聴覚障害学生の「生き方」に関する認識の状況と言語・コミュニケーションの課題 聴覚部一般教育等 根本 匡文 教育方法開発センター 石原 保志 要旨:本学聴覚部の学生を対象として「生き方」に関する認識の状況を調べ、その結果に基づいて言語・コミュニケーションの課題を考察した。「生き方」に関して(1)健聴者に追随する(2)聴覚障害者としての独自性を強く主張する(3)健聴者、聴覚障害者双方の立場を取り入れようとするという三つの考え方のいずれに共感するかを調べたところ、(3)がよいとする者が全体の8割を占めた。学生のこのような状況は極めて妥当なものであり、聴覚障害者は二つの異なる集団を意識して生きていくことが最も現実的なことと考える。わが国の社会でそのことを可能にし、生活を充実させるためには、教育の過程で日本語と手話という二つの言語を身に付けさせ、聴覚口話、読み書き、手指という複数のコミュニケーション手段を持たせることが必要である。健聴の両親のもとに生まれる聴覚障害児の場合には、聴覚口話法をベースにして日本語を習得させ、その上で手話を扱っていくという方向性が望ましいであろう。 キーワード:聴覚障害学生 生き方 言語 コミュニケーション 手段手話 1.はじめに  聴覚障害教育のあり方を検討する時に、社会からの要請、親の希望、教育に携わる者の考え、聴覚障害者のニーズや願い、といった多様な側面からのアプローチが必要になる。特に教育は、それを受ける主体となる人自身の生き方に大きくかかわるものであり、聴覚障害者自身がどのように生きようとしているのか、という視点を抜きにしてはあるべき姿を求めることはできないと思われる。  一方、聴覚障害児の言語とコミュニケーション手段の問題は、ヨーロッパで聾学校教育が開始された18世紀後半以来、200年余りに及ぶ聴覚障害教育の中で常に論争の対象となってきた重要なことがらである。現在のわが国の状況を見ても、聴覚口話法中心の従来の考え方に対して、教育の場における手話の積極的な導入が提起され、その扱いをめぐってさまざまな議論が展開されている。  本稿では、聴覚に障害がある学生の生き方についての認識の状況を明らかにし、そのことと関連させながら、教育の場における言語とコミュニケーションの問題を考えてみたい。 2.学生の「生き方」についての認識の状況  筆者は、聴覚障害学生自身の「生き方」についての認識の状況に関して、本学の「聴覚障害学」の授業の実践を通して若干の知見を得ている。まず、その概要を紹介してみたい。  「聴覚障害学」の授業は、聴覚障害者の教育、聴覚活用、言語・コミュニケーション、心理、福祉、雇用の問題を取り上げ、学生自身が障害について理解を深め、主体的に社会で自立していくための力を得させることをねらいとしている。このうち、「生き方」を考えさせる授業では、中野 善達の「聴覚障害者の社会的成熟」1)という文章を材料として、学生自身が聴覚障害者としてどのような生き方をすべきかを討論させ、各自の考え方をまとめさせるという方法をとっている。  中野の文章には、青年期の聴覚障害者の生き方として、次の3つの類型があることが示されている。 生き方(1)聴覚障害者の世界を拒否し、健聴者と全く同じことをやろうとする。健聴者に追いつこうとする。 生き方(2)聴覚障害者は少数者集団であり、独自の文化、言語、歴史を持っているという認識を持ち、聴覚障害者の世界の中で自己実現を図り、聴覚障害者の世界を充実、発展させたいと願う。 生き方(3)聞くことや話すことの能力に障害があること、自分が聴覚障害者であることを認めながらも、健聴者の社会の中で一生懸命努力し、ハンディキャップという社会的な不利を持たないようにする。  学生は、上に示した3つの生き方のうち、どの生き方に共感しているのだろうか。平成8年度の1年次生51名を対象として、授業のまとめの段階で行わせた記述について分類を試みた。 その結果は、 生き方(1)に共感する者 0名 生き方(2)に共感する者 1名 生き方(3)に共感する者 41名 その他、態度を明らかにしたくない者、いずれにも共感する者9名 という人数分布であった。  即ち、健聴者に追随して生きようとすることに共感を持つ者はおらず、聴覚障害者としての生き方を前面に押し出す考えを持っている者も1名のみである。この1名の考え方は、木村晴美らによる「ろう文化宣言」2)の趣旨に共通するものであり、アメリカの一部のデフ・コミュニティーが主張しているバイリンガル・バイカルチュラルアプローチの理念にも通じるものである。現在、聴覚障害者集団全体の中ではこの考え方が少しずつ強まっているように見受けられるが、その影響はまだ本学には達していないということであろう。  そして、全体の8割の学生は、健聴者、聴覚障害者双方の立場を取り入れようとする(3)の生き方に共感を示している。これらの学生が(3)の生き方を選んだ理由を記述した文章の中には、次のような内容が含まれていた。 ・(1)や(2)の生き方は現実から逃げているように見える。 ・(2)の生き方では、視野が狭くなるおそれがある。 ・聴覚障害者、健聴者のいずれの世界も否定することはしたくない。 ・(3)の生き方は一番辛い立場ではあるが、健聴者、聴覚障害者両方の考え方、心がわかる。 ・卒業後は健聴者の中で生活をしていくのだから、健聴者社会に通じる努力が必要である。  このように考える学生は、自らに障害があることを自覚し、聴覚障害者集団の存在意義を認めながらも、日本人としてのより大きな集団の中で、実際的、現実的に生きようとしていることが分かる。  「その他」に分類された9名の学生のコメントの中には、障害者と健聴者を区別すること自体に対する反発や、あるがままの自分を表に出して生きていけばよいのだといった指摘がなされていた。 3.学生の「生き方」についての筆者の見解  わが国の聴覚障害者がおかれている状況を見ると、上記のような本学の学生の考え方は至極妥当なものと考えることができる。聴覚に障害があるといっても、ひとりの人間として仕事や地域の活動を分担し、そこに自己の存在意義と生活の充実感を見いだすことは重要なことである。そして、社会の中の情報化、流動化が急激に進み、過去に存在していた様々な障壁が取り除かれようとしているこれからの時代は、健聴者と聴覚障害者といった区別を ̄層否定する方向に進んでいくであろう。  広く世界に目を転じて見ても、近年のいくつかの国連決議で確認されている「障害を持つ人びとの機会均等化の原則」3)や、1994年にスペインで開かれた「特別なニーズ教育に関する世界会議」で採択された「サマランカ宣言」の基調となっているインクルージョンの理念4)が、今後一層社会の中に浸透していくものと思われる。聴覚障害者と健聴者を異なる集団として区別し、その違いを強調する考え方はもはやとるべきではない。  にもかかわらず聴覚障害者の集団が存在し、今後も重要な役割を果たしていくであろうことは否定できない。また自らを聴覚障害者として認めるアイデンティティーの確立が、その人の一生を充実したものにする基盤になることも事実である。聴覚に障害がある人達にとって、音声言語を中心として情報がやりとりされる健聴者集団の中での活動は大きな負担になり、ストレスが付加されるものである。一対一のコミュニケーションはともかくとして、複数の健聴者の中に加わった形での会議や談笑の場への参加は、情報の保障がなされている場合であっても、様々な困難が伴うということがしばしば指摘されている。  聴覚障害者が何の抵抗もなく、円滑にコミュニケーションが行えるのは、同じ障害がある人たちの集団の中であり、そこでは心おきなく語り合い、情報交換を行い、楽しみ、共に時を過ごすことができる。さらに、手話を用いた演劇や視覚的な芸術、スポーツや趣味の活動などを通して、聴覚障害者としての充実感を味わうことが可能になる。  聴覚に障害がある人たちは、日本人としての大きな社会と、聴覚障害者としての部分社会の二つの集団に帰属し、その両者の間を行き来しながら日々の生活を営み、そこに生きることの意義を見い出していく、という姿が最も現実的である。その生活をより実りあるものにするための援助をすることが、我々教育に携わる者の実行すべき仕事であると考える。 4.言語とコミュニケーション手段  上に示したような、自らの障害を認めながらも、より大きな集団の中に入って生きていこうとしている学生にとっては、日本語と手話という二つの言語、聴覚口話、筆談、手話という複数のコミュニケーション手段を持つことが必要になる。  最近のわが国の聴覚障害教育の中で高まりつつある、手話をより積極的に取り入れるべきであるとの主張は、学生の生き方に関する考え方に照らせば、当然肯定されなければならない。しかし、日本語という言語、聴覚口話や日本語の読み書きというコミュニケーション手段をも同時に重視すべきことも示している。  それでは、日本語と手話のどちらを重視し、どちらを優先することになるのだろうか。ここでは、言語の習得の順序と方法について考えてみたい。  これまでのわが国の聴覚障害教育の場では、日本語を重視するあまり、手話の位置づけを軽く見る状況があった。この考えは修正すべきであり、日本語と手話は聴覚障害者にとってどちらも重要な言語であると考えなければならない。  言語習得の順序については、日本語と手話のどちらを第一言語にするかということである。現在、アメリカの一部や北欧等で、手話を第一言語とするバイリンガル・バイカルチュラルアプローチの主張が実践に移されているが、この考え方は現時点ではわが国には取り入れられないと考える。現在の日本の社会は単一民族、単一文化の社会であり、日本語を重視する度合いが極めて高いという状況があるからである。  少なくとも、大部分の聴覚障害児は、両親が聞こえるという環境の中に生を受けるわけであり、そこで手話の言語環境を作ることは簡単にできることではない。多くの健聴の親にとって、わが子が耳が聞こえないということは予期しない事態であり、それを受け入れ、家庭を安定した状態に保つためには多大のエネルギーを必要とする。そこに両親や家族が手話を覚え、手話の言語環境を作ろうとすれば、非常に無理な課題を課すことになる。まず日本語を豊かにやりとりする言語環境を作ることに努力を集中してもらう方が、よりよい結果をもたらすであろう。  しかし、両親に聴覚障害がある場合には、子どもが初めて触れる言語が手話であることが当然あり得る。その場合には、第一言語が手話になることが起こりうる。