日本聴力障害新聞記事の「ろう女性」データベース作成 〜戦後から2014年までを対象に〜 長野留美子1),小林洋子2),大杉 豊2) Lifestyles of Deaf Women1)筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部2) 要旨:耳のきこえない女性(以下「ろう女性」とする。)は,「障害者」と「女性」という二重差別の中で言語化の機会も乏しく,1950年代まで抱える課題が可視化されてこなかった存在である。本報告では,「ろう女性」に焦点をあて,聴覚障害当事者団体の機関紙である日本聴力障害新聞の戦後の創刊当初から2014年までを対象に「ろう女性」に関する記事を抽出し,データベースを作成した経緯について述べる。 キーワード:ろう女性,聴覚障害女性,ろうあ婦人,ろう女性学,日本聴力障害新聞 1.はじめに 米国では,高等教育機関においてろう・難聴女性の教育の一環として「Deaf Women’s Studies (ろう女性学)」関連の授業が開講されており,文献調査を基にしたろう女性に関する歴史や暮らしに関する教材も製作されている。一方,日本では,ろう女性を取り巻く家庭・地域での暮らしや職業に関する文献については,当事者団体等による活動報告書は多く出されているものの,文献調査や研究に関してはまだ少ない状況にある[1]。 本稿では,戦後の1948年から2014年までを対象に,聴覚障害当事者団体機関紙として最も古い歴史を持つ日本聴力障害新聞の縮刷版に所収されるバックナンバー全号を対象に,ろう女性に関する記事を抽出し,データベースを作成した経緯について報告する。 2.文献調査方法 2.1 調査対象 本調査における調査対象は,日本聴力障害新聞(以下「日聴紙」と略)1948年5月1日号より2014年12月1日号までの788号分とした。同紙は,日本最大の聴覚障害当事者団体である全日本ろうあ連盟の機関紙として発行されており,日本におけるろう者社会の動向・世論などを反映しているものである。 なお,日聴紙発行前の文献としては,日本手話研究所の手話総合資料室に所蔵されている文献資料の中でも最も古いと思われる「聾唖界」(聾唖倶楽部会報 1914年〜1956年発行),聾唖年鑑(1935年発行)等があるが, いずれも「ろう女性」に関する記事はなく,個人名による投稿記事が散見される程度である。 2.2 データベースの作成手順 データベース作成にあたっては,日聴紙(創刊時は「日本聾唖新聞」)の縮刷版を用いて,以下の範囲・基準・時代区分の手順にしたがってデータを収集した。 2.2.1 対象範囲 創刊当初の1948年から2014年までを対象範囲とした。 2.2.2 対象基準 上記の範囲の記事を,「ろう女性」もしくは「聴覚障害女性」をキーワードとして,目視による記事の抽出作業を行い,記事で使用されている言葉の表現や内容の傾向を後述のタームを基準に分類してデータセットを作成した。 2.2.3 時代区分 上記データセットを3つの時代区分に分け,各区分毎に主な出来事を抽出した。この基準は,日聴紙記事の見出しを基にしている。そして,日本国内における出来事・海外における出来事に分類した。区分については内閣府男女共同参画局Webサイト[2]を参考にした。 ① 戦後(昭和20年:1945年)から国際婦人年(昭和40年代:1974年)まで ② 国際婦人年(昭和50年:1975年)〜平成元年(1989)まで ③ 平成元年(1989)から2000年プランの策定(平成8年)〜現在まで  こうして作成したデータベースを「言葉の使用」の面で分析した他,記事の内容から描き出される日本のろう女性社会の動きを,一般女性社会及び世界のろう女性社会の動きと比較した(表1)。 表1 日本内外におけるろう女性史年表 3.結果  3.1 言葉の使用 本調査では,日聴紙の記事内における言葉の使われ方について,「ろう女性」に関連する言葉が時代ごとにどのように表現されていたか調査を行った。 その結果,戦後の1940年代から1950年代前半までは,米国から来日し日本のろう社会に大きな希望を与えたヘレン・ケラー女史を「三重苦の聖女」と称える論調が多い。一方で,ろう者を「不幸な人」,「不具者」,「聾啞者」,「聾唖者」,ろう女性を「聾啞婦人」「聾啞娘」,「,オシ娘」「,ローア女性」,「啞のお母さん」と表記し,全体的に不遇な境遇を嘆く悲観的論調であった。 そうした論調が変化を見せてきた最初の兆しは,1955年京都で第1回近畿ろうあ婦人大会が開催された頃に見られる。ろう女性の表記もそれまでの漢字表記である「聾啞婦人」,「聾唖女性」から,ひらがな表記の「ろうあ婦人」と言う言葉が使われるようになった。 