聴覚障がい者の職場適応に関する現状調査(その1)─建設現場におけるろう者の事例─ 筑波技術大学 産業技術学部1) 障害者高等教育研究支援センター2) 田中 晃1) 石原 保志2) 井上 正之1) 大杉 豊2) 長島 一道1) 要旨:建設現場へ派遣されたろう者の例はほぼ皆無に等しい。この理由として考えられることは、多くの建設現場ではよりレベルの高い「安全管理」を求め、このような要求がろう者の受入れを難しくしていることである。このような状況の中で例外的に建設現場へ派遣されるのみならず、鉄筋工の責任者を任されているろう者が存在する。本論は、そのろう者の様子を取り上げるとともに、彼の職場適応に関する考察を行うものである。 キーワード:聴覚障がい者,ろう者,安全管理,建設現場,ガス圧接技術,取扱責任者 1.聴覚障がい者とろう者  我が国における「聴覚障がい者」と「ろう者」との区分は、「医学」「文化」「教育」等各分野によって解釈の方向が多様に富んでおり、あまり厳密な定義が与えられていない。本論では、コミュニケーションの側面に注目し、「聴覚障がい者」と「ろう者」との定義を下記のように整理することとした。  ・「聴覚障がい者」:聴力に障害を持つ全ての人々を含める広義的な概念。  ・「ろう者」:前述の「聴覚障がい者」の内、聴力の損失が大きく、日常生活において手話を用いる人々を指す。 2.調査背景  本学は筑波技術短期大学時代をあわせて、約850人の卒業生を社会に送り出している。その間、多くの関係者の努力によって、聴覚障がい者の職域が拡大された。具体的に言えば、本学設立前の際、聴覚障がい者の職域分野は手作業(例:印刷、工芸、歯科技工等)が主であったが、本学から卒業生を社会に送り出してからは、職域分野がIT技術を生かした工学的な設計部門(例:建設業のCAD部門等)へと広がってきた。  しかしながら、聴覚障がい者が建設現場に派遣される例が大変少ない等、職域分野によっては聴覚障がい者の職場参加が限られる例が見られる。その原因として、下記の項目が考えられる。 1)聴覚障がい者に安全管理ノウハウを指導するための 教育手法が確立されていない。 2)聴覚障がい者の中で安全管理に関わる情報が共有されておらず、安全管理の意識が育っていない。 3)企業側でも、社会的な説明責任を考慮し、聴覚障がい者に安全管理リスクの高い現場の業務を任せることを躊躇しがちである。  しかしながら、建設現場に常時派遣され、しかも、鉄筋工の責任者を任されているろう者が実在するという情報が得られたため、訪問調査を行った。 3.調査概要 3.1 目的  ろう者が鉄筋工の責任者を任されている建設現場へ訪問調査を行い、建設現場でのろう者の安全管理に関する知見を得る。  なお、鉄筋工とは、施工図を基にコンクリートの中に入れる鉄筋を配置・組立・溶接する職業である。もちろん、その職業の見習い人を含めるものとする。 3.2 調査概要 1. 調査場所:福岡市西区 鉄筋コンクリート造マンションの工事現場 2. 調査日時:2010年3月11日(木)8:30~11:30 3. 調査対象:40歳半ばのろう者およびその上司 4. ろう者の業務内容:鉄筋のガス圧接作業 5. 情報提供者:大杉豊准教授 4.視察報告 4.1  A氏の経歴  企業の希望により、本人や企業の名前を伏せてA氏とB社と呼ぶことにする。A氏は、聴力損失100db以上のろう者であり、補聴器を装用していない。彼は、鉄筋のガス圧接技術を専門としており、九州のろう学校高等部を卒業した後、B社に入社した。その後から現在に至るまでディズニーランドのレジャー施設や高層建物の建設現場に鉄筋工として関わってきた。鉄筋のガス圧接技術とは、鉄筋コンクリート構造の構成材料の一つ鉄筋を溶接する技術である。この技術を使いこなせるろう者は、2010年3月の時点において著者が知る限り、A氏1人だけである。A氏は、「ガス主任技術者」「鉄筋施工技能士」「手動ガス圧接4種」「玉掛技作業者」「ガス溶接作業者」等、安全衛生管理法に基づいた様々な技能講習を修了している。  A氏が勤務しているB社は35年前に設立され、九州に本社がある。B社は40人(うち技術者は35人)の社員が勤務している鉄筋のガス圧接技術専門の小規模な会社である。B社に勤務しているろう者はA氏一人だけである。なお、5年程前、別のろう者が鉄筋工として入社した例があったが、2年で退職したと聞く。 