舌表面の微細構造と唾液層の潤滑による嚥下時の摩擦低減効果 下笠 賢二 筑波技術大学 産業技術学部 産業情報学科 キーワード:高分子粘液,潤滑効果,伸張粘度,レオロジー特性,人工粘膜 1.緒言  現在,高齢者を中心に嚥下機能が低下した嚥下障害者,及び嚥下困難者が増加している。誤嚥は窒息や誤嚥性肺炎の原因となることから深刻な問題と認識されているが,嚥下困難は所要の嚥下圧不足や他の問題で嚥下ができない状態である。それは嚥下に必要な筋力や神経系の低下に加え,唾液腺の機能低下による唾液分泌の減少も一因であると考えられている。その対策として固形食品,または高粘度の液状食品を飲み込みやすくするために人工唾液などが用いられている。口腔内において食塊を食道へ移送するために,唾液は重要な役割を果たしている。唾液は口腔から食道への食塊移送時の液体潤滑による摩擦低減効果のような物理的特性だけでなく,咀嚼時に唾液のタンパク質成分と混ざり合うことによる消化を促進する化学的特性や,かみ砕いた食品を嚥下しやすいサイズの食塊としてまとめる機能を持つ。さらに,口腔内の保湿と抗菌作用などで免疫機能を向上させる効果があることから,唾液は正常な口腔内環境の維持に極めて重要な役割を果たしている。唾液減退により口腔や咽頭での潤滑がうまくいかなくなると食塊残渣が生じ,それらが誤嚥の原因になることも多い。さらに,唾液の代替として利用できる粘液がどのようなレオロジー特性を持つべきかについては明らかとなっていない。生体粘膜の物性や構造については生理学的に研究されてきたが,粘膜が流体潤滑やみかけのスリップに及ぼす影響を検討した研究報告はあまりない。Prinzらによる生体粘膜を模擬した場合の摩擦係数を調べた報告[1]やRancらの表面微細構造の違いによる摩擦係数の変化を調べた報告[2]があるが,ずり速度との関係が明らかにされていない。さらに,唾液の粘性特性については,Stokesらの報告[3]があり,人工粘膜の摩擦特性に関しては水沼らのゼリー状食塊に対する報告[4]があるが,液状食品の報告はほとんどない。そこで,唾液のレオロジー特性を模擬した粘液と唾液層を形成した人工粘膜を作製し,潤滑による摩擦低減効果を調べることを本研究の目的とした。 2.方法 2.1 唾液層の粘性特性  口腔粘膜には図1のような流動性を持った100μm程度の厚さの唾液層が存在する。この唾液層は高粘度の液状食塊や固形状食塊を円滑に嚥下する上で,重要な役割を果たしている。そこで,唾液層を模擬した粘液として非ニュートン流体である水溶性高分子PEO-27(0.05%~0.1%,平均分子量7,000,000)を使用し,粘性特性の測定には,円錐平板回転型粘度計(HAAKE Viscotester iQ Air, Thermo scientific)を使用した。口腔および咽喉粘膜内でのずり速度を想定し,測定で得られた流動曲線から摩擦トルク測定で使用するPEO-27の濃度を決定した。また,ずり粘度では唾液が持つレオロジー特性の一つである曵糸性を評価することができないため,伸張粘度測定を行った。模擬粘膜は,生体粘膜を模擬した不溶性高分子ポリビニールアルコール(PVA-124) に,水溶性鎖状高分子ポリエチレンオキサイド(PEO-15 0.05wt%) を混合した後に,スピンドル底面にコーティングし乾燥させることで,人工粘膜を作製した。PVAは乾燥後に固化することでPEOを壁面に固定化し,安定した模擬吸着層が形成される。試液は,グリセリン水溶液(40~100wt%)を使用した。図2に2層モデルにおけるみかけのスリップの定義を示す。円板Rの外周部において,回転速度ωで回転している状態としたとき,唾液層δ内での速度勾配をみかけのスリップと仮定した。 2.2 摩擦トルクの測定  摩擦トルク測定で使用するスピンドルの製作には高精度3Dプリンタ(Agilista,キーエンス)を用いた。本実験で使用した装置は図3に示すように,円錐平板回転型粘度計のスピンドル平行円板部分に人工粘膜をコーティングしたスピンドルを取り付け,スピンドルとプレートの摩擦によるトルクの変化を測定した。本来,円錐平板型回転粘度計のスピンドルは測定部の全域でずり速度が一様とするために0.8degの角度を持つコーン形状であるが,円板にかかるトルクは平行円板外周部からの寄与が支配的であることから,近似的に外周部のずり速度を代表ずり速度とみなし,図2に示すような唾液層内でみかけのスリップが生じる速度勾配を想定した。また,PVAコーティング面は完全な固体壁とはならないため液体の粘度とギャップによって皮膜厚さは変化する。PEO-27による被膜厚さの推定を行うために,スピンドルとプレートの間隔(ギャップ)を0.2~0.8mmに変化させることで,摩擦トルクの変化を調べた。唾液層(PEO-27 0.05%)粘度と液体(グリセリン40~100%)粘度の比率をξとし,コーティングがある場合とない場合のトルク比をTcoat/Tnoncoatと定義した。 図1 Lubrication by saliva layer (apparent slip) 図2 Two-layer model (apparent slip) 3.結果と考察 3.1 粘性特性  PEO-27(0.05~0.2wt%)のずり粘度の粘性特性と唾液の粘性特性(Zhuらの報告[5])を比較すると,低ずり速度付近(1s-1)での粘度はPEO-27の濃度0.1wt%程度と同じで74mPa∙s,比較的高ずり速度付近(50s-1)では濃度0.05wt%程度では5mPa∙sで一致した。伸張粘度ηEは,(1)式により定義した。XについてはPapageorgiouが最初に補正として導入を報告[6]したX=0.7127を使用し,σは表面張力,液柱直径の時間的変化dDmid/dtは一定とした。 【数式】  伸張粘度ηEについては,PEO-27の0.1wt%よりは高く,0.2wt%より低い粘性特性を示し,ずり粘度と比較すると高い伸張粘度となった。唾液のずり粘度に対する伸張粘度の比率はPEO-27よりも高いことから,ヒトの唾液にはずり粘度よりも伸張粘度の増加に寄与する成分が含まれていると考えられる。