聾教育におけるコミュニケーションを考える-新入生の事例を通して- 新井 孝昭 (聴覚部情報工学専攻) 1.はじめに  筆者は、昨年(1997年)のテクノレポート(4号)で、聾教育における「コミュニケーション」の重要性について、いくつかの事例を具体的に批判することを通して論じた。それは、例えば自然科学の中で「相互作用」という概念が、さまざまな自然現象を認識していく際の基本的な概念の一つであるのと同じように、教育という行為においては、それを意識しているかどうかに関係なく、「コミュニケーション」がきわめて基本的かつ重要な概念となるからである。  もちろん、「コミュニケーションが大切である」と言うだけでは絵に描いた餅のようなものであり、それを自覚化することは難しい。そこで、本レポートでは、筑波技術短期大学(以下、本学とする)における事例を通して、聞こえない学生にとってのコミュニケーションの重要性についてより具体的に論じることにする(注1)。  しかし、本学には聴覚活用が「楽に」できてしまう学生もおり、そのような学生に関わるコミュニケーションの問題は別の事例の検討を通して論ずるべきと考える。 2.事例から  少々の不安を持ちながらも、他の大学(短大)と比べてより良いコミュニケーション環境の中で学生生活を過ごすことができるとの期待を抱いて本学聴覚部に入学してくる多くの学生達の中から、本事例は生じた。それは入学後間もなく、次のような形で表面化した。  まず、教員に対しては授業の欠席という形であり、親に対しては大学を辞めたいというファックスであり、友人に対しては、誤解を与えてしまいかねない排他的ともいえる言動・行動であった。始めはクラスのコンパにも参加をしていたのだが、だんだんと部屋に閉じこもってしまうことが多くなっていったのである。そして、入学からわずか2ヶ月足らずで自ら行き着いた解決方法は、自分には合わないところであったということを理由にして本学を辞めるという言い方であった。もちろん、表層的に見れば一般の大学でも似たようなケースはあることであり、そう大袈裟に構えずに、本人も早く気づいたのだからやり直すことはいくらでもできるということでの教育的見方ができないこともない。しかし、聞こえない子どもを取り巻いているコミュニケーション環境の特殊性を考えたとき、このような状況を潜在的に抱え込んでいる学生が、今後も本学に入学してくるという事を真塾に受け止めざるを得ないことも事実であろう。したがって、聞こえる学生も同じようなことをやっているという類似性を強調するのではなく、このような状況に至った過程についての注意深い分析とそれに基づく判断が必要になると言わざるを得ない。  さて一方で、心理的な悩みの中で思い込んでいった本人の心境は、本来、当人以外知る由もないことであり、下手な詮索はするべきではないことは当然である。しかし、本事例のような出来事を学生本人の責任にのみ帰することのないようにするためにも、批判を覚悟であえて分析を試みる。本学を目指し入学してきた学生が、このような選択をした(せざるを得なかった)ことに対するそれ相応の因果関係(注2)を我々も共有していると、筆者は考えるからである。もちろん、教育的関わりをせざるを得ない者としては、事例から見えてくる関係論的な視点がきわめて重要な視点であると考えるので、特殊性ということを個人の問題としてのみ取り上げて論じてしまうのはなく、抽象度をもった関係論的視点をも踏まえて考察することにする。 3.問題の所在  まず、本事例の中で見えてきたコミュニケーション環境の問題を整理しておく。それは、入学以前のコミュニケーション環境と入学後のコミュニケーション環境との「ずれ」が、学生の抱え込んでいた内在的な問題を顕在化させたということである。さらに、その内在的な問題とは、聞こえる人たちに囲まれたこれまでのコミュニケーション環境の中で刷り込まれてきた問題でもある。  本事例のようにろう学校をほとんど経験せずに入学してくる場合(一般校から入学してくる場合でも、ろう者とのコミュニケーション環境をもって入学してくる学生もいる)、当然のことだが、入学前のコミュニケーション環境は、聞こえる人たちに囲まれたコミュニケーション環境であり、入学後は、聞こえない学生たちに囲まれたコミュニケーション環境となる。ここに、今までのコミュニケーション関係とは違ったずれを生じ、様々な葛藤が生まれることになる。この葛藤に対して、「5月病のようなものとか麻疹のようなものだから、-度はかかるのもしょうがない。放っておけば慣れてくるよ。自分で乗り越えなくてはね。」というような言い方もできないことはない。確かに、そのような見方が必要なこともある。しかし、今回のような事例をそれに当てはめて論じることが適当かどうかは疑わしい。なぜなら、具体的な状況から判断して、放っておいたのでは、辞めるという形で本人が結論をつけてしまう可能性が非常に高く、聞こえない学生が深い所に抱えている問題を対象にした援助を、我々は行うことなく学生を手放すことになるからである。  さて、本学に入学するまでのそのほとんどを、聞こえる人たちとのコミュニケーション環境の中で過ごしてくるということは、基本的には、聞こえない者(異端者的感覚かもしれない)としての自分を常に意識させられるということでもある。もちろん、自分が異端者的であるということを常に意識していたら精神的に参ってしまう。したがって、聞こえない子どもたちは、防衛のためにも相応のいろいろな性格(処世術と云った方がいいかもしれない)を身につけることで無意識的に処理・対応できるように自らを作りあげる必要も出てくるであろう。もちろん、気楽に話せる友人や優しい先生がいれば、コミュニケーション環境の少々の厳しさは、逃避的な行動を引き起こすことはあっても爆発するほどの状況にまでは至らない。そして、友達からの援助としての「ノートテイク」(友達がノートを借してくれることも含む)あり、必要なときには分かりやすく一対一でゆっくりと話してくれる友達あり、文字中心の教授学習あり、質問に行けばゆっくりと分かりやすく教えてくれる先生あり、というように聞こえない学生に対する様々な配慮があったであろうことは、それを受けてきた本人が一番よく理解していることでもある。