聴覚障害者の聞こえの理解・解説シミュレーションの方法 筑波技術短期大学 教育方法開発センター(聴覚障害系) 大沼 直紀 要旨:聴覚障害者の聞こえの特徴を理解・啓蒙するための方法を,聴力障害の程度,聴力型,感音性難聴と伝音性難聴,音響環境(S/N比)などの側面から検討した。聴覚障害者が遭遇する6種類の音響環境場面(音楽2種類,屋外場面2種類,屋内場面2種類)を想定し,それらに含まれる各種の音源(音声,音楽,動物の鳴き声,環境騒音,マルチトーカーノイズ)をコンピュータでディジタル加工・編集した。その各々に3段階の難聴程度を擬似体験できる加工音素材を配し,タッチパネル画面と連動して音と画面がテレビモニターから提示されるシステムを構築し,高難聴者の聴こえの困難さを解説・シミュレーションする装置を製作した。 キーワード:聴覚障害,難聴擬似体験,聞こえシミュレーション,高齢難聴者 1.聴力障害の程度  聴覚障害者の聴力障害の程度を表すオージオグラムは,個々にその聴力型が異なり,聞こえの程度は多様である。聴力レベルによる聴力障害の程度の分類の仕方を図1に示した。これはWHO(世界保健機構)の示した分類法で,現在では国際的に共通に用いられているものである。図2には,高齢難聴者の聴力図を例示した。“音の損失,,(loss of sound)といわれる「伝音性の難聴」は,耳栓をするなどの方法で比較的簡単に体験できる。一方,聾学校や筑波技術短期大学に学ぶ聴覚障害者の殆どは感音性難聴である。“聴覚の損失”(loss of hearing)であと言われる「感音性の難聴」の聞こえ方を,健聴者が体験することは不可能に近い。単に音が小さくなるだけではなく,想像できないほどに元々の音は歪んでしまい,音は聞こえているのに何を言っているのか弁別しにくいという聞こえの障害だからである。 図1 オージオグラム上に表した聴力障害程度の分類。(図中の「小さい声」は120cm離れた話者が小さめに話した平均的音声レベル,「大きい声」は30cm離れて話者が大きめに話した平均的音声レベル。中川・大沼1987) 図2 70~80歳台の高齢者の平均的聴力図と老人性難聴の聴力図例 2.伝音性難聴の聞こえのシミュレーション  伝音性難聴により減衰する音の小ささを体験する方法の一つに耳栓を装着するシミュレーションがある。表1に,市販の耳栓の平均的な遮音値を示した。これを外耳道にしっかり装着することにより,音声の主要な周波数帯(500Hzk~4000Hz)で聴力レベル40dB程度の聞こえの悪さを体験できる。  これを図1のオージオグラム上で,音声レベルと参照してみると耳栓を着けたときの聴こえ方が理解しやすい。小さめの音や離れた所からの音声は聞きにくいが,大きめの音は相当に良く入力することが分かる。 表1 耳栓の遮音値 3.感音性難聴の聞こえの特性  図3に,聴覚障害の程度が重くなるにつれて音声情報が欠落していく様相を示した。最重度の聴覚障害(91dB(HL)以上)になると,母音や声のリズムの,情報は比較的多く残っているのに対し,声のピッチや子音の構音要領(パ/バ/マ/の差異),子音の構音点(バ/タ/力/の差異)を弁別する手がかりは殆ど僅かとなる。  感音性難聴の特性を一般の人が理解するための「難聴の聞こえのシミュレーションビデオ」を作成した(積水ハウス制作「視聴覚の老化状況のビデオ」)。約10分のVHSビデオテープには以下の内容が編集されている。 (1)難聴による生活上の問題(高音域に聴力障害がある場合の電話のベルの音の聞こえ,難聴老人と一緒に見る家庭のテレビの音量のうるささ) (2)人間の聴覚の可聴範囲と老化による聴野の減退化 (3)感音性難聴の聞こえの特徴  感音性難聴では,単に音が小きく聞こえるだけでなく,話声は音として聞こえていても歪みが多く,特にノイズや残響のある環境では話の内容が分かりにくくなるといった特徴を,“たけしたさん”という音素材を加工して提示し,同時に映像で模式的に表した(図4)。 図3 聴力障害程度による音声情報量の違い 4.難聴者の音声の了解度と音響環境条件  図5は,音声のレベル(男女各5人の連続談話を録音・分析した)と,教室の騒音のレベル(小学校低学年の国語の授業を教室の中央付近で録音し分析した)とを比較してみたものである。1~2メートル離れた所から話された音声のレベルはすでに,教室内にある騒音のレベルよりも低くなってしまうことがわかる。  