聾教育におけるコミュニケーションを考える-アメリカ研修旅行を通して- 新井 孝昭 (聴覚部情報工学専攻) 1.はじめに  本年(1998年)3月に第7回目のアメリカ研修旅行が聴覚部の行事として実施された。そこで、本稿は、その目的地であるNTID(National Technical Institute for the Deaf)とギャローデット大学及び移動中のいくつかの出来事を、筆者の記録(ビデオ記録も含む)をもとに旅行記の形式をとり報告・考察するものである。なお、本学のアメリカ研修旅行の意義については、第1回から第3回までを対象として、示唆に富む考察が、本テクノレポート(1995・及川)1)に掲載されていることを付記しておく。 2.NTID(National Technical Institute for the Deaf)へ向かって 2.1成田空港にて  時間に余裕があったため、自由に集まり、それぞれ昼食をとる。お金の両替をする学生もいれば、待ち合いロビーの椅子に座り、朝、自分で作ってきたおにぎりを口に入れている学生もおり、旅行慣れしている学生のリードでグループごとに行動をしていた。適当な緊張感もあって、お互いに確認し合いながら、早目早目の行動をしていた。  そんな中で、旅行会社からの添乗員が、聞こえない人との旅行の経験をもたない(当然ながら、手話も分からない)人であることが、先々でのコミュニケーションに一抹の不安を与えていた。事前にきちんと要望し、確認をしておくべきであったと思う。 2.2成田からデトロイト、ロチェスターヘ  飛行機はゆれも少なく、予定より1時間ほど早く乗り継ぎ空港のデトロイトに到着する。機内でのスチュワーデスとのコミュニケーションは、声だけの者もいれば、指差しだけで指示をしている者もいて、各人それぞれであった。  そんな中で、例えば、声に頼っての英語の発音が上手く通じず、希望したものと違う飲み物を手にしている者もあった。また、逆に、もっぱら筆談(もちろん英語)だけでとても積極的に、スチュワーデスとコミュニケーションをとり、要望を伝えている者もいた。スペルの間違いがあったらしく、逆にスチュワーデスがボールペンを手にして書き直してくれる姿もあった。それに対して、彼は、そのお礼をきちんと筆談で返していた。とにかく、このようなやり取りの間も、スチュワーデスの反応は極めて丁寧(プロとしては当然であるが・・・)であった。  デトロイトで乗り換えた飛行機は、横列5人(2人+3人)で、我々一行によってその座席数の五分の一程を占めてしまった。同行した引率教員の通訳も加わってはいるものの、学生たちがスチューワデスの一人と楽しくやり取りしている様子(学生が手話を教える姿もあった)を見ていて、英語の苦手な日本人(筆者)としては、外国語の世界に入れば聞こえるか聞こえないかはあまり関係ないということを妙に納得してしまった。つまり、英語がよく分からない普通の日本人が、英語しか分からないスチュワーデスと楽しく(うまく)コミュニケーションしているように筆者の目に映ったのである。降りるときも、他の乗客と比べて遜色なく、何人かの学生は別れのことば(挨拶)を投げかけていた。  目的地のロチェスター空港に向かう機内では、気圧の上下変化を反映して、耳の強い痛み(耳鳴り)を訴えるものが学生の中に多かった。 2.3ロチェスター空港、そしてNTIDへ  ロチェスター空港で、NTIDのビジターセンター長の出迎えをうける。丁寧かつ暖かい出迎えである。外は雪、かなり積もっている。これからの4日間は雪景色の中での滞在となるわけで、アメリカでのちょっとした雪国体験である。  飛行機から荷物が出てくるまでの間に我々一行と簡単な挨拶や紹介を交わす。引率教員の通訳で英語から日本の手話へ変えてもらうが、学生の中には旅行前のASL(American Sign Language)勉強会のわずかな成果を生かし、ビジターセンター長の手話を直接読み取り、うなずいたり返事を返しているものも2~3人いた。そう言えば、ここまでの飛行機の中でも、簡単なASLの本を読んで即席の勉強をしていた者が3~4人位いたことを思い出した。  