障害者差別解消法に基づく合理的配慮研修 令和4年度合理的配慮推進委員会主催 FD・SD研修会 2023年1月11日開催 障害学生の受入にともなう基本姿勢と合理的配慮順天堂大学保健看護学部 精神看護領域 北川 明 I.はじめに ―合理的配慮推進委員会 白澤委員長  この研修は、本学の教職員を対象として、障害を理由とする差別の解消に関する基本的な知識を習得することを目的としています。本日は、順天堂大学保健看護学部 北川 明(きたがわあきら)教授を講師にお迎えし、障害学生の受入にともなう基本姿勢についてあらためて確認して、合理的配慮の考え方について共通理解を形成したいと思います。  北川先生は、大阪大学医学部保健学科看護学専攻を卒業されたのち、臨床経験、博士課程の経験を経て、2008 年に福岡県立大学看護学部の講師に就任。その後、防衛医科大学校医学教育部看護学科精神看護学講座准教授、2021 年より順天堂大学保健看護学部教授に就任されました。 II.ご講演 ―順天堂大学保健看護学部 北川 明 氏 1.自己紹介  看護師経験5年の後、看護教員となり、精神看護領域の方で研究しております。最近は発達障害傾向のある看護学生、看護師支援ということで、身体障害とか合理的配慮とかの専門ではありません。 2.本日の内容  障害者の権利に関する条約、障害権利条約の総括所見が昨年9月くらいに出ました。これについて見てみたいと思います。基礎からということで、障害の捉え方、ダイバーシティ&インクルージョンの概念について少しお話して、今日の大学教育とディプロマ・ポリシー、能力の育成と合理的配慮の考え方、障害学生受け入れのための基本理念、合理的配慮や障害者の受けいれをどうしていこうかということについてお話します。 3.障害者権利条約 総括所見  障害者権利条約対日審査の総括所見が国連障害者権利委員会のホームページにて 2022年9月9日付で公開されました。日本は障害者権利条約に批准してしばらく経ちますがまだまだ遅れています。「この部分は、もう少し改善してください」というような勧告が色々でました。 第1〜4条(c) 国内法および自治体法において、「身体的または精神的障害」に基づく軽蔑的な表現および欠格条項などの法的制限を廃止すること。  看護でも欠格条項が残っています。国連の障害者権利条約の委員会からすると、こんなものは権利条約の違反だ、よくないということで、法的制限を廃止しなさいという勧告が出ています。  第5条14(b) 私的・公的領域を含む生活のあらゆる分野において、すべての障害者に合理的配慮が提供されることを確保するために必要な措置を講じること。  まだまだ合理的配慮の提供が足りていないということ。  第24条(教育)に分野では、6項目強い勧告(Urge)がなされた。「インクルーシブ教育の保障と環境整備」「障害を持つ学生に対する合理的配慮の提供」「教育関係者に対する障害者の人権モデルの認識向上」「高等教育における障害のある学生の障壁に対する政策の策定」  これに関しては 6 項目、非常に強い Urge がなされました。1 つめのインクルーシブ教育と環境整備というところ。日本では障害者は特別支援学級とか特別支援学校にいっていただきたいという要望がある。決して強制ではないと思いますが、皆さんすすめられて、そちらに入学していく。分離されて教育されている。そういう環境は、よくないんじゃないか?ということが障害者権利条約の委員会から勧告されています。高等教育における障害のある学生の障壁に対する政策の策定。国としてもここの部分をもう少ししっかりやっていけということ。 4.障害の捉え方の変遷- 医療モデル  障害はかつて個人の問題が重視されていた。それは、国際障害分類(ICIDH)の概念モデルの中に環境要因が取り上げられていないことからもわかる。  目が見えないんだ、足が動かないんだ、だから仕事がうまくできないんだみたいな、個人の能力が不足しているからできないことがあると考えられていた時期がありました。  近代以降は労働力が重視される社会的事情から、障害者を「治療・リハビリに専念するべき者」などとされてきた[ 杉野昭博, 2007, 『障害学理論形成と射程』東京大学出版会]。このように、障害や不利益・困難の原因は目が見えない、足が動かせないなどの個人の心身機能が原因であるという考え方を、障害の「医学 (医療) モデル」という。  近代以降は労働力が重視される社会的事情があります。日本も戦後、先進国に追いつけ追い越せと一生懸命に働くことが重視されていました。障害とか困難の原因が結局本人の問題であるという考え方を、障害の医学モデル・医療モデルといいます。 5.障害の捉え方の変遷- 社会モデル  マイケル・オリバーによって、「障害」は障害のない人を前提に作られた社会の作りや仕組みに原因があるという「社会モデル」が提唱された[ Oliver, Michael, 1983, Social Work with Disabled People, London:Macmillan.]。インペアメント(Impairment:機能障害)とディスアビリティ(Disability:能力障害)を区別し、ディスアビリティは、インペアメントを持つ人のことを考慮せず、社会活動の主流から彼らを排除している今日の社会組織によって生み出された不利益または活動の制約と考えた。この社会の制度やイデオロギーに問題があるという考えを踏まえ、より障害者の人権に力点を置いた「人権モデル」という語が、障害者権利条約では使用されている。障害者権利条約では、「障害」とは発展する概念であること、「障害」とは個人の心身機能の障害と社会的障壁の相互作用によって創り出されているものと、一部、医学モデルと社会モデルの統合によって説明されている。  必ずしも機能障害があったからといって仕事をすることに問題はないですし、社会の配慮があれば普通に生活することができるはず。これが社会モデルと言われているものです。