1960年代後半から1970年代の全日ろうあ連盟婦人部設立運動が隆盛を極めた頃には,「ろうあ女性」,「ろうあ婦人」,「ろうあのお母さん」,「聞こえないお母さん」といった言葉に加えて,「ろう協婦人部」,「婦人部活動」,「婦人の要求」,「母親大会」,「婦人活動家」のように,ろうあ婦人権利獲得運動に関わる言葉が多用されていた。 1980年代からは,「ろうあ婦人」,「ろう婦人」,「難聴婦人」,「聴覚障害をもつ女性」,「ろうあ女性」,「ろう女性」と多様な表記が使われるようになり,内容も教育・子育て・仕事・活動など多岐の範囲にわたって,権利獲得に向けて積極的な姿勢で取り組む論調に変わってきている(表2)。 表2 記事内における言葉「ろう女性」の使われ方 3.2 日本における一般女性の動向との比較 日本における一般の女性史の動向が,日本のろう女性史においてどのような社会的影響を及ぼしたかについて関連する記事を抽出し,比較検討を行った。その結果,歴史上重要な出来事がおきた時には,数年後にろう女性の運動でも社会的に影響を受けた動きが出ていることが確認された。 3.2.1 戦後(昭和20年:1945年)から国際婦人年(昭和40年代:1974年)まで わが国では,1925年(大正14年)に普通選挙が実現したが,男性のみの普通参政権であったことから,戦前より市川房枝氏らによる婦人参政権獲得運動が進められ,戦後の1945年に女性の普通選挙権が認められた。同時期のろう者社会では,戦後の1948年に聴覚障害当事者団体の全国組織である全日本ろうあ連盟の結成以降,全国的にろう運動の気運が高まりを見せたことを示す記事が見られる。 1950年代には,こうしたろう運動に奔走したろう男性運動家を夫に持つ妻の立場にいるろうあ婦人たちを中心に,日聴紙や一般雑誌等への自主的な投稿が相次ぎ,育児や家庭生活に課題を抱えるろうあ婦人同士の結束の声が上がり,1955年に京都で開催された第1回近畿ろうあ婦人大会を皮切りに各地で婦人集会が開催されたとする記事がある[3]。 1960年代には,ろうあ夫婦を主役とした映画「名もなく貧しく美しく」や1964年NHKのドキュメンタリー番組「歳月」が上映され,社会的な反響が広まったことを報道する記事がある[4]。 1970年に全日本ろうあ連盟役員に初の女性理事[5]が誕生すると,翌年の1971年に初の全国ろうあ婦人大会が開催され[6],全日本ろうあ連盟における婦人部設立運動は一層の高まりを見せ,同時期の日聴紙は毎月号に婦人部の動向を掲載している。 3.2.2 国際婦人年(昭和50年:1975年)~平成元年(1989)まで 国連は1967年に国連総会にて採択された「婦人に対する差別撤廃宣言」を受け,1975年を国際婦人年とし,日本でも1985年には男女雇用機会均等法の成立,女子差別撤廃条約の批准など,国内外で男女平等社会の推進に向けた様々な取り組みがなされた。 1973年には,ろうあ婦人が抱える育児や教育の問題を全てのろうあ婦人の共通の課題として取り組んでいく必要があるとして,全日ろうあ連盟婦人部結成に向けた準備委員会が発足し,1975年に全日本ろうあ連盟の中で正式に婦人部が発足したことが伝えられている[7]。そして,1978年には,初めて厚生省や文部省と交渉を行うまでに至った[8]ことは,ろう女性史においても社会的自立に向けた画期的な出来事だったといえよう。 こうした全日ろうあ連盟婦人部設立運動のうねりの中で,2度にわたって婦人参政権運動の先駆者である市川房枝氏を講演に招いたことにも,当時の婦人部運動関係者の意気込みが窺える。この市川氏講演では,「ろうあ者の中から議員を出したらどうか」との助言があったことが発言記録に残されている[9]。 ろうあ婦人の要求運動の動向について,当時の日聴紙の論調では,「家に閉じこもっていた婦人も活動に」「ろうあ婦人が変わる」といった表現を用いて,婦人部活動に参加して悩みや課題を共有するようになったことでろうあ婦人共通の要求に変わってきていると評した記事を掲載している[10]。 1969年から日聴紙内に婦人欄が設けられ,結婚の話題だけでなく,ろうあ婦人が労働・経済・育児・教育・生活の各分野で長期にわたるライフプランを立てていけるように知識や情報が提供されていたが,1977年7〜8月号の紙上討論では,婦人部運動を進める複数のろうあ婦人から結婚・家庭・仕事について「婦人の力で変革を」「ろう婦人の地位向上」「婦人の要求」という言葉を用いて,主体的な議論を交わす様子が見られている。 