野瀬 正美2) 納田 かがり2) 要旨:視覚障害を持つ大学生の学習を支援する目的で、情報技術や理数分野の図書を点訳して提供する事業を開始した。点訳は、必要なノウハウを提供したうえで、首都圏で活動する六つの点訳ボランティアグループに依頼した。そして、点訳が円滑に進められるようにするために、点訳者が相互に問い合わせや助言、あるいは情報交換を行えるメーリングリストを開設した。第1期分として完成した点訳書は、本学に電子データで所蔵し、利用を希望する大学や個人に提供されている。この取り組みから、学習支援の今後を考えるうえで役立つ幾つかの知見が得られた。 キーワード:視覚障害,大学教育,学習資料,情報系図書,点訳 1.はじめに  視覚障害者の大学進学は、すでに多くの事例を重ね、今日では、もはや特別なことではない。だが、視覚障害を持つ学生たちの学習環境は、けっして満足できるものではないことから、その整備を図る組織的な取り組みの必要性がいわれている。中でも重要なのが、学習資料の確保を支援する体制の整備である。  本来、視覚障害学生の学業では、個々の障害の状況や情報アクセスの習熟度に応じた形態の学習資料が必要とされる。例えば、点字や録音、拡大文字による学習資料である。実は、近年、IT(情報技術)の活用で、視覚障害者の学習資料をめぐる状況は、目立って改善された。その一例は、点訳作業の能率が、PC(パソコン)によって飛躍的に向上した結果、点字での学習資料の提供が、以前に比べてはるかに迅速かつ大量に行われるようになったことである。とはいえ、問題がすべて解決されたわけではない。特に、重度視覚障害の学生が利用できる学習資料の範囲は、まだ極めて限られている。現在でも確保が難しいものとして、ITや理数系分野の学習資料を例に挙げることができる。  今日の情報化社会では、ITの利用に関する知識や技能の習得が重要であり、大学の教育カリキュラムでは、専攻分野を問わず、情報系科目が設定されている。当然、重度視覚障害の学生もそれを履修しなければならない。というよりも、視覚障害者にとってITの利用は障害を補償するために欠かせないものであることから、むしろ進んで履修する必要がある。ところが、履修のために必要な、情報系や理数系の学習資料の確保が容易ではない[1]。その背景には、次のような事情がある。つまり、数式などの特殊な表記や図表を点字や触図(点図や立体コピー図)、あるいは音声に変換するには現在のところ点訳者や音訳者の介在が不可欠であるが、そうした記述や内容に対応できる人材が著しく少ないのである。  文部科学省の特別教育研究経費による「高等教育のための学内外視覚障害者アクセシビリティ向上支援事業―視覚障害者用学習資料の製作拠点の整備」で視覚障害者用教材の整備・充実に取り組んでいる障害者高等教育研究支援センターでは、このような状況を改善する目的で「筑波技術大学情報・理数点訳ネットワーク」を開設した。これは、大学における情報系や理数系の科目の受講に利用できる点字の学習資料を整備するための専門的な点訳組織であり、ここで点訳された書籍等は、学内外に提供される。情報・理数系分野の学習では、特に初学者にとっては、音声による資料よりも文字である点字による資料が有用との判断から、まずは点訳に焦点を当てた事業を開始することとした。  本稿では、情報・理数点訳ネットワーク(以下「点訳ネット」と記す)開設までの準備の過程と開設後の活動の経過を紹介する。 2.開設準備  点訳ネットは平成18年春に構想され、すぐに開設の準備が始まった。 2.1 参加の呼びかけ  首都圏の既存点訳グループの中から6グループを選定し、4月から6月にかけて各活動拠点を訪問して、点訳ネットへの参加を依頼した。その結果、次に記す全グループ(括弧内は活動拠点所在地)から参加の意向を得ることができ、ネットの構成員が確定した。(五十音順) ・インテグラル(横浜市) ・清瀬点訳の会(東京都清瀬市) ・埼玉県点訳研究会情報処理部会・数学部会(さいたま市) ・千葉点字図書館 技大グループ(千葉県四街道市) ・点訳サークル・ウィズ(東京都豊島区) ・八王子六つ星会(東京都八王子市) 2.2 点訳研修  同6月から9月にかけて、情報処理用点字についての研修を、各グループの活動拠点に出向いて、2時間×2回(合計4時間)ずつ実施した(一つのグループの2回目の研修は10月にずれ込んだ)。どのグループも点訳実績は十分にあったが、情報系分野については未経験の点訳者が多かったことから、これを行った。また、書式付けの概要など、点訳方法の基本的な部分の統一を図ることも、目的の一つであった。 2.3 点訳原本の選書  情報処理の基礎、プログラミング言語、文書作成用言語の3カテゴリから合計18タイトルを、点訳候補図書として選書した。 2.4 専用サーバの設置  点字図書の電子データ等を所蔵するためのPCと、ML(メーリングリスト)を運用するためのPCを、新規に設置した。 2.5 発足会議の開催  点訳ネットを発足するための会議を、各グループの代表者2名ずつと学内の関係者により、9月に本学で開催した。そこでの決定事項は次のとおりである。 (1)組織体制  運営委員会と事務局を設け、本学に設置する事務局の実務は関係教職員が担当することとした(図1)。 (2)連絡体制  参加グループの会員個人と本学の関係教職員が加入するMLを開設することとした。なお、それとは別に、事務局専用のML(部外からも送信可能)が後日併せて設けられた。 (3)点訳方法  点訳の詳細について定めた『点訳基準暫定版』が承認され、当面それに従って点訳を行うこととなった。 (4)点訳の割り振り  選書された18タイトルについてグループ単位の点訳割り振りを検討し、平成18年度分として13タイトルの担当が確定した。 (5)経費負担  点字ページ単価で点訳料を定め、各グループに有償で点訳を依頼することとした。点訳料を含め、関連経費は当面本学が負担することとした。 (6)運営規定  点訳ネットの運営に関する要点を、規定として文書化した。 3.