そのことを認めた上で、教育を進めなければならない子どもがいることも事実である。  日本語を習得する方法としては、従来から聴覚口話法が用いられてきている。その中で、近年、いくつかの聾学校で意図的に手話を併用する試みがなされている。このことに関する筆者の経験は十分なものではなく、現時点で安易に評価を下すことができる立場にはない。しかし、音韻によって構成される日本語の話し言葉を習得させる手段としては、聴覚口話法がその中核となるべきことは否定できないと思う。  学生の日頃の言動の中に見られる次のような状況も、聴覚口話法をベースにして言語を獲得することの妥当性を示しているといえよう。 ・幼児期に音声を手段として日本語を身に付けたことをよかったと思い、その頃の親や教師の努力に感謝している。 ・現在でも、手話だけでなく、聴覚を活用し、音声を使うスキルを向上させたいという願いを持っている。 5.教育の場における手話  教育の場では、まず日本語の確立を図った上で、いつから、どのような手話を、どのように取り入れていくかを考えていくことになる。多くの聾学校では、手話の使用は中学部以降であることが多い。小学部の段階は、児童に十分に書き言葉に習熟させ、教科学習のレールにのせることに努力の主眼を置くべきだと考えることも、その理由の一つである。  わが国で現在使われている手話は、日本手話一中間手話一日本語対応手話という連続体を形成しており、誰が、いつ、どのような場面で手話を使うかによって使い分けがなされているというのが実態である。  そして、日本語の習熟がなされた上で手話を使うということになれば、教育の場では日本語に対応した手話から導入していくことになる。それが日本語対応手話であるか、中間手話であるかは、使う人の状況、コミュニケーションの内容などによって変わっていく。ただ、特に教科学習を進める過程では、日本語によって内容がやりとりされることが求められるので、日本語に対応した手話の使い方がどうしても必要になる。5)  また、中学部や高等部の段階でも、日本語の運用力を高めるという課題は残されており、そのためには、日本語を用いる機会をできるだけ多く作ることが必要なことである。手話を用いるとしても、その基礎に日本語があるという状態を継続すべきである。  一方、近年、手話が一般社会の中でも受け入れられるようになり、手話通訳者の増加や、手話サークル、講習会、テレビ番組等を通して手話を学ぶ健聴者の広がりが見られるようになってきた。聾学校の生徒が通常の学校の生徒と交流学習を進める場合にも、手話がその仲立ちとなることが出てくるであろう。手話はもはや聴覚障害者だけのものではなくなり、健聴者との間でのコミュニケーションにも活用されるべき手段となりつつある。そうした場合に、健聴者が使う手話は日本語をベースにしたものであり、日本語を表す手話の使い方を聴覚障害者が身に付けておくことは必要なことである。  ただ、本稿の前半で述べたように、聴覚障害学生は健聴者の集団の中で生きることと同時に、聴覚障害者集団の一員として生きていくことも望んでおり、かつ、そのことは必要なことである。そうした時のコミュニケーション手段として、日本手話の存在とその有効`性を否定するわけにはいかない。6)日本手話についても、教育の中できちんと扱っておく必要がある。その位置づけは、現時点では、聾学校高等部の「養護・訓練」の中に求めることが妥当であろう。しかし、健聴者が日本手話を使いこなすことは容易なことではなく、その指導体制、指導内容・方法を確立することは、今後に残された課題である。 6.おわりに  本学に在学する学生の多くは、自らの障害を認め、聴覚障害者の集団における生活を大事にしながらも、ひとりの人間として、より大きな社会の中で自己実現を図っていこうとする考え方に共感を示している。このような状況がわが国の聴覚障害者集団に共通するものであるならば、分離教育か統合教育か、日本語か手話か、聴覚口話法か手指法かという旧来の二者択一的な議論はもはや無意味なものとなる。  しかし、聴覚障害児に最大限の力を発揮させることを目指す教育の場にあっては、言語とコミュニケーション手段の習得のさせ方に一定の方策が必要になる。言語としては、日本語から手話へ、コミュニケーション手段としては、聴覚口話も手指も読み書きも重要なのだという視点に立って具体的な指導を進めていくことが求められる。 文献 1)中野 善達「聴覚障害者の社会的成熟」神田 和幸編「手話通訳の基礎」pp181-192(1991)第一法規 2)木村 晴美他「ろう文化宣言」現代思想24巻5号pp8-17(1996) 3)中野 善達「国際連合と障害者問題」第2巻(1997) 筑波大学教育研究科カウンセリング専攻リハビリテーションコース(中野研究室) 4)遠藤 勝「岐路に立つわが国のろう教育-「サマランカ宣言」とWFD「ろう教育政策書(案)」とわが国-」手話コミュニケーション研究23号pp3-11(1997) 5)根本 匡文「聴覚障害者の中等・高等教育の場で使われる手話について」筑波技術短期大学テクノレポート第1巻pp4-6(1994) 6)斎藤 道雄「誤解されている少数言語「手話」」中央公論平成9年6月号pp146-157(1997)