国立聾工科大学(NTlD)における基礎教育カリキュラム改革から得られるもの -基礎学力の向上と個々の適性一致- 聴覚障害系一般教育等 土田 理 要旨:平成8年度で、3年間にわたった国際学術研究である「聴覚障害者を対象とする日米大学間の高等教育に関する比較研究」が終了した。その研究の一つである「カリキュラム」領域においては、NTIDにおける夏期体験学習SVPや基礎課程カリキュラム改革の柱であるFYEから、基礎科目カリキュラムのあり方についての多くの知見が得られた。特に、学生自身が自らの基礎学力を的確に把握し、希望の職種に対して要求されるレベルにまで高めていくための学習面と心理面におけるサポート体制の確立は、筑波技術短期大学でも必要とされるものである。 キーワード:聴覚障害、高等教育、カリキュラム、NTID 1.はじめに  筑波技術短期大学は、国立聾工科大学(National Technical Institure for the Deaf, 以下NTID)と平成4年10月に姉妹校となった。そして、平成6年度より3年間にわたって、文部省科学研究費補助金(国際学術研究)を受けて、「カリキュラム」、「教育方法」、「職域開拓」、「学生交流」の4本の研究テーマを掲げた「聴覚障害者を対象とする日米大学間の高等教育に関する比較研究(A Comparative Study of Higher Education for the Deaf at Colleges in both Japan and the United States)(研究代表:根本 匡文 課題番号:06045060)」を行ってきた。  ここでは、「聴覚障害者を対象とする日米大学の教育実践」と題した学術研究最終報告書の中における筆者の分担領域である「カリキュラム」に関する内容を掲載する。 2.本学入学生の高等学校卒業までの科目履修状況  筑波技術短期大学・聴覚部(以下、本学)は毎年50人の聴覚障害のある新入生を迎えている。入学後は一般教育科目と同時に専門科目の履修も始まることになる。しかし、入学生の基礎学力と高等学校卒業までの履修状況に大きな隔たりがあるため、一般教育・専門科目ともに、学生・教官ともにかなりの困難を伴っての出発となる。これは単一の原因に根差した問題ではないため、その状況を打開することは大変に難しい。しかし、準学士の資格に応じたスキルレベルを学生が獲得して卒業していかなければ、本学の使命は果たされないことを考えると、入学以前の諸問題に固執するよりも入学後の教育・学習の可能性とその方法に着目して問題解決を図ることがより重要となる。  理科I、選択物理を例に挙げて、平成3年度から平成8年度までのデザイン学科を除いた本学入学生の履修状況を示したものが、図2-1,2-2である。調査は、学生の自主的判断にゆだねているので、細部における正確さに欠ける点はあるが、概略は示されていると考えられる。  図2-1より、理科Iに関しては、年を経るごとに僅かながら1/3以上を履修した学生の割合が上昇しているが、大きな年度差はみられない。しかし、理科Iの全領域(物理・化学・生物・地学)を履修した学生の割合は1993年度(平成5年度)をピークに減少している。  必修科目の内容が履修されていない原因としては、これまでは主として聴覚障害のある学生の学習困難』性と、それに関わる聾学校における履修の特例措置があげられてきた。しかし、現在は、聴覚障害に関わる問題だけではなく、新学習指導要領の施行も原因の一つと考えられる。新学習指導要領は、高等学校においては1994年度(平成6年度)より施行されたが、そこでは理科Iのような全領域必修の理科が廃止されている。そのため、学生が苦手とする物理、地学の領域が大学などの入学試験に含まれない場合、旧課程の理科Iにおいても学習内容からも除かれ始めたと予想されるのである。この傾向は、図2-2の選択物理の履修状況とも一致している。1993年度を境に、選択物理の全領域を履修してきた学生の割合は減少傾向にある。現在の2年生以上では、物理をまったく履修していなかった学生が約30~40%いることになる。つまり、1クラス10人中約3~4人程度はまったく物理分野を履修していなかったことになる。  近年、高等学校段階で物理を選択せず理工系大学・学部へ進学する健聴の学生数が増加しているので、このような状況は、本学だけに限ったことではない。しかし、本学のような技術系の大学においては、入学後に必要とされる基礎科目が学習されていないということは、入学後の高等教育の成立可能性をも左右する事柄であると考えられる。  平成9年度からは新課程を受けてきた学生が入学してきている。