点訳ネットの実動  本事業は、年度ごとに計画する図書点訳と、その成果物の点字図書の所蔵、提供を行うものである。 3.1 点訳の開始  点訳の実務は、平成18年10月に始まった。事務局が、点訳原本をタイトルごとに3冊ずつ購入し、2冊を点訳担当グループに送付して1冊を事務局保管とした。各グループでは、内部で分担を決め、下調べから始まる点訳作業に着手した。 3.2 メーリングリストの活用  点訳者73名と事務局5名で開始されたMLには、点訳原本に専門的な記述が多かったことや、点訳基準が十分に整っていなかったことから、点字表記の方法に関する問い合わせが多く寄せられた。そのすべてに対して概ね即日に回答が投稿されたが、そのほとんどを本学が行った。年度末までの(約半年間の)MLへの投稿総数は、231件であった。 3.3 点訳基準の発行  MLでのやり取りの状況から、より確かな点訳基準の必要性が明らかになったため、暫定版を全面的に改訂して、点字表記例なども掲載した正式な点訳基準[2]を作成した。同基準は、印刷・製本した冊子体で、平成19年2月にネット参加の点訳者全員に配布された。 3.4 触図作成研修の実施  点訳者は、図表への対応でも苦慮していた。視覚的な表現を触覚で読み取れる形状に変換しなければならないからである。読者にとって欠かせない図表も少なくないことから、当然、すべてを省略することはできない。  そこで、平成19年2月に本学で、触図作成に関する研修会を実施した(図2)。講師には、京都在住の、点字出版所長と熟練点訳者の二人を招き、PCによる実習を含む、3回(合計9時間)の研修とした。点訳グループからは、毎回同一の4人ずつが、代表として参加した。また、この研修用に、講師書き下ろしの研修テキスト[3]を作成し、受講者を含むネット参加の点訳者全員に配布した。 3.5 点訳書の納品  すべてのグループの点訳が平成19年3月に完了し、13タイトルの点訳書の電子データが事務局に納品された。点訳書の総量は、188巻、14,507ページとなった。納品された電子データ(点字データと点図データ)の形式は、各グループの使用ソフトによって異なったが、いずれも点訳基準で指定されたものである。 3.6 外部への資料提供  上述の二つの冊子、点訳基準[2]と触図作成研修テキスト[3]を、全国のすべての盲学校や主要な点字図書館さらに一部の大学や研究機関等に寄贈し、好評を得た。また、残部を、点訳者等の個人に、希望に応じて無償提供した。さらに、国立国会図書館に納本し、公式に登録された(登録番号:点訳基準[2] JP: 21241548 、触図作成研修テキスト[3] JP: 21241553)。 図1 情報・理数点訳ネットワーク組織体制 4.点訳書の提供  完成した点訳書は、学習・教育目的での利用を希望する視覚障害者や大学関係者等に、当面、無償で提供することとした。提供形態は、バインダ製本の点字図書と電子データのいずれか、もしくは両方を、タイトルごとに選択できる。この点訳書提供事業に伴う、点字・点図データの所蔵、利用希望の受付、点字・点図の印刷と製本、点字・点図データの複製や変換、そしてそれらの発送などは、すべて事務局が行う。また、事務局では、この提供事業が有効に利用されるよう、平成19年4月から、関連の情報の発信にも取り組んでいる。 4.1 ホームページの開設  本事業について、視覚障害者や大学教育関係者などに広く知らせるために、専用のホームページを開設した(図3)(http://www.ntut-braille-net.org/)。また、点訳書提供依頼のための専用アドレスを設けた(order@ntut-braille-net.org)。 4.2 利用案内の作成と配布  点訳ネットが提供できる点訳書のリストを掲載した利用案内パンフレットを、普通文字、点字、SPコード(音声に変換できる二次元バーコード)併記の形態で作成し、平成19年6月から、全国の点字図書館やVISS-Net(視覚障害学生支援メーリングリスト)、PEPNet-Japan(日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク)加盟の大学、その他関係方面に順次配布した(図3)。 4.3 点訳書提供の実施  平成19年11月末までの点訳書提供実績は次のとおりである。  依頼・提供件数:大学関係(4件)、個人(7件)、職業能力開発施設(2件)  提供点訳書総数:タイトル数(印刷6、電子データ80)、点訳書巻数(印刷93巻、電子データ1,204巻)、点訳書頁数(印刷7,511頁、電子データ93,256頁) 図2 触図作成研修 図3 点訳ネットのホームページ・点字図書・各種資料 5.提供図書の質的向上と充実を図る取り組み  点訳ネットでは、平成19年度は、点訳書の提供とともに、次のことを行っている。 5.1 触読校正  納品された点訳書は、すべて、点訳者による2回の校正を経ているので、一定の精度が確保されていると想定できる。それに加えて、早期の利用開始が必要との判断から、点訳書は、そのまま利用に供された。だが、情報系の図書では僅かな誤りも許容されない側面があるため、より仔細な点検を加えることが望ましい。また、今後に向けて点訳上の改善点を見出しておくことも重要である。そこで、そのために不可欠な触読校正を行っている。提供開始後になってしまったが、誤り等は順次修正されており、必要に応じて、修正版の点訳書を再提供する予定である。 5.2 新たな点訳  平成19年度は、前年度に未着手で残された5タイトルを含め、15タイトルの情報系図書の点訳を行っている。方法等に特段の変更はないが、多くのグループからの要望により、事務局から提供する点訳原本を、タイトルごと3冊に増やした。 6.考察  本事業を通じて、次のことが明らかになった。 6.1 点訳体制 (1)MLの有用性  点訳上の疑問などを投げかけると即時的に回答やヒントが得られるMLは、点訳者にとって極めて有用である。