フォトグラフィーを応用した触図教材による細菌形態の識別 筑波技術大学 保健科学部 保健学科鍼灸学専攻 一幡 良利 谷津 忠志 要旨:全盲学生にとって微生物の存在を理解させることは非常に困難なことが多く、その教育は進んでいなかった。しかし、フォトグラフィーを応用した触図教材の普及によりコアグラーゼ陰性ブドウ球菌、ミクロコッカス、枯草菌、カビなど微生物の発育集落の相違が判別出来るようになった。更に、フォトグラフィーを応用した触図では、コアグラーゼ陰性ブドウ球菌の染色後の形態を識別するに至った。将来、医療従事者となる全盲学生にとって微生物学教育は感染予防を実践する上で、重要な意義を持つことがわかった。 キーワード:全盲学生,触図,コアグラーゼ陰性ブドウ球菌,染色,形態 1. はじめに  医療従事者は感染予防対策を完全に習得していなければ、院内感染が起こっても、対処の方法に難渋する。ましてや原因微生物の存在を知らなければ適切な滅菌法・消毒法もとれないことは周知の事実である。実際に医療の現場で起こっている院内感染をみるとコミュニケーション不足はもちろんであるが、院内感染対策の指針さえないところもある。院内感染対策は医療スタッフ全員のモチベーションを上げることが必要である。微生物学教育は医学科、看護学科、臨床検査学科では大学教育でカリキュラムに沿って講義、実習がなされ、微生物学を習得したうえで感染症学へと進んでいる。しかしながら、他のコメデイカル分野では微生物学や感染症学の講義さえ受けない学科もある。それ故に、院内感染対策としては病院スタッフ全員の再教育の一環として、感染予防のための講習を行ってきている病院が増えている。  本学保健学科鍼灸学専攻、理学療法学専攻での微生物学教育[1][2]はカリキュラムの中において、講義は微生物感染症学、衛生学・公衆衛生学、免疫学、実習は衛生学実習の中で微生物を系統立てて習得している。特に衛生学実習では、個々の学生の手掌、皮膚、咽頭の常在微生物叢を検索させている。実際に培地を使用して発育した微生物集落を観察している。弱視学生は培地上に発育した微生物の集落を観察するには、拡大レンズ、拡大モニターを用いることで、発育集落を肉眼的に観察することが出来ている。全盲学生には触図教材を作成し、発育集落の違いを[3]理解させている。他の鍼灸学関連教育機関においては系統立てて微生物学教育がなされているところは少ない現状である。  将来医療スタッフや鍼灸治療院として働く現場では全盲であっても、感染予防のための微生物学教育は重要である。今回、フォトグラフィーを応用した触図教材により、培地に発育した集落の染色後の細菌標本を顕微鏡で観察し、形態を識別させる目的で本研究を行ったので報告する。 2. 材料と方法 2.1 培地  手掌の常在微生物の検索は、手型用培地(new—パームチェック一般細菌寒天培地.日研生物医学研究所(株))を用いた。 2.2 培養法  手型用培地に手掌表面を10秒間軽く押圧し、その後、培地の空間部分には爪先も立てた。手型用培地の培養は37℃の孵卵器内で48時間培養し、発育した集落を観察した。発育集落はブドウ球菌の選択培地であるマンニット食塩培地での発育能とStaphaurex(Remal Inc. USA)でコアグラーゼの産生能を調べ鑑別した。 2.3 染色法  手形用培地に発育した白色集落をスライドガラス上に塗抹、乾燥、固定し、常法によりメチレンブルー液による単染色およびグラム染色(B&Mワコー. 和光純薬(株))をした。 2.4 フォトグラフィーによる顕微鏡観察  染色標本は生物学顕微鏡(×1000、オリンパス(株))に顕微鏡デジタルカメラ(DP-72-SET-B、オリンパス(株))を装置し、顕微鏡一体型として標本を観察した(図1)。顕微鏡下で観察した標本のうち典型的ブドウ状の形態を示した、グラム陽性球菌は写真撮影し、顕微鏡デジタルカメラに取り込み保存した。 2.5 画像処理  撮影データの画像処理は、パソコンに取り込んだ後、花子フォトレタッチ(Just System)を用いた。得られた画像をグレー色に変換し、印刷機で最適な濃淡画像を調整した。 2.6 触図作成  調整画像は、プリントアウト後に立体用カプセルペーパー(松本興産(株))に複写した。