障害はそもそも障害のない人を前提に作られた社会のつくりとか仕組に原因がある。障害がない人が大多数で、少数の側の機能障害のある人が生きづらいという社会になっているという考え方です。障害を英語では Impairment、Disability と区別して考えている。機能障害と能力障害とは区別されるものだということ。能力障害とは、機能障害のある人のことをいっさい考えていない社会がつくりあげたものだと考えた。これが社会モデルです。社会モデルを前提に障害者権利条約は考えられている。そこに補足するような形で人権モデルが最近出てきています。この人権モデルは何かしらモデル図があるかというとそういうものではない。人権をもっと重視して考えないといけないということ。社会モデルは、障害がどのようなものなのかということを説明していますが、人権モデルは、どういう社会がいいのか、その方向性を見据えたモデルと言えるでしょう。障害者権利条約を見ると、障害とは発展する概念であると書かれていて、非常に面白いと思っています。医療モデル、医学モデルから、社会モデル、人権へと変わっている。人権はどのような機能障害があっても一切かわるものではない。基本的人権は、どんな人でも機能障害があろうが、知的障害があろうが、精神障害があろうが、そんなものは一切関係無い。障害と人権モデルもさらに議論され、発展する概念として、今後も変わるかもしれない。 6.社会モデル  階段がスロープになれば行ける。点字があれば読める。メガネがあれば見える。ダヴィンチがあれば腹腔鏡手術がうまくできる。様々な技術が開発されれば、世界から障害はなくなるのかもしれない。  階段がスロープになれば車椅子の方はすっと行けます。階段がエレベータになれば2階にあがるのも3階でも問題ない。全部バリアフリー化がなされている建物においては、下半身の麻痺は障害になっていない。ダヴィンチという外科手術ができる手術支援用の機械がでています。より難しい手術が低侵襲でできるようになった。これの操作が上手くできれば、外科医として切るとか内視鏡を触るというのも、また違った操作になるんだと思います。色々な道具、様々な技術、AIもどんどん出てきています。こういう技術の進歩によって、色々なことが補えるようになりました。いつか障害というものはなくなってしまうんじゃないかなと思っています。 7.ダイバーシティ  多民族国家であるアメリカにおける人種、肌の色、宗教、出身地による差別を撤廃し雇用における不平等を是正するという場面で、ダイバーシティ(多様性)は使用されていた。こうした差別解消の取り組みとしてのダイバーシティは、マイノリティを大多数に同化させることが前提であった[ Thomas Jr, RR : From affirmative action to affirming diversity, Harvard business review 68(2): 107-117, 1990]。当然、同化を求められた人間は、自己の特性やパーソナリティを制限されるため反発することとなり、多様性を社会や企業の価値創造に活かすという形にシフトしていった。今日では単に差別解消としてではなく、多様性を認め活用しようという意味合いで、企業の経営戦略の中で使われることが多くなっている。  アメリカは多民族国家です。人種、肌の色、宗教、出身地で差別はあったわけです。特に有名なのは黒人差別です。今でももちろん闘っていられる方はいるので、これはなくなったとは言えません。多民族の中で少数者が排除されることがあった。元々は労働力の確保という面が大きかった。派閥で集まっていても人が足りなくなってくる。もっと黒人も女性も、色々な他の民族も使わないといけないというところから、ダイバーシティ・多様性が使用され始めました。差別解消の取り組み、ダイバーシティも発展していった。最初のダイバーシティは、マイノリティを大多数の中に溶け込ませ同化させることが前提だったと言われています。 8.インクルージョンのフレームワーク  Shore LM, Randel AE, Chung BG et al, Inclusion and diversity in work groups: A review and model for future research. Journal of management 37(4): 1262-1289, 2011のfigure 1を北川が翻訳改変して転載  インクルージョンは色々な場面で使われます。教育場面においては健常者と障害者を一緒に教育しましょう。これをインクルーシブ教育、インクルージョンと言ったりします。福祉分野では社会の中で包括的にみんなが活躍できる場をつくるというのがインクルージョンです。企業においては、企業内すべての従業員が尊重され、個々が能力を発揮して活躍できている状態をインクルージョンと言います。インクルージョンのフレームワークでみたときには、個性と帰属性の2側面から考えることができます。個性の価値、個性をそもそもちゃんと見ない、帰属性というものも見ない、これは排他です。マイノリティは排除する、排他というものです。個性は認めるが帰属性はみとめない、仲間に認めないことは差別化です。個性は認めないが仲間にはいれる、これは同化で個性は出させません。日本はどっちかというと、右へならえ的な文化があります。個性を発揮するのではなく、企業戦士として、兵隊として企業をささえるというところがかつてありました。インクルージョンは個性をちゃんと認めて仲間として考えようということです。個性をちゃんと活かす、それを創造力、創造性につなげていくことが大事です。インクルージョンというのは、単にうちに入れる、障害者もみんな仲間ですというだけではなく、その人の力をもっと社会に活用してもらいたいという考え方です。インクルージョンというのは今後我々がもっと考えていかないといけない重要な概念です。  医療はチーム連携が求められます。均質な能力や同じような価値観をもつ人間を求める風潮が強い。