文章構造の視覚化と構造把握力の分析 聴覚部一般教育等 細谷 美代子 要旨:文章表現力の向上のためにはどのような学習プログラムが有効であろうか。これは国語教育において、常に重要な課題の一つである。筆者は、後期中等教育から高等教育の段階における生徒・学生の文章表現力と文章構造把握力とは密接な関連があるとする立場から、漢文の精綴な修辞に着目させた文章構造把握の学習プログラムを実施した。学生が構造を視覚的に表現した図の分析を通して、学生の構造把握力の現状を考察し、次のステップへの有意な示唆を得た。 キーワード:文章構造・視覚化・漢文・修辞・孟子 1.はじめに  文章が書けないというのはどういうことであろうか。およそ次のような段階があろう。 1)書くべき内容なし。 2)内容がないわけではないが未整理。 3)内容有り。整理もある程度できている。 1)は本稿では扱わない。2)・3)に関わる問題点を取り上げる。2)・3)の段階から表現というゴールへたどり着くには何が必要であろうか。  まず、内容さえあれば、ある程度整理することで文章が仕上がるというのは幻想であるということを指摘したい。「思った通り書こう」・「素直に書こう」という働きかけは、初等教育における文章表現活動のスタートに当たっては意味があるであろう。しかし、この種の働きかけや小学校一年生の定番である「せんせい、あのね…」のパターンが有効なのはごく僅かな期間、感想文を中心とする限定された文章表現の場においてである。筆者が考察の対象とする後期中等教育から高等教育の段階においては有効ではない。ことにこの段階から必要度を増す論理的文章表現活動に有効とは言い難い。発達段階と表現内容に即した指導法の多面的な開発が必要である。  レオナルド・ダ・ヴインチ(1452~1519)やデューラー(1471~1528)は遠近法を用いて三次元を二次元の広がりの中に表現することに成功した。今日、遠近法という技法は誰でも知っている技法となっている。教えられずに遠近法を操ること、遠近法を使わずに奥行きを表現することは恵まれた才能の持ち主であれば不可能ではないかもしれない。しかし、並の才能の人間が表現効果をあげるのに、遠近法を承知しているか否かでは違いがあろう。知りつつ使わないのは選択の問題であるが、知らなければ選択の余地もない。  文章表現においても同じことが言えよう。「思った通り書こう」という「呼びかけ」だけでは奥行きのある表現は期待し難い。書くべき内容があり、意欲があってもそれに効果を与える技術・知識・工夫がなければ無駄が多かろう。優れた修辞法に親しみ、文章構造について理解を深めることは表現力の向上につながる。遠近法についての知識さえあれば即傑作が誕生するのではないのと同様、優れた修辞法や文章構造を理解することですべて問題解決ではないことにも留意した上で、一つの試みを実践した。以下にその概要を示し、分析・考察する。 2.文章構造の視覚化-その1-  平成9年度の本学聴覚部一年生対象の「国語」において、『孟子』の一章を取り上げ、孟子の基本思想に関して理解を深めるとともに、この章を用いた構造把握力養成の学習プログラムを実施した1)。  教材として用いた章を次に示す。高等学校の漢文教材としても比較的採用頻度の高い箇所である。 【『孟子』の一章】  孟子(前372~前289)は戦国時代(前403~前221)の思想家であり、その巧みな修辞法はよく知られているところである。孔子(前551~前479)の思想を継承するという自負のもと、仁義を提唱した。その基本的な立場は「性善説」と呼ばれる人間観にある。それは、「人は生まれつきの性質は善である」とするものである。それでは、なぜ世の中に犯罪が発生するのであろうか。孟子の考えによれば、人は生きていく中でやむを得ず悪に追いやられるのであり、犯罪者はいわば犠牲者なのである。為政者にこそ責任が有るということである。学問とは他でもなく、その失われた善性を取り戻すことだともいう。いうなれば、学問というのは人間本来の姿に戻るためのものであるということになる。  