聾教育におけるコミュニケーションを考える-序論として- 聴覚部 情報工学専攻 新井 孝昭 1はじめに  聴者だけの学校はある。しかし,ろう者だけの学校はない。聾学校といえども,教員や事務職員のほとんどは聴者である。しかも,子どもたちが出ていく社会は,聴者中心のそれである。その上さらに,子どもたちが生まれ出ずる家族は,これまた聞こえる人が多いのである。このような社会的環境の中で,聾教育が営まれている。分かり切ったことであるが,ここを出発点にしないと話が始まらない。そして,聞こえない子どもにとって,コミュニケーションが重要であるということをいくら主張しても過ぎることは在りえない根拠がここにある。  本稿では,このことを踏まえ,聞こえない子ども(ろう者)にとってのコミュニケーションを軽視した論述の批判を通して,「コミュニケーション」という言葉をより自覚的にとらえることの必要性を主張したい。 2「コミュニケーション」とは何か  「聴覚障害者はコミュニケーション障害者である」などという言い方を,今でも時々耳にする。しかし,これは,ずいぶんと自分勝手(聴者勝手)な言い方である。実際,コミュニケーションは複数の人間同士の情報のやり取りであり,「コミュニケーションが成立しない」というような言い方は可能であっても,コミュニケーションをしているどちらか一方に,その原因を押し付け固定化するようなことは,言葉の使い方として誤解を招くものである。なぜなら,「聴覚障害」という言葉は,より医学的意味合いをもつ言葉であるのに対して,「コミュニケーション障害」という言葉は,きわめて社会学的(関係論的)な用語であるからである注1)。その点,手話表現における「コミュニケーション」は,この言葉の意味をなかなかうまく表現している注2)。  例えば,聴者の中にろう者がいる場合,聴者同士のコミュニケーションスタイルはろう者との間には成り立たない。しかし,これは,ろう者が「コミュニケーション障害者」であるからではない。聴者の思い通りに情報が伝わらないということだけである。そのような結果を産み出すコミュニケーションを,聴者もろう者と共にしているだけのことである。その意味では,言い方は悪いが,聴者もろう者も「コミュニケーション障害者」ということになる。ところが,もし,聴者が手話で思いを伝えられるならば,相手が同じろう者(聴覚障害者)であっても,そこにはコミュニケーションの障害は存在しないのである。このように,「コミュニケーション障害者」であるかどうかということが,それを規定した聴者自身の状態(例えば,手話ができるかどうか)で決定されてしまうにもかかわらず,そのように名付けてしまうことを,初めに,自分勝手(聴者勝手)と述べたのである。  要するに,コミュニケーションとは,お互いの間の情報の及ぼしあい,伝えあいである。物理的な言葉で言えば,「相互作用」である。そして,相互作用の結果伝わるものが情報ということになる。しかも,やり取りしている情報そのものによっても相互作用は変ってくる。つまり相互作用と情報は互いに独立したものではないということである。だからこそ,コミュニケーションの在り方が重要になるのである。聞こえない子どもの教育に,視覚的なコミュニケーション言語注3)としての手話が必要ということの理由はここにもある。  筆者は,以上のように意味づけをすることで,コミュニケーションの難しさの原因を,個人の機能的な障害の中に求める形で一般化(普遍化)することは避けることができるし,聞こえない人との間に生じるコミュニケーションの貧しさを解消するためのよりどころを用意できると考える。 3「コミュニケーション」の軽視  コミュニケーションという言葉を非常にせまい意味に限ってしまい,この言葉がもつ概念の重要性を無視した次のような発言がある。  (略)ろう教育の専門性と言えば,口話法を支持するにせよ,手指法を支持するにせよ,コミュニケーションの問題に限られてしまっている傾向が見られる。  聾学校はもっと普通に聞こえない子どもたちに勉強をどう教えたらいいかということを考える必要があるのではないか。そのためには,「主体的な」とか「生き生きした」とかいう修飾語を省いたもっと即物的なテーマで実践や研究を進めてみてはどうだろう。(略)  筑波大学附属聾学校の馬場氏によるこの文章は注4),この前後の文章から解釈すると,背景に,子どもに学力を付けて欲しいという親の願いに答えなければならないという気持ちを持ってのことであるらしい。