ろう女性運動の先駆的な役割を果たした聴覚障害のある女性のキャリア発達過程─ ライフヒストリーアプローチによる事例分析 ─ 小林洋子 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部 要旨:本研究の目的は,激動の昭和時代にろう女性運動の先駆的な役割を果たした一人の聴覚障害のある女性のライフヒストリーに基づき,キャリア発達のプロセスを記述することでその特質を明らかにすることである。また,歴史や文化的な背景を理解することで,障害者観を変えた経験と障害者観変遷の構造との関係を明らかにする。聴覚障害のある女性のライフヒストリーから捉えた構造は,「聴覚障害者としての芽生え」,「障害のある女性の道を切り拓く」,「暮らしに根付いた聴覚障害者運動」の3つの時代から構成されており,キャリア発達のプロセスにも影響していることがわかった。これらの過程は,障害当事者としての自己認識とアイデンティティの確立が発展するプロセスとして捉えることができた。 キーワード:ライフヒストリー,キャリア発達,ろう女性 1.はじめに 障害のある女性は,教育,仕事,結婚,育児,介護などといった多様な個々人のライフイベントに加えて女性という性による社会的ジェンダー差や障害を持つことの複合化により,キャリア発達をはじめ様々な課題を抱えていると言われている。聴覚障害者を取り巻く環境とジェンダー及び聴覚障害のある女性が直面する問題については明らかにされていない面がある。ひいては,聴覚障害のある女性へのエンパワメントを推進するための情報提供や啓発の機会が少ない現状にある。本研究では,ライフヒストリー法を用いたインタビュー調査により,聴覚障害のある女性の人生体験に焦点を当てることで,激動の時代を駆け抜けながら,ろう女性の運動先駆的な役割を果たした聴覚障害のある女性が語るライフヒストリーにより意味づけられたキャリア発達のプロセスを構造的に明らかにすることを目的とした。なお,本研究でのキャリア発達とは,職業的な知識や技能など成長・発達ということにせまく限定せず,社会の中で自分の役割を果たしながら,自分らしい生き方を実現していく人間としてのトータルな成長・発達を踏まえた聴覚障害のある女性としての成長を考える。 2.ライフヒストリー(生活史,個人史)「ライフヒストリー」とは,本人が主体的にとらえた自己の人生の歴史を,調査者の協力のもとに本人が口述あるいは記述した作品である[1]。また,個人の生活構造(生活世界)に焦点をあてたもので,マイノリティ・グループの声をすくい上げられるとも言われている[2]。聴覚障害者を対象にライフヒストリー法を用いた研究は,管見の限りでは大杉[3] に見られるのみで,女性を対象にしたものは見られていない。ゆえに,聴覚障害のある女性個人が置かれてきた境遇を抽出し,聴覚障害のある女性としての経験生活世界(生活構造)に着目する方法として,ライフヒストリー法が有効であると考えられる。 3.方法 3.1 研究デザインライフヒストリー・インタビュー法を用いた質的研究 3.2 研究協力者の選定第二次世界大戦前後に生まれた聴覚障害のある女性1名,特に女性関係の活動経験が豊富で,かつ積極的に社会参加していくことで,主体的に自分の人生を紡ぎ出しており,それらの経験について充分に言語化できると判断した者とした。 3.3 研究期間2015年9月.2月の6ヶ月間に10回実施し,1回あたり90分から120分程度であった。 3.4 データ収集方法 研究協力者に文書を用いて研究協力を依頼し,同意を得た者を協力者として,面接の日程を調整し,ライフヒストリー・インタビューを実施した。2回目以降の面接は,前回の面接の補足を中心として実施した。面接は研究協力者の職場または自宅で実施し,面接時に研究者は頷くだけの聴き手として関与した。面接内容は研究協力者の了解を得た上で映像に録画し,逐語化した。研究協力者の活動報告や表彰歴等の業績に関する資料も収集した。 3.5 データ分析方法 録画した内容に基づき,逐語録を作成した。作成した逐語録を読み込み,研究協力者の聴覚障害のある女性としての発言や経験を中心としてライフヒストリーを再構成した逐語録と関連資料を基に,A氏の出生から現在までの活動の人生年表を作成した。逐語録と人生年表の流れからA氏の人生体験の節目を「時代」として区分した。「時代」ごとに生の言葉を用いて筋立てたストーリーを記述し,それをもとに「時代」を【時期】と<詳細>に区分し,それぞれに見出しをつけてストーリー・アウトラインを作成した。 4.結果 4.1 研究対象者の概要A氏は70歳代の聴覚障害のある女性で,出生時から73歳までのライフヒストリーを対象とした。 表1 A氏の略歴 1942年 (0歳) 岩手県に生まれる。直後,満州へ渡る。1945年 (3歳) 敗戦により,満州から引き揚げる。1954年 (12歳) 骨髄炎を発症,入退院を繰り返しながら 約10年間の闘病生活を送る(~21歳)1956年 (14歳) 薬による副作用のため,失聴1966年 (24歳) 国立聴力言語障害者センターへ入所。1967年 (25歳) 印刷会社に勤める。障害のある女性として, 活動を始める。1979年 (37歳) 全日本ろうあ連盟に勤める。1994年 (51歳) 体調を理由に全日本ろうあ連盟退職, 地域活動に専念。2015年 (73歳) 社会貢献者表彰受賞。 