聴覚障害学における「聴覚障害教育の歴史」の授業について 聴覚部一般教育等 根本 匡文 教育方法開発センター 石原 保志 要旨:本学聴覚部の一般教育科目の一つである「聴覚障害学」の内容を構成する聴覚障害教育の歴史に関する授業の実際について,その目標,展開,用いるテキスト,資料,課題,指導上の留意点等の実態を明らかにし,検討を加えた。ここに示きれた具体的な方略は,聾学校における高等部段階の養護・訓練や,専攻科段階の聴覚障害学の指導の場でも有効に活用しうるものと思われる。 キーワード:欧米の聾教育史 日本の聾教育史 養護・訓練 聴覚障害教育指導法 コミュニケーション手段 1.はじめに  筑波技術短期大学聴覚部の教育課程の一般教育科目には,特色ある科目として「聴覚障害学」が含まれている。この科目は,内外における聴覚障害者の教育,福祉,就労の実態及び文化遺産を紹介し,また,聴覚障害者の聴能,言語・コミュニケーション,社会適応の諸問題について解説するとともに,障害の状態を改善するための方法を指導することを意図するものである。  聾学校では,従来このような聴覚障害そのものを内容として扱う教育活動は「養護・訓練」の中でなされてきたが,最近では,特に専攻科の教育課程の中に「聴覚障害学」という名称の科目がいくつかの学校で見られるようになってきた。「養護・訓練」という領域が聾学校の学習指導要領の中に設けられるようになってから既に25年近くが経過するが,その指導は児童生徒の実態に即して進められるべきであるという基本原則もあって,内容がきちんと整理されているわけではない。専攻科に置かれている「聴覚障害学」についても,その内容を構成していくことはこれからの課題であり,実践を重ねる中で少しずつ整理,充実していく必要がある。  このような情況の中で,我々が現在本学で行っている「聴覚障害学」の指導の実際を明らかにすることが,聾学校高等部あるいは専攻科で実施されている「養護・訓練」あるいは「聴覚障害学」の授業の充実に役立つのではないかと考え,本稿をまとめることとした。ただ,本学の「聴覚障害学」については,その全体の詳細を公表する段階には至っていない。今回はそのごく一部である「聴覚障害教育の歴史」に関する授業についてのみ,内容,指導方法,用いる資料等についてその概要を示すことにする。 2.「聴覚障害学」の全体の内容  「聴覚障害学」の年間の指導計画は次のような構成と分担になっている。 (1)聴覚障害者の教育 (4週)根本 (2)聴覚の活用,補聴器 (6週)大沼 (3)聴覚障害者と言語・コミュニケーション (6週)川口 (4)聴覚障害者の心理的諸問題 (4週)根本 (5)聴覚障害者の福祉 (4週)根本 (6)聴覚障害者の就労 (6週)根本  それぞれの項目ごとの内容の概略は既に小畑によって明らかにきれており1),心理的諸問題を扱った時間に得られた資料については別の機会に発表した2)3)が,実際の授業の内容は年度によって少しずつ改められている。また,年度の後半には,手話の実技に関する指導を毎回20分程度の時間をとって行っている。 3.聴覚障害教育の歴史の授業  今回取り上げた「聴覚障害教育の歴史」の授業は,上記の指導計画の(1)聴覚障害者の教育の中で2週にわたって計画されており,欧米の聴覚障害教育の歴史的な流れと,日本における聴覚障害教育の歴史をそれぞれ80分ずつの講義として扱うことになっている。 (1)授業の目標  授業の主たる目標は,欧米および日本の聴覚障害教育の歴史の概要を学生に理解させることであるが,対象とする学生が本学に入学してからまだ日が浅い時期にある1年次生であるので,聴覚障害に関する基本的事項についての理解を深めること,本学に入学してきた意義を考えさせ,これからの勉学への動機付けを図ることをも意図している。 (2)授業の展開  授業の展開はおよそ次のようなものである。 ①欧米の聴覚障害教育の歴史 15世紀まで 言語先天説 言語神授説 言葉を持たない聴覚障害児は虐げられていた 16世紀 教育の可能性の発見 個人教育 上層階級の子弟 ジュエローム・カルダン(イタリア) ペドロ・ポンセ(スペイン) 学校教育の開始 1760年 ド・レべ パリ聾学校 手話法 1778年 ハイニッケ ライプチッヒ聾学校 口話法 1783年 ブレードウッド ハックニー聾学校 ロ話法 1817年 コネチカットアサイラム 1864年 National Deaf-Mute College 教育方法の変遷 ド・レベ 手話法(フランス法) ハイニッケ 口話法(ドイツ法)・・・対立 1880年 イタリア・ミラノ第2回聾教育国際会議 口話法を全面的に支持する決議 ⇒早期教育,聴覚活用,エレクトロニクスの進歩 1950年代以降 聴覚口話法に発展 1970年代 ホルコム トータルコミュニケーション 幼児期からのロ話,手話,指文字の同時使用 1990年代 バイリンガル・パイカルチュラル・アプローチ 幼児期から自然手話で言葉を育てようとする試み 聴覚障害者自身が自分たちのことを考え,発言するようになった ②日本の聴覚障害教育の歴史 江戸時代以前  聴覚障害者は惨めな状況におかれていた 小林 一茶の俳句 和漢三才図絵 寺子屋で教育を受けた障害児もいた 学校教育の開始 1878年 京都盲唖院 古河 太四郎 1880年 楽善会訓盲院 山尾 庸三ら 明治後期から大正期にかけて各地に私立聾唖・盲唖学校が建てられた 教育方法は手話,筆談が中心だった 口話教育の普及 大正期の終わりから口話教育が盛んになり,昭和の初めにはほとんどの学校が口話法になった その要因 日本聾話学校の設立 西川 吉之助の努力,はま子の教育 名古屋聾学校の成果 川本 宇之助の活動  しかし,大阪市立校の高橋潔は適性教育を主張 戦後の教育 1948年 盲聾学校義務教育化 聾学校生徒の増加 幼稚部の設置 早期教育 教育の成果の向上 普通学校へのインテグレーションの増加 教育方法の分化 難聴学級 1969年から 岡山市内山下小 重複障害児学級 1959年から 同時法 栃木聾学校 1969年 キュードスピーチ 奈良聾学校 千葉聾学校など 聾学校における手話の活用 1993年 文部省コミュニケーション手段に関する報告書 筑波技術短期大学 1976年からの設立の運動 1987年 創立1990年 学生受け入れ開始 (3)授業で用いる教材 授業の教材として,次のようなテキストを用意した。 聴覚障害教育の歴史<欧米> 1.学校教育以前の聴覚障害児  かって,聴覚障害児たちは,15世紀に至るまでの長い期間にわたって,教育的にはまったく放置されていたといえる。宗教的な哀れみや,個人的な善意に支えられて生きてきた者もいたであろうが,甚だしい場合には,悪魔にとりつかれた者として山間に捨てられ,河に溺死せしめられることもあった。「言語先天説」や「言語神授説」が信じられ,言葉を持たない聴覚障害児は,能力のない者,教育され得ない者と見られていたのである。  このような考え方は,15世紀末に起こったルネッサンスや,それに引き続く人文主義教育の高まり,初期自然科学の台頭によって,少しずつ変化していった。教育の可能性に着目し,個人的な営みが試みられるようになってきたのである。  16世紀,イタリア人の医師,ジェローム・カルダン(1501-1576)や,スペインのペドロ・ポンセ(1520?-1584)などによる教育がそれである。しかし,この時代の教育は,ひとりの教師によって,少数の生徒を対象にして実施されたものであり,恩恵を受けたのは,王侯,貴族,富豪といった,上層階級の子弟に限られていた。 2.