看護師教育をしている中で、色々な先生を見ていると、個性と言うよりも「こうせねばならない」みたいな、より強い価値観をすりこんでいく先生もいて、本当に大丈夫かなと思うこともあります。 9.同化を求める日本 ・日本は非常に同調圧力が強い国である。 「和」「空気を読む」「阿吽の呼吸」「忖度」「村八分」 ・そのため、組織において、個性を発揮することは求められない。 「出る杭は打たれる」 ・中でも、医療においてはチーム連携やコミュニケーションが強く求められるため、均質な能力や同じような価値観をもつ人間を求める風潮が強いと考える。  マイノリティをなんとか大多数と同じようにしようとすること、これが同化です。こういうことは、日本ではまだまだあると思っています。かつてアメリカもそうだった。同化を求められても、人には個性やパーソナリティがある。それを制限されると嫌ですから、反発、この場合は離職が起こる。色々な企業で雇用しましたが、どんどん離職する。障害者の差別解消にもならないし、多種多様な人材を雇用して労働力を確保するということも上手くできない。そこで、多様性自体を、その会社とか企業の強みにしようとする形にシフトしていきました。現在は、単に差別解消というだけでなく、多様性を企業の経営戦略の中で活用していこう、人間を、色々な人間の価値観を、創造・クリエイティブなことに活用して発展させようという意識が強くなっています。  ダイバーシティを調べると経済産業省がでてくる。厚生労働省でもなく文部科学省でもなく、経産省。企業の中でダイバーシティ経営ということをやっています。そして、ダイバーシティも、性別や人種だけではなく、今は障害者も含めて考えられています。ダイバーシティは多様性と言われます。本当に多種多様な、価値観も含めて多様性を意味する言葉になっています。 10.障害者差別解消法  平成28年4月、「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(障害者差別解消法)が施行された。これにより、障害を理由とする不当な差別的取扱いの禁止や合理的配慮の提供が、法的に義務とされた(2021 年の改正により民間事業者も義務化となる)  不当な差別的取扱い:障害があるからといって入職の拒否をしてはならない。 (重要:事故の危惧がある、危険が想定されるなどの一般的・抽象的な理由に基づいての対応は適当ではない。) 合理的配慮の提供:障害の社会モデルに基づく環境調整や変更のこと、合理的配慮の不提供は差別である。  日本では障害者差別解消法が平成28年に施行されました。世界の障害者権利条約を批准する必要があり、ようやく進んだといわれる部分です。障害を理由とする不当な差別的取扱いの禁止や合理的配慮の提供が法的に義務になりました。現時点においてはまだ国公立だけでしょうか。2021年の改正によって、3年以内に民間事業者も義務化になるということが決まっています。来年ぐらいには障害者の差別は法律違反ということになっているでしょう。不当な差別的取扱いというのは、障害があるからといって入職の拒否をしてはならない、障害があるからといって入学の拒否をしてはいけないというような障害を理由とした拒否などがあたります。非常に重要なポイントとして、事故の危険性がある、危険が想定されるというような、一般的・抽象的な理由に基づいての対応は適当ではないとされています。合理的配慮の提供は、これも社会モデルに基づきますから、環境調整とか色々な道具を使います。合理的配慮の不提供というのは差別であるということ。ようやく障害者も人権の尊重がされるようになってきたと思います。 11.人権  基本的人権というのは誰しもが持っています。憲法で謳われています。僕らには職業選択の自由があり、住居の自由があり、様々な自由があります。憲法を見てもらうと書いてあると思います。その自由が障害者は、ずっと無かったのです。かつて、日本には優生保護法という法律がありました。今は母体保護法にかわりましたが、優生保護法、これは非常にひどい法律で、障害がある、精神障害があるとか、知的障害がある人が妊娠した場合に、本人の同意なしに堕胎、おろすということが認められている法律でした。障害があるという理由で子どもを産んではならないというような状況がありました。これのもっと過激な例はドイツです。ドイツのホロコースト、大量虐殺がありました。ここからようやく人権というものが認められるようになってきました。 12.合理的配慮とは  障害者権利条約において、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」と合理的配慮は定義されている。 人権モデルがその根拠 ・採用/応募に関する配慮 募集内容を音声等で提供する、面接に就労支援機関の職員等の同席を認める。 ・作業/職場環境への配慮 図示やメモで業務を分かりやすく整理する。サングラスやイヤホン着用を認める。 ・福利厚生/研修待遇などに関する配慮 出退勤時刻・休暇・休憩に関し、通院・体調に配慮する。研修に手話通訳を設ける。  他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有しようということです。職業選択というのも、職業を選択できる自由があるというだけでは平等ではない。働くために必要な調整や配慮などがあってはじめて平等と言えます。人権モデルがこれの根拠になります。 13.今、障害学生数は増えています  令和3年5月1日現在における障害学生数は40,744人(全学生数3,233,301人の1.26%)で、前回から5,403人増、障害学生在籍学校数は942校(全学校数1,176 校の 80.1 %)。 図1: 日本学生支援機構: 障害のある学生の修学支援に関する実態調査  今まで障害で諦めていた人が、なんとか学校にこれるようになったというのは非常にいいことだと思います。全学校数の80.1%には何らかの障害がある人が在籍しています。 14.