ただし、その運営には、結論を得にくい状況になった場合に、それを収拾することができる責任者、もしくは解決のためのルールの存在が必要である。組織的な点訳の取り組みでは、MLの果たす役割は大きいといえる。 (2)点訳基準の整備の必要性  同様に、点字表記や書式、図表への対処法などについて細目まで詳述された点訳基準が、有用であり、必要である。 (3)触読校正の必要性 点字は、触読用の情報伝達手段であることから、誤りや不備を目視では発見できない場合がある。したがって、初学者も利用する可能性がある学習資料の製作では、入念な触読校正が必要である。 6.2 点訳書提供体制 (1)選書の重要性  点訳には数ヶ月単位での時間がかかる。それゆえ、点訳原本の選書は情報教育の動向等を的確に見据えて行う必要がある。 (2)情報伝達の必要性  点訳書提供事業に関する情報が実際のニーズにすぐには届かない場合が多い。多角的な方法での情報伝達が必要といえる。 7.おわりに  「情報・理数点訳ネットワーク」は、情報・理数系分野の書籍を点訳し、学習・教育資料としての利用を希望する視覚障害者や大学教育関係者に提供するものである。本学は、全国の大学で学ぶ視覚障害者の学習環境の向上に貢献することを期待されているが、そのための一つの方法として、今後、本事業を次のような方向で発展させていくことが考えられる。 ・対象分野を情報・理数系以外にも拡大する ・対象メディアを点字以外にも拡大する ・即時的なニーズにも対応できるようにする  最後に、本事業のために尽力してくださっている点訳者の皆様に心より感謝申し上げる。 文献 [1] 長岡 英司:重度視覚障害大学生の情報・理数系図書の利用に関する調査-学習支援体制の充実を目指して-,日本特殊教育学会第45回大会発表論文集:589,2007. [2] 筑波技術大学情報・理数点訳ネットワーク:筑波技術大学情報・理数点訳ネットワーク点訳基準,国立大学法人筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター障害者支援研究部障害補償システム開発研究部門,つくば,2007. [3] 加藤 俊和・山本 宗雄:筑波技術大学情報・理数点訳ネットワーク点字図書用図表の作成技法研修会-手で読む図表の作り方(初歩から実践まで)-,国立大学法人筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター障害者支援研究部障害補償システム開発研究部門,つくば,2007. Establishment of a Braille Translation Network for Books on Information Technology/Science/Mathematics -to Improve the Learning Environment for Visually Impaired Students- NAGAOKA Hideji 1), OHTAKE Nobuyuki 1), TATSUMI Kimiko 1), MITSUOKA Yuichi 1), ONOSE Masami 2) and NOUDA Kagari 2) 1) Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology 2) Academic Affairs Section for Students with Visual Impairment, Administrative Division, Tsukuba University of Technology Abstract: A project was launched to translate books on information technology/science/mathematics into Braille and provide these to visually impaired students. The Braille translation work was assigned to six groups of volunteers in the metropolitan area, after these groups had been given training in translating computer-related notation into Braille. An Internet mailing list was created in order for the translation work to advance surely and efficiently. This enabled each participant in the translation work to exchange inquiries, advice or information. The first term’s translation work has already been completed. The electronic data of Braille materials are being stored on the server PC and provided to universities and individuals in accordance with their requests. Through these activities, we obtained valuable knowledge which will be useful in improving the learning environment for visually impaired students. Keyword: Visual impairment, University education, Learning material, Book on Information Technology, Translation into Braille