初年次学生の「読み」に関する一考察 筑波技術大学障害者高等教育研究支援センター 細谷 美代子 要旨:近年、初年次教育の在り方への関心が高まっている。なかでも読み書き能力の向上が求められている。本稿では初年次学生の「読み」について、文学的文章における「読み」と非文学的文章における「読み」の双方を 対象に考察する。まず、学生による「読み」の事例を紹介し問題点を指摘する。次に問題の発生要因を考察し、リテラシー育成のための方向性を示す。 キーワード:初年次教育、リテラシー、批判的読み 1.はじめに  「大学の大衆化」ということばはいつごろ登場したのであったろうか。後期中等教育修了者の半数以上が大学へ進む今日、もはや「大衆化」ということばにはなつかしい響きさえある。このことばがかつてのように「問題提起」や「危機意識」と結びつくものではなくなっているからであろう。「大学の大衆化」という言い方は対応の鈍い大学関係者の注意をひくためという意味あいもあったとするなら、「大衆化が完了した」大学の今を語ろうとするとき、このことばがなかば死語のように扱われるのはその出自からして当然のことではある。  それでは受け入れ側である大学はこの間どのような対応をとったのであろうか。何が変わったのだろうか。  変化の一つとして、年ごとに初年次教育に注目が集まっていることが挙げられる。ただし、それは「大衆化の完了」という状況に対して超然としていられる大学が少なくなったからだと解釈するより、「高等教育とは何か」という実に単純な、しかし重要な問いに向き合おうとする大学が徐々に増えている証であると解釈するほうが妥当であるように思う。  一般大衆は大学へ来るべきでない、来なくてよいと考えるなら「大学の大衆化」はなるほど警鐘を鳴らすに値することであった。対するに、後期中等教育を修了した青年に対して継続的な教育の機会を与え社会のよき構成員となるべく訓練し送り出すとともに、社会人を含めたひろい年齢層の市民の求める教育を提供するのが大学であると考えるなら「大学の大衆化」は本来になうべきであった責務を大学に思い出させるという功績があった。  本稿では後者の認識に立ち大学初年次学生の読みの実際についてその一端を紹介するとともに、問題の所在を探り、リテラシー育成のための方向性を示したい。 2.読みに関する学生の自覚と実際  一般に学生の考える「読める」とはまず漢字が読めること、次に個々のことばの辞書的な意味が分かることである。漢字が読め、ことばの意味が分かりなおかつ文意を把握しがたいとき、彼らは「知識が追いつけば分かる」と理解を先送りするか、「自分に不要な知識が求められるなら、それはもともと分かる必要もない文である」として思考を停止する。教育の場においてはさらに「教師の説明を待つ」という第3の反応がある。  読むことに対して自信があるわけではないが、さりとて「読めない」「読めていない」という自覚はさらにない。学生の多くはこのような状況に身を委ねている。  以下には文学的文章における読みと非文学的文章における読みの2方向から、学生が「読めた」と考えるもののうち、「読めていない」事例を紹介し考察する。 2.1 文学的文章における読み  筆者は初年次学生を主対象とする教養科目「文学」を担当している。毎年、講義の1回目は「文学とは何か」という大きな問いを学生に投げることにしている。受講学生の意識やレベルを探るためではなく、講義の立脚点を確認することを目的とした問いである。学生から返ってくるのは「~を学ぶ」「~を調べる」「~を理解する」「~の知識を増やす」「鑑賞する」など、動詞で結ばれた答えである。これらは「文学研究の方法」「教養科目としての『文学』講義のねらい」ではあり得ても「文学」そのものを説明してはいない。「文学」と授業科目「文学」とは区別されなければならない。  「文学」は「~する」ものではなく一つの「存在」である、存在であるからには近づく術や手だてがある、文学という他者を自己の傍らに置くことは自己を客観視するために有用である。  講義の立脚点としてこのようなことをまず確認する。学生が深く理解するにはもちろん時間を要する。この「理解する」は「自己を見つめる」こととほぼ同義であるからだ。さて、文学を「勉強する」という目から見がちな学生の意識は児童文学を対象とするとき、どのような読みとして表れるのだろうか。 2.1.1 『せなかをとんとん』[1]を読む  梗概  夕暮れの公園にいた小学校1年生のしんぺいとたつやは帰宅を急ぐそれぞれの父親の姿を認めいっせいに駆け出す。たつやが後ろから「おとうさん」と呼びかけ、たつやの父親が笑顔で振り返ったとき、しんぺいの胸はなぜかすかすかした。