杉山和一に関する調査報告――江ノ島道の道標と各地の遺徳顕彰碑など―― 筑波技術大学保健科学部保健学科鍼灸学専攻1),筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター2) 藤原 自雄1) 光岡 裕一2) 和久田 哲司1) 要旨:この報告は、2010年に杉山 和一生誕400年を迎えるにあたって、彼の業績を継承すべく、杉山 和一に関係する史跡や顕彰碑などの史的調査を改めて行い、史実の確認と関係資料の収集・保存を図ることを目的に調査した一部である。 キーワード:杉山 和一、江ノ島道、道標、顕彰碑 1.はじめに  江戸時代を代表する全盲の鍼師・杉山検校和一は慶長15年(1610年)に誕生し、平成22年(2010年)には生誕400年を迎える。  日本鍼灸のこれまでの歩みの中で管鍼法の創始者として有名な杉山検校であるが、彼が残した業績は世界初の視覚障害者の教育施設である「鍼治講習所」の開設と、そこでの鍼灸・按摩の職業教育、さらに当道座の総検校として行った座の再編など多岐にわたっている。これらの業績は、日本固有の鍼灸療法の確立や視覚障害者の職業として鍼灸・按摩を定着させることにより視覚障害者の自立の道を開く礎となった。その後の医療、障害者教育、障害者自立と社会福祉に与えた影響は大きい[1]~[5]。  2010年に杉山和一検校生誕400年を迎えるにあたって、彼の業績を継承すべく、杉山和一に関係する史跡や顕彰碑などの史的調査を行い、史実の確認と関係資料の収集・保存を図ることを目的に調査を行った。  調査はこれまで収集した情報に基づく現地調査を中心に行い、画像処理・加工・コピーなどを使い整理した。 2.江の島弁財天道標  江の島弁財天への祈願により管鍼術のヒントを得たとされる杉山和一が、江の島弁天への感謝と参拝者の便宜を図るために発願し建てたと伝えられるものが江の島弁財天道標である。  道標は元禄2年(1689年)頃に藤沢から江の島までの間に建てられ、数はもともと48基あったといわれているが、正確な数は不明である。  平成10年に製作された道標地図[6]には13基が記されている(図1)。今回の現地調査で12基が藤沢市の指定文化財の目録に登録され、他に2基が確認されている[7]~[10]。  道標の形はいずれも尖頭角柱でほとんどが地上の高さ100~130センチ程度、巾22~25センチ、厚さ22~24センチ程度。表面には弁財天を表す梵字の下に「ゑ能し満道」、左側面には「一切衆生」、右側面には「二世安楽」と彫られている(図2)。道標の大きさや形、文字が酷似していることなどから同一の石工によってほぼ同時期に制作されたことが考えられる[6][10][11]。  これらの道標は長い年月を経る中で本来建てられた場所から移されたものも多く、また開発によって姿を消したもの、中には近年の土木工事によって掘り起されたものなど、道標の辿ってきた道は色々である。  今回の調査では、これまでの杉山和一建立とされる江の島弁財天道標に関する様々な調査研究の結果を踏まえ、それらを参考にしながら場所の確認と写真撮影、それらの特徴や由来などを調べ整理してみた[7]~[14]。 2.1 藤沢市役所新館脇の2基 (藤沢市藤沢115先)<藤沢市指定文化財>  (1)藤沢39番地先境川西岸御殿山ポンプ場付近の堺川支流の橋の部材として使用していたもの(3基あったと思われる)を、太平洋戦争後に移設。  (2)辻堂市民図書館(藤沢市辻堂2-15-11先)から移設。 2.2 遊行通りロータリー花壇内の1基 (藤沢市藤沢40先)<藤沢市指定文化財>  藤沢市役所構内の1基同様に、藤沢39番地先境川西岸御殿山ポンプ場付近の堺川支流の橋の部材と使用していたものを、太平洋戦争後に移設。 2.3 白旗神社境内の1基 (藤沢市白旗1-4先)<藤沢市指定文化財>  白旗神社は藤沢宿西方面の総鎮守で近くには源義経の首がこの地に葬られたと伝えられることから寒川比古命の他に義経も合祀されている。江の島弁財天道標の他に市指定文化財の庚申供養塔など多数の庚申塔がある。移設されたものと思われる。