学校教育の開始  聴覚障害児の学校教育は,1760年にフランスのド・レべによって創設されたパリ聾学校,1778年にドイツのハイニッケにより建てられたライプチッヒ聾学校,1783年にイギリスのブレードウッドによってつくられたハックニー聾学校で開始された。ド・レべは,教育の手段として方法的身振り(手話)と書き言葉を用い,ハイニッケは口話法を提唱して,互いにその成果を競い合った。  アメリカでは,聴覚障害児の親をはじめ,関係する協力者が聾唖学校設立の運動を押し進め,ヨーロッパに渡って教育方法を学んだ教師たちの手によって教育が開始された。アメリカ最初の聾学校は,1817年に設立されたコネチカット州ハートフォードのコネチカット・アサイラム(現在のアメリカン聾学校)である。その後,各地に聾学校が増設され,約半世紀後の1864年には,世界で初めての聴覚障害者の大学であるNational Deaf-Mute College(現在のギャローデット大学)が開設されている。 3.教育方法の変遷  前述のように,聾学校教育の初期の時点では,ド・レべの「フランス法=手話法」と,ハイニッケの「ドイツ法=口話法」が対立して用いられていた。その後,1880年にイタリア・ミラノで開催きれた第2回聾教育国際会議において,□話法を全面的に支持する決議がなきれ,各国の聾学校では,口話法による教育が主流となっていった。  20世紀に入ると,アメリカの聾学校で3~4歳児の就学が開始され,1920年代における聴力測定器の開発,1930年代の集団補聴器の開発によって,聴覚活用の教育が推進されるようになった。第2次世界大戦後のエレクトロニクスの急速な進展によって,個人補聴器が普及し,1950年代以降,□話法は聴覚活用の成果を取り入れて,聴覚口話法へと発展した。  聴覚障害児教育が義務化され,多くの子どもが聾教育を受けるようになると,聴覚ロ話法だけでは成果が上がらない子どもたちも見られるようになってきた。また,アメリカでは,高等部段階で「併用システム(Combined System)」として,手話や指文字が利用されていた。そのような状況の中で,1968年,アメリカのロイ・ホルコムが「トータル・コミュニケーション(TC)」の考え方を提唱した。  この考え方は,1970年代に入り,アメリカを中心として,世界全体に広がっていった。即ち,聴覚口話法の他に,手話や指文字が正式に幼児段階から教育実践の場に使用きれるようになってきた。トータル・コミュニケーションは,1976年の第48回全米聾学校長会議において,「聴覚障害者同士,および聴覚障害者との効果的コミュニケーションを確実にするために,適切な聴覚,手指,口話コミュニケーション様式を統合した理念である。」と定義されている。  1990年代に入ってからの話題として,「バイリンガル・バイカルチュラル・アプローチ」がある。これは,アメリカの一部や,スエーデンなどで実践きれている考え方である。聴覚障害者の母語である「自然手話」(アメリカ手話=ASL=American Sign Languageやスエーデン手話)をまず初めに身につけさせ,その後に英語なり,スエーデン語を書き言葉の形で教えて行こうとするものである。「トータル・コミュニケーションで行われているような,口話補助用の手話の同時的コミュニケーション(シムコム)では教育の成果は上がらない,自然手話こそが聴覚障害者の言語である」とする「デフ・パワー」の大きな高まりによって導かれたものである。  この考え方が今後どこまで広がっていくのか,日本の聴覚障害児教育にどのような影響を与えるのか,関心が持たれるところである。 聴覚障害教育の歴史<日本> 1.江戸時代以前の聴覚障害児  中世から近世にかけて,聴覚障害者がどのような境遇に置かれていたのかは,十分に明らかにされていない。