しんぺいは父親に追いつくと背中をとんとんとたたいた。父親は聞こえない人だった。  帰宅したしんぺいと父親は母親に頼まれて買い物に出る。近所の店をまわっているとき、女性が父親に道をたずねる。父親が手話で説明し、しんぺいが通訳をしようとするが女性は耳が聞こえない人に道を聞いて悪かったと謝り立ち去ろうとする。しんぺいは父親をばかにされたように思い、女性を引き留め父親は道を教えられるのだと抗議する。道行く人の注視を浴び、しんぺいの剣幕に驚いた女性は振り切ってその場を去る。しんぺいは怒りが収まらないが父親はしんぺいをなだめる。  買い物から帰った二人は一緒に風呂に入る。父親の背中を流しながらしんぺいはたった一度でいいから父親に声で「しんぺい」と呼んでもらいたいと思う。そして、もしかして父親の声が聞こえないかと父親の背中に耳をつけてみるのだった。  表紙の上部に書名「せなかをとんとん」を配し、後ろ向きの父親の大きな背中に目を閉じて右耳を寄せるしんぺいの左横顔が描かれている。若草色をバックにほんのり桜色の肌の色、湯気のぬくもりと石鹸の香りが漂ってくるような明るく温かい色調である。この表紙絵は「温かい親子の情愛」を描いた作品という印象を与える。  読み手はまだ読んでいない物語の構造をこの表紙絵の印象からの予断にとらわれたまま読み進み最後のページでこの絵に再び出会う。  筆者は2009年度「文学」講義のなかで物語構造を検討する資料として本作を取り上げ初発感想を集めた。「気持ちが温かくなる」「しんぺいのような息子がほしい」「聴覚障害者が登場する作品を読めてよかった」という感想が多い。過年度に収集したものとほぼ同じ傾向が見られた。初発感想であるから人物解釈や作品分析を求めてはいない。ここで問題にしたいのは聴覚障害を持つ学生が無条件にしんぺいに好意を寄せ、その言動に疑問を感じていなかったことである。  物語の冒頭、作者はしんぺいを英雄視するたつやのことばを通してしんぺいが逆上がりのできる数少ない1年生であることを読者に知らせる。また、道をたずねた女性を悪役として戯画的に描く文章と効果的な挿絵によって、ほおを紅潮させて抗議するしんぺいの姿を「父親思いで正義感の強い少年」として読者の胸に刻むことに成功している。しかし、こうした装置によって登場人物に対する読者のイメージ形成を誘導することは創作における一つの技法にすぎない。しんぺいの言動になんら疑問を感じないのは学生自身の問題である。  友達の父親が背後からの呼びかけに応じて笑顔で振り返ったとき、しんぺいの胸が「すかすか」したこと、それまでのオレンジ色をバックにしたしんぺいの明るい表情がブルーをバックにした青ざめた表情に変わったことをどう「感じた」のか。  しんぺいが聞こえない父親に願う、一度でいいから声で「しんぺい」と呼んでほしいというその思いをどう「感じた」のか。  前者について、学生の反応はおおむね次のようなものだ。 「友達と比べて寂しく思ったのではないか」 「うらやましく思ったのだろうか」  より重要なメッセージを伝える後者について、障害を持つ学生の言及は少ない。声で呼んでほしいという場面は物語の最終章に置かれている。しんぺいは父親への実現するはずのない願いを取り下げることなく、無理な願いを抱いたまま聞こえない父の背に耳をすまし続ける。表紙絵は実は父親の「声」を求めるしんぺいを描いたものであったのだ。うっかり読み過ごすことなどあり得ない位置であり、スペースである。しかし、学生はこの場面に注目しない。  最後の4頁のうち前の見開き2頁の左には父親の背を流すしんぺいの姿が頁の下、やや左寄りに、しんぺいの父親の笑顔が中央上に大きく描かれている。この構図で、背を流すしんぺいの目は手元を見ていない。視線は上方の父親へ向かっている。視線の先にある父親の首もとには「し・ん・ぺ・い」のかな4文字がネックレスのように緩いカーブを描いて配されている。しかもその4文字には輝きを示す記号としての黄色の短線が書き加えられている。これは何を意味するのだろうか?明らかに声で呼んでほしいというしんぺいの願いの空想上の実現を表現している。  清水 真砂子(1999)は次のように指摘する。  この物語がいわゆる「健常者」の視点でのみ書かれていること、そこからの「思いやり」の域を一歩も出ていないことが気になっていた。(中略)だがこの本では一方の価値が他方の価値にひきよせられる形になり、作者(そして多くの読者)が欠如と考えたものは最後まで「欠如」のままに終わっているのだ。[2]  この挿絵はまさにこの指摘が正しいことを証明するものである。そしてテキストと絵から構成される本作で、絵はテキストに忠実であると思われる。