ホテルまでは送迎バスで15分足らずで到着。ホテルのロビーで宿泊する部屋などの説明と鍵をもらい、それぞれ一休み(時差のため、強い眠気に襲われている者も何人かいた)をした後、再びロビーに集合した。このとき、本学へも幾度か来校されたフィッシャー教授も我々を出迎えてくれた。彼女は、本学の学生へASLの指導をされたこともあり、学生とも顔見知りで心強いコンダクターである。さらに、NTIDからは、学内の飲食が自由に(アルコールは除く)できるキャッシュレスカードを提供してもらい、4日間をVIP扱いの待遇を受けることになった。NTIDではビジターへの対応がいくつかのランクで分けられているとのことであった。一方で、こういうものを使い慣れていない我々の中には、食堂などにカードを忘れてしまう者も何人かいたようである。この時の学生たち(スタッフも)は、日本からの長旅のため、かなりの疲労感を漂わせながら学内食堂へ向かった。 3.NTIDにて 3.1NTIDの学内の食堂で、初めての食事  カウンター越しに、いろいろなトッピングも含めて一つ一つ注文する方式で、否が応でもコミュニケーション能力を試される。食堂の多くのスタッフが手話を身につけていることは言うまでもないが、相手のコミュニケーション能力に応じた表情や反応が見事である。学生たちは表現力もあり、食事に関しては適応力も早い。好みの食べ物をトレイいつぱいにとり、レジに並んでいる。英語もアメリカの手話も思うようにいかない筆者は、先ずは指差しと表情、前の人を真似ることでなんとか夕食にありつく。ここでのコミュニケーションに関する評価は、学生たちはBで、筆者はCといったところであった。  さらに、早くも、NTIDのろうの学生とはなし始める学生の姿があり、交流の雰囲気もまずまずのスタートである。 3.2全体説明会での質疑応答  NTID2日目は、まず、学部長にあたるデカロ氏によるNTIDの説明で始まった。やり取りは、同行の引率教員の通訳に依った。デカロ氏の英語と手話(英語対応手話)を使った説明に、全員瞬きも惜しんで真剣に聞き入る(見入る)。大学(組織等)の仕組み、規則の問題、教官やスタッフの手話の問題に突っ込んだ質問が出ていた。真剣なやり取りの様子を示すためにも、少々長くなるが、いくつかの質問とそれへの説明(回答)を以下に紹介する2)。 ①(質問)NTIDの教職員は、皆手話ができるのですか? (回答)そうです。ここでは、教職員全員が手話を上手になる必要があります。NTIDができてから30年たった今は、教職員全員、手話ができることが、職務を行う上での条件になっています。技短はまだ10年でしょう。NTIDはできてから30年経っています。ですから、あと20年後には技短の先生たちも手話が上達しているでしょう。 ②(質問)NTIDの30年間で変化したことは他にもありますか? (回答)30年間で変化した別の大きなことは、教職員の中の聞こえない人の数が増えたことです。できたばかりの頃は、3人しかいませんでした。今は、90人になりました。学生の数も、30年前は80人しかいませんでした。現在は、全部で1100人になりました。また、聞こえない人の文化(ろう文化)に対する理解・尊重の面でも大きく変わりました。 ③(質問)学生と教職員の関係はどうですか? (回答)良い関係ができていると思います。先生たちは良い関係ができていると思っています。でも、本当のところは学生たちに尋ねてみて下さい。 ④(質問)NTIDは30年前にできたということですが、隣にあるRIT(ロチェスターエ科大学)は、いつできたのですか? (回答)1829年(170年前)にできました。 ⑤(質問)NTIDの中にもいろいろなコースがあってお互いに行き来できるのですか? (回答)そうです。いろいろなコースがあります。例えば、ビジネス、印刷、芸術、メディアテクノロジー、工学技術、応用科学、コンピュータ技術などです。 ⑥(質問)NTIDでは、30年間の間に先生方の手話が上手くなったと言われましたが、それはどうやって磨いたのですか?