三角形型のコミュニケーション~情報保障の支援を得た講義に関する講師自身の考察~ 庄司俊之 筑波技術大学 産業技術学部 非常勤講師電気通信大学 非常勤講師 専修大学 人間科学部 兼任講師 要旨:本稿では筆者自身を題材に,情報保障のスタッフの支援を得て授業を行う講師の体験について考察する。健聴者の講師Aが聴覚障がいを抱えた学生Bにむけて授業をするときに,情報保障のスタッフCを経由して情報伝達するタイプのコミュニケーションを,ここでは「三角形型のコミュニケーション」と呼ぶ。このコミュニケーションにおいて講師Aは,相手のBだけでなく,スタッフCにも適切な理解を2重に求めなければならない。そして,そのためには自分自身Aの理解を普段以上に明晰にする必要がある。このように3方向に注意をむけた発話行為を,講師は授業の前後を通じて組織していく。これは特殊で複雑な過程に見えるが,じつは日常的コミュニケーションにも同様の過程が潜んでおり,誠実なコミュニケーションのための普遍的な条件でもある。しかし,今後大学教育に求められる双方向性という点では,学生Bからの情報発信という点で課題が残ると本稿は結論する。 キーワード:三角形型コミュニケーション,非常勤講師,情報保障 1.はじめに:「講師」への注目 筆者は本学産業技術学部の非常勤講師として一般教養科目「社会学」の講義を担当し,今年で15年目を迎える。私自身は健聴者で,手話ができず,そのため情報保障のスタッフの支援を得て,パソコンを使ったリアルタイム文字表示というかたちで授業が成立している。当初,自分の話したことがただちに文字化されスクリーンに映し出されるという事態は驚きだった。同時に,その驚きに慣れ,適応していく過程は,私にとっては講義をするということそのものを学ぶ過程だったという思いが強い。情報保障に関する従来の研究は概ね次のように大別できるだろう。第1に,情報保障の思想的・社会的な意義についての考察[1]。第2に,学生の傍らでノートテイクするパターンから遠隔通信によるものまで,様々なバリエーションの情報保障の実際について[2]。第3に,パソコンを利用した情報保障におけるソフト開発について[3]。第4に,受講生にとっての利便性や教育効果についての研究[4]。しかし,筆者のような立場から聴覚障がいのある学生の教育に参加している講師については殆ど注目されていない。おそらく理由はあるのだろう。というのも,情報保障の狙いのひとつとは,一方では筆者のような外部講師が他大学で実施している,健聴者の学生を対象とした「一般的な」授業をそのままのかたちで本学へ持ち込んで学生に提供すること,逆に学生の側からみれば,聴覚障がいの有無にかかわらず健聴者と同じ授業を受けられること,そうした平等性を技術的に実現することにあると考えられるため,外部講師はそのままであってよく,殆ど何も要求されず,したがって問題関心の対象にはならないのだろう。とはいえ大学教育全体の文脈でいえば,たとえばアクティブ・ラーニングなどの語で必要性が叫ばれているのは,講師の授業に対する考え方,授業そのものの組み立て方,その効果・目的などの変更である。従来のように大教室において情報を一方向的に伝達するタイプの授業から学生の能力開発を促す授業のほうへと重心を移すために,講師の側のアプローチの仕方に再考が求められているのである。そうすると,講師にフォーカスした議論・研究にも一定の意義はあるのではないか。ここでは量的・質的調査を企画する手前の作業として,筆者自身の経験を材料として,情報保障の支援を得た外部講師の授業について論じてみたい。以下,第2節では「三角形型コミュニケーション」という語で基本的な図式を示し,続く第3節では授業準備について,第4節では授業時間における具体的なポイントについて述べる。第5節では総論的に自身の経験の意味を考察し,最後にいくつかの課題を提示したい。 2.三角形型コミュニケーション しばしば一般教養科目の授業は大教室で実施されるがこれを基本型として仮定しよう。その特徴は,A(講師)からB(学生)への一方向的な情報伝達にある(図1)。これに対して本学では,あいだにC(情報保障の技術・スタッフ)が介在する(図2)。 図1 図2 この簡単な図によってAがつねに何を意識しているかが可視化できる。つまり,Aにとって情報伝達の相手はB/Cという聞く姿勢の異なる2者であり,Aはつねに2つの方向・次元へ向けて発話する。外部講師が最初に戸惑うのがこの点だろう。