すなわち、絵はテキストの思想を具現化したものであり、問題はテキストそのものに存在するということだ。  聞こえない親を持つ聞こえる子どもの内的葛藤というのは文学的テーマになりうるだろう。しかし、「せなかをとんとん」がそうしたテーマで書かれた、あるいは書こうとしたものなら戯画化された中年女性の描き方は不適切である。あるいは、中年女性を「おばさん」としてステレオタイプに描く時点ですでに聞こえない親を持つ聞こえる子どもの内的葛藤を描くことに失敗しているということもできる。仮に、「だれでもが持つ素朴な願い」がかなわないしんぺいは「不幸」であり、その絶対的な不幸を描いたのだというなら、「せなかをとんとん」というタイトルは何を意味するのであろう。  「せなかをとんとん」というタイトルと声で呼ばれることを願うしんぺいを描いた表紙絵-それは最終頁の絵でもある-は互いに異なる価値観を主張し、大きな矛盾がそこに存在している。この矛盾を発見するにはその前段階としてしんぺいの言動に疑問をもつ必要があるが、学生の読みは無条件にしんぺいに共感するところでとどまっている。この共感が無意識の「義務感」から生まれたものなら問題の根は深い。その義務感は小学校以来の教育の結果であるとも考えられるからだ。 2.2 非文学的文章における読み  筆者はまた日本語表現科目を担当している。2006年度以降、新聞を読んでコメントを書く課題を不定期に受講生に課してきた。これはシラバスに掲げた授業内容に並行して走らせている教育プログラムである。学生は「読む」・「考察する」・「調べる」・「書く」といった諸活動を課外の時間を使って行う。提出された課題に対する文章添削指導も個別指導としてきた。以下にはこの取り組みの中から事例を紹介し問題点を指摘する。 2.2.1 新聞の投稿文を読む  2008年秋、脳出血を起こした妊婦が受け入れ病院の見つからないまま死亡するという事件が起き、当時大きな社会問題となった。次に新聞投稿欄に掲載された投稿[3]に対する学生の読みを取り上げる。 記事見出し:米国の病院は拒まなかった 投稿者の属性:男性 会社員 50代  投稿者は米国在住時のエピソードを紹介する。18年前、陣痛の起きた妻を病院へ車で運んだが来るはずの主治医がいくら待っても来ず結局隣で別の出産を担当していた医師が駆け込んできて無事出産できた、ベッドに空きがなくストレッチャーに乗ったままの妻と朝を迎えたというものである。投稿者は「たとえ医師が間に合わずベッドに空きがなくても、病院は私たちを拒まなかった。妻と私は長い間廊下で過ごしたが・・・幸せだった。」と記す。そして亡くなった妊婦の死を悼み、都知事と厚生労働大臣が責任のなすりつけを行っていると指摘し、大切なことは二度と同様の事件を起こさないよう協力することだと結ぶ。  投稿者はアメリカでの体験に何ら不満を示さない。約束しながら来なかった主治医へも、緊急事態にもかかわらず直前まで策を講じなかった病院へも、出産後も廊下に置かれたままだったという扱いへも不満を示さず、受け入れてくれたことを感謝するばかりである。  不当な扱いを受けながら当事者がひたすら感謝をするのはなぜなのか。仮に書かれていない事情があって投稿者本人の感謝の気持ちは真実であったとしても、投稿者が提供する情報の範囲ではこの投稿には了解しがたい点が多々ある。複数の投稿の中からこの投稿を選んだ学生はどのようなコメントを書いたか。 「投稿を読み同感するところが多かった」 「日本の病院も変わってくれると良い」 「アメリカではたとえ空きがなくても拒みもせず受け入れる。ふところが深いし、一生懸命前向きにしてるのに比べて日本は……子を見殺しにしてる」 「アメリカのようにわずかな希望でもあきらめずに前向きに善処すべきだと思う」  投稿者の心情把握というレベルでは確かに学生の読みは正確である。しかし、意見文である投稿を読むときに必要なことは投稿者の心情に寄り添うことではなく、距離を置いて投稿内容・主張を吟味することである。医師の行動、病院の対応、投稿者の心情や姿勢、これらのいっさいに何も疑問を感じない「読み」には問題がある。  学生は指摘を受けて初めて、なぜ気がつかなかったかと自己の読みを振り返る。そして、病院を指弾するに急であった事件当時のマスコミの論調と自らが持つアメリカに対するプラスの先入観が客観的な読みを妨げる方向で働いたことに思い至る。 2.2.2 新聞の解説記事を読む  学生は朝刊紙全体から記事を選ぶことになっている。学生は特定の内容・分野に偏ることなく広い範囲から記事を選定した。科学記事、解説記事も学生が関心を示す領域であった。  次に自動車メーカーが開発した新しい駐車支援システムを紹介する記事[4]を取り上げた学生のコメントを検討する。 