「福子」として家族や地域社会の中で大事に育てられた子どももいたが,和漢三才図絵に描かれている絵や,小林 一茶の俳句「しぐるるや 飯椀たたく 唖乞食」などから想像すると,たいへん惨めな状況に置かれた人が多かったことは事実であろう。  江戸時代に各地に置かれた寺子屋では,聴覚障害児を指導したという記録が残きれており,江戸末期には,書物を通し,あるいは実際に留学したおりに,聴覚障害者の様子を見聞したりして,欧米の情報がある程度日本にもたらされていた。 2.聾教育の開始-京都盲唖院と楽善会訓盲院  1872(明治5)年に発布された近代的教育法制の「学制」には「廃人学校アルヘシ」という項目が見られるが,当時「廃人」の中に含まれていた聴覚障害児のために学校がつくられるということはなかった。  わが国で最初の聾学校を設立したのは,京都市第十九番校(後の待賢小)の教員をしていた古河 太四郎である。彼の私的な努力が京都府知事に認められ,1878(明治11)年に盲唖院が開設された。指導法は,筆談と手勢(手話)を中心としたものであった。  東京では,イギリスに留学した山尾 庸三の盲唖学校創設の建白書(1871.明治4年)に端を発した篤志家の運動が実を結び,1880(明治13)年に築地に楽善会訓盲院が設置された。初めは盲児だけが教育を受けたが,後に聾児も入学することとなり,名称も楽善会訓盲唖院と改称された。  両校ともにやがて財政的に苦境に陥り,盲唖院は1889(明治22)年に京都市立盲唖院に,楽善会訓盲唖院は1887(明治20)年に文部省直轄の東京盲唖学校となった。 3.聾唖学校のひろがり  大正期に入ると,各地の名士,宗教家,医師などの手によって,30校以上の私立学校が設立された。どの学校も小規模で施設設備も貧弱であったが,1920年以降,これらの学校が県や府に移管され,盲と聾も分離されて,現在の各地の聾学校へと発展する基礎となった。  教育の方法は,手話,筆談を中心とするものであった。 4.手話法からロ話教育へ  大正末期から昭和期に入ると,教育の方法が,それまでの手話法から口話法へと大きく転回し,1930(昭和5)年頃になると,ほとんどの学校が口話法を採用する状況になった。  この動きを引き起こした要因は次のようなものである。 ①1920(大正9)年ライシャワーによる日本聾話学校の創設 ②1912(大正8)年に口話研究所を開設した西川 吉之助による娘はま子への教育の驚異的成果 ③1920(大正9)年に口話法を採択した名古屋市立校(校長 橋村 徳一)の著しい成果 ④1924(大正13)年に欧米教育の視察から帰った川本 宇之助(後の東京聾唖学校長)の精力的な活動  しかし,大阪市立校校長の高橋 潔・等は適性教育を主張し,聴力が厳しく,口話が困難な生徒には,指文字や手話を用いて教育を行った。 5.戦後の聾学校  第二次世界大戦による動員,戦災,疎開などによって休止状態にあった聾学校は,戦後新しい体制のもとで再出発することになった。  特に,まだ戦後の混乱期にあった1948(昭和23)年から,盲学校と聾学校が学年進行で義務教育となったことは画期的なことであり,未就学であった聴覚障害児が次々に学校に入学して,学校数,児童生徒数が著しく増加していった。1950年代後半になると,各地の聾学校に幼稚部が置かれるようになり,1960年代には,3歳入学による早期教育と,聴覚活用を土台とした聴覚口話法が確立されて,全国に急速に普及した。その原動力となったのは,東京教育大学附属聾学校長であった萩原 浅五郎である。  教育の成果が着実にあがり,聾学校幼稚部修了段階や,小学部低学年で普通小学校に転校していく「インテグレーション」が盛んになった。そのためもあって,今度は聾学校の児童生徒数が減少していく傾向を示し始めた。 6.教育方法の分化  1961(昭和36)年,岡山市内山下小学校に戦後最初の難聴学級が開設され,聾と難聴教育の分離が開始きれた。