この章は全体が端正な対句から構成されており、しかも計算された変化を織り込んでもいる。文章構造を学ぶには適切な箇所である。このうち下線部について、深く掘り下げることとした。当該部分の構造を示せば図1のようになる。  右から左へ向かって一対の語を軸にした論理的展開が現れること、また、上から下へ向かっては対語を変化させながら同一の骨格の表現が整然と並ぶことが分かる。すなわち、縦横二方向に、それぞれ「同」と「異」の二要素が存在するという構造である。原文をたどれば分かることだが、文章の展開に二カ所の屈折点(第一段末から第二段・第二段末から第三段)のあることが構造の核をなしている。それは視覚化することでより鮮明になる。 学習プログラム ア 本文を読み、意味内容とともに全体の構造を把握する2)。 イ 図2の用紙に下線部分の構造が視覚化されるように原文の語句を記入し、11にタイトルを記入する3)。 ウ 本来空欄の部分に、前後左右の構造・修辞を考えて「漢作文」した語句を記入する。 2.1 イに関する考察  課題イにおいて考察すべき着目点は三カ所である。 a 4と5が空欄になり、下段に移って転記すべきことが理解できたか。 b 12~15が空欄になることが理解できたか。 c 11のタイトルとして、対をなす適切な二語(死と不義)を記入できたか。  学生の正解・誤答の自己申告の結果は次の通りである。これはプログラム終了後に一人一人が作図経過を振り返って、自己の記入内容・判断を答えたものである。したがって、たとえばP5の学生は最初aで間違えたが、その間違いに気づいたあとは、b・cに適切に対応したということである。 以下に正誤パターンを軸に考察する。 P1 おおむね問題なし。 P2 cは未記入であった。もう少し時間があれば正解に到達していた可能性も高い。 このP1・2に属する学生には構造を把握する力と視覚化するための表現力が認められる。適切なサポートによって一層の向上が期待できる。 P3 aはパスしたが、bでつまずいた。bはaよりやや難しい。「二者不可得兼」のような目印がないことが響いて表3の数字になっている。bの誤答者には16に入れるべき語句を12に入れた後、立ち往生したものが目立つ。第二段と第三段の対応関係の把握は「甚」・「故」の二字に着目できたか否かにかかっている。 P4 「死」と対になる語をつかめなかった。「不義」という語にたどり着かなかったのは、構造把握力より、抽象的語彙の運用力の問題で、構造を把握する力はP3と大きな差はない可能性がある。 P5 aでつまずいたが、より難度の高いb・cで正解に至っている。構造把握力はP1.2の層に近いと思われる。 P6 cを「不義と死」とした。「不義」という語にたどり着きながら、「対をなす二語のうち、より重大な意味を持つ語が後置される」ことを見落としている。結果として一問正解に止まったが、理解は二問正解者の層に近い。cの正解者13名の中にも、「不義と死」「死と不義」の差に自覚的でないものが潜んでいる可能性があり、今回調査ではこの識別に難があった。 P7 屈折点二カ所を見落としながらcに正解。この中には上に述べたような自覚的でないまま正解に達したものも含まれると思われる。また、「不義」という語は原文にはないが訳文にはあったのでそれに助けられた学生もいる。「生」が「死」に変化していることに着目して「義」と対立する語は何かと考えさせたが、否定の辞を用いて造語することに困難を感じたようである。中には「非義」という記入もあった。 P8 訳文によって意味は分かったつもりでいるものの、構造がつかめていなかった学生群である。16に入れるべきものを4に入れた学生もいる。これは本来a・○と見なすべきであろう。同時にこのタイプはbに正解できなかったとも言い切れないところでもある。それに該当するものは2名である。中には文章と表の関係が飲み込めず作業に入れなかったもの、関係は理解できたが表への記入が適切でなかったものもある。