「自分の思いの否定を裏付ける事実・推測」を考えることの困難性~聴覚障害者のうつ病治療用「こころアプリ」使用の可能性を探るために~ 脇中 起余子 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部 要旨:自分の思い込みを自分で外す力のある人はメンタル不全に陥ることが少ないと思われるが,「自分の思いの否定」の内容を考え,それを裏付ける「事実」を探したり「推測」を考えたりすることの困難性を,筑波技術大学における「日本語社会とコミュニケーション」の受講生で同意書が得られた聴覚障害学生の回答を通してまとめた。他人との面接や文字でのやりとりの中で自分の「認知の偏り」を修正するためには,親近性にかかわらず理由になるかどうかを理解する力や前提条件を考える力,仮定を理解する力が必要と思われた。 キーワード:聴覚障害,思い込み,自分の思いの否定,認知療法 1.はじめに  筑波技術大学産業技術学部の2年次選択科目「日本語社会とコミュニケーション」では,学習管理システム「ラーニングボックス(以下,LBと称する)」を用いて事前課題に取り組ませ,全員の回答結果をまとめて次時の授業で紹介し,いろいろな考え方があることを知らせてきた。  本稿では,同意書が得られた受講生について,「こころアプリ」を参考にして取り組んだ結果をまとめる。 2.「こころアプリ」について  「こころアプリ」とは,うつ病の治療法の一つである認知行動療法に基づいたスマートフォンアプリである。うつ病は,日本人の3~10%が罹患する可能性のある病気であるが,通常の認知療法は,何回ものの対面による治療が必要である。そこで,IT技術を用いた「こころアプリ」註)を通して,日頃の考え方を変えようとする試みが始められた。  筆者は,「こころアプリ」に関する話とゲーム形式で取り組むアイデアの話を開発者である古川教授とその身内の人から聞いた時,音声による会話が難しい聴覚障害者にとって良い治療法になると思った一方で, 「自分は嫌われている」「自分はダメな人間だ」などの「自分の思い」を打ち消すために,いろいろな「事実」(実際にあった出来事)を探したり「推測」を考えたりすることは,抽象的思考に課題がある聴覚障害児・者にとって難しい可能性があると考えた。  そこで,筑波技術大学で「日本語社会とコミュニケーション」の授業が始まった最初の年度に,「自分の思いの否定を裏付ける事実」を「反論証拠」,「自分の思いの否定を裏付ける推測」を「反論推測」と称して,その例を考えさせる取り組みを行ったが,例を適切に書くことが難しい聴覚障害学生が多いと感じる結果となった。  その次の年度は,「自分の思い」を書き出し,「自分の思いの否定」の文章を考えさせた後に,「自分の思いの否定を裏付ける真実」(「否定事実・否定証拠」と称することもあった)と「自分の思いの否定を裏付ける推測」(「否定推測」と称することもあった)を考えさせたが,それでもまだ難しい例が多いと感じてきた。 3.本学学生の選択式問題に対する回答結果  その後,LBを導入し,「日本語社会とコミュニケーション」の授業においても,LBの問題を通してその授業で話した内容を理解できたかを確認したり,次時の授業で題材とする学生の回答を前もって収集したりする方法を取ることによって,「教員によるていねいな解説」から「学生自身による繰り返し学習」への転換を図った。  それまでの授業で,「自分の思いを裏付ける事実・推測」と「自分の思いの否定を裏付ける事実・推測」を混同する例が多かったため,練習問題として,いろいろな文を用意し,「①自分の思いを裏付ける事実」「②自分の思いを裏付ける推測」「③自分の思いの否定を裏付ける事実」「④自分の思いの否定を裏付ける推測」のどれに該当するかを選択させる取り組みを行った。それを以下に紹介する。  第12回講義で,先輩に話しかけたが反応がなく,「無視された。僕は嫌われている」と思った例を紹介し,「自分の思い」を「僕は先輩から嫌われている(から無視された)」とする場合,「自分の思いの否定」は「僕は先輩から嫌われていない(よって,無視されたということもない)」となることを引き出した。そして,「③自分の思いの否定を裏付ける真実」の例として,「昨日,先輩と目が合ったら笑いかけてくれた」と「先週の雑談で,先輩と話が盛り上がった」を紹介し,「④自分の思いの否定を裏付ける推測」の例として,「先輩は終電ぎりぎりで急いでいたのだろう」と「周囲がうるさかったから,私の声が聞こえなかっただけだろう」を紹介した。