視覚障害者用『マルチモーダル図書 天文学入門 ― 宇宙と私たち』の刊行 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター1) 筑波技術大学 保健科学部2) 筑波技術大学 視覚障害系支援課技術係3) 長岡 英司1) 小野 束2) 辰巳 公子1) 冨澤 邦子1) 小野瀬 正美3) 納田 かがり3) 要旨:視覚障害者が触覚・聴覚・低視力のいずれかの感覚を用いて能率よく確実に読むことができる学習書の実現を図る目的で、『マルチモーダル図書 天文学入門 ― 宇宙と私たち』を製作し発行した。本学では、視覚障害学生の個々の状況に適した形態の学習資料の提供が、教育上の大きな課題となっている。本書は、視覚障害者が自身にとって都合の良い感覚で利用できるよう、活字版、点字・点図版、音訳版、電子版の四つの形態を備えている。その製作では、各形態版での読みの特性を踏まえた配慮が、原稿を作成する段階からなされた。また、図表や写真の処理についての検討も十分に加えられた。その結果、各形態版間での情報較差が軽減し、本書を読んだ視覚障害者からは高い評価を得た。 キーワード:視覚障害、大学教育、学習資料、マルチモーダル図書、天文学 1.背景と目的  視覚に障害のある学生の学習資料を巡る状況は、ITの活用によって近年目立って改善された。とはいえ、各自のニーズに即した学習資料を確実に利用できるほどに改善が進んだわけではない。また一方で、対象者の読みのスキルや履修科目が多様化していることもあり、学習資料の保障については一層の体制整備が必要といえる。そこで、文部科学省の特別教育研究経費により実施されているプロジェクト「高等教育のための学内外視覚障害者アクセシビリティ向上支援事業 ― 視覚障害者用学習資料の製作拠点の整備」では、視覚障害者用学習資料に関する多様なニーズに合理的に対応する方策を探る一環として、『マルチモーダル図書 天文学入門 』[1]を製作・発行した。  “マルチモーダル図書”は、触覚や聴覚、低視力のいずれでも確実に読める図書という意味を込めて同プロジェクトが新たに提案した用語である。実際、本書は活字版、点字・点図版、音訳版、電子版の四つの形態を備えている。天文学が題材となったのは、その入門段階では、専門的な用語や名称、数式や図表が適度に使われ、学習資料のあり方を検討するのに適した対象と判断した結果である。  本稿では、その製作過程について、点字・点図版の場合を中心に報告するとともに、各形態版の特色を示してマルチモーダル図書の現状を紹介する。 2.製作の過程  本書は、監修を本学、事務手続き等を有限会社読書工房(出版社)が担当する体制で製作された。 2.1 原稿の執筆原稿は天文学者の嶺重 慎氏(京都大学大学院教授)と天文教育研究家の髙橋 淳氏(茨城県立水海道第一高校教諭)が分担して執筆した。かねてより「視覚障害者にも読める天文学入門書の製作」に関心を持っていたこの二人が、2007年 9月に、マルチモーダル図書製作への協力を表明し、すぐに執筆作業に着手した。著者は同時に、掲載する写真の選定や(活字版と電子版で使う)図の準備を始め、それらについての解説文を加えながら原稿の作成を続けた。 2.2 各形態版の試作初稿は2008年の初頭に完成し、引き続いて各形態版の試作が行われた。 (1)点字・点図版  文章部分の点訳と写真や図の点図化は異なる点訳者が担当した。点訳の担当者は、数式や理科記号の点字化に精通しており、07年度末までに点字236ページ分の電子データを完成した。一方、同じ期間に合計51枚の写真と図が図形点訳ソフト エーデルを用いて点図データ化された。 (2)音訳版  音訳者が原稿をそのまま読み上げた音声をデジタル録音し、それをデイジー(DAISY:Digital Accessible Information SYstem)形式に編集して試作版を完成した。 (3)電子版原稿のワープロデータと写真や図の電子データを集約してドットブック形式のデータに変換・編集する作業を、専門業者に委託した。 (4)活字版一通りの編集と割付を行い、カラープリンタで印刷した。 2.3 原稿の見直しと修正  2008年度に入ってからは、試作の点字版と音訳版を叩き台にして、点字や音声に変換した場合の記述の適否が検討された。監修を担当した本学では試作版の読み返しを重ね、点字読者に理解しやすい表記、音声読み上げに適した表現、形や色彩を適切に説明する文言などの観点から、記述の修正に関する種々の問い合わせや提案を著者に対して行った。修正提案の例と、補足的説明が必要と判断された語(句)の例を表に示す。 