把握力が一番弱いこの層に対するプログラム開発が急務である。 2.2ウに関する考察  課題イを完全に終了していることが課題ウに進む条件になる。課題ウを完成させると図3のようになる。 課題ウに関する学生の記入内容を基に考察を進める。 図1 概念図 図2 記入用紙 表1 正誤パターン別人数 表2 正解数別人数 表3 着目点別正解人数 図3 完成図 調査人数21人 表4 記入内容別一覧 4.5  正記入者11名のうち、イ・a正解者は6名である。誤記入者4名のうち、2名は16に入れるべきものを記入している。この誤りは全体が三段構成になることへの理解が十分でないことに起因する。  未記入者6名のうち、イ・a正解者は3名である。「魚」と「熊掌」を誤ることを予想していたが、予想に反してこの誤記入は0であった。この4・5の漢作文は12以降に比べると易しく、正記入数も多い。 12・13  誤記入のうち目立つのは「……我所欲也」としたもので、5名もいる。この誤記入は事前に予想されたものであった。ケアレスミスとして処理すべきものではなく、やはり、理解不足と厳しく現実認定すべきであろう。 14  原文の「二者不可得兼」の解釈にやや問題力訂残る所である。つまり、ここは「二者不可得兼取」と取るべきであるというのが筆者の考えであるが、「故不為筍得也」に基づき「得」を「取」と同義と見る考えもあろう。「得」を「取」と見るなら語順は「二者不可兼得」でなければならないが、例外的な語順を取ることもなくはないこと、本学の学生にここまで要求するのは適当ではないと判断し「二者不可辞兼」を許容した。ただし、学生には問題点を説明した。 15  正解者の少ないことはやむを得ないが、1名というのはやや寂しい。また、誤記入のうち過半が「舎死而取不義者也」としたことは、意味理解のレベルで十分でないと解釈すべきであろう。むしろ未記入者の中に上記の誤答レベル層より理解の度合いの高いものが潜んでいる。すなわち、「患」・「辞」に留意したとき、この語をどう位置づけるかで悩んだ学生群である。 2.3全体的な考察  分析結果から、基礎的な力をすでに有している層、現在の水準はやや低いが今後適切な学習を積むことで向上が期待できる層、本学における日々の学習にやや不安のある層の三層の存在が観察された。課題イからは表1のP1・2・3・5・6計10名、P4・7の計7名、P8の7名の三層に分けられるが、これに課題ウの結果を加味して修正すると、三層の比率はほぼ1:1:1と考えるのが妥当であろう。 3.文章構造の視覚化-その2-  2の学習プログラムの結果をふまえて、やや発展的な試みを期末試験において実施した。用いたのは『孟子』の次の章の下線部である。これは2で用いた章の少し後の部分で、内容的には既知のものである4)。 【『孟子』の一部】  量的な負担を軽くするよう配慮している。その理由は、学生に一定の時間的制約の中で文章構造を把握し、かつその構造を視覚化するという二項目の作業を課し、その達成度を測ろうとする以上、量的処理能力が介在しないことが望ましいためである。また、個々の学生の構造把握の実際をつかむために、所与の枠組みのないことも意味があると考え、表の枠組みを各自の工夫に任せた点が2の学習プログラムと異なる点である。 3.1考察  枠組みを提示しないという一点で難度は確実に上昇する。表の枠組みを自分で決めることは予想以上に困難であったらしく、答案内容は期待したレベルに達しなかった。試験問題全体は大問三問の構成で、この問題は最後の問題であったために、時間配分の関係から十分な時間を充てることができなかったということも考えられはする。しかし、時間の問題よりも自分の理解を図示して表現するということに困難を感じた学生が多いように思われる。  次に、図4・5として二例を示し、考察する。図中の※印は2の学習プログラム中の課題ウを適用して学生が自分で補った、原文以外の部分であることを示す。 答案例1(図4) ①「踏」は「路」とあるべきところである。 ②この学生は「学問と仁義」という段を設定した。おそらく「学問之道無他」の句の扱いに難渋したのであろうが、すでに「仁・義」の段が設定されている以上、ここで「学問と仁義|の段を設けるのは無理がある。授業で扱った三段構成に拘泥したのかもしれないが、それは「起承転結」の「結」に当たる部分であることが十分に把握できなかったことの証左でもあろう。 ③④「放其義」・「放義」は「放其路」・「放路」とあるべきところである。 以上のように四点において不備な点があるものの、提示した原文の視覚化に関しては問題がない。この章で注意すべき点は「義人路也」と「舎其路而弗由」の位置である。うっかりすると「舎其路而弗由」を「仁と人の心」の段に納めがちである。つまり「A-B,B′-A′」という仕掛けを単純に「A-B,A′-B′」ととらえがちな箇所なのであるが、その点も正確に把握できている。授業での学習を生かそうというファイトがプラス・マイナス両面に作用しているケースである。 答案例2(図5) ①ここは「放其心而不知求」でなければならない。もし、ここに「舎其心而弗由」を置くなら、図4の答案例1のようにもう一枠を設定しなければ整合性がない。 ②「有放路」は「有舎路」である。  以上二点において不備であるが、基本の構造は把握しており、視覚化もほぼできていると判断される。余分な記入がない点は、自己の内でかなり整理できていることによると思われる。この点でも評価に値する。この学生は自分で国語が苦手だと思い、実際、他の問の答案内容は芳し<ないのであるが、二回の「文章構造の視覚化」という課題では良好な成績を示した。このようなタイプの学生が長所を伸ばして総合的な国語力をつけ得るようなプログラム開発も今後の課題である。 図4答案例1 図5答案例2 4.むすび  本稿では、「文章構造の視覚化(その1・その2)」の分析を通して、本学聴覚部学生の文章構造把握力について考察した。その結果、把握力における三層の存在が明らかになった。また、「文」レベルの表現能力は非常に低く見える学生の中に、構造を洞察する力・理解内容を視覚的に表現する力に優れたものがいることも明らかになった。  「て・に・を・は」の完全習得は文章を書くための必要十分条件であろうか。否である。「文」を書けないことと「文章」を書けないこととは、似て非なるものであり、峻別されねばならない。  初等教育レベルの文章表現指導と高等教育レベルの文章表現指導もまた、共通項を有するものの、完全に同一ではあり得ない。したがって、聴覚障害学生の文章表現指導において、「て・に・を・は」の完全習得を待って次の段階へ進もうというのは必ずしも有効ではないと思われる。いうまでもなく、助詞・助動詞・自動詞と他動詞等の適切な運用は言語表現における基本であるが、教育計画の策定に当たっては、とどまるか・進むかの見極めもまた重要である。  国語教育の分野においてはその見極めの根拠と当否を数値で表示しがたいことに鑑みれば、臨床的に個々の実践・活動を徹底的に分析・検討することによって教育計画を構築していくべきであろう。 注 1) 筆者はデザイン・機械工学・建築工学の三クラスを担当している。 2) 毎時間用意しているその日の授業解説プリントに孟子の人物と思想の基本に関して解説文を載せ、意味内容の理解を助けた。さらに、作業に先立ち、授業者からの解説を加えた。また、配付資料は訓点付き本文を主として、書き下し文・訳文も添えた。これらは学生の本学入学以前の漢文学習のレベルが様々であるという実態を考慮したものである。 3) 何カ所力、の空欄ができることは予め知らせた。また、表の縦横の構成に関しヒントを与えた。 4) 出題に当たっては訓点付き本文を示し、参考として書き下し文・訳文も添えた。他に次の条件とヒントを提示した。 条件1 表の枠組・文字配置は自分で工夫する。 条件2 漢字で記入する。送りがな・返り点は不要。 条件3 「哀突」の二字は感情表白であるから、除外して良い。 ヒント1 孟子の基本思想を考える。 ヒント2 「起承転結」