障害学生の就職状況  現在、差別解消法が施行され、障害がある人の差別を解消し、ダイバーシティ&インクルージョンを推進しようという動きがある。しかし、我が国においては、発達障害、精神障害学生などの進学や就職に非常に大きな障壁がある。令和3年度における大学(学部)卒業後の状況としては、大学生全体で進学率11.8%、就職率74.2%であった。その一方、障害がある学生の大学(学部)卒業後の状況としては、進学率10.6%、就職率48.1%であり、就職率に大きな開きがある。中でも、精神障害(統合失調症、気分障害、神経症性障害、摂食障害、睡眠障害等)のある学生の就職率が最も低く38.2%しかない。  障害者差別解消法が施行されて、経産省もダイバーシティだ、インクルージョンだと言っています。障害者の雇用を促進しようとする法律もあります。しかし、障害者の雇用は進んでいません。企業においてもまだ 50 %くらいしか達成できていない。令和 3 年における学部の大学だけで、専門学校は含みませんが、卒業後の状況として、一般の大学の学部全体で見たときには、進学率、大学院に進むのが11.8%、就職率74.5 %。一方で、障害のある学生の場合は、進学率は10.6%、そんなに大きく変わっていない。しかし、就職率は48.1%、検定するまでも無く有意差があることが分かります。就職率に大きな開きがあります。なかでも精神障害が非常に低い。38.2%しかありません。精神障害があると就職がほとんどできない状況です。発達障害はその次に低い。40%は超えていましたけれど、48%いかないくらいのところでした。ここに見えていない数字として、4年生になった子がそのまま順当に卒業できるかというと実は卒業できていない。留年率も非常に高い状況があります。 15.特別な支援を要する看護学生および看護師の割合  2011年に看護師養成機関838校を対象にした調査[ IKEMATSU, Yuko, et al. Nursing students with special educational needs in Japan. Nurse Education in Practice, 2014, 14.6: 674-679.] ・著しく指導/学習が困難であった学生数は2.3% ・そのうち、発達障害の疑いのある学生は1.02% ・こだわり(63.0%)→聴く(54.1%)→不注意(41.1%) ・31.7%は退学。 2013年に300床以上の500医療施設を対象にした調査[ IKEMATSU, Yuko; EGAWA, Koji; ENDO, Midori. Prevalence and retention status of new graduate nurses with special support needs in Japan. Nurse Education in Practice, 2019, 36: 28-33.] ・新卒看護師の 2.39%は特別な支援を要する。 ・こだわり→不注意→聴く→話す ・同じ失敗を繰り返す、報告・相談がない、段取りができない ・40.9%は1年以内に退職。  看護の領域で見てみますと、2011年ですから、10年くらい前ですが、専門学校も含めて838校を対象にした調査がありました。2.3%ぐらいは、著しく指導、学習が困難であったということ。31.7%は退学、退学率が高い。病院を調べた調査もありました。2.39%は特別な支援を必要とする看護師がいる。学校の進学ができても就職はあまりできていない。学校の進学ができても実は退学率も高い。就職した後もドロップアウト率が高い。実際にちゃんと継続して働いている障害者はどのくらいいるのかすごく心配になります。 16.今日の大学教育に求められていること  今日の高等教育においては、知識やリテラシーは当然、知識を活用し問題を解決新たなものを創造する力が求められている。  経営の部分から言うとどうしても使える人材みたいなところが出てきます。経団連は今、単に学力、基礎学力があるとか、何かしらのリテラシーがあるとか、専門バカではなく、もっと問題解決、創造・クリエイティブなことができるような人を求めています。これは随分前から言われています。社会でもっと使える人材をと言ってくる。国としても、いわばこれは出口なわけで、就職先の企業がそのように言っているので大学としても考えていかないといけない。専門だけは詳しいけれどコミュニケーション能力は極めて低いとか、問題解決能力がすごく低いという人を育成していても、大学の・日本の未来を考えたときに足りない。大学もこの提言に合わせて方向転換していきます。能力を求めるようになった。僕らみたいな専門職教育は、もともと能力を求めていました。それ以外の、経済学部だろうが、情報学部だろうが、どんな学部、どんなところでも大学として何の能力を育てていくかを非常に重要視するようになった。これが3つのポリシーです。 17.3つのポリシーの義務化  このように世の中から「能力」を求められるようになったことで、大学は「何を教える」から「何をできるようにするか」という教育への転換が求められた。この流れにおいて、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、アドミッション・ポリシーの3つのポリシー策定が義務化された。2017(平成 29)年4月からすべての大学に対して3つのポリシーの策定と公開が義務化された。  何を教えれば良いかから、何をできるようにするか、学生にどのようになってもらいたいか、教育の転換が求められています。すべての大学に3つのポリシー策定が義務化されました。 18.3つのポリシーとは ・ディプロマ・ポリシー(学位授与方針):最終的に卒業生にどんな能力を身に着けさせるのか。 ・カリキュラム・ポリシー:その能力を育成するためにどんなプログラムを組むのか。 ・アドミッション・ポリシー:その能力を育成する上で、どんな学生に入学してもらいたいのか  簡単におさらいです。