しかし,子どもの学力の問題を「聾学校はもっと普通に,,,考える必要がある」とはいったいどういうことなのだろうか。聞こえない子どもたちにどういう教え方がいいのか,もっと考えるべきと言うのであれば,「コミュニケーションの問題」を横において,「もっと普通に」という言葉は何を意味しているのか。  聾学校において,いや,聞こえない子どもを聞こえる先生が教えるという現状において,聞こえない子どもたちと教師の間のコミュニケーションの問題は避けて通れないはずである。教材作りの段階から,相手が聞こえない子どもであることの事実から逃れることはできないのであるから,聞こえない子どもとのコミュニケーションの問題にかかわらずに,普通に勉強の教え方を考えることなどろう教育の中でできるはずはない。にもかかわらず,「聞こえない子どもの学力とは何か」とか「聞こえない子どもの学力をどのように判断するのか」を問わずに,「もっと普通に」というような暖昧な形で,聞こえない子どもの学力の問題を提起することは,聴者が大多数の社会において,百害あって一利なしである。  さらに,もし馬場氏の提言が,基礎学力をつけるためには,「主体的な」とか「生き生きした」という子どもの実態を本当に必要としないというのであれば,これはもう目的のためには手段を選ばずの教育観といわざるを得ない。何のための基礎学力なのかということになる。それでは,本末転倒であろう。教育目標のなかに「主体的な」とか「生き生きした」という言葉を敢えて入れて自覚化しようとしている意味は,いままでの学校教育の中で,子どもたちのそのような実態が消失してきた姿がみえるからである。したがって,表層的な現象として操作的な問題に矮小化してしまうのではなく,このような修飾語が実態をともなっているかどうかについて,より厳しく実践研究をしていくことこそが,いま必、要とされていると考える。  一方,筆者は,現代思想(1996年.4月)において,言語学的尺度を振りかざした「ろう文化宣言」を批判した注5)。  そこには,聴者中心の社会の中に生まれざるを得ない聞こえない人々の「言語」と「コミュニケーション」において,本来ならば切り離すことのできない部分までを簡単に切り離して論じ切る,「言語(ラング)至上主義」的物言いがちりばめられていたからである。例えば,次の様にである。  中途失聴者や難聴者にとって,それが最善のコミュニケーション手段であろうと,シムコムが“不完全”なコミュニケーション手段であることには変わりがない。シムコムは,日本語の単語に対応したジェスチャーの集合にすぎず,読話の補助手段になる程度で,それ自体,言語としての構造を備えていない。,,,,  これは,一見すると,聾教育と関係しない論述であるが,言葉としての言語(それが,音声的であれ視覚的あれ)を他者が規定して押し付けるという,構造的な意味で類似した問題である。例えば,音声言語である日本語だけが言語であり,ろう者が使う手話は「単なる猿真似(猿には申しわけないが)程度のもの」と見ていた聾教育の時代もあったことを考えれば,このことは明らかである。  もちろん,基本的に音声に頼らないろう者集団がもつ言語は,言語学の興味ある研究対象であろう。しかし,言語学者のソシュールがいう意味で,「手話」を研究対象としての「言語(ラング)」として取り上げることは,一人一人のろう者がもつ他者(特に,聴者)とのコミュニケーションの複雑性を,無視していることに他ならない。そうであるならば,「言語」とか「コミュニケーション」という言葉を,矮小化された舞台の役者におとしめてしまうような,言語学の物差しだけで語り切る論述はできないはずである。そして,もう一つ明確にしておく必要があるのは,このような論述が,「ろう文化宣言」という名のもとに出たものであっても,ろう者だけにその物言いの責任があるというわけではないということである。なぜなら,聴者的な学問体系である言語学を頼りにして,その権威主義的物言いを「ろう文化宣言」がしているからである。ろう者からの物言いということで閉じることはできない。  今まで述べてきたことを教育的行為の問題に戻すと,他者との関係を作りあげていく上で重要な概念となる「コミュニケーション」という言葉を,「たかがコミュニケーション」というような意味合いに限定する論述は,聾教育は言うに及ばず,一人一人の子どもたちを豊かな人間に育てるという学校教育における教育目標の在り方に対する暴言とさえ言えるということになるであろう。 