見出し大:テクノ最前線 車庫入れ ハンドルお任せ 見出し小:トヨタの支援システム 緩やかに自動操舵/縦列駐車もOK 安全考え「全自動」避ける  1996年に遡ってのシステム開発の背景説明、当該システムの具体的動きの紹介、初期システムとの違い、新システム開発における着眼点、他社の動向など約1500字の中に要領よく情報を収めている。  学生のコメント(一部)を検討しよう。 a)私は、車庫入れだけでなく、縦列駐車にも対応できるシステムなどを設置する技術は凄いと思いました。 b)なぜなら、カメラを設置することで駐車する時に確認しながらバックする面倒さが必要ないからだ。 c)また、ブレーキで速度を調整するだけであり、車両側面に障害物を感知する超音波センサーも追加されているからだ。  a)に「設置する技術」とある。メーカーの技術力を取り上げるなら「設置する技術」ではなく「開発する技術」を対象とすべきところである。実際、記事中には「開発」という語が5回も使われる一方で「設置」という語は使われていない。にもかかわらずなぜ「設置する技術」という表現になったのか。一つの解釈として、ユーザーの立場から記事を「読み」、便利なシステムの「存在」にのみ注目したところから出た表現と考えることもできるのではないか。もしそうなら、システムが車に「付いていると便利」という意識が先行し、記事が伝えようとする開発の経緯、現状、今後の課題などに注意が向かなかった恐れもある。  b)を見よう。「なぜなら」で導かれるのは「面倒」がないこと、「カメラ」が設置されていることなどの2点である。面倒がないというのもユーザーからの見方、表現の仕方といえよう。カメラが付いていると何がどう「凄い」のか、理由説明はない。カメラが駐車システムの中でどのような役割を担っているのかを適切に読み取り、正確に把握していればこのような曖昧な記述となることはなかったであろう。文字を追うだけの読みにとどまっていた可能性がある。  最後にc)を見よう。「凄いと思」った理由として追加された「ブレーキで速度を調整するだけ」というのはb)で言及した面倒のなさに包括されるものである。もう一つのセンサーが付いていること自体は評価の理由としていかがであろうか。センサーが駐車システムのなかでどう働くのかを読み取れていれば「障害物を感知する超音波センサー」とするのではなく「区画線がなくてもスペースを検出するための超音波センサー」となったはずである。「障害物を感知する超音波センサー」という表現はメーカーの改善努力とセンサーの役割を有機的に読み解いていない結果と思われる。  以上、書く技術の問題ではなく、読みの問題が根底にあることを示した。当該学生の自己認識は読むことはともかくできるが書く力が不足だというものであった。この例では個別に確認指導する機会があり、学生は真の問題点を理解したが、受講者全員に常に同じレベルで指導することには限界がある。 3.まとめ  以上、文学的文章、非文学的文章のそれぞれについて学生の読みの実際を検証してきた。学生の読みにおける問題として次のような点があった。 1.文学作品における読みでは登場人物の心情把握に注意が向き、その言動に対する吟味がなされない。 2.意見文等に対して書き手と距離を置いて読まない。書き手に同化しようとする傾向がある。 3.解説的文章における読みでは自己の関心に沿って情報の取捨選択を行い、正確な内容把握に支障を来すことがある。  これらに共通するのは客観的、批判的に読もうとする意識が希薄だということである。換言すれば、意識的にせよ無意識的にせよ主観的、情緒的な読みへ傾斜しがちであるということでもある。初年次学生に見られるこのような読みの姿勢はどのようにして形成されてきたのか。  学生は初等・中等教育を通して10~12年の国語教育を受けて大学に入学してくる。彼らが10年以上親しむ国語教科書教材は自由な視点から批判的に読み深めることを訓練するのに適当ではない。教科書教材は言語資料として一定の水準にあるものが選ばれているからである。さらに、「教科書を教える」こと、「教科書教材を消化する」ことに指導者の注意が向いていれば、自ずと学習目標は書き手の主張を忠実に再現すること、登場人物の心情を正確に把握することとならざるをえない。大学入学以前にそうした教育を10年以上受け続け、距離を置いて客観的に読む訓練を受ける機会がなかったなら、大学で期待される「読み」の視点が育っていないのは不思議ではない。もちろん学生の責任ではない。  筆者は初等教育・中等教育段階において心ある教員による授業実践、教材研究の成果が日々蓄積されていること、優れた授業実践や実験的試みは枚挙にいとまがないほどであることをよく承知している。