ディプロマ・ポリシーというのは学位授与方針です。最終的に卒業生にどういった能力を身に付けさせるか。こういった人間に学位を授与しますという方針、ポリシーですから方針です。カリキュラム・ポリシーというのは、当然それが絵に描いた餅ではいけませんから、その能力をどうやって育てるのかをちゃんと示しなさいということ。どんな人でもすぐに育てられるわけではありません。どんな学生が入学すれば可能となるのか、これがアドミッション・ポリシーです。我々はこんな素晴らしい人材を育てます。そのためにはこんなカリキュラムを用意しています。このカリキュラムを学習するためにはこんな方に入ってきてもらいたい、というように策定するようになっています。  順天堂大学保健看護学部のディプロマ・ポリシーを見て行きます。全部読まなくてもいいですよ、能力というのがついているというのを見せたいだけです。 19.順天堂大学保健看護学部のディプロマ・ポリシー ・他への思いやり、慈しむ心、豊かな教養、高い倫理観を備え、良好な人間関係を築くことができる能力。 ・看護を必要としている人々に対して、科学的根拠に基づき看護を実践できる能力。 ・保健医療福祉における看護職者の専門性を自覚し、多職種と連携、協働できる能力。 ・進歩・変化の著しい保健医療福祉分野を総合的に理解し、創意工夫して課題解決するために、情報通信技術(ICT)を用いて情報を利活用する能力。 ・グローバル化する看護職者の活動の場で役割を担うために、国際的視野を持ち、異文化を理解する能力。 ・看護への関心を深め、探究心を持って研究に取り組むことができる能力。 ・自らの健康維持増進に留意して能動的に学び続けることができる能力。  ほとんどの大学は「○○ができる」というかたちで、なにかする、できるというような、能力、態度をあらわすディプロマ・ポリシーが多いです。 20.能力の育成と合理的配慮  能力とは、「物事を成し遂げる力」を指す。高等教育において「能力」の育成が求められるようになったが、障害があることで、独力では「成し遂げられないこと」がある。例えば、看護においては、身体障害があることで、患者の車いす移乗ができないなどである。←なお海外ではリフトチームがある。  では、この出来ない事に対して、その業務を行わせない配慮をすれば良いのか、それとも看護助手などの補助者の手を借りてできれば良いのか、どこまで合理的配慮を考えねばならないのかについての明確な基準やガイドはない。その学問を学修するにあたり、必要な能力は何なのかを十分に考えることが求められる。  日本の看護では、身体障害があると、例えば半身不随、下半身の麻痺があると、患者の車椅子移乗を手伝えない、ストレッチャーへの移動が手伝えないことがあります。一方、海外ではリフトチームというのがあり、患者の移乗は専門チームが行います。看護師は移乗はやらない。海外では体重が150キロを超えている人が居たりするので、看護師の力ではムリだということもあって、リフトチームというのがあり、確かに機能的です。できないことに対して、業務を行わせない配慮をすればいいのか、看護助手の手を借りてやればいいのか。合理的配慮というのは、そもそも何をやればいいのかという、明確な基準やガイドはありません。調べてみると事例集はあります。こんなのありました、こんなのもありましたと。あくまでも事例集で、どこまでやっていけば良いのか事例にあてはめて考えないといけない。事例で考えていく必要があります。大学教育で考えるならその学問です。僕は看護学を教えていますから、看護学を学習するにあたって必要な能力は何かを考えます。皆さんの学校では理学療法士を育成されていますから、例えば理学療法学でしょうか。色々な学問があり、その習得にあたって必要な能力は何かを考えます。 21.専門職における障害のある学生の例  専門職にある障害のある学生の例です。先ほどリフトチームの例を出しました。すべてにおいてそれがないと本当に何もできないのかというと実はそんなことはない。ちょっとした手助けがあればできることも多い。リフトチームというのも分業さえしてしまえば全然関係ない。実際に日本の例もありますし、海外の例もあります。  四肢障害のある医学生の修学事例:第4頚椎の脱臼、骨折及び神経損傷と診断。完全四肢麻痺状態[ 垰田和史、四肢障害のある医学生の修学事例の検討、医学教育、29.4: 245-251, 1998.]。修学において必要な器具について独自に開発を行った。その後精神科医へ就職  四肢障害のある医学生の修学事例で、医師は全領域を学習します。外科も内科もやる。外科なら手術もやらないといけない。1998年時点、全四肢麻痺状態の学生が卒業して精神科医になられています。四肢麻痺の方の修学を支援して立派に医師になられた。修学において必要な器具を独自に開発したそうです。1998年ですから、まだまだ介護用品とか、そういったものも全然開発がない時点で、完全四肢麻痺の学生に対して独自に開発を行って提供をして医師になった。手術ができなければ医者にはなれないとなれば、当然この子は医者にはなれなかった。完全四肢麻痺ですから、手術できるどころか採血もできない。にもかかわらず医師にはなれた。仕事と教育というのは、ある程度わけて考える必要があるのかもしれません。もちろん、専門職教育ですから、完全にわけることはできないでしょう。けれど、色々な働き方、色々な分業のしかたがあるんだろうと思うんです。  視覚障害の医師の事例:網膜色素変性症により全盲となった[ Villarosa, L. :Barriers toppling for disabled medical students. The New York Times, November 25, 2003.]。盲導犬を連れて実習を行い、測定値などは機械が読み上げる。アメリカには、障害をもつ看護師のための団体がある[ National Organization of Nurses with Disabilities: https://nond.org/]。  