聴覚障害を補う実務経験体得の建築教育-一級建築士試験問題解答の例から- 聴覚部・建築工学科教授 吉田 あこ・助手 桜庭 晶子・技官 綿引 光男 要旨:本大学の建築工学科は卒業後実務経験3年を経て,一級建築士受験資格が得られる。しかし,聴障を理由に危険の多い現場から遠避けられ,不十分な実務経験で,総合判断を求める一級建築士試験に向かう立場になるかもしれない。なんとか在学中の学習のなかで,実務経験から修得される判断力も含めた授業が行えないか,この試みを人間工学実験の授業の中で考えて見た。まず,通常の授業の中で空間体得させ,自由な発想による提案図面を描かせ,この自分なりの空間思考力を得た後,次に,与えられた図面を見たときも,この空間イメージの中で動作のシミュレーションを行い適格に判断出来るようにし,一級建築士の建築計画の判断力を問う問題を解答させたところ,全員が正解であった。正解に到達するレベルは各自かなり差があるので,今後は一層の知識の定着とイメージの活性化を必要とするが,ある教育方法の崩芽と思われるので,ここに報告をまとめた。 キーワード:一級建築士問題,空間イメージ,シミュレーション,実務経験,聴覚障害,建築人間工学 1.一級建築士資格取得への過程と聴障の問題;  本大学建築士学科は卒業後3年の実務経験の後,一級建築士受験資格が得られる。しかし,一般に短期大学卒業後の就職先での実務経験では,4年制大学卒を主な対象とした一級建築士の受験問題にうまく対応出来るであろうか,種々の危倶がある。  一般に短大は二級建築士資格取得の学力養成所となるため,このレベルの知識だけでは将来一級建築士資格内容にまで伸び得るのであろうか。特に,卒業後の実務経験3年とされる期間に就職先で一級対応への実務充実の機会が与えられるであろうか。とりわけ,聴障を理由に,現場は危険だと判断されることが多い。たとえば,工事現場ではチームで資材運搬や高所への積み上げを行う場合など危険が伴うので,声をかけあって作業の呼吸を合わせて行う。また,危険が迫るとき,物の落下や転倒などでは一般に予知音を伴うのでこれを聞き逃げることが出来るが聴障では気づくであろうか。また,危険な方向へむかっていても,とっさの場合声を掛けても背後からでは気づかず行ってしまうかもしれない。さらに,聴障の中には,平行感覚が悪い人もあり,高所は危険かなどと様々の理由が言われる。こうして,危険性のある現場に出されることが少なく,その結果実務経験上の判断力が問われる試験問題が不得手になりはしないか。  現に,建築工学卒業後の業務内容を調査したのが,表-1であるが,これによると,実務内容で大事なひとつにあたる施工の現場にひとりもいない。その内訳は,1)画面での作業40%,2)4年制大での机上作業20%,3)対人関係での設計20%,である。  このままでは実務経験が不十分のまま総合判断を求める一級建築士試験問題に向かう立場になるかも知れない。そこで,なんとか在学中より,一級建築士に求められる実務経験からくる総合的な判断力を育成する教育方法はないか,この試みとして行われた授業が以下である。 表-1 本学建築工学科の卒業後の業務内容:(平成6年9月調査) 2.一級建築士試験問題の出題傾向;  一級と二級との違いは,一級は鉄筋コンクリートの設計と現場監理が出来る人を対象とし,その知識を4年制大学の建築学科で教え,実務経験2年を経て受験資格としている。一方,二級は主として木造の小規模建築の設計施工資格とした。このために二級取得後,一級に進むためにはさらに4年の実務経験を必要とするのが一般であり,この道は難関とされている。本大学は好運なことに二級を経なくとも,一級がとれる。  さて,一二級の違いを出題傾向から分析すると,一級には鉄筋コンクリート造のための知識や,大規模建築に必設の空調の知識が,そして建築計画では大規模建築の統括者としてのバランス感覚のある判断力が問われている。本研究報告では,この建築計画上の種々の知識を学習した後,さらに実務経験などで身につく空間内での総合的判断力をつける教育を対象に試みを展開した。 