3.2.3 平成元年(1989)から2000年プランの策定(平成8年)〜現在まで 1995年,北京で開催された国連による第4回世界女性会議にて,女性の権利の実現やジェンダー平等の推進をめざす「北京宣言」及び「行動綱領」が採択されたのを受けて,日本国内では,1996年男女共同参画社会実現に向けた行動計画「男女共同参画2000年プラン」が策定され,使用用語も従来使われてきた「婦人」という言葉から男性と対語である「女性」と言う言葉を使用することが総理府婦人問題担当室から関係機関に通知された[11]。 1999年には,男性も女性も性別に縛られず,個性と能力を発揮できる社会の実現を謳って「男女共同参画社会基本法」が制定された。 同時期のろう者社会では,1991年に東京で開催された第11回世界ろう者会議や1997年の全日ろうあ連盟50周年大会にて,海外で活躍するろう者が多数来日し,国内に向けてアメリカ留学経験者のろう女性による著書も記事として紹介された[12]。このことは,日本国内の多くのろうの若者が海外へ目を向ける契機となり,留学意欲の向上につながった可能性が考えられる。 同時期の全日本ろうあ連盟婦人部では,1992年全国ろうあ婦人集会20周年を記念した「聴覚障害女性白書」を発刊し[13],2003年には,「婦人部の活動内容が次代を反映して以前にも増して幅広くならざるを得ず,それらに対応するために組織を見つめなおす時期がきていた」[14]として,婦人部から女性部へ名称変更している。 1990年代の社会情勢は,ろう者や手話を扱った漫画やテレビドラマが相次いだことで手話が静かなブームとなり,1999年にはろう女優が主役を演じた映画「アイラブユー」が上映され,ろう演劇分野に光をあてることになったことが記事になっている[15]。 2000年代に入ると,様々な職種で働くろう女性が日聴紙で紹介されるようになり,地方議員にろう女性が当選したことは,情報保障環境が整えば政治活動にも参加できることを世間にアピールする機会になったとする記事が見られる[16]。 一連の出来事は,長年の聴覚障害者の差別解消に取り組んできた全日ろうあ連盟による地道な運動により,様々な分野へのろう女性の社会進出が可能になってきたことを示していると言えよう。 3.3 世界におけるろう女性との動向との比較 世界のろう女性史の動向と日本国内との比較検討を行ったところ,日聴紙では世界の先進国とりわけ米国の動向の紹介記事が複数みられ,米国の影響を強く受けている点が明らかになった。 1960年代に世界で広まったウーマンリブ運動に端を発し,米国のろう女性史においても1979年全米初の地域ろう女性組織Deaf Women of Rochester(ロチェスターろう女性協会)が創立され,1985年には初の全米ろうあ婦人会議がサンタモニカで開催されたことが,日聴紙でも小さい記事ながらも紹介されている[17]。 1987年には,フィンランド出身のリサ・カウピネン氏がろう女性初の世界ろう連盟理事長に就任し,日本でも複数回講演活動を行ったことで,日本のろう社会とりわけろう女性に大きな希望を与えたことが日聴紙でも紹介されている。リサ・カウピネン氏は,2014年には国連人権賞を受賞している[18]。 2000年には,米国の難聴女性の内科医キャロリン・スティーン氏の存在が日聴紙で紹介され,ろう女性にとっては従来困難とされていた医師職にも就けるという希望を日本国内にもたらしたことが記事になっている[19]。 海外のろう演劇分野においても,1987年米映画に主演したろう女優のアカデミー主賞受賞は世界の注目を集め,1991年には英国難聴女性打楽器奏者やミスアメリカに選ばれた米国難聴女性,そして,フランスのろう女優の活躍が日聴紙だけでなく,一般紙やTV媒体でも大きく紹介されたことは,日本国内のろう演劇分野にも大きな影響を与えたとする記事が見られる[20]。 4.結語 本稿では,日本のろう運動の動向を反映していると考えられる日聴紙記事を整理し,戦後の創刊当初から2014年までを対象に「ろう女性」データベースを制作した経緯について詳述した。 同紙に掲載された記事は,あくまでも当該新聞の編集部の価値観が許容する範囲で話題が取り上げる側面があり,必ずしも社会的関心の変化が純粋に析出されているわけではない。この限界があることを踏まえて,本調査の結果,明らかになったこととして,以下の2点があげられる。 一つは,「ろう女性」は「障害者」と「女性」という二重差別の中で言語化の機会も乏しく,聴覚障害当事者団体の機関紙である日聴紙の中でも取り上げられる頻度は少なかったということ,2つ目に,そうした状況の中でも,一般女性史における社会情勢を受け,ろう女性自身による社会的自立に向けた動きが見られるようになってきたことである。このように日本におけるろう女性史の動向を整理できたことは成果であった。 