視覚障害の医師の事例ということで、海外の事例です。これも2003年で、20 年前の話です。全盲となって、盲導犬を連れて実習を行って、測定器などは音声が読み上げる、機械が読み上げる、目が見えなくても大丈夫なようになっている。アメリカには障害を持つ看護師のための団体があります。ホームページを見ていただければ、様々な障害の方が入っていることが分かります。ロンドン理学学校というのでしょうか。イギリスでは視覚障害者のための理学療法士の学校があります。既に交流されているかもしれませんが、イギリスで全盲の理学療法士が活躍されています。  「障害があるからできない」ということをどう考えれば良いのか、ほんとうに悩みます。難しい問題だと思います。障害があるとか関係なく何もかもひとりですべてすることはありません。僕らも仕事で、何もかもひとりで全部やっているか、そんなことはない、チームでやっています。ほとんどの仕事をチームでやっています。そのチーム分けは、看護の中だけでのチーム分けもありますし、看護と理学療法士というようなチーム分けもあります。色々なチームがそれぞれ助け合って、患者さんに対して仕事をしている。何もかも全部自分でできなければならないという考え方自体が、もう時代遅れではないのかな、なんてことを思います。  これは今、私がやっているまだ新しい研究です。データとしては、2021年3月中旬から4月にかけて全国の看護系に調査を行いました。177なのであまり多くはないんですけれど、どんな人たちに支援を行ってきたかというのを聞きました。視覚障害、聴覚障害、言語障害、上肢機能障害、上下肢機能障害、限局性学習症、精神障害者というように、本当に幅広い子たちが今学校に来て看護師になる勉強をしています。  看護の領域において障害があるからといって受け入れないということは決してない。基本的には受け入れるという形で進んでいるところです。私が前職でいた大学でも、通学中に半身不随になった学生がいました。実習に行く前です。実習前で、半身不随ですから車いすでした。どうやって実習をクリアしたかというと、実習補助者をつけて、その子の指示で色々なことをその補助者がやる。ちゃんと指示できるのであれば良しとしました。ちゃんと指示できた、アセスメントできたということであれば問題ない。今、看護師として働いています。下半身不随で働いているということです。半身不随があるとできないことはたくさんあります。それは問題ではない。分業すればいいという中で活躍しています。  障害があるからといって、できないということを考えるのは違うのかもしれません。できることを考えたほうがいいのだと思います。 22.障害と専門職教育  世界各国の事例を見ると、どのような障害があっても医療の専門職になることは可能と考えられる。様々な職場における様々な働き方がある中で、共通して必要な能力としては、他者と意思疎通する力と思考する力だけなのかもしれない。少なくとも、他の教育機関において障害のある学生の育成をしているのであれば、その障害を理由に入学を拒否することは出来ないだろう。  世界各国の事例、国内の看護の事例もみるとどのような障害があっても医療の専門職になることは可能だと思います。さまざまな職場におけるさまざまな考え方があります。共通して必要な能力は何なんだろうと考えると、それは他者と意思疎通する力と思考する力です。意思疎通する力を話せることだとは言いません。手話でもいい、筆談でもいい。意思疎通する力と思考する力があれば、四肢麻痺があったとしても医者にだってなれるのです。少なくとも、他の教育機関において障害のある学生の育成をしているのであれば、その障害を理由に入学を拒否することは出来ないでしょう。イギリスの事例で、全盲の理学療法士がいる。日本でも、全盲の方はわからないですけれど、視覚障害の方はいます。看護でも、看護の全盲の方は僕も把握していませんが、免許を持たれている方はいます。そういう方が実際に免許を持っているということを考えると、医療機関、教育機関において拒否するということは差別ということになると思います。 23.大学における障害者受け入れの考え方  大学の入学要件を雇用における必要条件としてはならない。なぜなら、様々な環境で就職する可能性があり、考えられるすべての能力とスキルが必要となると仮定するのは合理的ではないからである。  大学の入学要件を雇用における必要条件としてはならないというのがあります。当然といえば当然ですが色々な働き方があります。様々な環境で就職する可能性があります。例えば、看護でも研究者になることがある。基礎研究をやる人がいるかもしれません。となると、働くということ、この業務ができなければならないというのは、学校が考えるべきこととは違うと思います。それは職場・就職先が考えることになる。厳密な医師の能力、看護師の能力、理学療法士の能力、考えられるすべての能力とスキルが必要となると仮定するのは合理的ではない。もし、こういった能力全てが必用と考えるならば、非常に多くの人間が落とされることになる。雇用ということとわけて考える必要があります。  課題を達成するための手段を縛って考えない。看護の例であれば、必須の技術として血圧と心音を検出できなければならないとしても、その方法は規定されるものではなく、血圧や心音を振動や映像で検出するための機器を用いても良い。もし、すべての学生に必要と考えられる必須スキルがあるのであれば、それは教育課程に組み込まれるものである。すなわち、卒業時に達成していなければならない能力はプログラムの中で評価されるものであって、入学時に評価されるものではない。ただ、その学問を学ぶ能力があるかどうかを、アドミッション・ポリシーに沿って入学時に判定する。  これは当然といえば当然です。血圧などを測るのも色々な振動や映像で検出できればいい。もし、すべての学生に必要と考えられる必須スキルがあるのであれば、それは教育課程に組み込まれるものであって、入学のときに判断するものではない。