建築人間工学による空間体得の製図教育-介助機器の使用実験を通して発想した加齢対応の住宅設計事例から- 聴覚部・建築工学科 教授 吉田 あこ 助教授 平根 孝光 助手 櫻庭 晶子 要旨:建築工学における設計製図は,個々に習得した技術の知識を,ひとつの空間に総括し,時代の要請にこたえるという役割を持つ。本校の人間工学実験室は,体験を通して空間を創造する目的をもった教場であり,聴障学生の得意とする授業科目である。本研究は学生が天井走行の介助用水平移動機を体験する中で,空間をつなぐレールを建築の平面計画の軸としてとらえ,住宅の間取りを発想した。若い時代はさりげなく住んだ家が歳をとるにつれて体力が衰え,車椅子を使うようになり,また,寝たきり状態になって,介助機を使い,快適に住めるよう見通しを立てた住設計を生み出した事例を報告する。なお,この内の2点が茨城県の高齢者住宅設計コンペに入賞したことも付記する。 キーワード:建築人間工学,建築設計計画,体得授業,空間寸法,高齢者介助,住宅設計,製図教育 1.建築製図はスケールを基調とする:  近代建築の巨匠ル・コルビジエは“音楽家は音の階調で,楽譜を創り,美しい音楽を生む。建築家はスケールの階調で製図を描き,この地上に,不動の詩を築く。”と述べている。建築とは目でみる音楽であり,目にうったえる詩であり,さらに,単なる鑑賞でなく,生活の必要を満たす社会的存在である。  この勝負は目にあるというところが,聴障学生の得意とするところである。  建築基準法の第1条に“建築は生命と財産を守り,社会の福祉を増進することを目的とする”とうたわれ,このために,建築士は医者と同じく,国家試験が課せられ,社会責任を果たす仕組みになっている。 2.自身の体を物差しにして空間寸法を会得:  建築士の国家試験は,1次が学科試験で,2次が設計製図である。この製図は,ひとつの建物を自分なりに創造するので,種々の知識の総合性が問われる。つまり,敷地・床面積の制約の中で,使いやすく,必要な設備が納まる空間寸法を出し,この室構成を本当に体得しているかが問われる。特に,限られた時間内では,頭を通してではなく,体に覚えていることが威力を発揮する。  ル・コルビジエは人体寸法から発想した寸法の階調をモヂュールと呼び,建物の内部寸法を決め人間に馴染みやすいインテリアを構成している。そこで,指導では,この身についたスケール感覚を養うことが主眼となる。戸棚など手が届く高さはどれぐらいか,窓台など外の景色が見えるのはどれくらいの高さかを体得しており,音声言語でなく,製図というコミュニケーション手段で,描くことである。これが,契約され,工事にまわされ,実現して行くのである。 3.アメリカの聾工科大学の劇場から発想した建築人間工学実験室:  本建築工学科では人間工学実験室をもち,ここで,和室やベット,台所や洗面便所設備などを備え,これらの取り付け寸法を考えやすいように,すべて可動になっている。ここで,寝たり,起きたり,炊事したりの日常生活を学生がテストし,必要空間寸法を計測する。  さらに,この実験室の特徴は上部が吹抜けになっており,真上から見降ろせ,下部で行なう日常生活動作の空間寸法をビデオや写真分析で考察できることである。この真上からみることが大事で,実は建築の最とも基本となる図面は“平面図”であり,これは真上から見た床面の図である。  また,天井に鏡が貼られ,下からでもこの鏡を見上げると,上部から見おろした眺めの検討がつく仕組みになっている。  さて,本校の先輩であり,姉妹校にあたるNTID(アメリカ国立聾工科大学)には本格的な劇場が内蔵されており,この目的は俳優養成ではなく,自己表現を活性化し,コミュニケイションカを引き出すための物と聞いた。つまり,何かの役に自分を没入し,セリフにそって,その役を演じることが,ひとつのきっかけとなり,次は本当の自分の内部を表現する技術を身につけ,コミニケーション能力が伸ばせる教場であるという。  本建築工学科の人間工学実験室は,まさにこの精神を汲んで,設計製図の教場の一つとして構成した物である。 4.