さらに,以下の1)~10)において,2)と6)が①の例で,4)と10)が②の例で,1)と5)が③の例で,3)と7),8)が④の例で,9)は無関係の文であることを紹介し,これと全く同じ問題状況や選択肢の問題をLBで出題した。 1)A君は,今朝目があったら,にこっと笑いかけてきた。 2)A君は,おみやげのアメを僕に配らず,周囲の人にだけ配っていた。 3)A君は,帰りのバスの時刻が迫っていることが気になっていただけだろう。 4)A君は,昨日僕に注意されたことを今も怒っているのだろう。 5)A君は,先週,「誕生会に来てな」と僕に言った。 6)A君は,廊下ですれ違った時,僕と視線が合わなかった。 7)A君は,近眼だから,3メートルも離れている人の顔がよく見えない可能性がある。 8)A君は,僕が声をかけた時,周囲が騒がしかったから,気づかなかったかもしれない。 9)A君は,バスケットが得意である。 10)僕がA君にマンガを貸すのを断ったから,A君はおもしろくないのだろう。  24名中17名は1回取り組み,残りの7名は2回取り組んでいた(他の科目で「出た点数の中で最も高い点数を取り上げて評価する」と伝えていたためであろう)。そこで,初回の結果と最終回の結果(17名の1回目と7名の2回目を合わせた結果)を,図1に示した。  最も正答率が低かった問題は,初回と最終回のいずれも問1であり,それぞれ54%,75%であった。最も正答率が高かった問題は,初回は問8(92%)であり,最終回は問8と問3(いずれも96%)であった。  全体的には,「③自分の思いの否定を裏付ける事実」が答えとなる選択肢の正答率が低く表れた。 図1 10問の正答率 4.本学学生の記述式問題に対する回答結果(1)  第12回授業の後のLBで,「課長がパワーポイントを使って説明された時,聴覚障害のない同僚は冗談を聞いて笑っていたが,聴覚障害のある自分にはわからなかった。自分は,『課長は聴覚障害に対する理解が足りないが,それを言いづらい』と感じている」という状況を説明し,「自分の思い」は「課長は聴覚障害者に理解がない」となり,「自分の思いの否定」は「課長は聴覚障害者に理解がある(理解がないわけではない)」となることを示した後,「③自分の思いの否定を裏付ける真実」と「④自分の思いの否定を裏付ける推測」の例をいくつか創作して書けという記述式の問題を出した。この問題に対する回答者(同意書あり)は,24名であった。  「③自分の思いの否定を裏付ける真実」において, 「( )だから,課長は聴覚障害に理解がある」の( )に入れられる文の例として,「以前1対1で話した時,筆談を多くしてくれた」などを期待した。実際には,「前に課長は頑張れと言ってくれた」のような回答があったが,「課長は自分に冷たくない」意味にとらえて,広い意味での「自分の思いの否定を裏付ける事実」に含めて解釈したところ,そのような例を1つ以上書けた者は14名(58%)であった。その例として,「(課長は)話す時,マスクを外してくれた」「目を合わせてから話してくれる」「重要なことはメモで教えてくれる」「課長が手話の本を読んでいたのを見たことがある」などが挙げられる。また,3名(13%)は,「聴覚障害について多くを知らないのだろう」「(課長は)忙しく,配慮の時間がないだけ」のように,「課長は理解があるほうだが,細部はまだ理解できていないのだろう」と言いたいのではないかと思われる推測文を記していた。架空の状況での「事実」の創作は難しいと思われたため, 「事実」のところで「だろう」をはずすと適切な例になると思われる回答を含めると,17名(71%)が「自分の思いの否定を裏付ける事実・推測」を書けたことになる。残りの7名(29%)は,「課長は,情報保障の存在を理解していなかった」「勇気を出して伝えてみよう」のような別の内容の文を書いていた。  「④自分の思いの否定を裏付ける推測」において, 「( )だから,課長は聴覚障害者に理解があるだろう・理解がない人とは言えない」の( )に入れられる文の例として,「課長は時間内に終わらせようと焦るあまり,冗談の中の語を板書する余裕がなかったのだろう」などを期待したところ,そのような例を1つ以上書いた者は7名(29%)であった。その例は,「書いても伝わらないネタだったから板書しなかったのだろう」「課長は配慮しようとしているけど,実際は難しいだろう」「聴覚障害者はこういう話について行くのが難しいことを知らなかったのだろう」であった。残りの17名(71%)は,「A 課長は自分に申し訳なさそうな顔をしてきた」「課長が本屋で手話の本の前に立っていた」「課長は筆談で充分だと思っている」のような事実文や,「課長は聴覚障害者への対応の仕方を知らないのだろう」のように推測文ではあるが「自分の思いの否定を裏付ける」ものになっていないと思われる文,「正直に伝えてみよう」のような別の内容の文を記していた。 