また,1959(昭和34)年に宮城県立聾学校で聾精神薄弱児のために設置された特別学級も,現在ではほとんどの聾学校に設けられるようになってきた。  1969(昭和44)年に,栃木校が教育の早い時期から指文字や手話を採り入れる「同時法」を発表し,幼稚部段階で発話時にサインを併用する「キュードスピーチ」も,奈良校,千葉校などから全国に広がっている。  トータル・コミュニケーションを指向する世界的な思潮や,成人聴覚障害者からの「ろう教育に手話を」という課題提起に対応して,聾学校でもコミュニケーション手段に対する関心が高まり,文部省に置かれた「聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議」は,1993(平成5)年に出した報告書の中で,手話や指文字を含めた多様なコミュニケーション手段の活用の必要性を明らかにした。 7.筑波技術短期大学の創設  1975(昭和50)年に東京で開催された聴覚障害児教育国際会議は,わが国の聾教育の成果を世界に示す一方,諸外国の情報が導入されるようになった画期的な会議であった。  この会議の成果の一つは,わが国の聴覚障害教育関係者が待望した,高等教育機関の設立に大きな展望を与えたことである。アメリカのギャローデット大学,ナショナル聾工科大学,カリフォルニア州立大学ノースリッジ校などにおける実践報告が刺激になり,1976(昭和51)年に「聴覚障害者のための高等教育機関を設立する会」が発足した。西川 哲治,小畑 修一等の長年にわたる努力と,筑波大学の協力の下に準備が進められ,1987(昭和62)年10月に筑波技術短期大学が創設された。  1990(平成2)年に最初の学生を受け入れた3年制の国立大学は,聴覚障害教育の新しい地平を拓く可能性を秘めたものとして,大きな期待が持たれている。  さらに授業の展開をより具体的にわかりやすいものにし,興味を持つ者に対して補足資料を提供するために,次のような資料を準備し,授業の流れに従って順次提示した。 欧米の聴覚障害教育の歴史に関する提示資料 ド・レべの肖像(OHP) 創立時のパリ王室聾学校の全景(OHP) 1892年頃のギャローデット大学の全景(OHP) ギャローデット大学ビジターセンター内の聾教育の歴史に関する展示コーナーを撮影した映像(VTR) トータルコミュニケーションの定義(OHP) 図書:「ド・レべの生涯」ベザギュ・ドゥリュイ著 赤津 政之訳 近代出版 「アメリカの聾者社会の創設・誇りある生活の場を求めて」ジョン・ヴイクリー・ヴァン・クリーヴ箸 土谷 道子訳 全国社会福祉協議会 日本の聴覚障害教育の歴史に関する提示資料 和漢三才図絵の唖乞食の図(OHP) 小林 一茶の俳句「しぐるるや飯椀たたく唖乞食」(OHP) 古河 太四郎の肖像(OHP) 古河 太四郎識「京都府下大黒町待賢校 唖生教授手順概略」復刻 ろう教育科学22巻 1号 NHK聴力障害者の時間「盲聾教育の創始者-古河 太四郎・生誕150年」(平成7年2月12日放送)の映像(VTR) 楽善会訓盲院の建物(OHP) 明治大正時代に設立された盲唖学校のリスト(OHP) 西川 はま子の声が録音されたソノシート(ろう教育科学モノグラフNo.4 付録) 高橋 潔,萩原 浅五郎の写真(OHP) 戦後の聾学校在籍者数の推移を示したグラフ(OHP) 聴覚障害児のコミュニケーション手段に関する調査研究協力者会議報告書 身体障害者高等教育機関創設の推進に関する陳情書図書:「わが指のオーケストラ」山本 おさむ箸 秋田書店 (4)授業終了後の課題  授業終了後,学生自身が内容を整理復習できるようにするために,次のような課題を与えた。提出された答案は教師によって添削,評価を行った上で返却した。 欧米の聴覚障害教育の歴史に関する課題 1.次の用語の意味を書きなさい。