図6は,ノイズ(マルチトーカーノイズ)負荷下の聞き取り成績を,健聴者と聴力障害者について調べたものである。健聴者にとっては-5dBのS/N比(雑音に比べて音声が5dB小さい)の条件でも100%の聞き取り能力がある。一方,聴力障害者では,+10~15dBのS/N比(雑音よりも聞きたい音声が10~15dB大きく際立っている)の条件が確保されなければ,本来もっている聞き取り能力が発揮されない。つまり,普通の人に比べ約20dB程静かな環境を用意するのが理想的であると言える。 5.高齢難聴者の聞こえのシミュレーション装置  聴覚及び視覚の老化を擬似体験する「シニア・シミュレーション」のコーナーが,東京ガス新宿ショールームに開設された(平成6年6月)。その中に,一般の来館者がTVモニターから提示される画像と音を手がかりに高齢難聴者の聞こえの困難さを擬似体験するシステムを作製し設置した。 1)システムの構成(図7)(図8) 2)提示方法  難聴者が日常生活で遭遇する6種類の音響環境場面(音楽2種類,屋外場面2種類,屋内場面2種類)がディスプレーされたモニターのタッチパネルを押すと,各々の場面に3段階の加工音素材が,解説的な画像とともに大型モニターに順次提示される。各々の場面に含まれている3段階の音素材は,初めに最も聴取しにくく加工・編集された音/画面が,次いで,比較的聴取理解しやすい音/画面が,最後に通常の音/画面が提示されるように配されている(図9)。 3)音声加工の手順  6種類の音響環境場面に含まれる音源(音声,音楽,動物の鳴き声,環境騒音,マルチトーカーノイズ)を用意し,特に高域の周波数情報を含む音素材や,タ行,サ行,力行などの高域の周波数成分の子音を多く含む音声サンプルが,聴覚の特性と周囲のノイズの影響を受けて聴取しにくくなる様相を,コンピュータを用いて加工・編集した。難聴程度は以下の3段階を想定して編集した。 ①80歳以上で中~高域の周波数の聴力が低下している場合 ②70歳程度で高域の周波数の聴力が低下している場合 ③聴力が正常な場合 ①では,500Hz以上をイコアライザーでカットし,②では,1000Hz以上をカットした(図10)。 図4 感音性難聴の聞こえの模式図 図5 教室内の騒音と音声のレベルの関係 図6 聴覚障害者と聴力正常者のノイズ下における聞き取り成績の比較 図7 高齢難聴者の聞こえのシミュレーションシステム 図8 システムの構成図 図9 タッチパネルモニターの画面 図10 音声加工処理の手順「竹下さん,診察室へお入り下さい」の音声サンプルを加工処理した例 6.まとめ  聴覚障害者の聞こえの特性を,聴力障害の程度,聴力型,感音性難聴と伝音性難聴,音響環境(S/N比)条件などの要因をもとに検討した結果から,高齢難聴者の聞こえをシミュレーションする装置を製作した。近年,高齢化社会に対する認識の高まりとともに,加齢による聴覚能力の減退に対する関心も深くなってきつつある。しかし,難聴によるハンディキャップの様相は個々の能力や生き方などにより多様であることを前提に,真の聞こえをシミュレーションするには限界があることも同時に踏まえる必要がある。特に,音の有無(on/off)を検知する最小可聴値の検査から得られた「聴力レベル」の値の大小と,音を聞いて意味を理解する「聴能」(聴覚的理解能;auditory comprehension)のレベルとは必ずしも対応しないことを認識しておく必要がある。  本論文は,電子情報通信学会教育工学研究会(1994)で発表した「高齢難聴者の聞こえのシミュレーション装置」(信学技報Vol、94,No.278)の内容を,聴覚障害教育関係者向けに著した。 7.文献 1)大沼 直紀:聴覚障害の診断と指導,(小川 仁他編著),pp37-40,学苑社,1991 2)大沼 直紀:聴覚障害者の教室における音声情報受容のシミュレーションビデオの制作に関する研究,平成3年度文部省科学研究費補助金(一般研究(C))研究成果報告書(研究代表者;大沼 直紀),1992 3)中川 辰雄,大沼 直紀:補聴器の評価に関する研究一音声と教室内の環境音の音響学的分析,国立特殊教育総合研究所紀要,14巻,pp55-62,1987 4)大沼 直紀:初めての補聴器-教育における補聴器の役割,聴覚障害,Vol.49,No.4,1994