表 1 原稿修正提案例 ①太陽・地球・火星は、2年2ヵ月ほどの周期でこの順に並び→太陽・地球・火星は、2年2ヵ月ほどの周期でこの順に一直線に並び ②青白 → 青みを帯びた白 ③星間雲から → 星間雲が圧縮して ④銀河面とよばれる面上 → 銀河面とよばれる渦巻きの円盤上 ⑤見渡すと、恒星が帯状に見えるのです → 見渡すと、円盤の厚みを見ることになるので、恒星が帯状に集まっているように見えるのです ⑥の構成メンバー → を構成する要素 ⑦二つの銀河が接触している → 二つの銀河が本当に近い位置にある ⑧最接近した → 極めて接近した ⑨その明るい円盤をはさむように、上下に、球状にぼんやりと光る領域がある → その明るい円盤の中央が上下に膨らんで、球状にぼんやりと光る領域がある 表2 用字の想起や同音異語の区別ができるようにするための配慮が必要と判断された単語や語句の例 水星 彗星 白斑 彩層 年周視差 年周光行差 大赤斑 岩体 球殻状 黒体放射 渦状腕 光度 2.4 点字・点図版の改良 点字での記述や点図による表現では、特有の仔細な配慮が求められる。 (1)点字部分 点字版に固有な次のような修正を本学から提案した。 ①単位の表記の統一 ②分数などの数式の表記の一元化 ③専門用語の表記(切れ続き)の訂正 ④表の書式の改良 ⑤点訳注記の修正と追加 (2)点図  「図や写真も確実に伝えたい」という著者の強い想いに沿って点図の評価と改良が繰り返えされた。その過程では、著者・点訳者・触読者の間でしばしば意見の対立が起きた。サイエンスとしての天文学の厳密さを損なってはならないという想いと、触覚での読み取りやすさを追求したいという想いが様々に交錯したことによる。また、点図の改良が原図の修正へと波及した例もあった。点図の改良の要点を表に、改良の具体例を図に示す。 表3 点図改良の指針 1.タイトルや凡例を必ず記す。その位置は図の上方、または前頁とする 2.図中に極力点字による説明を添える 3.点字と線や点等との間隔を適切にする(近すぎると点字を読み取れず遠すぎると説明の対象が不明確になる) 4.引き出し線は極力使用しない 5.重要な個所はデフォルメなどにより強調する 6.必要に応じて、省略、単純化、強調、デフォルメなどを施す 7.点字と紛らわしい点の配置や点種は用いない 8.星を表すのに円などの図形も適宜用いる(点だけでは表現に限界がある) 9.明暗の点種は(原則)明るい部分を小点、暗い部分を大点とする 10.線種の使い分けを適切にする 11.線が接近する個所や接点では、間隔を調整するなどのデフォルメを施して正しくたどれるようにする 12.線の交点には大点をおき、その隣接点を抜く 13.触知パターンを多様化し、適切に使い分ける 14.塗りつぶしパターン中にある線を浮き立たせるために、線の周囲の点を適宜抜く 15.異常接近点の処理を適切に行う(紙の破れを防ぐ) 16.矢印の形や矢ばねの長さ、角度などが不統一にならないようにする 17.矢印の先端と他の線との間には適宜隙間を空ける 18.グラフの線種は適切に使い分け正しく区別できるようにする 19.グラフが接近する個所や接点では、間隔を調整するなどのデフォルメを施して正しくたどれるようにする 20.グラフでは各軸の単位を(たとえ本文に記載されていても)明記する 2.5 点字・点図版の校閲  原稿の修正が2008年11月初旬に完了したのを受けて、試作点字版の修正と、改良された点図の点字版への組み込みが行われ、12月初旬に校閲用の点字・点図版が仕上がった。天文教育普及研究会に所属する藤原晴美さんらの視覚障害者による触読校閲では、種々の的確で貴重な助言と指摘が寄せられ、それに従って、原稿と点字・点図版の最終的な修正が行われた。 2.6 各形態版の製作  確定した原稿に基づいて、(点字・点図版以外の)他の形態版が製作された。 (1)音訳版  試作版を叩き台にし、音訳者、デイジー編集者、視覚障害者が連携して、音訳版に必要な付加的な原稿(音訳台本)を作成した。また、数式や表については、著者と本学(監修者)が、音訳原稿を作成した。さらに、著者が録音の現場に立会い、難語の読み方などについて助言を行った。 (2)電子版  原稿修正への対応や写真等の画質の調整など、試作版に手を入れる方法で、ドットブック形式の電子版を完成した。 (3)活字版低視力者向け図書の製作の経験を持つ編集者が、文字フォントやレイアウトの検討などを含め、製作の全般を一元的に担当した。 図1 点図の改良例 図2-3 面積速度一定の法則焦点Sを大点5個のパターンにした。交点のずれを補正した。 図3-2 夏の代表的な恒星、織り姫星と牽牛星星のパターンを変更した(紙の破れを防ぐため)。図中の点字(アルタイル)を右上に移動。デネブの上の空白を少し広げた。 3.本書の特色  本書は、高校生や大学の基礎教育課程にある学生を主たる読者として想定している。冊子体の活字版と、一つのケースに納められた 3枚のCD(コンパクトディスク)からなり、CDには、それぞれ、点字・点図版、音訳版、電子版のデータと関連ソフトウェアが収められている。それらの製作に際しては種々の検討がなされたが、その結果としての本書の特色を略述する。 