技短では、10年経ってもあまり変わっていないようなのですが、20年後は期待できるのかどうかお聞きしたいのですが? (回答)自分自身の経験をお話します。私は、NTIDができてから3年目に来ました。来たばっかりの頃は、手話は全く知らなかったし、「聞こえないこと」もまったく分からなかった。聞こえない人にあったこともなかったのです。ここにきて、手話を学んだのです。私は、自分にできたことは、他の人にもできると思います。 (質問)どんな方法で学んだのですか? (回答)まず、教職員が手話を学ぶクラスを作りそこで学ぶこと。第二に、専門分野の手話を個別に学ぶこと。第三に、学生と一緒に手話を使う場面もあるのでそこで学ぶこと。第四に、練習、練習でした。 ⑦(質問)でも、技短の場合は、先生たちにそういう気持ちがあまりないのではないかと思いますが…。 (回答)そうですね、技短の場合は、まだできてから10年目で若いということを思い出して下さい。 私は、想像するのですが、10年前の状態よりは手話ができる先生が増えたのではないでしょうか。 ⑧(質問)もし、NTIDの先生で、忙しいからといって、手話を覚えようとしない先生がいたらどうするのですか? (回答)大学の中に規則があって、昇進するためには手話ができることを条件にしています。またずーっと(終身で)、この大学の教官でいるためには手話ができることが必要という規則もあります。 (質問)その規則は、いつ頃できたのですか? (回答)6年前です。 ⑨(質問)もし、学生が先生に訴えることがあったら、(先生方は)どのような態度をとりますか? (回答)NTIDには学生の組織(学生会)があります。それは、大学の組織と関係があります。一緒に、大学を良くする為に協力し合います。 (質問)学生の意見をどのように聞くのですか。 (回答)お互いに意見を聞き合います。学生の言っていることに賛成することもあれば、意見が合わないこともあります。意見が合えば、その考えを一緒に進めていきます。合わなければ、はっきりそれは違うと学生に言います。 (質問)できれば、具体的な例をお願いします。 (回答)一つの例として、大学の予算が減らされて、働く人を減らさなければならなかったとき、学生はそれに反対したことがあります。反対の理由をききましたが、しかし、私は同意できませんでした。結局、人員削減をしました。時と場合によって、合うときと合わないときがあるということです。学内でもいろいろな意見がでますが、この大学の全容を知っている者は少ないのです。私の責任において、判断をしなくてはなりません。  学生からのこのような積極的な質問に答えるデカロ氏は、終始真蟄な態度でわかりやすく説明をしてくれた。 そして、学生たちの熱意に、予定時間をかなり過ぎてこのプログラムは終了した。 3.3NTlDの学生ガイドによる学内ツアー  ツアーの最中に学生同士で直接やり取りする姿も見られたが、説明の通訳はほとんど引率教官が担当した。しかし、日本の手話を知っているNTIDの卒業生が途中から同行してくれたりもし、異国の学生とのコミュニケーションも徐々にそれらしくなってきた。  そんな中で、本学の学生同士の間で-部コミュニケーションのトラブルがあった。ストレスと疲労が加わり、「日本に帰りたい。旅行に一緒に来たのが間違いだった。帰ってもいいか?」という相談をもちかける学生が出たのである。「友だちのことはおいておいて、ガイドをしてくれているNTIDの学生についていって、どんどん話し掛けなさい。後でゆっくりお酒でも(もちろん冗談として通じている)飲みながらあなたの不満を聞いてあげるから。」と答えて、様子を見る。幸い、積極的に見学しているうちに気分は静まった。仲間の中で、彼に対して「常識がない」とか「今はそんなことを言っているときではない」とかいったマナーについての発言や無視されたことが重なり、精神的にコントロールができなくなってしまったようであった。長旅での寝不足も加わって、ちょっとしたコミュニケーションの齪齢が増幅してしまったのであろう。