科目が異なるため平成8年度までと同じグラフに示すことができなかったが、平成9年度4月に行われた調査結果からは、同様の傾向が見られた。そしてこの傾向は、今後年度を経るにしたがって、さらに強くなることも予想される。 3.NTIDにおける基礎科目カリキュラム改革の試み 3.1 NTIDの概要  NTIDは、ロチェスターエ科大学(以下、RIT)にある9つの学部の一つである。RITには毎年約1100人の聴覚障害学生が在学し、そのうち約70~75%がNTIDにおける技術教育を受け、残りの約25~30%がRITの他の学部で健聴学生と共に学んでいる。  学生がNTID単独で取得できる基本的な資格と学位には、次の3種類がある。 種類 修業年限 Certificate(修了証明) 1年 Diploma(卒業証明) 2年 AssociateDegree(準学士) 3年以上  教育課程が日本と異なるため一概には比較できないが、certificateは日本でいうと専門学校修了と同程度であり、Diplomaは2年制短期大学卒業と同等であり、学位ではない。本学は、3年制短期大学であるので、NTIDと比較した場合、Associate Degree相当となる。Associate Degreeを取得後、さらに高度な教育を受けたい場合、学生はRITの専門学部へ進み、Bachelofs Degree(学士、+2年以上)や、Master's Degree(修士、+3年以上)、さらにDoctor's Degree(博士)の基本的な学位が取得可能である。  NTIDの資料によると、NTIDに入学した学生の約6%が前期終了までに大学をやめ、1年次終了時点で入学生の約30%が大学をやめている。在学して最終的にAssociate Degreeを取得する学生は、入学生全体の約40%、さらにBachelor's Degreeを取得するのは入学生全体の約10%前後である。そして、何等の学位も取得できないで大学を去る学生が約50%いる。この中には、入学時からCertificateやDiplomaだけの取得を目的としている学生もいるため「落第」という言葉は単純には使用できないのであるが、本来は準学士以上の学位取得を望んでいるにもかかわらず達成できなかった学生も多く含まれている。NTIDの分析では、卒業生を増加させるための方法として次の4点を上げている。 ・入学時点でのスクリーニング ・基礎学力の向上 ・専門性の向上 ・早期における進路確認と調停 ・サポートサービス  そして、共通する問題点として、学生自らの進路決定の重要性を上げている。これは、自ら納得できない専門分野に進んだ学生のうち3年間を修了した者は、わずかに30%であったという結果からもたらされたものである。 3.2 SVPの提供  入学後の適切な進路決定を促すために、NTIDでは、入学希望者に対する入学前の体験学習の機会を設けている。これが、SVP(Summer Vestibule Program)である。SVPは、入学願書を提出した学生に対して新学期が始まる前の夏季休業中の約3~4週間にわたって行われている、各専門分野の体験学習・体験実習の総称であり、参加は自由である。参加者数は、RITに入学する全聴覚障害学生数の約25%~30%である。  1992年から1994年までのSVP期間中の調査によると、SVP参加者のうち入学願書を受け付けた時点で、全体の48%の学生が主専攻を決定していなかった。そして残りの52%の内19%はNTIDにおける3年間のコースを主専攻とすることを決定しており、残りの33%はNTIDのCertificateやDiplomaのコースや、数学や英語の基礎学力に疑問はあるがNTID以外のRITの学部へ進むことを決めていた。SVPが終了する時点で、再度調査を行ったところ、何らかの主専攻を自ら決めていた学生の内、39%は主専攻の変更を行っていた。したがって、新学期に入学した学生の13%のみが、完全に自分の主専攻を決定していたということになる。そして、SVP終了時点では、全体の92%が主専攻を決定していた。  SVPによって主専攻を決定することは、SVPに参加した学生に対してはある程度の効果をもたらしたのであるが、入学1年後の全在籍率は1981年に75%であったものが、1990年には68%へと低下するという結果となってきた。  この原因として、NTIDの専門委員会では、次の点を上げている。 ・SVPでは、専門領域における適性を中心として体験学習と実習を行っているので、例えば数学や英語の学力がどのように専門領域に関係しているのか、学生には不明瞭である。 ・自らに合った適切な主専攻を決定するために、自らの基礎学力を把握する必要があるが、その点に関してはSVPでは提供されなかった。  そして、SVPの短期間の内に主専攻を決定させることが、結局、主専攻に満足せず大学を離れていく学生の数を増加させる原因となったことを示唆している。 3.3 FYEへの転換  1990年秋よりNTIDでは、Dr.Meath-Langを座長とするStrategic Planning Committeeを発足させた。直訳では、戦略計画委員会となるが、これは21世紀へ向けてのNTIDの将来構想委員会である。この委員会では、研究からカリキュラムにわたる全8項目の改革案を、計画段階のレベル1から実施段階のレベル4までの階層に分けて作成している。そして、1992年6月に当時の学長であるDr.Castleに最終案である「STRATEGIC PLAN: An Agenda for Action」が提示された。  その中のカリキュラムに関する内容で、前節で述べたSVPに変わるものとして、FYE(First-Year Experience)を提案している。FYEの大きな特徴としては、次の点がある。 ・SVPが参加自由な主専攻選択のためのプログラムであったのに対して、FYEは新入学生全員を対象としている。 ・FYEは、1年次の3クオータ期間(9月から翌年5月まで)の長期にわたっている。 ・数学や英語などの基礎学力を積極的に評価して、主専攻選択のための礎とする。 ・履修内容すべてが基礎科目ではなく、初歩的専門科目も加えて、学生自らの職業選択への意欲と機会を与えている。  そして、FYEを実施するために以下の4つの目標を上げている。 1)基礎学力と専門技術 ・大学で必要とされる基礎学力を伸ばすための学習機会の提供 ・専攻分野で必要とされる基礎的専門技術を向上させるための学習機会の提供 ・基礎学力と基礎技術力が適応される専門領域の内容を含んだ、初歩的専門コースの提供 2)評価と職業・主専攻の決定 ・新入生に要求される技術、興味、意欲、学習スタイルなどに対する評価 ・学生の能力と興味に応じた専門プログラム選択のための、職業・専門領域調査と意思決定活動の提供 3)履修計画のアドバイスと開発 ・目的が明瞭で学生に十分に情報公開された、包一括的アドバイスと指導体制の提供 ・学生が示した学力と興味の評価に基づいて、各学生に応じた柔軟な履修計画を職業カウンセラーや学部担当アドバイザー、各学部長が開発できる体制の独立化 4)サポートサービスと生活技術 ・統合化された学生サービスのシステムへの学生の適応 ・個性と社会性のいっそうの発達を促す機会の提供  1992年のSTRATEGIC PLANでは、FYEはレベル2からレベル3(実施直前段階)まで早急に計画されるべきであると答申されている。その後、FYEの計画は、Center for Arts and Sciencesで行われた。これは、人文・自然科学教育センターであり、日本では基礎教養科目を担当している部署にあたる。Center for Arts and Sciencesでは、学生の実態、専門分野からの要求をお互いに反することなく、実現可能段階まで高めるために、FYEの計画には十分な注意が払われている。そして答申から5年後の1997年秋からFYEは本格実施されている。 4.NTlDのカリキュラム改革から学ぶべきこと  本学のカリキュラムにおいて真に考慮しなければならないのは、聴覚障害がもたらす学習の困難性克服と、本学で要求される学習レベルの獲得をいかに両立させるかという点であろう。  高等教育機関における学習では、既習の知識体系に検討を加えながら、新しい知識を組み込み、その関連性を把握する、という流れが重要となる。複数の事柄を抽象的に関連づける学習活動は、健聴者にとっても慣れるのに時間が必要であるが、聴覚に障害がある場合は、さらに困難な状況となるようである。聴覚障害者のこのような学習困難性は、言語獲得の問題、抽象的思考力の問題に起因しているといわれている。しかし、本学の立場は、それらの諸問題を追認することではなく、それらを解決しながら、聴覚障害者に対する高等教育の可能性を具体的に示していくところにある。  NTIDにおけるSVPやFYEなどの試みを参考にしながら、基礎科目カリキュラムの側面からこの具体化を捉えると、以下の大項目が上げられると思われる。 ・入学試験前の入学後適性診断の実施 ・基礎学力診断法の確立 ・多選択可能な基礎科目課程の提供 ・学年途中における学科変更に対するサポート体制の確立 ・学力レベルに対応した卒業時期の選択  これらの項目において共通している内容は、個々の学生の高等学校卒業までの履修状況と評価に基づいて、学生が自らの基礎学力を認めた上で、専攻とする専門分野において必要とされるレベルまで学力を高めることのできる機会と環境の提供である。  