4.2 建設現場の様子  訪問調査が行われた日の天候は晴れであった。しかし、その前日の降雨によって、4階床スラブの型枠が濡れていて、注意深く歩かないと滑るほどである。  建設業界では、一つの工事を施工する際に複数の企業が共同で工事の受注および施工を行うことが多く、これを実施するために結成される共同企業体はJV(Joint Ventureの略語)と呼ばれている。  訪問調査を行った建設現場でも、その例外ではなく、中堅ゼネコン(別称:総合建設業、General Contractor / 例:清水建設等)を中心に複数の建設関係会社が集まってJVがつくられており、当時、JVに従事した作業者数は30~40人ぐらいであった。  訪問調査の際の建設現場では、あらかじめ作られた施工計画に沿う形で鉄筋コンクリート造の型枠・鉄筋の配置および組立作業が行われていた。 4.3 建設現場でのA氏について  B社からJVに派遣された鉄筋工の人数は3名であり、3名の代表者はA氏自身であった。A氏を除いた2名の鉄筋工は聴者であり、簡単な手話ができる(写真1)。  3名のそれぞれの役割について述べる。A氏は最も専門的な技術を要する鉄筋のガス圧接を担当しており、A氏以外の鉄筋工が担当する業務は、鉄筋の切断・部位の調整、鉄筋まわりの掃除などA氏の補助的な内容に留まっており、鉄筋のガス圧接を担当していない(写真2,3)。A氏からの話によれば、A氏はコミュニケーション量が少なくA氏単独で責任を果たせる業務に集中し、コミュニケーションの量が多い業務をB社の仲間に任せているという。例えば、A氏は取扱責任者という肩書きを持っており、工事現場に持ち込んだ危険物(写真4)や関連書類の管理に対して責任を持っている。その一方、B社からの聴者の一人は、安全衛生管理責任者の立場で、JVの統括安全衛生責任者とのコミュニケーションを図りながら、安全衛生管理の調整を行っている。すなわち、B社からの聴者の一人はA氏のコミュニケーションを補佐する役割を負っている。  「4.2 建設現場の様子」において、資材の落下など危険な事故の可能性があり、その対策についてA氏に伺ってみると、「きしみ音等非常事態の兆候が生じたら、周りの人が呼んで教えてくれる。」とのことであった。  工事開始前の朝会で、JVの統括安全衛生責任者によって本日の業務についての説明が行われていたが、その際、補助者は手話通訳をしておらず、A氏は説明内容の伝言を求めるそぶりも見せなかった。この様子を見る限り、作業開始前までにB社を介して業務内容を知らされていると考えられる(写真5)。 4.4 A氏に対する上司の配慮について  上司は、私に対して簡単な手話と身振りを交えて親切に応対してくださった。約20年前、A氏の入社がきっかけで手話を覚え始め、今は、簡単な手話と身振りを交えてA氏とコミュニケーションをとっている。そんな上司にA氏への配慮について伺った。  まずB社がA氏に対して配慮していることとして、建設現場にA氏を派遣する際には、常にB社から聴者をつけることをあげていた。その聴者は特定の人ではなく、B社の技術者全員がA氏の補助業務ができることになっている。A氏の話によれば、事務員を含めたB社社員全員は少なくともある程度の手話ができるとのことであった。このように、B社の社員全員がA氏とのコミュニケーションに対して柔軟な対応ができるため、聴覚障害者を配慮した安全衛生関係のルールの必要性が意識されていないようである。A氏本人も安全衛生関係のルールの必要性についてあまり実感がわかないと語っていた。  上司の話によれば、手話によるコミュニケーション環境の形成以外においてA氏に配慮していることは1つもなく、B社がA氏のために特別扱いしたり努力したりすることは一切もないようだ。 4.5 A氏に対するJV側の配慮について  「4.2 建設現場の様子」で取り上げたJVは、ゼネコンを中心にB社を含む複数の建築工事会社によって結成されている。そのため、A氏の存在による安全管理の問題はB社だけでなくJVを統括するゼネコンにとっても重要な事項となりえると、著者は考えた。この安全管理に対する意識について、JVの統括安全衛生責任者(ゼネコン勤務)に伺ってみた。  統括安全衛生責任者の話によれば、A氏と仕事をすることは今回が初めてではなく、今まで何度も仕事をしている。  