教育効果の事例 介助用水平移動機の走行レールを軸とした住宅平面計画の開発:  1982年国連は高齢者問題世界会議を開き,“高齢者を社会のお荷物としてでなく,貴重な社会の財産として受けとめ,住みなれた地域にできるだけ長く住み続けられるよう住宅と地域を物心両面から支援する”とした。日本も1986年に“長寿社会大綱”を,1993年に“障害者対策に関する新長期計画”を出し,在宅看護に熱い視線が向けられた。しかし日本住宅の造りは,人生50年と云われた時代に構築された造りで,段差が多く,風呂や便所はせまく,車いすも介護用の移動機器も全く使えず,唯人的介護に頼り,いたずらに介護者に腰痛を強いる造りである。加齢によって人の身体機能が除々に衰え,この状態での住生活が30年にも及ぶ今日の長寿社会では住改造が目下の急務となっている。年をとってからでは遅すぎる。新築の時から,見通しを立てて住計画がされるべきであるが,現在の一般住宅と高齢者向住宅とは水と油のように分離して建設されているのが現状である。  そこで,建築工学科の学生が人間工学実験室で体を起こしてくれるギャジベッドに寝て,体を運んでくれる走行用水平移動機のブランコ・ベルトに乗り,ここから,実物の便器や車いすや和室に,それぞれリモコンで乗り移る体験や介護をくり返す。一方,補助の学生は大型の箱尺を,平面x,y軸と垂直z軸にそれぞれ分担して計測しながら,最低必要な空間寸法を追いつめる実験を行った。  当初はブランコに乗るのが楽しく,高齢者役をとり合っていた学生も,やがて,移乗動作に合わせて,便器・和室・ベッドの向きが,相対的にどうであればよいかに気付きはじめ,次に,その間隔寸法にも着眼し,記録がかりが,種々の設備の空間配置を提案し出す。ここで,手話やノートによる討論となるのが一般的だが,実物がすべて揃っており,しかも可動なので,提案はどんどんこれらを動かし,より合理的配置か否かを実験でチェックしていく。とりわけ,実験室は上部から見下ろせるよう吹抜けになっていることから,建築の空間配置の図面化がそのまま見えてくる。  やがて学生達は合理的配置はこの天井走行レール軸上に生活設備を並べることだと結論した。さらに,次の段階はベッドや和室・便所,そしてリビングルーム内を動き回る車いすに移乗することだけでなく,和室では座卓を囲んでの団らんに,花瓶をとっくりに見立てての酒盛り演出や,便器使用時のプライバシィが保てる囲みを,事務用机ブースで仮設設定するなど,次第に,空間の用途をイメージして,インテリア指向へと発展して行った。こうして若い時代向きの住宅平面計画上に天井走行レール取付けを予想しておくことで,やがて向かえる老後の車いす使用時にも,寝たきり状態になった時にも,自立生活や介護にも楽な住宅平面計画,つまり,生涯安心して住み続ける住宅計画案が完成していった。それと同時に,車いすでも使える台所設備の工夫や使用者でも洗いやすい洗面・浴室の提案も生まれてきた。 5.茨城県主催の高齢者向住宅設計に応募し入賞:  プロ対象の住宅設計コンペに応募し,入賞するためにはその設計者の思想が建築図に見事に具現されることである。  技術を体得した学生はそれぞれに,自分なりに高齢者像を描き,住宅構築にこの思想を反映し,図面化した。一学生は加齢につれて手を加えていけば,立派に住みこなせる家の設計というコンセプトを“年輪のごとく”と題した。樹齢を重ねた木の偉大さを高齢者像に重ねたのであろう。またある学生は吹抜けホールを中心とし,車いす操作の空間制約をこの大広間で巧みに裁きながら,さりげなく“光と風と緑があふれる家,,と題して応募し,遂にこの2点が入賞した。 6.空間体得の製図教育への考察:  これら学生の思想の深さは学生個々の持ち味がにじみ出たものであり,教えきれるものではない。  聴覚障害者教育は,“少情報・深思考に焦点を合わせる”とも聞く。この少情報を体験によって多角的・有機的情報とし,実験によって日常生活を再現し,その繰り返しの中で,学生の思考を深め,個人の内在した力と溶け合ったとき,創造性が引き出され,彼らの意図した製図が完成し,本事例となったのであろう。  またこの教育方法は,健聴学生の製図指導にも極めて,有効であろうと思われる。