論文の要旨 慢性腰痛患者の心理社会的要因が鍼治療に与える影響 ― 治療効果についての探索的検討とロジスティック回帰による多変量解析 ― 令和2年度 筑波技術大学大学院技術科学研究科 保健科学専攻 松田 えりか 指導教員 近藤 宏 先生 1. 背景と目的 近年、慢性腰痛患者と心理社会的要因との関係が注目され、手術や運動療法などの治療効果に術前の心理社会的要因が影響するとの報告がある。慢性腰痛は鍼灸臨床において頻繁に遭遇する疾患の一つであり、多くの研究が慢性腰痛患者に対する鍼治療の有用性を報告している。また、鍼治療が健常者の心理面に作用することや、精神疾患を有する患者に対し症状の改善をもたらしたとの報告も少なくない。しかし、慢性腰痛患者を対象とし、その心理社会的要因が鍼治療に及ぼす影響について、治療の直後あるいは継続治療において検討した報告はない。 そこで、本研究では慢性腰痛患者に対する鍼治療の効果に影響する心理社会的要因について、初回治療の直後効果(研究1)と 4 週間の継続した治療の効果(研究2)のそれぞれについて検討することを目的とした。また研究 2 においては、直後効果の有無と 4 週間の継続した治療効果の有無との関係性について後方視的な検討を行った。 2. 方法 対象は 2019 年 8 月~12 月までに本学東西医学統合医療センター鍼灸外来を訪れた初診慢性腰痛患者のうち、初診時に Visual Analogue Scale(以下 VAS)にて評価した腰部疼痛強度が 30mm 以上の者 56 人とした。研究 2 においてはこのうち脱落者 3 人を除外した 53 人を対象とした。初診時に自記式質問票を使用し、心理尺度として痛みに対する破局的思考を評価する Pain Catastrophizing Scale(以下 PCS)、不安・抑うつを評価するHospital Anxiety and Depression Scale、痛みに対する自己効力感を評価する Pain Self-Efficacy Questionnaire)を、社会的要因として同居家族状況、最終学歴、社会参加状況を評価した。その他、腰部機能障害 Roland–Morris Disability Questionnaire(以下 RDQ)、鍼治療に対するイメージ、基本属性を評価した。 研究 1:初回治療直後の VAS の値が 30mm 未満となり、かつ疼痛改善の有無を問う anchor question に対し、対象者自身が疼痛の改善を認めた場合を「高反応群」、それ以外を「低反応群」とした。この 2 群間で対象者の属性と身体的および心理社会的要因を探索的に比較し、さらに 2 群の区分を二値の従属変数とする二項ロジスティック回帰分析を行った。 研究 2:治療開始前と 4 週間後の VAS、RDQ の値および研究1と同様の anchor question から「効果あり群」と「効果なし群」を定義し、探索的検討およびこの区分を従属変数とする二項ロジスティック回帰分析を行った。また、研究 1 における高反応群と低反応群の分類結果を個体間水準、4 週間の治療前後の 2 時点を個体内水準とし、各評価項目に対して二元配置型の反復測定分散分析を行った。 3. 結果 研究 1:高反応群は 22 人、低反応群は 34 人であった。2 群間の比較において統計学的な有意差が認められた項目は、鍼治療に対するプラスイメージ(P=0.001)とマイナスイメージ(P=0.004)のみであった。ロジスティック回帰分析では、PCS(OR:0.886 (95%CI:0.808~0.971);P=0.010)、鍼治療に対するプラスイメージ(OR:5.085 (95%CI:1.724~15.002);P=0.003)、同居人数(OR:0.355(95%CI:0.149~0.844); P=0.019)が直後効果に影響を与える因子として抽出された。 研究 2:効果あり群は 24 人、効果なし群は 29 人であった。2 群間の探索的な比較の結果、統計学的な有意差が抽出された項目は、年齢(P<0.001)、PCS(P=0.010)の 2 項目であった。ロジスティック回帰分析で有意な変数として抽出された項目は、年齢 (OR: 0.418、P=0.005)と PCS(OR:0.924、P=0.037)であった。反復測定分散分析では、全評価項目において 4 週間の前後で有意差が認められたが、直後効果の有無による分別については、動作時 VAS のみに有意差が認められた(P=0.046)。 4. 考察 慢性腰痛患者に対する鍼治療の効果に影響する因子について、初回治療の直後と 4 週間の治療後の 2 時点において、患者の心理社会的要因が治療効果に影響を及ぼすことが 示された。 直後効果と継続治療効果の双方に影響を及ぼした痛みに対する破局的思考は、慢性腰痛患者の手術後疼痛の予測因子になると考えられており、痛みの主観的改善に影響を及ぼす因子としても報告されている。今般の鍼灸外来を受療した慢性腰痛患者においても、痛みへの固執した思考により痛みの予後を悲観的に捉え、治療への過度な不安が形成されることが、治療後の痛みの強度への影響を及ぼしたものと考える。 4 週間の鍼治療により、身体面の改善と同様、心理面においてもその改善が認められ た。鍼治療が単に腰痛症状の改善のみならず、精神状態の向上に寄与している可能性が 考えられ、「心身相関」を示唆するものであったともいえよう。また、初回治療の直後に 鍼治療の効果が観察された症例では、その後の治療における疼痛強度の改善も、動作時 VAS において良好であった。 以上のことから、鍼灸臨床において長期的な継続治療が必要な慢性腰痛患者に携わる治療者は、治療の早期から痛みに対する認知の歪みや同居家族の状況などの心理社会的要因に着目し、心身両面から適切な評価と判断を行い治療にあたることが重要であるといえよう。 5. 結論 鍼治療の直後効果と 4 週間の継続した治療効果の 2 時点において、慢性腰痛患者の心理社会的要因が治療効果に影響を及ぼすことが示された。とりわけ、痛みに対する破局的思考は双方の鍼治療効果に影響を及ぼす因子であると考えられた。また、疼痛強度においては、直後効果が観察された症例は、より良好な治療経過をたどる可能性が示唆された。