4.2 ストーリー・アウトライン「聴覚障害者としての芽生え」,「障害のある女性の道を切り拓く」,「暮らしに根付いた聴覚障害者運動」の3つの「時代」,8の【時期】,13の<詳細>に区分した。ストーリー・アウトラインは,表2に示す。 4.3 時代・時期のストーリー A氏の人生時期のストーリーを要約して以下に記述する。なお,紙幅の制約により「聴覚障害のある女性の道を切り拓く」に関するストーリーに絞った。 【キャリアを築く女性としての原点】中学1年の夏休みに突然発病したのを機に14歳前後に失聴する。以後,21歳まで入退院を繰り返しながら闘病生活を送ることになった。その間,病気のために学校にかよえない障害児を対象に設立された地域の私設養護学校「玉浦ベッドスクール」に入り,そこで他の障害児との共同生活を送ることになる。また,その頃東北にいる聴覚障害者同士で「みみより会東北グループ」を結成し,回覧ノートを書いて郵送し合うなど,それぞれの近況を情報交換し合いつつ,お互いに鼓舞し合っていた。長期入院生活を余儀なくされ,学校生活を十分に送ることができなかったことから,勉強不足を痛感していた。入院中から購読していたみみより会の本や日本聴力障害者新聞で,他の聴覚障害者の活躍する様子を見て,国立聴力言語障害センターで学びたいという思いを強くし,24歳の時に入所を決意する。その時の選択が,A氏の人生の分岐点ともなる。国立聴覚言語障害センターでは,訓練内容は主にタイプ・印刷・巻線コイル・クリーニング・洋裁で,A氏は主に和文タイプ技術を学ぶ。そこでは,全国からやってきた聴覚障害者と出会い,ろう学校育ち,中途失聴など様々な環境で育った彼たちから学ぶことは多かったとのことである。特に同期は女性の割合が多く,聴覚障害のある女性としての自覚が芽生え始めたのもその頃であった。当センターを卒業後,地元に戻り障害者施設で働くことを考えたが,当センターの職能担当であった貞弘邦彦先生の勧めにより,都内の印刷会社に勤務することを決意する。A氏は「これが人生の転機にもなった」と,後に述懐している。 【地道な社会活動から先駆的な活動へ】「玉浦ベッドスクール」時代に出会った樋下光夫氏が,聴覚障害者が運転免許を取得できないのは不服だとして,当時の法律に異議を申し立てて裁判を起こす。当時は,一般の農家で耕運機を使うところが増え,都会でも印刷や洋裁などの仕事を自営でやる人が出てきて荷物を運ぶ車がないと困るとのことで,運転免許を必要とするろうあ者も増えていったにもかかわらず,ろう者が運転免許をとることは認められていなかった。道路交通法改正のため署名運動に奔走,全国から3万人の署名が集まり,国会に提出する。これを機に聴覚障害者の運転免許取得の道が開かれた。また,印刷会社で勤務する傍ら,全国で2番目にできた関東唯一の手話サークル「こだま会」に通い始めたことが きっかけで,ろう運動の世界を知ることになる。「こだま会」は,1970年に始まった手話奉仕員養成事業が始まる前の,聴覚障害者と聴者が一緒になって学び合う場としても知られていた。そこで,当時先駆的な活動をしていた聴覚障害者や聴者との交流を通して,影響を受けるようになる。高等教育機関出身の聴覚障害者が増えていったのもその頃であった。 【聴覚障害のある婦人運動】1960年代には,東京都聴力障害者協会(当時)婦人部長としても奔走し,当時の都知事で革新知事としても知られた美濃部亮吉氏との対話集会に参加,毎月都庁に通いながら美濃部当知事との対話を重ね,聴覚障害者側の要望を伝えた。これは「美濃部対話集会」としても知られている。それを機に,手話講習会事業など手話普及,各区の相談員制度,東京都障害者福祉会館の設立,字幕付き日本映画の制作貸出事業,手話通訳派遣事業などがスタートした。ろうあ者を取り巻く生活も大きく変容を遂げ,ろう者の間では「東京の夜明け」とも言われた。1970年前後には,関東の各地区で婦人部が創立されていった。1970年には,ろうあ連盟で初めての女性理事として吉見輝子さんが選ばれ,ろうあ連盟婦人部設立担当理事となり,全日本ろうあ連盟婦人部設立準備委員会が発足する。同年,第1回関東地区ろうあ婦人大会開催し,A氏は婦人部長として司会を担当する。当時,婦人運動家としてまた政治家(元参議院議員)として知られていた市川房江氏を招き,成功を収める。その頃は,世界的に女性運動が高鳴りを見せていた頃でウーマンリブ運動,母親の戦争反対運動,国際婦人年の行事などが各地で開催され時間を見つけては参加し,自ら積極的にネットワークを広げていった。 第1回関東地区ろうあ婦人大会開催の翌年の1971年,京都で第1回全国ろうあ婦人集会を開催,約600人が集う。当時,世界的にも行なれていた,本人の意見を伴わない不妊手術すなわち強制不妊手術をさせられたり,家での虐待に悩む人などの声が集まり「涙の集会」とも言われた。これを機に,自分の意思で結婚して子どもを産む人が増加し,それに伴って保育所の優先入所(優先保育)やベビーシグナル(乳児の泣き声お知らせランプ)の給付,保母資格取得など様々な要求が出されるようになる。また,1970年に立ち上げた婦人部設立準備委員会から5年後の1975年に全日本ろうあ連盟婦人部が設立された。第10回全国ろうあ婦人集会の開催にあたり,当時婦人運動の先進的な活動の場にもなっていた埼玉県にある国立婦人教育会館を開催地として認めてもらえるよう,全国婦人部として文部省や厚生労働省と交渉に当たる。