とにかく、一先ず落ちついて良かった。  雪への陽ざしがまぶしい学内ツアーが午前、午後と続いた。 3.4ウェルカムレセプション(歓迎会)  NTIDの教官・スタッフだけでなく、ツアーコンダクター(NTID)の学生も参加しての立食パーティである。 この同じ場所に一人の小さな男の子が歩き回っていた。その幼児は、聞こえない父親(ロチェスター大学で研究・教育を担当)と聞こえる母親を両親(共に日本人)にもち、NTIDのスタッフの中にも顔見知りがいる様子であった。この幼児のコミュニケーションスタイルに、筆者は興味を抱いた。彼は、両親が日本人であるため、家庭では日本語の音声語や日本の手話の環境の中で育っているのだが、生活しているところはアメリカということもあり、英語とアメリカの手話も飛び交うコミュニケーション環境にも触れているのである。日本語が中心ではあるが、日本の手話も出せば、片言の英語もアメリカの手話も表現できる(する)のである。子どもにとって望ましい言語環境かどうかの判断は難しいが、レセプションのプログラムを忘れるほど、彼の柔軟かつハツキリした表現力のおかげで、彼とのコミュニケーションを楽しむことができたことは事実である。  一方、本学の学生たちは、NTIDの学生と楽しそうに会話をしている姿が目立った。やり取りの内容は、日本とアメリカの手話の教え合いという感じのものも多く、「伝えたいことを伝えられる」コミュニケーション力の不足を学生自身も実感しているようであった。もちろん、コミュニケーションができなくて一人ぼっちの者はいなかったのだが、せっかくの研修旅行でもあり、事前に、引率教官も含めた参加者全員のコミュニケーション技術の学習を充実させることが必要であろう。  そんな中で、ひとり目立つ日本人学生がいた。彼は、NTIDで語学を学んだ後、現在RIT(ロチェスターエ科大学)の方で頑張っている本学情報工学専攻の第3期卒業生のY君である。何年かぶりで顔を合わせたのだが、そのコミュニケーションの輪の中で日米のろう学生に対等の仲間として関わっている姿を見て、心の中で思わず拍手をしてしまった。彼が日本の手話とアメリカの手話との橋渡しをしていたのだが、彼の後輩である本学の学生は、最後まで、彼が本学の卒業生ということを信じられないようであった。この時気づいたことは、彼がアメリカの手話を話すときは声があまり出ないのに、日本の手話になると声と手話が同じIこように出るということである。特に、ASL(アメリカ手話)的になればなるほど声にこだわらないことが良く分かった。日本の手話を身につけた時の彼は、すでに日本語(音声言語)を身につけており、手話をあとから付けている面があったが、英語の苦手な彼は、音声言語としての英語から少し離れてアメリカの手話を身につけたのである。どちらの手話がよいのかというような問題を、ここで論じるつもりはないが、彼の表情豊かなアメリカでの手話を見て、日本における音声にこだわる聾教育の現状をそこに重ねてしまった。言葉(手話)を身につける時のコミュニケーション環境の違いが、言語獲得の重要な境界条件(拠り所にもなり、制約にもなる)になるということを実感したのである。 3.5学食でのコミュニケーション  学内ツアーの間の昼食も夕食も、本学の学生だけで食べているという状況は非常に少ない。ほとんどの学生が交流していると感じることができる。NTIDの学生も、新しいろうの学生を見ると、まずは様子をうかがうが、すぐ気軽に話し掛けてくる雰囲気がある。片言にでも手話によるコミュニケーションが始まると、話はどんどん続き、時間が経つのが早い。とにかく楽しいコミュニケーションが得意である。もちろん、興味のない学生を無理矢理に入れようという雰囲気はなく、横に座っている人の自由は侵されていない。また、Y君もたびたび同席して、会話に加わっていた。学生生活の様子などを、NTIDの学生もいる中で、本学の学生たちに話ている様子は、正真正銘のRITの学生である。ただ、ここでも「本当に日本人か?」「本当に技短(本学)の学生だったのか?」の質問がNTIDや本学の学生から出ていた。 