この複写したカプセルペーパーに動作温度を加えると、細菌標本の形態は膨張し、触覚で感知できるように隆起した像が得られた。 図1 顕微鏡デジタルカメラセット 図2 手型用培地に発育したコアグラーゼ陰性ブドウ球菌 図3 コアグラーゼ陰性ブドウ球菌のグラム染色像 図4 コアグラーゼ陰性ブドウ球菌の拡大像 3.結果 3.1 手掌のコアグラーゼ陰性ブドウ球菌  正円形、辺縁スムースで光沢のある白色集落を呈した細菌はマンニット食塩培地に発育したが、マンニット非分解で、コアグラーゼは非産生であることを確認した(図2)。 3.2 グラム染色標本  コアグラーゼ陰性菌はグラム染色し、グラム陽性のブドウ状形態をしたことから、コアグラーゼ陰性ブドウ球菌と同定した(図3、図4)。 3.3 触図でのグラム染色像  濃淡を調整した画像を用いて触図を作成し、全盲学生にグラム染色後の標本を観察させた(図5)。このうち特徴的なブドウ状形態を示した個所を選択し、拡大触図も作成した(図6)。 3.4 全盲学生の識別  触図作成した図形データにより、ブドウ状の発育標本は触察で判別することができた。更に、拡大触図で容易にブドウ球菌であることを確認した。標本の視野によっては拡大図にすることで球状の形の識別が触察には適しているようであった。 図5 コアグラーゼ陰性ブドウ球菌のグラム染色像の触図 図6 コアグラーゼ陰性ブドウ球菌のグラム染色像の拡大触図 4.考察  近年鍼灸治療院を開業していている222名の感染予防対策のアンケート調査があり、現役開業鍼灸師の中でも的確な消毒法・滅菌法を理解していない人がいることがわかった。特に手洗いは2.7%手指消毒では7.2%の開業鍼灸師がしていない現状であった[4]。回答者の平均年齢が52歳と少し高いことも影響しているかもしれない。この年齢層では教育を受けた当時、感染予防に対する教育が徹底していないために、これらの結果が反映していると考えたい。一人でも不適切な人がいれば間違いなく起こるのが感染症の世界である。現在の鍼灸師養成校でも、カリキュラムに感染予防のための微生物学教育を積極的に取り入れている教育機関は少ない。これは鍼灸師国家試験指定科目に設定されていないからである。従って微生物学や感染症学の専門家による直接の指導が行われているところも少ないものと思われる。これらの事実から国家資格を取得しても、感染に対する予備知識や理解の少ない鍼灸師が出てくる可能性も否定できない。  しかしながら近年の感染症は医療の現場での、多剤耐性菌による院内感染だけにとどまらずに、市中(市井)から医療現場へ耐性菌の持ち込まれる例も増加している。特に市中型メチシリン耐性黄色ブドウ球菌感染は皮膚感染症例が多く、保菌者の増大傾向にある。そのためにも鍼灸分野でも過去に履修した衛生学の知識だけでは、現在の感染対策にはほど遠い現状である。今後、教育機関、学会、鍼灸師会等での感染対策のタイムリーな講習や教育セミナーを開催しないと改善はされないであろう。加えて感染対策は個々の医療従事者が①決しておごらず、②知らないことは真摯に学び、③知り得た情報は隠さず迅速に伝えることの3原則を全員が持つことが重要である。  今後、鍼灸系大学では微生物学専門教育を指導出来る教員の育成が急務である。各大学や専門学校では積極的に取り入れるべきであろう。微生物学教育は特殊性もあることから指導者育成まで時間がかかるために、早急にせねばならない。本学では、開設以来微生物学教育の講義と実習を導入し、微生物を理解した上で感染予防対策を実践できるように学習指導している。本学卒業生が視覚特別支援学校の教員として、増えてきていることは明るい材料である。本学で使用している教科書[1][2]は拡大版、点字版を作成し、視覚障害学生に配慮している。これらの教科書は全国の視覚特別支援学校などでも使用されている。全盲の学生でも微生物学教育を系統立てて理解させるために、培地に発育した微生物の集落を、フォトグラフィーを用いた立体コピーにより触図を作成し、微生物の発育集落の相違を鑑別[3]できるようになった。  今回、手掌および皮膚の常在微生物として最も多く分離されるコアグラーゼ陰性ブドウ球菌の染色形態を認識出来るようになったことは、本菌種によっておこる日和見感染症[5]を知る上で重要である。