初めてA氏と仕事をしたときは、心配のあまり、A氏の様子を何度も見に行ったが、今のA氏に対して信頼できるパートナーの1人であることを前向きに確信しているとのことである。  B社の上司の話によれば、A氏をJVに派遣するときは、必ず得意先(ゼネコン等)にA氏がろう者であることを伝えるようにしている。A氏が取扱責任者になってから今に至るまでの間、得意先から「聴覚障がい者の安全管理の不安」を理由に断られた例は1回だけしかない。このことから、B社やA氏の技術に対する信頼が大きいことが伺えた。  ただし、鉄道レール溶接工事の場合、鉄道会社から「聴覚障がい者の安全管理能力上の不安」により常時断られていることを書き加えておく。 写真1 工事関係の書類作成中のA氏(右端) 写真2 A氏(左)と補助者 写真3 圧接加工中のA氏 写真4 A氏が扱っているガスポンプ 写真5 朝会の様子 5. まとめ  聴覚障がい者が担うのは困難と一般的に思われている危険作業の責任者を、A氏が遂行出来ている背景として、注目するべき点を以下に整理する。 1)A氏本人の努力と人柄 ・安全衛生管理法に基づいた様々な技能講習を修了 しており、資格修得は仕事仲間の信頼を勝ち取る要素の1つとなっている。 ・過酷な野外作業に対する忍耐力と自己管理能力を 備えており、実績を積むことで周りに証明している。 2)上司のA氏への理解 ・A氏ができることとできないことを見極めながら、A氏のやる気を引き出している。 ・上司のA氏に対する理解が、B社従業員全員に、好影響を及ぼしている。著者の一人(田中)は、本学教員になる前、企業に勤務した時期があったが、その間、工事現場への視察の許可を1回も得られなかった。その企業は下請け企業であり、聴覚障がい者を事故に巻き込み、得意先からの信頼を失うことを恐れていたと考えられる。下請け企業が仕事と金を得るには、ゼネコンら得意先との信頼関係を保持することが求められる厳しい現実があることから、こうした危惧を抱くことはやむを得ない面もある。  このような体験を持つ著者から言わせれば、A氏の努力ももちろんそうであるが、下請け企業にも関わらず建設現場にろう者を派遣する方針を貫いたB社の勇気は大変に大きい。  技大の授業でこのようなろう者の事例の紹介を行い、「聴覚障がい者の安全管理」をテーマに議論する場を提供することは、本学の教育に合致するものであろう。 Survey about the present state of work adjustment of hearing-impaired persons (Part1)―A case study on the construction workforce (deaf)― Akira Tanaka1), Yasushi Ishihara2), Masayuki Inoue1), Yutaka Ohsugi2), Kazumichi Nagashima1) 1)Faculty of Industrial Technology at NTUT 2)Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired at NTUT Abstract: Very few deaf people work at the construction site, because there exists anxiety about safety-management ability of deaf people at the construction site. In this paper, we report about the deaf who exceptionally work at the construction site as a Gas pressure welding engineer. Also we discuss how he can adjust working at the construction site. Keywords: Hearing-impaired person, deaf, safety-management, construction site, Gas pressure welding technique of steel bars, Hazardous Materials Engineer