母子一緒に宿泊できる部屋,目覚まし時計やドアベルの設置なども配慮して欲しいなど要望を出しながら対話を重ね,認められる。当時,参議院議員であった市川房江氏に記念公演をお願いし,成功裏に終わる。 4.4 A氏の世界観変遷 A氏は,生まれた時は聞こえていたものの病気で聴覚障害になり,まだその頃は障害観については漠然としたものであった。玉浦ベッドスクールや国立聴力言語障害センターで自分以外の障害者との出会いや経験を経て,自己を確立し,障害者としての自覚の芽生え,そして国立聴力言語障害センターや社会人になってからの経験を通して社会性や主体性を発達させてきた。社会人時代は障害のある女性としての活動にも関わるようになり,婦人部活動をしていた頃,当知事の美濃部知事との対話や市川房枝氏など当時先駆的な活動をしていた人たちとの出会いを通し,障害のある女性としての自覚の更なる芽生え,自他ともにエンパワメントしていくようになった。その後も現在に至るまで,暮らしに根付いた障害者運動を続けながら,当事者主権を確立させているのであろう。 5.おわりに 聴覚障害のある女性当事者へのライフヒストリー・インタビュー調査を実施したことで,聴覚障害者を取り巻く環境および聴覚障害のある女性が過去から現在まで置かれてきている社会生活上での実態および歴史的実態を把握することができた。また,文献資料だけでは捉えきれない,聴覚障害者の置かれてきた境遇や日常生活の様子を掘り起こすことができ,聴覚障害のある女性の微細な心情も聞き取ることができた。本研究では,波乱に満ちた個人史を持つ聴覚障害のある女性の人生に着目したが,A氏のように生涯に渡り自己研鑽を重ねながら継続的に学び続けてきた姿勢を学び啓発していくことは,聴覚障害のある女性のキャリア形成支援,ひいては聴覚障害者へのエンパワメントの一環として位置付けることができるのではないかと考える。今後の課題としては,A氏に限らず事例を積み重ね聴覚障害のある女性のキャリア発達のプロセスに関する研究を深めていく必要があると考える。また,インタビュー調査のデータに基づき,聴覚障害のある女性たちのアイデンティティ形成についての考察を行いたいと考える。 謝辞 本研究にご協力いただきましたA氏に心から感謝いたします。 参考文献[2] 谷富夫編.新版 ライフヒストリーを学ぶ人のために.世[1] 中野卓.歴史的現実の再構成-個人史と社会史-,桜界思想社.2008.井厚編.ライフヒストリーの社会学.弘文堂.1995.[3] 大杉豊.聾に生きる-海を渡ったろう者 山地彪の生活史-.全日本ろうあ連盟出版局. 2005. 表2 ストーリー・アウトライン 表3 A氏の人生年表 The Career Development Process of Pioneer of the Deaf Women’s Movement: Life History Approach KOBAYASHI Yoko Division for General Education for the Hearing and Visually Impaired,Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired,Tsukuba University of Technology Abstract: This study aims to describe the career development process of a single deaf woman based on her life history. This woman played a pioneering role in the deaf women’s movement during the turbulent Showa era. By understanding the historical and cultural background, this study will clarify the relationship between the experiences of changing the perspectives of people with disabilities and the structure of the transition in the perception of disability. The structure derived from the life history of the deaf woman comprises three periods: “seedling as a deaf person,” “opening up the path for women with disabilities,” and “deaf people’s movement rooted in life.” It turned out that the structure influenced her career development process as well. The process could be considered a means of self-recognition and identity development for a person with a disability. Keywords: Life history, Career development, Deaf woman