が,少し想像を膨らませると,同じことはCの立場にいるスタッフにも言えることと考えられる。というのも,Cは,Aの発話を受けてそれを文字入力するが,入力された文字はAに送り返される以上にBに届くものでなければならない。だから,CもまたつねにA/Bという2つの方向を意識せざるをえない。さらにBも同様に,A/Cという2重化された情報発信者の落差を意識することがあるだろう。図2の場合,Aの情報発信がCを経由する過程でどれだけ誤差が生じているか,それが問題になる場面もあるはずだから。こうしてみると,情報保障の支援を借りた授業では意外に複雑なコミュニケーションが成り立っていることがわかる。本稿ではこれを「三角形型コミュニケーション」と呼ぶことにしたい。急いでこの図式化の意義をつけ加えておく。本稿でもつい「聴覚障がいのある学生を対象とする」という言い方をしたが,それだと「障がい」が一義的に学生の側に帰属することになってしまう。だが,本当はデフ・コミュニティーの中にあっては手話を解さない講師自身に障がいがあるのであって,だからこそ´講´´師が情報保障のスタッフに介助してもらわなければならないのである。公平に言って,問題はAとBのあいだにある。図1で示した矢印の箇所に図2では△マークをつけ,そこにバリアーがあることを示したが,これこそが「障がい」である。こうした理解は関係者に共有されてしかるべきものと思うが,「外部講師はそのままであってよい」という考えからはこうした理解は深まっていかないのではないだろうか。 3.資料作成:その3方向の意義 最初に世話役の教員から頂いた助言は「心もちゆっくり話すこと」「板書しながら話すのでなく,学生のほうを向いて話している口を学生に見せること」だった。いずれも大切な留意点だが,基本的に「講師はそのままであってよい」の範疇に入るだろう。他方,情報保障のスタッフからは「配布資料があれば事前に見せて欲しい」「講義のキーワードが決まっているなら教えて欲しい」との依頼があった。この依頼は複数名からのものである。依頼は「できれば」という条件つきの慎ましいもので,文字入力する立場からすれば当然のリクエストだが,場合によっては嫌がる講師もいるかもしれず,デリケートな面はあるだろう。が,結果的に,これがAとCのコミュニケーションの発端になった。いま,筆者は1回の授業につきパワーポイントでスライド12枚程度の資料をコンスタントに作成している。もともと本学とは関係なく,試験やレポートでの合格・不合格の基準を明確にすることが目的だった。が,こうして情報保障のスタッフに提供できるものが増えてくると,さらに別の効果が見込めるようになった。第1に,講師自身が資料作成を通じて授業の品質を高める意義がある。教育実習などの経験があれば最初に身につけるべき初歩だろうが,恥ずかしながら筆者がそれを実感したのは何年もたってからだった。あえて言えば,大学教員のすべてが教育実習のような研修を受けているわけではない点は確認されてよいかもしれない。第2に,これが本節の本題だが,講師と情報保障のスタッフの関係における意義がある。作成した資料はメールで送信するが,この一手間を挟むことで,資料を作りっぱなしにするのでなく,簡単な挨拶をともないながら,資料を作る・送る・それを読んでもらう,という一連のステップが徐々に形成されていく。そして「講義はスタッフとの協働作業」という意識が強まってくるのである。そもそもスタッフは受講生でないばかりでなく,学生以上の批評眼をもって一語一語に注意を払っている。この点は講師にとって緊張を強いる要素だが,逆に捉えれば,これは「学生以外に講義を聴いてもらう」チャンスでもある。このように受け取れるようになると,講義は学生以前にまずはスタッフたちに対して説得的に伝わらなくてはならないと思えるようになってくる。最初にスタッフが授業のキーワードを求めていた段階では,文字入力の仕事を首尾よくこなすためのリクエストが言われていたにすぎず,講師がそれに応えるのも特別な意味はなかった。だが,単なる文字入力者ではなく「最初の聞き手」というように位置づけが変わると,スタッフたちの些細な反応も授業の重要な構成要素となる。打ち間違いの少ないセンテンスは学生たちにも抵抗なく伝わる可能性が高い,その逆もしかり,というように。内容に関しても,以前,年配の女性スタッフが自分でもテキストを借りて読み,「面白かった」と一言感想を言ってくれたことがあるのだが,それは学生の反応とは独立に,授業の意義を担保してくれるもののように思われた。