5.本学学生の記述式問題に対する回答結果(2)  第13回授業では,第12 回授業の内容を復習し,改めて「事実」は文末が「~していた」のような形で,「推測」は「~だろう」「~の可能生がある」のような形で記すことを述べた後,LBで,会社から「会場整理係」の主担当を任せられたものの,客が予想以上に多く,休憩がなかなか取れないため,上司に担当者の増員をメールでお願いしたが,それを拒否する返事が来たという状況を説明し,「自分の思い」は「上司は自分の話を聞こうとしない」となり,「自分の思いの否定」は「上司は(必要な時は)きちんと聞いてくれる」となることを示したうえで,「③自分の思いの否定を裏付ける真実」と「④自分の思いの否定を裏付ける推測」の例を創作して記述する問題を出した。この問題に対する回答者(同意書あり)は,18名であった。  「③自分の思いの否定を裏付ける真実」において, 「( )だから,上司は自分の話を聞いてくれる」の( )に入れられる例として,「前,別のことを課長にお願いしたら聞き入れてくれた」などを期待したところ,そのような例を1つ以上書けていた者は12名(67%)であった。その例として, 「別の会場の時は,増員の要求を聞いてくれた」「他の人から,上司が人員を増やせないかと他の部署に尋ねて回っていると聞いた」「以前繁盛期だったが,説明すると休みをもらえた」「以前体調不良の時,その日の仕事をすべて肩代わりしてもらった」などが挙げられる。残りの6名(33%)は,「上司はあなたを必要としているから」「その日に空いている人がいないから,増員は厳しい」「労働基準法違反だ」のような文を記していた。  「④自分の思いの否定を裏付ける推測」において,「( )だから,上司は自分の話を聞いてくれる人だろう」の( )に入れられる例として,「予算が厳しく,上司より上の立場にある人が増員を認めていないのかもしれない」などを期待したところ,そのような例を1つ以上書けていた者は15名(83%)であった。その例として,「上司も増員しようとしているが,人が見つからないのかもしれない」「上司も忙しく,時間が取れなかっただけだろう」「自分が現在の状況を上司に伝えきれていないのかもしれない」などが挙げられる。残りの3名(17%)は,「上司はビジネス能力がない」「上司は会場整理の経験がない」などと記していた。  正誤の判断に迷う回答例もあったが,第12回の記述式問題と比べると,適切な例が書けた者の割合は上昇していた。 6.考察  前任校の聴覚特別支援学校(高等部)で,生徒の思い込みを外すためのことばかけの難しさを感じてきたが,今回の結果はそれと関連すると思われる。  文字によるやりとりを通して行われる認知療法やカウンセリングに際して,ネックとなる要因として考えられることを以下に列挙する。 6.1 親近性にかかわらず事柄を理解できる力  脇中(2023)は,前任校で「他人が困る理由」は「自分が困る理由」と比べると理解が難しい例があったことを述べ,この両者の違いが,ある記述文が論理的にOKかNGかの判断の正答率に影響した可能性があることを報告した。すなわち,いろいろな理由を聞き,その理由の親近性に関わらず理由となることを理解できる力が,いろいろな立場の人のことを考えた行動につながると考えられる。 6.2 前提条件を考慮に入れる力の有無  脇中(2023)は,前提条件を考慮に入れた文を作成した学生とそうでない学生に分け,期末試験の点数や平常点の平均を算出したところ,前者の学生は後者の学生より良い成績を示したことを報告した。このことから,前提条件を考慮に入れる力のある学生は,いろいろな場面で適切に情報を取捨選択し,効率よく新たな知識を取り入れたり高い次元の思考に進んだりすることができると考えられよう。逆に言うと,前提条件の存在を深く意識できない人は,高い次元の思考やそれまでと異なる見方に進むことが難しいことになると思われる。 6.3 仮定の理解  脇中(2009)は,「もしネズミが犬より大きく,犬が虎より大きい時,大きい順に書け」という問題の正答率が低く,「ネズミは犬より小さいから,この問題はおかしい」と言って回答を拒否した例があったことを紹介している。また,刑事事件で「もしあなたの母が生きていたら,あなたはどうしたか?」のような質問に対して「母は死んだ」と言ってそれ以上回答できなかった聴覚障害者(聾教育を受けた経験が少なかったという)がいたが,本人の好きな野球を話題にし,「もしタイガースが優勝したら」と問いかけると適切に答えられていたという話を聞いたことがある。