本調査を通して,ろう女性を取り巻く境遇や課題を可視化させ,今後のろう・難聴女性の社会的自立に向けたエンパワメントの一助につながることを期待したい。 参照文献 [1] 小林洋子,大杉豊,管野奈津美.女性学・ジェンダー論の視点を取り入れたろう者学教材の開発.筑波技術大学テクノレポート.2016; 24(1): 16-21. [2] 内閣府男女共同参画局Webサイト(cited 2018-11 -22),http://www.gender.go.jp/about_danjo/law/kihon/index.html [3] 日本聴力障害新聞.1955年8月号;p.1. [4] 日本聴力障害新.1964年9月号;p.6. 1964年11月号;p.7. 1965年1月号;p.4. [5] 日本聴力障害新聞 1970年6月号;p.2.[6] 日本聴力障害新聞 1971年9月号;p.4. 1971年12月号;p.1. [7] 日本聴力障害新聞 1973年5月号;p.5. 1975年10月号;p.3. [8] 日本聴力障害新聞 1978年6月号;p.8. 1978年7月号;p.5. 1978年8月号p.8. [9] 日本聴力障害新聞 1980年12月号;p.5. 1981年1月号;p.9. [10] 日本聴力障害新聞 1975年1月号;p.5. [11] 内閣府男女共同参画Webサイト(cited 2018-11 -23)「男女共同参画社会基本法制定の歩み」http://www.gender.go.jp/about_danjo/law/kihon/index.html [12] 日本聴力障害新聞 1993年11月号;p.7. 1994年1月号;p.12.  [13] 日本聴力障害新聞 1992年5月号;p.4. [14] 日本聴力障害新聞 2003年12月号;p.5. [15] 日本聴力障害新聞 1994年9月号;p.4. 1994年10月号;p.6. 1995年5月号;p.5. 1999年12月号;p.9. [16] 日本聴力障害新聞 2001年5月号;p.2.6. [17] 日本聴力障害新聞 1985年4月号;p.5.  [18] 日本聴力障害新聞 1987年9月号;p.7. 1995年9月号;p.4. 1997年1月号;p.11. 1998年4月号;p.4. 2002年9月号;p.4. 2003年1月号;p.2. 2014年2月号;p.1. [19] 日本聴力障害新聞 2000年7月号;p.1. 2000年9月号;p.1. 2000年10月号;p.6.   [20] 日本聴力障害新聞 1991年1月号;p.10. 1992年3月号;p.6. 1994年10月号;p.6. 1997年1月号;p.15.  Creation of "Deaf women" database of Japanese hearing impaired newspaper article— From the end of World War II to 2014 — NAGANO Rumiko1), KOBAYASHI Yoko2), OSUGI Yutaka2) 1)Lifestyles of Deaf Women2)Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired,Tsukuba University of Technology Abstract: “Deaf women” has few opportunities for verbalization in the double discrimination “disabled person” and “female person”, and the tasks to be held have not been visualized. In this report, focusing on “Deaf women”, we extracted articles concerning “Deaf women” from the beginning of the postwar publication of Japanese hearing impaired newspaper articles, which is the body paper of the moving body, until 2014, and created a database I describe the process of doing. Keywords: Deaf Woman, Deaf Women’s Studies, Japanese hearing impaired newspaper