第3に,学生にとっての意義があるだろう。アンケート調査などで検証するまでもなく,つぎのことは容易に想像できる。ここ数年は情報保障のスタッフと一緒に学生にも事前に添付メールを送信しているが,これは印刷の手間と費用を省くだけでなく,簡単にでも資料に目を通すことで予習の意味をもちうるはずだ。少なくとも,パソコン操作能力が必須の時代にあってパソコンに触れる機会を増やすことは大事だろう。また,資料を片手に受講するということは,今どこの話をしているかを確認しつつ,どこが重要でどこがそうでないかのあてをつける能力を身につけるのに役立つだろう。このように資料作成は,やはり学生にとっても,それを送る・印刷する・読んでもらうという一連のステップを踏むことで,その効果は意外にも多岐にわたると考えられる。 4.リアルタイム文字表示の経験 つぎに実際の授業時間のこと,リアルタイム文字表示について触れる。これは多くのひとが最初に驚きを感じ,つぎの瞬間に自分自身に対して幻滅を覚えるのではないだろうか。普段,普通に話しているときは語尾が曖昧なことが多く,主語と述語が対応していなかったりする。そのことが可視化され,曖昧な日本語を話している自分自身に直面させられるからである。気づきもある。疑問文の発声は文末が高い音になるが,平叙文であれば文末はだんだん低い音域へ収斂していく。あたりまえの話だが,だからこそ口を大きく開けずに発音すると,「~である」と「~でない」とが区別しにくいことがある。が,構文や発声の仕方は話術と慣れに属する問題である。それに対し,発声と文字表示のあいだに生じるタイムラグは情報保障において否応なく生じる固有の現象である。このタイムラグについてはまるで足かせを履かされたようなストレスを感じることがあった。ピンチヒッターで担当してもらったスタッフが(あくまで筆者との関係において)不慣れだったため,聞き違えが多く,打ち込みのスピードも遅く,「これでは授業にならない」と思ったこともあった。それは例外としても,授業終了間際の時間帯は,講師としては言い残したことを区切りがいいところまで急いで話そうとして,どうしても早口になってしまう。ところが情報保障のスタッフからすれば,それは90分近く走り続けてきて一番疲れている時間帯なのだ。実際は疲労の問題ではないかもしれないが,彼我の落差が大きくなるのが終盤である。だからだろう,世話役の教員のひとりからはかつてこんなことを言われたことがある。「他大学での授業と比べて7~8割程度の分量を話す心持ちでやるとちょうどいい」と。そうした課題をクリアする仕掛けのひとつが事前の資料作成とその送付にあった。資料作成を十分やるようになってからは固有名詞や専門用語が出るくだりで立ち止まることは殆どなくなった。文脈をつかんでもらっているので構文上の間違いも少なくなった。もちろんそうした成果は一重に情報保障のスタッフの修練の賜物だが,まったく非協力的な講師の場合だったらどうだろうか。たしかに情報保障のスタッフは事前の資料があろうがなかろうがスムーズに文字入力できるよう努力を重ねているように見受けられるが,少なくとも講師の側から見て,自助努力でこの三角形型のコミュニケーションを円滑化しうる余地はある,そこまでは言っていいだろう。もちろん固有名詞・専門用語・文脈などを事前に知らせておくだけでは足りない。授業はしばしば脱線するからである。その場合には講師の側の工夫が大切になる。手許の資料を離れて「そういえば島崎藤村の『破戒』では…」などといきなり脱線したら,destroyの「破壊」と入力される可能性が非常に高い。だが,「そういえば,戒めを破ると書いて破戒,そういうタイトルの作品が島崎藤村にありますが…」と言えば,ほぼ正確に入力してもらえるだろう。大事なのは,資料作成そのものではなく,それをつうじて「授業が協働で成立する」という意識を醸成すること,そうした意識をもとに講師が文字入力するスタッフの視点を取り入れることにあるのだ。発話と表示のあいだにタイムラグが必然的に生じる情報保障において,講師がそのままであれば,これを埋め合わせるのは難しく,どうしても「他大学と比べて7~8割程度の分量」しか話すことができない。それを埋めるのは,結局のところスタッフの努力と講師がリアルタイム文字表示の居心地の悪さに向き合うこと,そして相手の視点を取り入れたコミュニケーションへの努力ということになるのではないか。現在,手馴れたスタッフのお陰もあって,筆者は他大学と分量的に殆ど区別することなく授業ができているとの実感がある。 