いつどこから移設されたか不明であるが、白旗神社の位置する場所は東海道から大山道や八王子へ向かう分岐点に近く、当時は交通の要所であったと思われる。 2.4 法照寺境内の1基 (藤沢市鵠沼神明2-2-24)<藤沢市指定文化財>  法照寺(浄土宗)は享保年間(1716~36年)頃、一説には寛文元年(1661年)に創建されたと伝えられている。境内には江の島弁財天道標の他に10基程度の庚申塔が並んでいる。弁財天の道標をはじめとしてその多くは、藤沢市神明1丁目に日本製鋼が工場を造った際に敷地内から移設されたと思われる。法照寺の道標の特徴は「一切衆生」が「二切衆生」となっている。心ない人のいたずらではないかといわれている。 2.5 藤沢市立片瀬小学校南門の脇の1基 (藤沢市片瀬2-14)<藤沢市指定文化財>  馬喰橋際東から移設。 2.6 片瀬密蔵寺筋向い角の1基 (藤沢市片瀬3-6-5先)<藤沢市指定文化財>  密蔵寺(真言宗)は鎌倉時代に創建された古刹だが天保2年(1831年)に火災で焼失し、天保6年(1835年)に再興した寺である。隣に庚申塔が1基並んで建っている。 2.7 片瀬市民センター構内の1基 (藤沢市片瀬3-9-6)<藤沢市指定文化財>  もともとは他所から移設した2基があったが、そのうちの1基が不明となり、現在は1基のみが市民センター入口付近に立っている。西岸御殿山ポンプ場付近の堺川支流の橋の部材として使用していたもの3基のうちの1基が移設された可能性があるとの説もある。 2.8 「西行もどり松」脇の1基 (藤沢氏片瀬3-10-15先)<藤沢市指定文化財>  近くの本蓮寺(日蓮宗)門前の三叉路にあったものを西行法師ゆかりの「西行もどり松」脇の現在地に移設。この道標は三面に他の道標と同様の字が刻まれている他に、残りの1面に「西行もどり松」と刻まれている。また「西行もどり松」の面が正面を向いているのも他と違う点である。 2.9 州鼻通りなぎさ整備事務所前の1基 (藤沢市片瀬海岸1-9-12先)<藤沢市指定文化財>  平成10年に近くの工事現場から発掘され、現在地に建てられた。建設用機械により頭部の一部が欠けている。 2.10 江の島神社福石脇の1基 (藤沢市江の島2-3-8)<藤沢市指定文化財>  福石は杉山和一が江の島神社に参籠した際、この石につまずいた時に管鍼のヒントを得たと伝えられ、この石のそばで物を拾うと幸運を授かるといわれている。道標はこの福石の近くに建っている。神社の境内に道標があっても本来の道標の役割を果たせないので、他の場所から移設されたのではないかと思われる。 2.11 鵠沼海岸の民家の邸内 (藤沢市鵠沼海岸7丁目)<藤沢市指定文化>  近くの道路工事の際に工事現場から同所に移設された。 2.12 遊行寺内真徳寺の境内の1基 (藤沢市西富1-4)  真徳寺は時宗の本山である遊行寺内の一角にある。近年になって、現在地に移設されたものであるが、もともとどこにあったものか不明である。 2.13 鎌倉市腰越行政センター構内の1基 (鎌倉市腰越864)  道路の拡張工事に伴って、腰越漁協付近から移設された。鎌倉市にある唯一の道標である。 図1 江戸時代の江ノ島弁財天道標と江ノ島道の地図 図2 江ノ島弁財天道標 3.全国各地の遺徳顕彰碑 3.1 山形県上山市の杉山検校の顕彰碑と杉山祭 (1)存在地:水岸山観音寺の境内(山形県上山市十日町9-29)  水岸山観音寺は天仁2年(1109年)に道寂和尚が開いたといわれる古刹で、真言宗智山派に属する。本尊は聖観世音菩薩。上山温泉のほぼ中央に位置している。 (2)由来:大正14年(1925年)当時、上山鍼灸マッサージ師会会長の加藤周越、副会長の佐藤岩次郎、木村菊雄らを中心に10人あまりが集まって「杉山検校先生の顕彰碑建立」について協議し、募金による浄財によって建立することを決定した。昭和3年(1928年5月18日に建立された(図3)。さらに同年江の島弁財天、妙音様の墓石も建立した。以降、現在に至るまで5月18日の杉山検校の命日には杉山祭と称し、遺徳を忍び、またその恩恵に感謝すると共に物故者の冥福を祈る供養が続けられてきた。  