3.1 内容  点字や録音で読む場合の理解を助ける配慮が随所になされており、例えば、形や色彩を正しく読み取れる文言、位置関係が確実にわかる説明、用字を想起できる表現などが検討され、取り入れられた。また、掲載されている51の図や写真のすべてに解説文が添えられたほか、表や数式も適宜用いられている。 3.2 点字・点図版(5巻362頁)  利便性の観点から電子データ(エーデルブック形式)で提供され、専用の印刷ソフトが添付されている。同データ形式では、点字文章と点図を一元的に保存、印刷できるので、同一ページに文章と図を割り付けることが可能である。すべての図や写真が、大きさの異なる 3種類の凸点で描かれた点図で掲載されており、点字・点図プリンタで印刷する。また、点図を除いた文章部分だけを抽出してBES形式のデータに変換したファイルが、同じ CDに収められている。文中や図中の数式や化学式は、それぞれの点字記号体系で正確に記されている。 3.3 音訳版(再生総時間 5時間53分)  デイジー形式のデジタル録音データに編集されており、専用のデイジー再生装置で聴取できるほか、添付されている再生ソフト LpPlayerを使って PCで再生することも可能である。デイジー編集では、 3レベルに階層化されており、章・節・項、及びページ単位での検索や移動ができる。図や写真については、原稿段階からそれぞれに添えられている解説文がほぼそのまま音訳されている。表では項目の対応関係などの構造を、数式では分数や添え字などの範囲を、明確に伝える読み方が工夫された。 3.4 電子版(データサイズ 8006KB)  文字拡大や音声読み上げなどの低視力者対応が可能なドットブック形式のデータで収録されている。また、視認性の高い文字フォントがバンドルされている。さらに、PC上でドットブック形式の図書を読むための閲覧ソフトT-Timeも添付されている。 3.5 活字版(B5版151ページ)  低視力での読みを考慮したレイアウトや配色がなされているほか、視認性の高い文字フォント(游ゴシック体)が用いられている。 4.配布と活用  2009年3月に発行された本書は、広く無償で提供され、一部で活用が始まっている。 4.1 配布の状況  各形態版からなる本書一式が、全国のすべての盲学校(視覚障害系特別支援学校)69校と、点字図書館(視覚障害者情報提供施設)85館に寄贈された。  また、全国紙や地方紙、視覚障害者向けの週刊新聞や月刊雑誌に本書を紹介する記事が掲載されたことから、本書一式や CDの提供を求める依頼が寄せられている。2009年8月末までに、盲学校や大学などの教育機関、点字図書館、公共図書館、博物館、天文施設、ボランティア団体、視覚障害者団体、個人などに、活字版約450冊、CDセット約350セットが配布された。 4.2 活用の事例  本書は、すでに一部の点字図書館で蔵書リストに加えられて貸し出しが始まっている。また、盲学校の理科の授業や教員研修で教材として活用されている事例があるほか、「普通小学校で学ぶ全盲の児童に今回の点図を授業で触読させたところ、本人ばかりか周囲の晴眼(視覚に障害のない)児童たちも強い関心を示し、点字や点図についての関心が深まった」との報告もあった。本書を読んだ視覚障害者からは、「これまで接する機会がなかった天文学の世界を知ることができ、新たな興味が沸いてきた」、「点図に触れながら録音を聞くと理解しやすい」などの感想が、また、点訳者や音訳者からは、「教科書などを手がけるときのヒントが得られ参考になる」といった意見が寄せられた。 5.考察  マルチモーダル図書の製作を通じて明らかになった事柄のいくつかを略述する。 (1)著者との連携  形態の違いによって読み取れる内容や深さに差異が出てしまうようなこと(情報較差)のない、すなわち形態の別を超えて一貫性のある、優れたマルチモーダル図書を製作するには、著者(もしくはそれに匹敵する専門家)の理解ある関与や原稿段階からの配慮が必要といえる。 (2)監修者の存在  マルチモーダル図書の製作過程では、進捗状況の把握や関係者間の調整、一元的な判断などを行える監修者が必要であり、その果たす役割は大きい。 (3)製作方法の標準化  各形態版の製作では視覚障害者の意見を反映することが重要であるが、例えば、点図の表現や点字の書式の良否の判断などでは、個人差の大きい感性に左右されてしまう場合が多い。それゆえ、製作に係る基本的な事項については統一基準やガイドラインが策定される必要がある。 6.今後の課題  今回の刊行は最終的な目標ではない。次のような取り組みを進めるための基盤として位置づけられるものである。 (1)有用性の評価  本書の種々の活用によって、マルチモーダル図書の可能性や有用性の程度を明らかにする。 (2)製作方法の確立  マルチモーダル図書の製作に関する方法を確立するとともに、それに係るマニュアルや支援ツール等を整備する。 (3)利便性の向上  アクセス方法の①適宜の切り替え(例えば、点字と録音)や ②併用(例えば、拡大表示と音声読み上げ)を簡便に行えるようにするために、各形態版の電子データの一元的な統合を図る。アクセシビリティの向上には、点字と点図を同時に表示できる端末装置の実現も待たれる。 7.おわりに  マルチモーダル図書の製作には、明確な方針を持つ強力な実施主体と、各形態版の製作を確実に担える組織や人材との有機的な連携が不可欠である。そして、著者の理解ある関与が大きな助けとなる。  今回の刊行では、著者がその趣旨を十分に理解し、前向きな姿勢で各形態版の製作にも深く関わった。また、様々な専門性を持つ30数名の個人と複数の団体や企業の直接的な協力を得ることができた。  一方、この刊行を支えた「もの」の存在も重要である。たとえば、点図の製作や印刷には藤野稔寛さんが開発した一連のフリーウェアが用いられた。それがなければ、点字・点図版の発行は実現しなかったともいえる。点字・点図版に添えられている専用印刷ソフトも同氏の開発物である。そのほか、音訳版に添えられているデイジー再生ソフト「LpPlayer」は日本障害者リハビリテーション協会から、活字版で用いられている視認性の高いフォント「游ゴシック体」は有限会社字游工房から、電子版に添えられている閲覧ソフト「T-Time」は、株式会社ボイジャーから、それぞれ無償で提供されたものである。  このように、本書は、多くの人々や組織の直接・間接の連携と協力によって完成した。それらがあったからこそ、本学は、監修者としての責めを果たすことができた。ここに改めて関係者に御礼を申し上げたい。 参考文献 [1]嶺重慎・髙橋 淳:『マルチモーダル図書 天文学入門― 宇宙と私たち』,筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター,2009. Multi-modal Book “An Introduction to Astronomy” NAGAOKA Hideji1), ONO Tsukasa2), TATSUMI Kimiko1), TOMISAWA Kuniko1), ONOSE Masami3), NOUDA Kagari3) 1) Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology 2) Faculty of Health Sciences, Tsukuba University of Technology 3) Academic Affairs Section for Students with Visual Impairment, Administrative Division, Tsukuba University of Technology Abstract: It is important that our university make learning materials accessible to students with visual impairment. A multi-modal book on astronomy was issued as a demonstration of how learning materials can be properly adjusted for improving accessibility. Since there are four different versions of the book (ink print, braille, audio, and electronic data format), each student with visual impairment can choose the method most convenient for them to read. The accessibility of each version of the book was improved by various means. For example, various trial-and–error experiments were conducted for producing tactile graphics of photographs and charts. As a result, the readers with visual impairment provided high evaluations on the accessibility of the book. Keywords: Visual impairment, University education, Learning material, Multi-modal book, Astronomy