卒業時期の選択などは、従来の日本の高等教育機関では行われなかった事であり、戦後の日本の教育体制には馴染まないものである。しかし、思い切った教育課程改革を行わないことには、自ら問題を見つけて解決していく姿勢が問われる社会において、活躍できる卒業生を将来的に送り出せないことになってしまう恐れがある。 5.おわりに  この国際学術研究を共に行ってたNTIDは、今年で創立28周年である。そして、その間、国家体制や教育観は異なっているとはいえ、様々な教育課程上の問題や技術者育成の困難を経験し、乗り越えてきた実績がある。国が異なるからお互いの実績は生かせないという言葉は、将来を計画する上で何等の役にも立たないものである。教育課程の上で、認めるべき点と認めることのできない点について、具体的資料やデータを基にして議論し、的確で明瞭な評価と判断を下すことが、これからの課題であると筆者は考えるのである。 6.参考文献  本報告書は「聴覚障害者を対象とする日米大学の教育実践」の抜粋である。報告書の中では、以下を参考にしている。 ・文部省、高等学校学習指導要領、文部省、1989 ・文部省、盲学校、聾学校及び養護学校高等部学習指導要領、文部省、1989 ・渡辺 隆、数学実力テストと履修調査で見た聴覚障害学生の学力の傾向、筑波技術短期大学テクノレポート1,1994 ・土田 理、聴覚障害者を対象とした一般物理学実験のありかた、ろう教育科学会第35回大会資料、1993 .NTID,STRATEGIC PLAN: An Agenda for Action NTID,1992 .DeCaro, J., Post secondary Education of Deaf Students: The NTID Experience,The International Conference on Higher Education for Students with Disabilities, Tokyo, Japan,1993 ・Walter,G.,Persistence of Deaf Students at RIT,NTID. Post secondary Career Studies,1995 ・Walter,G., Education and Work, Intemational Congresson Education of the Deaf, Tel Aviv, Israel, 1995 ・RIT, Undergraduate BuUetin 1995-1996,RIT,1995 A Direction of Curriculum Shifting at NTD and Our Tasks for the Future of TCT Satoshi Tsuchida Dep. of General Education for the Deaf SUMMARY We have finished the University-to-University co-operative research program with NTID. The program was named "A Comparative Study of Higher Education for the Deaf at Colleges in both Japan and the United States." And we have gained knowledge for designing and planning the curriculum on liberal arts and sciences from the idea of SVP and FYE at NTID. Their new system would assist their students in evaluating their own achievement level and improving it to required for vocational skills. We also should establish a new strategy on curriculum to realize the future of TCT. KEYWORDS Hearing Impaired, Post Secondary Education, Curriculum, NTID