しかし、それらの成果が学会、研究会の構成員以外に広く伝えられてきたか、教育現場で共有されてきたかと考えるとき、なお改善すべき点があると言わざるをえない。同時に教員が教科書を自ら選べないという教育行政上の問題、教材開発に時間を割けない教員の勤務環境も改善されねばなるまい。こうした両面からの改善なくして、初等・中等教育現場における「読み」の指導面での根本的変化は期待できない。  しかし、大学は入学してくる学生の変化を待ってはいられない。受け入れた学生が入学以前にどのような教育を受けてこようと、大学生として必要な読みのスキルを習得させることが初年次教育に求められている。  このような状況において大学としてどのような対応をとることができるだろうか。学生の読みの力を育てるためにはどのような方策が考えられるか。まず、カリキュラム面では初年次学生対象言語教育科目を週2コマ以上開講したい。週1回では効果的ではない。次に学生のモチベーションを高め、リテラシー育成の効果を上げるための配慮として以下の4点を挙げておく。 1.学生が初見で「読める、易しい」と思う資料を用いて、「読めていない」ことを自覚する機会を意識的に設ける。学生が「読みにくい、難しい」と思う資料はモチベーションを下げるだけで有益ではない。 2.精読に適した資料、多読に適した資料を見極め、使い分ける。各資料の性格を生かした適切な作業課題を準備する。 3.同一クラスに能力差のある学生がいる事実を無視しない。能力差に配慮して選択可能な複数の課題を準備するか、あるいは能力差の影響が少ない課題を準備する。 4.クラスにおける課題資料を除いては、何を読むかは学生が決めることである。読むことを奨励しても、学生の読書活動に不要な介入はしない。  学生はすでにある水準の読みの力を持っている。それは大学生として期待される水準に照らして不足であっても彼らの日常生活に即支障をきたすほどのレベルの低さではない。ここに、リテラシー向上へのモチベーションを維持し続けることの難しさがある。しかし、視点を変えればここに一つの問題解決の糸口を見つけることができる。彼らの日常生活が知的刺激に満ちたものであれば、日常会話が知的好奇心を満たすものであればリテラシー向上へのモチベーションは高いレベルで維持されるに違いない。  初年次教育は高大接続の問題として語られることが多いが、実は2年次以上の教育の在り方とより深く関わることを指摘して本稿を終える。 参考文献 [1] 最上 一平(作)・長谷川 知子(絵):せなかをとんとん,ポプラ社,東京,1996. [2] 清水 真砂子:学生が輝くとき,岩波書店,東京,pp.184-185,1999. [3] 朝日新聞:2008年10月31日付 朝刊「声」欄 [4] 朝日新聞:2007年6月22日付 朝刊本稿は平成18~21年度科学研究費補助金(課題番号:18611003)による研究成果の一部です。 An Analysis of “Reading Skills” of Freshmen HOSOYA Miyoko Research and Support Center on Higher Education for the Hearing Impaired Tsukuba University of Technology Abstract: In recent years there has been an increasing concern for the standard of first-year (freshmen) education. In particular there is a need for improving their reading and writing (literacy) skills. This paper discusses the “reading skills” of freshmen, considering both fiction and non-fiction literature. First, we show the examples of their “reading” and identify problem areas. Next, we consider the origins and causes of these problems. Finally, we present the trends in literacy development. Keywords: First-year (freshmen) education, Literacy, Critical reading skills