また、患者への感染や鍼灸施術者自身の感染を防ぐことにもつながる感染防止のガイドライン[6]の遵守。手指消毒[7]や施術部位の消毒[8]に関する知識を身につけるためにも意義がある。全盲学生においても、染色技法により原因微生物のグラム染色性からの顕微鏡的観察による形態を知ることは、数多くの微生物による感染を知る上での指標となる。将来医療従事者となる上で、系統的に微生物学を習得することは資質の向上につながるものと考えられる。  本研究は平成22年度科学研究費補助金基盤研究(C)「全盲学生にフォトグラフィーを応用した触図教材による微生物学教育に関する研究」研究課題番号22500842 研究代表者 一幡 良利により実施した。 参考文献 [1] 高橋 昌巳,一幡 良利:疾病の成り立ちと予防Ⅰ.第4版,桜雲会,東京, 2008. (拡大版,点字版) [2] 高橋 昌巳,一幡 良利:疾病の成り立ちと予防のための実習書.改訂2版(衛生学・公衆衛生・微生物・免疫),桜雲会,東京,2010. (拡大版,点字版) [3] 池宗 佐知子,谷津 忠志,一幡 良利: 全盲学生に触図教材を用いた微生物学教育に関する研究.筑波技術大学テクノレポート.17: 30-32, 2010. [4] 新原 寿志,角谷 英治 他: 鍼灸臨床における感染防止対策の現状.全日本鍼灸学会誌.60(4):716-727, 2010. [5] 一幡 良利:ブドウ球菌莢膜の謎にせまる—感染とその防御機構について—.日本細菌学雑誌.51(2): 601-611, 1996. [6] 尾崎 昭弘,坂本 歩: 鍼灸医療安全ガイドライン.医歯薬出版,東京,2007. [7] 一幡 良利: 感染症研究の最前線—上手に手洗いが出来ていますか—.点字ジャーナル.39(1): 17-19, 2008. [8] 一幡 良利,浅賀 久美 他: 消毒用エタノールの常在細菌に対する形態変化と生菌数の変動.筑波技術短期大学テクノレポート.6: 269-272, 1999. The Identification of Bacterial Morphology with the Tactile Graphics ICHIMAN Yoshitoshi, TANITSU Tadashi Course of Acupuncture and Moxibustion, Department of Health, Faculty of Health Sciences, Tsukuba University of Technology Abstract: Understanding microbiology is often very challenging for visually-impaired student, and there have not been significant improvement in the methods to teach this subject to them. However, it became possible for them to use the tactile graphics to identify coagulase-negative staphylococci, micrococci, Bacillus subtilis and molds. Furthermore, the morphology of coagulase-negative staphylococci can be identified by using the tactile graphics. Microbiology education has an important implication for visually-impaired students who wish to join the medical professionals. Keywords: Visually-impaired student, Microbiology education, Tactile graphics, Gram staining, Bacterial morphology