3.6夜はロックベンチャー(岩壁登り)へチャレンジ  そこは室内施設になっていて、大学のバスで30分程のところにあった。室内施設ではあるが、かなり本格的なものであった。日本では珍しいが、アメリカには、この様なスポーツ施設がいくつもあるらしく、大学などの授業にも取り入れられているようである。チームワーク精神を学びながら、ロッククライミングの体験をするのである。「チャレンジ」精神を養うことも目標の一つであると説明してくれたここの指導者は、以前NTIDの教官であり、手話もできる。数名のNTIDの学生も我々に混ざり、5人づつのグループを作り、そこに若い指導者が1人付き、音声言語ではなく、身振りと手取り足取りで丁寧に指導してくれた。学生たちは、岩とロープとチームメイトとのコミュニケーションを繰り返しながら、黙々と壁をよじ登っていくのである。そして、腕や、足の筋肉が疲れているのを忘れるほど「チャレンジ」を繰り返し、指導者の人たちとの心の触れ合いも体験できた我々は、充実した気持ちよい疲れを感じながら、バスに乗り帰路に就いた。 3.7夜のエクスカージョン  夜10:00頃、ホテルに約束していたY君が訪ねて来たので一緒に話す。RITにあこがれ、1年間英語とASLの勉強をして、アメリカに渡り、さらに1年間NTIDの支援センターでの勉強(英語力中心)を修了し、やっとRITでの勉強を始めた彼は、さらに大学院も目指したいと決意を語ってくれた。そんな彼に、「本学が4年制になっていろいろなことができるようになったらどう思うか」とたずねてみた。すると、彼は「そうなったら自分がアメリカに来た意味がなくなってしまう」と、笑いながら答えた。それは、自分は留学するためにいろいろと苦労したのだということを訴えているようでもあった。彼は、聞こえない学生に対する情報保障が当たり前のところで、自分の知的好奇心を満足させていきたかったのである。そのためには、聞こえない学生にとっての情報保障が進んでいるアメリカに留学するしかなかったということである。そして、現在も進行中の留学生活の中で、いろいろなことを学んだようである。「今までは、何でも日本よりアメリカの方が良いと思い込んでいた自分がいたことに、アメリカに来て気がついた。人種差別や経済の問題や教育の問題でも良い面だけでなく悪い面も見えてきた」と言った彼のことばがそれを物語っている。夜12:00頃まで話て別れたが、明日も明後日も時間が許す限りは学生とコミュニケーションをとってくれるとのこと、うれしい限りである。 3.8講義の見学  NTIDの朝は早い、1時限目が8:00からである。用意された見学プログラムはそれぞれの学科の希望を取り入れたもので、気持ち良く見学できた。3つに別れた見学プログラムの中で、筆者は情報工学と電子工学の学生と一緒に、コンピュータサイエンスの授業を見学した。見学人数が多かったので、ここでさらに3つにグループを作り、それぞれローテーションしながらの見学である。そのうちの一つでは、コンピュータ内部の演算に関する説明を、本学の情報工学の学生が前に出て即席に説明をするということまで行った。指名された学生は少々戸惑っていたが、他の仲間の助けを借りながら何とか責任を果たした。  案内されている途中で、一部の学生にとって衝撃的なやり取りが目に入った。それは、聞こえる教員どうしが会話をしているとき、聞こえない人がいるかも知れない場所では手話を同時に出しているということであった。もちろん、すべての教官が実際にそのようにしているかどうかは調べる術もないが、その場に居合わせた筆者も、その会話の様子が自然でさり気なかったことに強い印象をもったことは確かである。聞こえる者同士の会話となると、筆者も、つい手話を出さないことが多いからである。しかし、そのことは、日本語に対応した手話を多く使っている本学学生にとっては、同じ場所にいてもコミュニケーションを共有できなくなることを意味する。そのことが、さらには、同じ仲間であるとの意識を持ちにくくさせてしまうことにもつながるのである3)。コミュニケーションを共有することについての重要性がそこにあると考える。