卒業時に達成していなければならない能力は、プログラムの中で評価されるもので、入学時に評価されるものではない。ただその学問を学ぶ能力があるかどうか、アドミッション・ポリシーに沿って入学時に判定することになると思います。 24.合理的配慮の考え方@  その授業やその課題の教育目標は何か、本質は何かを考える。 例:手書きでは記録が書きにくい。患者の状態のアセスメントが重要なのであり、手書きかは問題ではない。 →パソコンを使って記録を作成する。口頭で説明させる等 例:全盲のため患者の関節可動域の観察が難しい。どのような方法でも可動域が分かればよい。 →カメラによる撮影、モビリティステックを使用する等 ・教育の目的、内容、機能は何か ・それを達成するための方法はどうなっているか ・その方法が社会的障壁となっているか ・目的、内容、機能の本質を変えずに障壁の除去が可能か  その教育の目標はなにか、本質は何かが、もっとも重要なポイントです。この授業、この科目において、何を教育目標にしているのか。例えば、僕ら看護では実習記録を手書きでさせることがある。別に手書きの記録を重視しているわけではない。患者の情報のアセスメントが重要なので、パソコン使って記録を作っても、口頭で説明できてもどっちでもいい。これが本質の部分です。この患者のアセスメントができるということが大事。全盲のため患者の関節可動域の観察が難しい。どのような方法でも可動域がわかればいいのであれば、カメラによる撮影で音声読み上げを使ってもいい。モビリティステックという機器がある。そういうような機器で音声読み上げを使ってもいい。わかればいい。そのうえでアセスメントできればいいんです。 25.ルーブリックの利用について  ルーブリックは、教育の本質が明確になるため、発達障害のある学生の合理的配慮を考える上でも非常に役立つものである。ルーブリックは、その教育目標において、何をどれだけ達成すれば良いかの基準を定めるものであり、障害学生のためだけでなく、すべての学生に有用である。ただし、その作成において、内容の十分な検討がされておらず、曖昧な表現を使っていると、学生がかえって混乱してしまうこともあるため注意が必要である。  例:〜〜を理解している。概ね〜〜を理解している。 同様のことは、ディプロマ・ポリシーやシラバスにも言える。 例:コミュニケーション能力とは?ケアとは?主体的に学ぶとは?  ルーブリックは発達障害のある学生に非常に役立つと実感しています。ただ、あいまいに書くと学生が混乱してしまいます。ルーブリックを作るときには具体的にしてほしい。この具体的にするという過程が、結局教育の本質を考えることになります。ルーブリックを考えるときに、いったい何ができればいいのかを具体的に考えることが必要です。それを、同じやり方じゃなくても、最終的にどういったことを患者にもたらすことができればいいのかまで考えてもらえればいい。学問として何を習得すればいいのかまで追求してもらえればいいと思います。これはディプロマ・ポリシーとかシラバスにも言えることです。コミュニケーション能力を育成すると書いていますけれど、コミュニケーション能力の定義まで書くこと、どこまでやっていますか?ケアとは何ですか?これはこういうことをできればいい、何ができればいいのか。こういうようなことをしっかり書いていただいて、障害のある学生にはどういう手段でおいて達成するかということを考えてもらえば良いかと思います。 26.実習での合理的配慮  資格取得に関わる教育においては、臨地での実習を求めるものが多い。令和2年に世界的に新型コロナ感染症が蔓延し、多くの実習がオンラインに切り替わることとなった。これこそが教育の本質を変えずに代替手段を考えるということである。  令和2年から新型コロナ感染症が蔓延しました。本学は、コロナで実習がオンラインや学内に変わることがありました。結局、臨地実習がオンラインにかわる、臨地実習が学内に変わる、それでもなんとかなっているということは本質を変えずに代替手段を考えてできたということです。こういった本質というものを考えながら、授業・合理的配慮を考えてもらえればいいと思います。 27.合理的配慮の考え方A ・機会を失わせない。 例:指示が分からない。危険だから参加させない。 ・学ぶ環境や態勢を整えることは、目標を達成するための能力を育成する前段階であり、支援するべきものである。 →指示は紙面や図で分かりやすく与える。何が危険で、何があれば危険を回避できるのかを考えることはすべての学生に対しても必要なことである。 ・健康支援、日常生活支援  機会を失わせない、当たり前です。指示が分からない、危険だから参加させないというのは、これは差別になります。学ぶ環境や態勢を整えることも当たり前のことです。これは合理的配慮の支援部分にあたります。文部科学省が障害のある学生の修学支援に関する検討会報告(第二次まとめ)を出しています。そこで見ていただくと、健康支援、日常生活支援といか幅広く支援しましょうとなっています。単に学校面だけではなくて、生活面も支援をやっていくということです。 28.合理的配慮の考え方B  教育や説明方法は対象に応じて変える(個別の指導)。 例:患者と適切な間合いを取ることができない。 対象者と口頭でコミュニケーションできない。 人によって理解度や理解方法が違うのは当たり前のことである。どのような説明なら伝わりやすいかを考え、相手によってやり方を工夫することは教育者の責務である。 →説明に図を多く取り入れる。理由や手順を具体的に説明する。 一緒に看護をやってみる。振り返りを一緒に行う。 →何のためのコミュニケーションなのか。 情報は録音や筆記してもらう。 教育的配慮や合理的配慮について共有し、統一的な対応が必要である。  教育や説明方法は対象者によって変えましょう。教育方法抜本的に変えないといけないことがあります。発達障害の方は同じような説明ではうまく理解できないことがある。