4聾教育におけるコミュニケーション考  聾教育においては,聞こえない生徒の言語活動を保証するコミュニケーションという視点が重要である。その意味では,授業中の教師と生徒のやり取りを,同じ教室にいる他の生徒が把握できないようなコミュニケーションの在り方は,批判されるであろう。なぜなら,同じ教室にいる他者の言語活動を,自ら取捨選択してそれに関わることのできる環境が保証されないことになるからである。もちろん,このことは,生徒同士のコミュニケーションについても同様である。聾学校などでは,机の配置に工夫をしているのもそのためである。些細なようである(本当は,非常に大切なことである)が,机の並べ方一つ取っても,教室におけるコミュニケーションの在り方は変わるのである。学生のおしゃべりをさせにくくするというような観点から,机の配置などを決めるべきではないことは明らかである。本学聴覚部でも,特別に配置が必要な教室以外は,一斉授業に際して,全員の顔がお互いに見えるような配置を取るべきであろう。注4)このことは,お互いのコミュニケーションを大切にしながら言語活動するという実践を,学生自らが行うための重要な環境設定になっているからである。専門知識の教授は,そのようなコミュニケーション環境の中で行われ身についてこそ,聞こえない学生の実学としての意味をもつのではないだろうか。  一方,聞こえない幼児の言語活動・コミュニケーション活動についての問題はより深刻である。それは,幼児教育の場が,幼児自身の表現活動としての言語活動を援助する(援助できる)環境になっていないからである。  聾学校の多くが,音声言語にこだわった聴覚口話教育に見られるように,聴き取り・読み取り・発音という聴者的能力を身に付けることを目標に,その成果を目指してきたからである。そこでは,幼児自身の活動の中心になるべき「遊び」が,聴覚活用の練習のために利用されてしまったり,音世界の境界条件によって,聞こえない子どもの「遊び」が限定されてしまっているのである。また,幼児教育でよく出される「言語獲得の臨界期」の問題は,音声言語だけに限られる問題ではなく視覚的な言語も問題にされる必要がある。ことさら,音声言語のみの言語獲得を強調することは,聞こえない幼児の言語活動を貧弱なものにしてしまう可能性がある。  聞こえない子どもが本来もち得ている視覚的なコミュニケーション能力による活動を通しての幼児の発達観をも想定できずに,聴覚口話にこだわっている現状は,聾教育界の未熟さそのものであろう。早急に,聞こえない幼児自身の言語活動・コミュニケーション活動を軽視し続けていることについての反省的思考に基づく実践が積まれなければならないと考える注5)。 5おわりに  筆者は,「たとえ社会が,聴者中心の仕組をもっているとしても,聞こえない子どもたちにとっての教育は,基本的に,手話が最も重要なコミュニケーション言語となる」という主張をもっている。しかし,本稿ではそのことをまだ論じ切れてはいない。まずは,「コミュニケーション」という言葉を,情報の送り手となりやすい教師の側からの一方的な使用言語としてしまうことに対する問題を指摘したかったからである。「序論として」と副題を付けたのもそのためである。  なお,上記の主張とも関連が深い聞こえない子どもの学力論については,稿を改めて論じたい。 注1)もちろん「障害」という用語は,社会的な許容の程度の問題とも関連して使われる。その意味では,どちらも関係的な用語であると言える。 注2)「コミュニケーション」の手話は,アルファベットのCという文字を右手と左手で作り,顎の前あたりから互い違いに2~3回前後させる。相手との対等なやり取りという意味が表れている。 注3)ここでいう言語とは,言語学的な「言語(ラング)」としての証明をもらったものに限ることをしない。個人個人の具体的な「ことば」という意味で,むしろ,「言(パロール)」としての「言語活動」に近い意味で用いる。 注4)馬場 顕:聾学校と学力「聴覚障害」VOL51 P,3 1996.11 注5)新井 孝昭:「言語学エリート主義」を問う現代思想VOL24-05(ろう文化) P、64-68 1196.4 注6) テクノレポート3(1996)PP.129において,デザイン学科の森 一彦・松井 智両氏による関連した記述がある。 注7)奈良聾学校・三重聾学校・足立聾学校などでは,幼児のコミュニケーン活動を援助する実践が積み重ねられている。しかし,まだほんのわずかな聾学校においてである。