5.特殊で普遍 では,総論的にこの三角形型のコミュニケーションはどう捉えられるだろうか。筆者はここまで驚きや居心地の悪さなど,その特殊性を強調してきた。しかし,相手やその場を特殊と感じるあらゆる経験は,翻って自分自身の特殊さをあぶりだす普遍的な経験でもあることが多い。そもそも三角形型のコミュニケーションは,よく考えれば他に類例のない突飛な型というわけではない。図式的にはニュースキャスターが外国の政治家やスポーツ選手にインタビューする際に通訳を介すのと同じである。また,リアルタイム文字表示を初心者が体験した際の恥ずかしさはテープ起こしのときとよく似ているだろう。ようするに,ここにあるのは翻訳の問題であるとひとまずは言うことができる。講師が普段使っている不如意な日本語Aを文字入力しやすい日本語Bに変換し,それをスクリーンを通じてデフ・コミュニティーへ届けるのである。が,もう半歩だけ深く考えれば,これは翻訳の問題ですらないかもしれない。たとえば人間が十分によく話すとき,また誠実に話そうとするとき,その者は自分の話す声を自分で聞きながら話すだろう。あるいは,話す者は自分の話している内容を脳裏に思い浮かべながら話す。いずれにせよ,話す者とそれを受け取る者とがその者自身のなかで2重化している状態がコミュニケートしようとする者の心的世界に存在する,こうした状況はむしろ普遍的というべきである。そうすると情報保障のスクリーンとは,内的な心的世界に生じうるものが即物的なモノとして外在化している,そのような状態として捉えられるのではないだろうか。情報保障の支援を借りたコミュニケーションを考えるということは,むしろコミュニケーション一般を考えることにもつながっている。さらに,こんなことが考えられる。とりわけ文系科目のように価値判断が分かれやすい授業内容の場合,講師は教室における「真理」の独裁者になりやすい。講師と学生の2者関係に閉じているとその傾向はさらに顕著になるだろう。その授業内容が独断でないと担保するものは地位や学位などの形式的なものだけだ。「社会学」を担当する筆者はその危うさをしばしば感じてきた。だが,情報保障の支援を得ているとき,教室には第3者がいる。この第3者の存在が講師にとってプレッシャーになりうることは先にも述べたが,同時に独断にブレーキをかけるものにもなりうると思える。本稿では「情報保障のスタッフとの協働」を文字表示の文脈で考察してきたが,そこには倫理的な意義もあるように思われる。 6.結語 以上,自分自身の経験を素材に考察をすすめてきたが,最後にいくつかの課題をまとめておきたい。第1に,本稿では第1節で「講師」に注目することを述べたが,実際にある感想Aを外部講師全体のどのくらいの比率がもつのか,量的に調べる課題がありえる。実態調査であり,有意味な質問項目を準備する必要がある。第2に,本稿第3節・第4節で触れたような授業運営上の工夫にはどのようなものがあるか,具体的に拾い集める作業があってよい。これはノウハウの事例調査である。第3に,筆者は第2・第5節のようなかたちで自身の経験の意味を捉えたが,他にどのような理解の仕方があるかを考察してもいいだろう。そのうえで,「情報保障のスタッフとの協働」に留意しすぎるために起こりうる課題がある。つまり,三角形型のコミュニケーションにおいて講師の視線が情報保障のスタッフとの連携に向きすぎ,結果的にスクリーン上に映し出される文章の完成度を授業の出来と取り違えてしまう問題がありうるということだ。これは,自分の能力や意識の問題を棚上げして言えば,「聴覚障がいを抱えた学生にも等しく大学教育を」というキャッチアップ型の問題意識の下,一般大学における大教室の講義をモデルとし,講師から受講生に向かうベクトルの代替を優先的に考えてきたことが背景のひとつではないかと考えられる。そのため逆方向のコミュニケーション,学生から外部講師への意思疎通を支援する必要性の意識やノウハウが現状では十分に蓄積されていないのではないか。筆者は何度か受講生に発言を求める授業を試みたが,まだ十分成功していない。もちろん私の側の問題が大きいのだが,情報保障のスタッフが受講生の背後に位置している状態では支援がゼロということになる。今後は必要に応じてこの配置を変更することも考慮してよいように思われる。今後は講師が話し・書き・動くだけでなく,学生が話し・書き・動く比重がますます大きくなっていくことが期待される時代である。