3.人間工学実験の体得学習―通常の授業―;  建築計画学は設計製図をする際に,建物の構成空間,たとえば住宅なら,便所・浴室・厨房・寝室。居間などの単位空間の中で,用便・入浴・炊事・就寝。団らんなど一連の動作を行う時にどんな機能寸法が必要かを施設設備の使い方も含めて考察し,これを製図に展開していく知識の分野である。一般大学では,建築計画学は文章と図解で知識を修得するのであるが,本大学では言語力が弱い聴障学生にもわかりやすいように,自分がその人の身になって動作して考える体得授業が人間工学実験室で行われている(“建築人間工学による空間体得の製図教育”1993年,筑波技術短期大学テクノレポート参照)。  さて,教育の試みはまずこの体験学習による,課題“みんなのためのトイレと浴室”を与えた。この内容は,それぞれが普通の成人だけでなく乳幼児,車いす使用者,高齢者(片まひ状)の身になって,人間工学実験室内に設備された可変性の便器や浴槽,洗面器を使い,寸法計測者と記録者の3人1組で,より使いよい空間の機能寸法を実験と討議のくり返しの中で思索し,レポートを作成するものである。  学生の計測レポートを見ると,人々の様々な場面想定がある。父親が子供といっしょに入浴する時の浴室の必要寸法,脳卒中後遺症で在宅介護する時の浴室の必要寸法など。続いて,課題は“みんなのための浴室”のアイデアコンペにうつり,豊かなイメージがもりこまれた作品が出た。たとえば,車椅子対応のもの,高齢者にやさしいもの,リゾート海浜用の物,携帯用のプールユニット,そして遂にはみんなの仲間にアライグマまで入れた露天風呂まで出てきている。  したがって出された答は一律でなく,寸法は上下に幅があり,その動作もやりながら重要と気付いた姿勢の計測値である。こうした柔らかい基礎知識を自分のものにしておくことで,日進月歩の技術変革にも'慌てずついて行けるばかりでなく,時に開発もすることがある。 4.一級試験問題の解答状況;  通常の授業の後,一級建築士の試験問題(図-1)を与え,解答させた。この問題は所要時間平均6分で判断するものであるが,15分間を与えた。ところが5分後に提出したものが30%,6~9分のものが40%,10~12分のものが30%であった。初めての問題への対応時間としては驚く程の短かさと思われる。さて,正解率であるが,これが全員がこの正解の2番に○印をつけていた。実は,この問題のどの項目も実際に設計してあった場合間違いといえない内容である。それだけに,単に局部寸法を文献から暗記した学習ではこれら項目の中から“最も不適当なもの”を洗い出すのに迷うことになろう。しかし,本学生は実体験を持っているので,図面空間を車いすで動き回るイメージが出来,最も不適当な項目が容易に抽出されたと見られる。 図-1 平成5年度 一級建築士試験問題より 5.教育方法の考察;イメージ空間のシミュレーションと知識の定着  各自の空間イメージの中での車いす使用によるシミュレーションによって,なんとか通れるが,使い勝手が悪い箇所をいち早く図面中で見出したという現象であろうか。これは体得学習の結果,全員に不都合箇所の抽出能力がついたともいえる。  しかし,各項目ごとに,どれだけの寸法の幅があり,どの程度が適正かを質問してみると,各自の身につけている知識はかなり幅があり,不安定でもあった。そこで,更に,実験室でこの試験問題の空間を床面に線引きし,本当のところどのような機能寸法が,なぜ必要かを,動作をxyz三方向の箱尺で追い込みながら確認させた(写真-1)。この結果,狭い廊下から車いすが回転しながら入る入口寸法は時に不可能でもあるという鮮明な印象で報告書が作成されてきた。  こうした空間イメージの把握と,この中での動作シミュレーションによる空間機能寸法の理解は,聴障にかかわらず,建築士の資質向上にも極めて有効と思われる。 写真-1 人間工学実験による体得学習; 浴室・トイレを想定した空間内で,車いすでの動作をシミュレーションし必要な空間寸法を測定している。(図-1の建築士の試験問題の回答選択肢4,5を確認している。)