にもかかわらず、それがベストではないことも本人は気がついているのである。だから、本学の受験に挑戦したのである。  それ相応の歩み寄りを受けながら過ごしてくれば、誰でもその裏に隠れている落とし穴に気づくことは難しい。むしろ、その連続性の延長上でより良い状況への期待を持つ方が自然である。自らのコミュニケーションスタイルがもつ問題にあまり疑問を抱かずに、自分と同じ聞こえない学生だけの本学に入れば、教え方の上手な先生も揃っているのだから、今までの連続性の上に、今まで以上の学生生活ができるだろうという気持ちになることはそれほど不思議なことでもない。そして、本学を目指し、合格した。  しかし、本学の学生の多くは、手話及び口話を中心として対等の立場でコミュニケーションを行っている。それも、相手への配慮をしないままにである。同じ聞こえない同士ということもあって配慮不要が前提になっているのである。講義にしても、手話も分かり口話も読み取れる学生を相手にすることに慣れてしまっている教官の講義である。ただでさえ難しい授業内容であるのに、コミュニケーション環境がまったく正反対になってしまっては、今までの環境の中で何とかやってきた学生にとっては青天の露震である。そこで、コミュニケーション拒否的反応も生まれることにもなる。  筆者の考える問題の所在は次のようである。本事例をも含めて、聞こえない子どもや学生が一人で矛盾を抱え込み、つじつま合わせをしなくてはならなくなる根本的な原因は、同時的な判断力を必要とする集団の中でのコミュニケーションが果たす重要な役割や、ちょっとしたニュアンスを感じ取ってその場を共有し自らコミュニケーションの主役になれる環境の必要性などを視野に入れた関わりが欠如しすぎている聞こえない子どもを囲む状況にこそあるのではないかということである。  本来、人間は常に-対一だけでコミュニケーションしているわけでもないし、知識だけをコミュニケーションしているわけでもない。ところが、本事例を追いかける中でも見えてきたことは、コミュニケーションにおいて「自由な」「気楽な」「自分勝手な」「冗長的な」などのことばがもっている価値の軽視であり、代価的言い方としての「一対-なら大丈夫」「分かりやすく話してくれる」「書いてくれるので大体分かった」ということであった。 そしてこのことは、聞こえない子どもや学生がコミュニケーションの受け手としての立場に甘んじることから抜け出しにくくしているとも言えるのである。聞こえない子どもや学生のコミュニケーション環境を質的に豊かなものにするためにも、見過ごしてはならない問題であると思う。 4.問題の解決に向かって  聞こえる人たちに囲まれた聞こえない子どもや学生にとってのコミュニケーションの問題は、社会構造的な問題である。したがって、本事例のような矛盾(潜在的な問題)を抱える学生が、常に本学を目指していると考えざるを得ない。だからこそ、学生に対する援助・支援の意識がきわめて重要となるのである。そのことを踏まえると、学生集団の自立的な活動への支援やカウンセリングなどの個人に対する実践的関わりを豊かにしていかなくてはならない。また、新入生にとって講義などの場が、コミュニケーション環境としてどのように働いているかということを教官として自覚しなけれならないだろう。そのためには、授業研究などがより高いレベルで行われる必要もある。  学生本人にとっても、本学での聞こえない学生同士のコミュニケーション環境の中で、自らの問題意識を明確にしていく過程は、たとえ結果的には、無事卒業に至らなくても(もちろん、本学に入学した以上無事卒業してほしい気持ちは当然であるが)、その過程の深さに見合う成果は得られるものと確信する。学びと遊び、これは二者択一ではなく、学生生活の表と裏の関係である。そのどちらもコミュニケーションの質と量を糧に充実感を達成できるのである。  また、本学を目指す学生及びその教員や両親は、教育相談や大学説明会などを通して、本学の教官と話す機会をもっている。そのような機会を通じて、常にコミュニケーション環境の問題を語り続ける必要もあるであろう。社会構造的な問題という視点から言えば、聞こえない子どもを育てている人たちや社会そのものに向かって、コミュニケーション環境の重要性をより積極的に啓蒙することが、大学の社会的役割の一つとして求められるともいえる。本学が、聞こえない学生にとってさらに魅力的な大学であり続けるためにである。 5.おわりに  普通の学校に、聞こえない子どもが一人で通い続けるという状況が今後も増え続けようとしている。そしてその結果として、普通の学校から本学を目指す学生も増えるであろう。クラスの中に一人の聞こえない子どもを引き受ける日本の統合教育は、聞こえない子どものコミュニケーション環境の貧弱性に気づくことなく(気づいてもなすすべも無く)、優しさとか気配りとか感謝の気持ちを教えようと頑張っている。そんな中で「みんなで○○ちゃんの気持ちを分かってあげようね」「分かりやすく話してあげようね」という先生のことばや友達の行為に「ありがとう」と応えなければならなくなる○○ちゃんが育ってくる。  ことばだけが上滑りしないコミュニケーション環境を常に具体的に考え、実践しなければ、本当の意味の統合教育はありえないし、それを引き受ける本学の教育も存在意義を失うということを、最後に明記しておきたい。 (注1)事例を取り上げて論じることは、その事例に関わる当事者(学生)のプライバシーを侵してしまう危険性がある。したがって、この論考の事例に関わった学生から事前に本稿のチェックを受け、了解を受けた上で、十分心して論じたことをここに記しておく。 (注2)「それ相応」とはかなりいい加減な言い方のようではあるが、聞こえない学生(子ども)や教師、そして親に本学の存在が与えている夢(イメージ)に多様性がある以上、他に適当な言葉が見つからない。