上山では米沢出身で杉山流の孫弟子にあたる島浦和田一の影響もあり、早くから管鍼などの杉山流の技術が広まっていたことが、顕彰碑建立の運動につながっていったと思われる[15][16]。 3.2 福島県白河市の杉山検校の顕彰碑と杉山祭 (1)存在地:関川寺の境内(福島県白河市愛宕94)  関川寺はもともと天台宗の寺であったが,延元元年(1336年)に白川城主の結城宗廣が開創した曹洞宗の寺である。白河市役所の隣に位置している (2)由来:顕彰碑は関川寺境内の金堂と道場の間にある。碑には「総検校杉山和一先生の碑」とあり没230年にあたり大正12年6月に建立されている。当時の白河盲人協会の会員が三重を旅した際に、杉山検校の話を聴き感銘を受けて建てたといわれている。高さ約1メートル、巾1.6メートルの台座に約1.8メートルの顕彰碑が建っている。白河盲人協会が建立し、按摩マッサージ鍼灸組合が継承したが、組合の編成の関係で福島県鍼灸按摩マッサージ師会県南支部が杉山検校祭を行っている。祭は5月の杉山検校の命日に近い日を選んで挙行されている(図4)。 3.3 大阪市の杉山検校の顕彰碑 (1)存在地:如心山寶樹院 竹林寺の境内(大阪市西区本田1-9-3)  竹林寺は浄土宗の寺で、慶安2年(1649年)に香西晢雲によって開かれた寺である。昭和20年4月の大阪大空襲で建物はすべて灰となったが、その後に再建された。杉山検校の顕彰碑の他に、江戸時代に朝鮮通信使の随行員で客死した2名の墓が残っており、漢人墳と呼ばれている。今日でも韓国人でお参りに訪れる人も多い。 (2)由来:空襲で歴史を伝える資料も焼失したため、由来について知ることができる資料は少ない。大正5年(1916年)の8月に出された『東京鍼灸雑誌59号』の記事で僅かながら知ることができる。  東京鍼灸雑誌によると、大阪北区福島の矢野丑之勝が発起人となり計画したもので、同年7月18日に竹林寺で除幕式があったことがわかる(図5)[23]。 3.4 三重県津市の顕彰碑および和一座像と慰霊祭 (1)存在地:三重県津市偕楽公園地内。三重県鍼灸マッサージ師会ならびに三重県視覚障害者協会が連合して、昭和45年から鍼聖杉山総検校頌徳会を組織して、毎年5月には彰徳碑および座像を祭り報恩感謝と慰霊祭が催されている。 (2)由来:この鍼聖杉山総検校頌徳碑は生誕地の津市には何も遺跡がないことから顕彰碑を立てることとなり、業界と盲界が協力して全国に募金を呼びかけて昭和44年に顕彰碑が建立されている。  杉山和一座像:三重県鍼灸マッサージ師会が保存しているものである。座像は木製で台座の上に座している。裏面には昭和12年謹刻深山とある。台座は横30センチ、奥行26センチ、高さ6センチ、座像そのものの高さ28センチで一刀彫の木像と見える。普段は宮の中に鎮座されている(図6)。 図3 山形県上山市の顕彰碑 図4 福島県白河市関川寺の顕彰碑 図5 大阪市竹林寺の顕彰碑 4.その他の顕彰碑と掛け軸 4.1 福島市の顕彰碑  福島県福島市信尾山公園地内。もともと福島盲学校内にあったものを学校移転によりJR福島駅近郊の信夫山公園内に移築されたものである。石碑には、「鍼按灸術中興之祖 前總檢校杉山和一先生之碑」大正二年五月十八日建碑、福島杉山報恩會とある。 4.2 会津若松鍼灸マッサージ師会の掛け軸  会津若松の業会長が歴代引き続いて管理して、現在も毎年5月には関係者が集って掛け軸を掲げ、伝承されて来た鍼箱や艾入れなどを備えて杉山和一の功績に感謝の催しを行っている。 4.3 岐阜市平光一角の碑と岐阜盲学校の掛け軸  岐阜市内金華山の麓の岩戸森林公園内に「鍼聖 鏡嶋兵庫、平光一角翁之碑」の碑がある。鏡嶋兵庫と平光一角の門人らによって大正14年10月に立てられたものである。盲人平光一角は明治から大正にかけて鏡嶋兵庫に鍼灸按摩術を習い、師匠とともに後輩指導に専念した。岐阜盲学校の前身である岐阜訓盲院の二代目院長の小酒井桂次郎とも交流があり、後輩らの盲学校での教育に熱意をもって進学を奨励していたという。師匠の鏡嶋兵庫は一説には加納城主永井肥前守の御典医であった鏡嶋検校であるともいわれる。  