多いに反省を迫られた、このテーマについては稿を改めて論じたい。 4.ギャローデット大学訪問  1日だけの訪問ではあったが、NTIDの次に訪れたギャローデット大学での学生の様子についても簡単に報告をする。  ギャローデット大学が我々に行った説明の中で、アジアの学生に対する留学の誘いが耳(目)についた。しかも、教育環境には自信をもっている様子が次のような言い方の中にうかがえた。「アメリカの食事のまずさと授業料の高さとを承知の上で留学して下さい。そうすれば、勉強に意欲のある学生にはすばらしい教育環境が用意されています」というようにである。実際には、意欲はあるのだが、本科に入る前の語学(英語力)の勉強で挫折してしまう学生も多いようである。英語の力を要求されることは、ろう者であっても同様であるということである。もちろん、英語の授業であっても、ろう者の言語としてのASLを身につけることが必要とされているようだ。  ギャローデット大学には、本学の建築学科第3期卒業生のH君が在籍している。彼からの話を聞くことも含め、夕食のひとときを利用して、飛び入りの日本からの留学生やイタリアからの留学生とともに交流会を開いた。我々の様子を見ていた、他のテーブルのギャローデットの学生から、「どこから来たのか、日本?韓国?」というような質問が出ていた。見かけない人たちにすぐ関心を示す学生はどこにもいるものだが、その聞き方は、スムーズで違和感を与えない。ギャローデット大学が、いろいろな国から学生の集まってくる大学であるということの必然であるのだろう。しかも、ここでは、ろう者としてろう者に対するコミュニケーションの力が要求されるのである。ここでも日本におけるコミュニケーション環境との違いを実感させられることになった。少しでも手話で話せれば、とにかくコミュニケーションをしようという雰囲気が伝わってくるのである。このような環境の中で、日本では比較的控えめであったH君もコミュニケーションに力強さを身につけているようであった。  ギャローデット大学の訪問は、一日だけの非常に短い時間であったために、十分な体験をすることが難しかった。聞こえない学生にとって魅力的な理念をもつギャローデット大学の訪問は、本学の姉妹校であるNTIDへの訪問と共に極めて重要な意義をもつものである。今後の研修旅行での位置付けに期待したい。 5.おわりに  本報告は、旅行記の形式で記述してきた。その中でも、繰り返し現れていたように、聞こえない学生にとってのコミュニケーションの問題は、聞こえないもの同士の問題だけではなく、聞こえる人との問題でもある。ほとんどの聞こえる人は聞こえない人と関わらずに済むが、聞こえない人は現実的にそうはできないのである。この不可逆的関係の故に、聞こえる人と聞こえない人との共生することの難しさがある。この研修旅行から見つけだされた問題は今後の課題として考えていきたい。  なお、帰国後、本研修旅行の中でコミュニケーションに関して考えたこと感じたことを、参加した学生に尋ねた。その回答を、参考資料として最後に付記する。 [資料]学生の声:コミュニケーションに関して学生が考えたこと、感じたこと(回答者9名) ・あまり勉強しなかったが、ASLでのコミュニケーションは、単語ごとに区切って重要なポイントを相手に伝えることはできました。しかし、読みとりの面では、抽象的に感じてしまったこともあり苦労しました。あまり勉強しなかったために、意識の中で抽象的にとらえていたのかも知れない。 ・ASL手話の基本的なところまで覚えていなかったので、やり取りに苦労しました。それに英語も苦手なので、とても苦労しました。会話てみて、筆談の方が多かった感じです。 ・機内でスチュワーデスにオレンジを頼んだがコーラが来てしまった。アクセントに気をつけることに感じた。今度、海外旅行があったら、前もって英会話を磨いたほうがいいと思った。 ・自分が当たり前と思っていることでも、他の人は知らなかったりして、(この逆もある)色々な迷惑を周りの人にかけてしまった。