よって,ずり粘度と伸張粘度を総合的に勘案した上で粘性特性を評価する必要がある。本実験では,唾液層の粘度はPEO-27の0.05wt%とした。 3.2 摩擦低減効果  ずり粘度と伸張粘度特性の測定結果からPEO-27の場合,ずり速度50s-1において濃度0.05%で,唾液と同程度の粘度となることが明らかとなった。そこで,PVAコーティング面にPEO-27の唾液層を形成し,コーティング厚さが変化する状態で摩擦トルクを測定した結果を図4に示す。  摩擦トルクは,回転速度1~100min-1の範囲において,グリセリン100wt%(高粘度)ではコーティングなし(G100%_NC_1)に対し,PVA-124+PEO-15のコーティング(G100%_PVA-124_1)による人工粘膜を施すことで,回転速度1~100min-1の平均で77%程度の顕著な摩擦トルク低減効果が確認できた。これは図1に示すような人工粘膜の唾液層内で起こるみかけのスリップの効果と考えられる。一方で,グリセリン40%水溶液(低粘度)ではほとんど摩擦低減はみられなかった。グリセリン水溶液は,20℃において,濃度100%で1410mPa∙s,濃度40%で4.5mPa∙sの粘度のニュートン流体である。人工粘膜の唾液層として使用したPEO-27は非ニュートン粘性流体だが,ずり速度50s-1において4mPa∙sの粘度となることから,本研究で使用したグリセリン40wt%と同等の粘度となる。その結果,人工粘膜内でみかけのスリップが起こっても,人工粘膜の粘度は測定試料と同等の粘度であることから,低粘度の場合,人工粘膜はトルク低減効果には寄与しないと考えられる。このギャップ間には唾液層とグリセリン水溶液層の粘度の異なる2層の液相があり,トルク低減に寄与しているのは唾液層である。そこで,ギャップ間の流れを2層流れとしてモデル化し,スピンドルとプレートのギャップ比ξに対するトルク比Tcoat/Tnoncoatの変化を図5に示す。hcは粘膜厚さ(PVAコーティング+唾液層),hはスピンドルとプレートのギャップである。ξは人工粘膜PEO-27の粘度と,測定試料の粘度比であり,グリセリン40%の場合ほとんど粘度差がないためξ=0.9,グリセリン100%の場合,顕著な粘度差となるためξ=0.0032となる。ξ=0.0032のときはTcoat/Tnoncoatが75%低減するのに対し,ξ=0.9のときはわずか4%の低減となった。この結果は,測定試料が低粘度のときはコーティングによる摩擦トルク低減効果は低く,高粘度になるとその効果が高くなることを示唆しており,図4に示した結果と一致している。よって,唾液層内におけるみかけのスリップが摩擦トルク低減に寄与していると考えられる。2層流れをモデル化することにより,試料がニュートン流体である場合において唾液層内でのみかけのスリップを見積もることが可能となった。 図3 Schematic diagram of the positional relationship between the spindle and the Plate 図4 Effect of reducing friction torque by artificial mucosa (Friction torque reduction) 4.結言  生体粘膜の唾液層を模擬した人工粘膜に対して高粘度のニュートン流体の摩擦トルク低減効果は明らかとなった。しかしながら,実際に使用されている液状食品の多くはずり速度によってみかけの粘度が変化する非ニュートン流体である。その非ニュートン粘性特性が唾液層内での流れにどのように影響するかについてはまだ確認できていないためさらなる検討が必要である。 図5 Torque ratio 参照文献 [1] Prinz, J.F., de Wijk, R.A., Huntjens, L., “Load dependency of the coefficient of friction of oral mucosa.”, Food Hydrocolloids, vol.21, No.3, (2007),pp. 402-408. [2] Ranc, H., Servais, C., Chauvy, P. F., Debaud, S.,Mischler, S, “Effect of surface structure on frictional behaviour of a tongue/palate tribological system.” Tribology International, Vol.39, No.12, (2006) ,pp.1518-1526. [3] Jason R. Stokes and Georgina A. Davies, “Viscoelasticity of human whole saliva collected after acid and mechanical stimulation”,Biorheology, vol.44, (2007), pp.141-160. [4] Mizunuma H, Sonomura M, Shimokasa K , Ogoshi H , Nakamura S and Tayama N. Numerical Modeling and Simulation on The Swalloing of Jelly. Journal of Texture Studies 40 (2009), pp.406-26. [5] Zhu J, Mizunuma H. Shear and Extensional Flow Rheology of Mucilages Derived from Natural Foods. J Soc.Rheol.Japan, 45,(2017), PP.91–99. [6] Papageorgiou D T, On the break of viscous liquid threads,Phys.Fluid, 7(7), (1995),PP. 1529-1544.