⑤,⑥については,その方法を用いることに対する,あなたの考えも述べなさい。 ①言語先天説 ②言語神授説 ③聴覚口話法 ④併用システム ⑤トータル・コミュニケーション ⑥バイリンガル・パイカルチュラル・アプローチ 2.欧米の聴覚障害教育の歴史を示す年表を作成しなさい。 日本の聴覚障害教育の歴史に関する課題 1.江戸時代の聴覚障害者を描いた和漢三才図絵や一茶の俳句についてどう思うか,あなたの考えを述べなさい。 2.明治・大正期に各地に私立の聾唖学校,盲唖学校を作った人たちをどう思うか,あなたの考えを述べなさい。 3.筑波技術短期大学が設立されるまでの関係者の努力についてどう思うか,あなたの考えを述べなさい。 4.次の人物はどのような活動をした人か,説明しなさい。 ①古河 太四郎 ②西川 吉之助 ③高橋 潔 ④川本 宇之助 5.日本の聴覚障害教育の歴史を示す年表を作成しなさい。 4.授業を実施するにあたっての留意点と実施後の評価 (1)80分を単位とする2コマの授業の中で欧米と日本の聴覚障害教育の歴史を扱うことには,かなりの無理がある。しかし,1年間の「聴覚障害学」全体の授業計画を考えるとき,今以上に多くの時間をとることは難しい。いかに内容を効率的に伝え,確実な学生の理解を図るかが大きな課題である。 (2)歴史の授業は,受講する学生がこれまでに経験しなかった内容を題材として多く扱う。従って,歴史的事象を具体的にイメージさせるために,多くの資料が必要になる。テキストとして文章による表現を準備するだけでなく,視覚的に理解を助ける素材を用意することが求められる。図や写真をOHP化したもの,ビデオの映像,図書等を用いることによって,学生に具体的なイメージを持たせることができたと思われる。 (3)1コマの授業が終了した後に課題を出し,学習事項の定着を図った。歴史的な事象に対する学生自身の考えを述べきせることで,現在の自分と過去の事象との関連を意識きせることを意図した。また,年表を作成させることは,自分の力で学習した内容を整理させる方法として極めて有効であったと思われる。 (4)授業の進行に学生自身が主体的にかかわるようにさせるために,もし過去の時点に自分自身が置かれたらどうであったか,歴史を作ってきた人たちに対してどういう考えを持つか,自分自身はどういう方法によって教育を受けてきたか,等の問いかけをし,自分自身の問題として考えられるようにしむけた。 5.おわりに  聴覚障害学という科目の中では,聴覚障害教育の歴史はぜひ扱わなければならない内容である。2時限の授業を通して,歴史の流れ,その中で生起した主要な事象を学生に理解させ,あわせて本学に入学してきた意義を考えさせ,これからの勉学への動機付けを図るとする当初の目標はどの程度達成されたのであろうか。  授業中の学生の取り組みの姿勢は良好であったし,期末試験の際のこの内容に関連した問題に対する成績も平均62.3%の得点率であったので,ある程度の成果は得られたものと思われる。しかし,個々の学生について見ると,特に普通高校から入学してきた学生の中には,コミュニケーションの不十分さだけでなく,自分のこれまでの経験の中に聴覚障害教育が存在しない者もおり,授業の目標が十分に達成されなかった者もいることは事実である。  今後さらに授業の内容,進め方,用いる資料等について実践をもとにして検討をし直し,改善をしていきたいと考える。 文献: 1)小畑 修一:本学における「聴覚障害学」の指導と学生の印象度筑波技術短期大学テクノレポート1 24-27 1994 2)根本 匡文 石原 保志:言語獲得後に失聴した聴覚障害学生の障害の受容についてろう教育科学会第36回大会資料集3-4 1994 3)根本 匡文 石原 保志 小畑 修一:聴覚障害学生の心理的発達と経験とのかかわり筑波技術短期大学テクノレポート2 37-40 1995