自閉スペクトラムのかたに、「普通はね」というときに、「普通とはなにか」から入らないといけない。説明が全然通じないことがあります。それをできないではなくて、どうすれば伝わるのかを考えるのが教育者の責務です。自閉スペクトラムの方は相手の心情を理解するのが難しい。心情を理解するというよりは、相手が不快にならないようなコミュニケーションがとれればいい。あとは思っていることは直接言ってもらうとか、いろいろ考えていく。視線を全然合わせない子がいたとすると、視線は何秒かに1回くらいあわせなきゃいけないということを具体的に教える。そういうことが大事になると思います。統一的対応というか教育というものは相手にあわせたわかりやすい教育をしなければいけない。配慮する人と配慮しない人がいてはならない。配慮するのであればみんなでやってほしいなと思います。 29.合理的配慮の考え方C ・教育目標の到達水準を下げない。質の保障。コミュニケーション能力が目標としてあるときは、コミュニケーション能力が発揮できやすい環境を整えるのは当然であるが、「できないので、やらなくても合格」とするのは合理的配慮ではない。 ・目標に到達する方法は様々であること。例えば、意思疎通が重要なのであれば、筆談でも構わない。合理的配慮を受けていても目標に到達できたなら、目標達成である。 ・テスト時間、レポート提出期間の延長や、履修期間制限の解除、グループワークの補助、授業の録音などは合理的配慮の範囲となる。 ・時間の延長やタスク理解のため手助けをある程度した上で、そのタスクをクリアするための能力があるのかを評価する。  教育目標の到達水準を下げないことも大事なポイントです。やらなくても良いとは決して言いません。目標に到達する方法は様々です。本質というのはよく考えないといけない。患者さんを観察するのが重要だとして、観察するというのはいったいどういうことか。何の情報がほしいのか。疾患に関する情報なのか、心情なのか、突き詰めていく必要がある。少なくとも、その本質にかかわることが達成できないならば、落とさざるをえない。もしくは、もうちょっと長期間にわたって、考えながら教育していく。色々な到達水準があると思います。テストであればこの人たちは60点じゃなくて、50点でも合格にしようというのでは駄目です。60点合格なら60点合格にしないといけない。ただ、時間をのばしてあげる、レポートの提出期間を延長するとか、グループワークの補助、授業の録音もいいと思います。もっとかみ砕いて説明してあげる。こういったことは大事だと思います。そして、合格の能力があるのかどうかを見ていく必要があります。 30.合理的配慮を提供するために 障害は人生において完全になくなるものではない。自己を理解し、自分の力量を知り、手が足りない時には助けを求める能力は、社会で生活する上で、どの人間にも必要なものである。すべての学生に自分を知ること、困った時の対処や助けを求めることを教育していくことが、障害者に対する支援の充実にも繋がっていくと考える。 ・セルフアドボカシー教育の必要性[ セルフアドボカシーとは、自分自身で権利、利益、ニーズを主張すること。障害があっても、意見が尊重され、最善の利益が考慮されるための支援や自身の意見が代弁される権利。] ・同時に支援ニーズを拾い上げる教師の目も重要 ・建設的対話を行う力も大切[ 建設的対話とは、障害者と事業者が話し合いを行う中で、配慮できることを探っていくこと「できる」「できない」ではなく、どのような方法ならお互いに納得でき、「合理的」配慮になるかを話し合うこと。]  障害は人生において完全になくなるものではない。自己を理解し、自分の力量を知り、手が足りないときには助けを求める能力があれば社会でやっていけると思えます。そもそも障害があるなしは関係ない。全ての学生に自分を知る事、困ったときに助けをもとめることを教育していくことは、障害者の支援の充実につながっていくと思います。私は、発達障害者の支援をやっていますが、それだけではなくて、看護学生全体に対して、自分の力量を知ろう、そして助けを求められるようになろう、こういったことをプラスアルファで教えています。このセルフアドボカシーということは非常に大事なんだと思います。さらに、自分でまだまだ言えない子はいますので、その支援ニーズを拾い上げる教師の目も重要です。できないから駄目ではなくて、どうやったらできるようになるのか、どういう配慮があればいいのか、これを考えていく建設的対話も大事です。 31.障害があることによるメリット  障害のある医師は、障害体験を通じて患者への共感が強まり患者・医師関係がよくなると報告されている[ Wainnapel SF: Physically disability among physicians. Int Disabil Studies 1987, 9: 138-140]。障害者の視点や社会的マイノリティの視点で話を聴くことができる援助者は、健常な支援者にはない素質として支援活動を行うことができる。また、障害者が働きやすい職場を追求することは、全てのスタッフが働きやすい職場環境へとつながる。同化ではなく、多様さを生かすことが、これからの社会に求められている。  障害のある医師は、その障害体験を通じて患者への共感が強まり、患者・医師関係がよくなると報告されています。海外ではすでに障害のある医師がどんどん出ています。そういう中で、障害など、いわば社会的なマイノリティだからこそ分かること、理解できること、気づくことがあります。「こういう人はこういう仕事ができない」ではなくて、「こういう人だからこそ、この仕事において輝ける」というのがあると思います。また、障害者が働きやすい職場というのは、結局みんなが働きやすい職場環境に繋がります。同化ではなくて、多様さを活かすということがこれからの社会に求められていると思います。  最後に、障害者がどんな障害があっても活かせる、そういうような社会、そして学校であればいいなと思っています。