今日、岐阜県鍼灸マッサージ師会では毎年戦災での被害を悼む意味を兼ねて8月に慰霊祭を行っている。  また、岐阜盲学校には現地の画家である長縄士郎作の二つの杉山和一の掛け軸がある。 図6 三重県津市の顕彰碑と杉山和一座像 5.おわりに  江ノ島弁財天道標が建立されてから300年以上の時が過ぎた。今度の道標の調査では、この間に土中に埋もれたり破壊されたりした道標、さらに由来の不明な道標や文化財の指定から外されている道標の存在などが明らかになった。  また杉山和一の顕彰碑の調査では、建立の由来はそれぞれ異なるにせよ、建立した人々の切実な思いを感じるとともに、杉山和一という存在の大きさを改めて知ることができた。  ここに示した地域の他にも多数の地域において杉山和一への報恩感謝の跡があると思われる。杉山和一の偉業を後世に伝え啓発していく上で、文化的遺産である道標や顕彰碑のさらなる調査と保存がますます重要になってくると思われる。 文献 [1] 和久田哲司:鍼灸・手技療法史に関する研究,社会福祉法人桜雲会,東京,2008. [2] 長尾榮一:鍼灸按摩史論考―長尾榮一教授退官記念論文集,社会福祉法人桜雲会,1996. [3] 河越恭平:杉山検校伝,規文堂,1957. [4] 柿沼政雄編集:杉山検校伝,財団法人杉山検校遺徳顕彰会,東京,1980. [5] 姥山薫:惣検校杉山和一神正記,江島杉山神社,東京,1993. [6] 藤沢宿を語る会編:江戸時代(寛政年間)杉山検校江ノ島弁財天道標と江ノ島道(推定)(参謀本部陸軍部測量局 明治15年測量より),神奈川,1998. [7] 石野瑛:総検校杉山和一建立の江ノ島道標,藤沢市文書館蔵,神奈川,1937. [8] 藤沢市教育委員会:指定文化財目録,神奈川,2007. [9] 児玉幸多監修:江島道見取絵図 解説編,p4,東京美術,東京,1977. [10] 賀川治雄:藤沢地名の会会報,p4,藤沢地名の会,神奈川,1998. [11] 野本学:藤沢及び周辺自治体道標及び道標名石仏,藤沢市文書館所蔵,神奈川. [12] 藤沢市教育委員会「藤沢市文化財 ハイキングコース」藤沢市教育委員会 2000年 [13] 藤沢市教育委員会「復刊藤沢の文化財」藤沢市教育委員会1994年 [14]「都市地図 藤沢市」昭文社 [15] 上山鍼灸マッサージ師会編:上山市湯の上観音寺に建立されている杉山和一先生の石碑と杉山祭について,上山鍼灸マッサージ師会,山形,1989. [16] 鎌上真宏:水岸山慈眼院観音寺,水岸山慈眼院観音寺,山形,1984. [17] 森秀太郎監修:東京鍼灸雑誌59号,東洋医学雑誌復刻選集10巻,p637,オリエント出版,大阪,2005. Investigate Report Concerning Sugiyama Waichi---Guideposts of Enoshima Road and His Commemorative Stone Monument FUJIWARA Yorio1), MITSUOKA Yuichi2) and WAKUDA Tetsuji1) 1) A Course of Acupuncture and Moxibustion, Department of Health, Faculty of Health Sciences, Tsukuba University of Technology, 2) Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired,Tsukuba University of Technology Abstract:By 2010, 400 years will have passed since Sugiyama Waichi lived. This paper investigates the preservation of his historic site and commemorative stone monument. Keyword: Sugiyama Waichi, Enoshima Road, guidepost, stone monument