すなわち,現実に起こりうる範囲では「もし~なら」に対応できるが,実際に起きることがほとんどない状況では「もし~なら」に対応できない場合があるため,認知療法やカウンセリングにおいて,「もし~なら」の形の文が含まれるやりとりに限界が生じる可能性が考えられる。 6.4 日本語の力の有無  日本語は文末があいまいな表現が多いが,「それでいいですね。」という文について,肯定の意味の場合と疑問の意味の場合がある。対面で話す場合は,表情という手がかりがあるが,文字でのやりとりの場合は,疑問文であれば「?」という記号をつけるのが良いと思われる。  また,例えば「これをAにするには」は,「これをAにしたい」という意味がこめられているが,そのことを理解しない聴覚障害児・者の例がみられる。  「Aと聞いたのですが…。」では,「私はAと聞いたが,それに反対したい(異議の表明)」「Aと聞いたが,実際は違う(相違の申告)」「Aと聞いたが,これで合っているか(単なる確認)」などいろいろな文脈が考えられる。人間関係など微妙な問題に関わる場合は,心の機微にふれるやりとりが必要であるが,日本語の力に課題がある聴覚障害者は,文字でのやりとりという方法に限界がある可能性が考えられよう。 註)「こころアプリ」は,京都大学の古川 壽亮教授と国立精神・神経医療研究センター(NCNP)の堀越 勝センター長(当時)が開発したうつ病治療用スマートフォンアプリである。現在,田辺三菱製薬は,同アプリの医療機器製造販売承認の取得や実用化を目指しているという。 謝辞  同意書を書いてくださった学生の方々,お世話になった関係者の方々に厚くお礼を申し上げます。 参照文献 [1] 脇中 起余子.聴覚障害教育これまでとこれから.北大路書房(京都),2009. [2] 脇中 起余子 聴覚障害学生の日本語に関する困難点の分析(8)~反論を想定した文章づくりを通して~.筑波技術大学学術・社会貢献推進委員会,筑波技術大学テクノレポート.2023; 30(1): p.4-8. Difficulty in Considering “Facts and Assumptions that Support the Negation of One’s Own Thoughts”~Exploring the Use of the Kokoro App for the Hearing Impaired~ WAKINAKA Kiyoko Division for General Education for the Hearing and Visually Impaired, Research and Support Center for Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology Abstract: People who can remove their own assumptions are less likely to suffer from mental disorders. Through my analysis of the responses of hearing-impaired students who took the “Japanese Society and Communication” course at Tsukuba University of Technology, I summarized that they struggle to think about the contents of “denial of one’s own thoughts” and think about “facts” and “guesses” that support them. To correct their “cognitive bias” in interviews and written interactions with others, they must be able to understand whether there is a reason for bias, regardless of familiarity, to consider assumptions, and to understand assumptions. Keywords: hearing impairment, assumption, denial of one’s own thoughts, cognitive therapy