話の内容がきちんと伝わったかどうか確認する姿勢が大切だと思い知った。 ・同じ人種間のコミュニケーションに終始目をとられた。障害をもっていてもやはり人種間の壁を越えられないのかな?少なくとも自分自身は異人種間のコミュニケーションを目にしなかった。 ・NTIDの学生は積極的で団結力が強い。 ・コミュニケーションにつきましては、色々なことを感じましたが特に言いますと、大学の先生に関わらず、事務の人たちまでが手話を使っていましたので、学生と先生たちとの間の壁がないように見えました。また、先生たちは学生を“ろうあ者”という差別的な見方はなく、平等な見方をしていたのも、うらやましく感じました。 ・アメリカについて周りの雰囲気を見てみると、日本人より表情が豊かであることに気がついた。日本人はあまり表情を出さない。たとえ出したとしても、ほんの少しだけ。だが、アメリカ人は普通の会話の中にも、おもしろい・悲しい・分からない……などといったとき、日本人からみればオーバー気味と思うほど大げさに表情を出す。それも聴覚障害者(手話を使う人)だけではなく、普通の人たちもだ゜逆に、私たちの場合、手話でのコミュニケーションの中でもあまり表情を出さないことがわかり、愕然……?とさせられた思いがします。 ・技短の学生は、手話が使えるといっても口話主義的であり、口話が上手くない人はややついていけない面がある。それも小中高時代のコミュニケーション教育に原因があると思われるのだが、それを元に育っただけにすぐには改められないだろう。試しに、口話を付けないで手話を使ってみたら、全く通じなかった。それでは手話という存在意義がないのではないのか?口話と読話にさらに手話を併用するといった対応手話が日本では標準手話として認識されているようでやや残念です。 ・NTIDの学生とのコミュニケーションは、思っていたよりも上手くできた。分からなくても最後まで説明してくれたことが、すごくうれしかった。そのままの英語より、簡単なASLだったからこそ、交流を深めることができたのだと思う。 ・NTIDで、交流したときには、聞こえる先生方同士でも、聞こえない学生が同じ部屋にいるだけでも手話を使ってコミュニケーションをしていました。それに対して、我々内部では問題が起こって、学生と先生で話合っているときでさえ、側で聞こえる先生たちは、声だけで話を始める。その時、声だけでは話が出来ない我々が、どんな気持ちになるのか、考えてくれないのか?また、聞こえないことの劣等感を浴びさせ(感じさせ)たいのか?と思いました。 ・学生と先生が一緒になって会議をするとき、同じ問題を抱えているのに、先生方は口先だけで話をするので、逆に先生方の為の旅行と思えてしまう。 ・比較しているわけではないが、アメリカの先生方は、先生同士が(学生と同じ場所にいるとき)手話を使うという習慣が身に付いている。ここ(技短)では、学生と同じ場所にいるときでも、先生同士だと口だけで話をしてしまい、手話を使って学生と一緒、あるいは学生に分かるようにコミュニケーションをとろうといった雰囲気がない。そのために、日本とアメリカの障害者に対する見方の違いにも影響するのだと思う。 ・ギャローデッドは聴覚障害者ばっかりで、気兼ねなくコミュニケーションできるのはいいけど、社会に出たあとが心配だ。しかし、福祉的にはこっちの方が断然いい。ここで、アイデンティティを確立した後、NTIDいくのならいいと思う。 ・ギャローデット大学の学生との交流がほとんどなくて残念だった。交流ができれば、もっと大学の雰囲気が分かったと思う。 (注) 1)及川 力:「アメリカ研修旅行を通した学生の成長」、筑波技術短期大学テクノレポート、第2巻、pp31-36(1995) 2)ここに掲載したやり取りは、ビデオ記録から起こしたものである。 3)手話のコミュニケーションに対する学生の気持ちについては、上記引用文献1)の他、第2回アメリカ研修報告資料(1993.5)の「第2回アメリカ研修旅行に参加して」(今井 計)の中にも触れられている。また、本稿の最後に資料として載せた学生の声の中でも、繰り返し指摘されている。