そのためには受講生に能動性を促すだけではだめで,この従来の三角形型のコミュニケーションを十分深めたうえで,さらに逆方向に活性化させていく仕掛けが必要だろう。スクリーン上に反映された講師の発話に対する学生の反応を十分考慮し,「協働」のなかへ学生を組み込むことが大切である。 参照文献 [1] 塩野目剛亮,黒木速人,井上正之,他.高大連携プロジェクト「聴覚障害者のための社会連携・協調型教育拠点の構築事業」.筑波技術大学テクノレポート.2015;23(1): p.83-88. [2] 宮川正弘,関田巖,犬井千明.視聴覚重複障害学生に対する講義情報保障--ノートテイクについて.筑波技術短期大学テクノレポート.2002;9(1): p.1-5. [3] 張建偉,白石優旗.クラウドソーシングに基づく聴覚障害者による文字情報保障システムの開発.筑波技術大学テクノレポート.2016;24(1): p.117-118. [4] 加藤伸子,若月大輔,河野純大,他.聴覚障害学生のための講義におけるキーワードマップ提示の検討.筑波技術大学テクノレポート.2009;16(1): p.27-31. The Triangle Type Communication SHOJI Toshiyuki A part-time teacher Faculty of Industrial Technology,Tsukuba University of TechnologyA part-time teacherThe University of Electro-CommunicationsA part-time teacherSchool of Human Sciences,Senshu University Abstract: In this report, using my experience as a part-time teacher who teaches with the assistance of staff from the deaf support system, I examine the type of communication that occurs during the education of the hearing impaired. I refer to this type of communication as “the triangle communication,” in which “lecturer A” teaches “student B,” who is hearing impaired, with the support of “staff C.” In this communication, A must demand appropriate understanding from not only B, but also C. Furthermore, in order to realize proper communication, it is necessary for A to make himself understood clearly. The lecturer uses this type of communication to organize speech acts that turn attention to three directions during, before, and after the class. This can be seen as a special and complicated process, but, in fact, a similar process lies behind daily communication and is a universal condition for faithful communication. However, from the perspective of interactivity prospective in university education in the future, I conclude that a problem remains at B’s point of information dispatch. Keywords: Triangle communication, Part-time teacher, Deaf support system.