聴覚障害学生及び大学等を卒業した聴覚障害者のキャリア発達に関する研究 石原保志1),大杉 豊2),小林洋子2),管野奈津美2)筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者支援研究部1) 障害者基礎教育研究部2) 要旨:大学における聴覚障害学生のキャリア発達支援に関する具体的方策を検討する際の基礎資料を得るため,大学等を卒業した聴覚障害者の就労状況及びキャリアアップの状況を調査した。事業所を対象とした調査結果から,周囲の人々の障害理解啓発を促すための,障害当事者としての意識や能力が求められることが示された。キャリアアップを果たしている聴覚障害者を対象とした調査では,聴覚障害者は音声情報の受容に制約があり,故に情報取得手段を「経験知」「暗黙知」「形式知」といった分類で整理し,それぞれの能力を高めることがキャリアアップに結びつくことが示唆された。 キーワード:キャリア教育,高等教育,企業対象調査,社会人聴覚障害者対象調査 1.はじめに 聴覚障害者が学ぶ高等教育機関(本学及び一般大学)では,キャリア教育を就職支援と捉える傾向があり,文部科学省が定義する「個々人が生涯にわたって遂行する様々な立場や役割の連鎖及びその過程における自己と働くこととの関係付けや価値付けの累積(文部科学省,2004)」という,ライフステージとしての視点からのキャリア発達を捉える観点が,我が国においては実践面及び教育面で不足している状況がある。そこで本研究では,聴覚障害のある大学生及び大学を卒業した聴覚障害者が,ライフキャリア(Super, Savikas & Super, 1996)の中でどのような発達をし,どのような課題を有しているのかを明らかにする。 2.事業所を対象とした質問紙調査 聴覚障害者のキャリア形成,キャリアアップの現況を把握するために,職場における就労の状況を特に明らかにすることが肝要である。このため本研究では,障害者を雇用している事業所を対象とした質問紙調査を実施した。東京都労働局管内のハローワークを通して,障害者を対象とした採用枠を設け求人を行っている1,011の事業所を対象に質問紙を郵送し,102の事業所より回答を得た。結果の概要は以下の通りである。 2.1 職場における障害理解障害の特徴に関する分かりやすさについて,障害種別に尋ねた質問に対する回答を集計した結果,聴覚障害,視覚障害,肢体不自由は,内部障害,精神障害,知的障害と比較して「分かりやすい障害」であると認識されていた。大石(2007),岩山(2013)は,聴覚障害が職場の人々にとって「分かりにくい」障害であることを示唆しているが,本調査の回答はこれらの先行研究とは異なる結果となっている。この理由として,近年,精神障害者保健福祉手帳や療育手帳を有する人々の人口が増加し,その就労が課題となっているという背景が影響しているものと推察される。 2.2 周囲の障害理解と職場定着回答事業所の約70%が,聴覚障害者の職場定着において周囲の障害理解が影響していると回答していた。この理由として「理解度が向上することで,お互いのコミュニケーションが図れ,職場における定着率にプラスに作用すると思われる。」といった,コミュニケーションに関する内容の記述が多かった。従前より,障害者の職場適応やキャリア形成において,コミュニケーションと情報伝達が課題となることが指摘されているが(石原,2011),本調査の結果は,この課題が障害当事者のみに帰されるのではなく,障害理解という環境要因によるものであるという事業所の意識を反映していると言えよう。すなわち社会モデルとしての「障害」に対する認識が,職場においても浸透しつつあることを示しているものと考えられる。 3.大学等を卒業した聴覚障害者を対象としたインタビュー調査 聴覚障害者のキャリア発達の状況を縦断的に検証するため,社会人聴覚障害者を対象とした調査を実施した。調査はインタビュー法および集団面接法とした。対象者は高等教育機関を卒業して事業所において役職に就いている聴覚障害者とした。調査は2回に分けて実施した。第1回目は民間企業の副部長,独立行政法人の課長代理の役職にある2名とした。第2回目は,地方自治体の課長,民間企業の副部長,独立行政法人の課長代理の3名を対象とした。調査結果の概要は以下の通りである。 3.1 民間企業における聴覚障害者のキャリアアップに関する現状 ・4年制大学・短期大学の入学試験において障害に対する配慮を受けた受験者数の中,聴覚障害者は他の障害者より多く,3分の1を占めるのに対して,管理職への昇進は6.5%で,逆に他の障害者より昇進できていないことが明らかになっている。 ・障害者の昇進スピードについては,肢体不自由の社員の昇進スピードは健常者並みとされている。聴覚障害者の役員も耳にしたことがないし,課長クラス,専門職,マネジメント職に就いている聴覚障害者はなかなかいない状況である。 ・聴覚障害者がキャリアアップできない原因として,健常者の場合360度音声情報を得られる。仕事をしながら職場で交わされる様々な会話情報を聞き取って,必要な情報は記憶し,不要な情報は捨てることができる。ろう者は音声情報が入ってこないため,周りの状況を見て判断せざるを得ない。その経験の積み重ねに差が出ているからではないかと考える。それらの経験を「経験知」「暗黙知」と呼ぶ。逆に文字化されて目に見える情報は「形式知」という。聴覚障害者が触れられる情報と言えば,形式知が中心であることが推察される。さらに,聞こえない人は,音声情報が得られないが故に,暗黙知に弱い傾向がみられる。それがキャリアアップを難しくさせている要因の一つと考えられる。 ・20代後半から30代前半の状況を見ると,採用・保険など人事関連が多く,異動もあまりない。聞こえない人は同じ部署で,合わない,もしくは理解がない人と一緒に仕事を続けなくてはならず,ストレスで離職するというケースもある。 ・入社した際は,管理職への登用はないと思っていたが,転機は管理職候補として研修を受けたこと。聞こえなくても管理職になれるのか,とその時から気持ちが変わった。 ・管理職には就いたが,例えば会議の司会は聴覚障害者にとっては難しい。根回しができない,前もって打ち合わせや相談することがしにくい。 3.2 公的機関における聴覚障害者のキャリアアップに関する現状 ・公的機関においては,健聴の職員も含めて,一般的にはキャリアアップを目指そうという人は非常に少ない。係長や課長の試験を受ける人が減っていて困っている状況。わざわざ苦労はしたくない,現状のままで十分という人が多い。その中で聞こえない職員の場合,情報保障がないので,自分の努力でそれを埋める必要があり,聞こえる職員と同じ状況に追いつくだけで精一杯という難しい状況がある。 ・これまでは情報保障がなく,仕事をするだけで精一杯で,キャリアアップまで考えが及ばないような状況であった。ただ最近は,係長職になる聞こえない職員も増えてきている。 ・実際には異動の基準があっても,例外の扱いとして,同じ職場に10年以上勤務している人もいる。本人の働きやすさを考えてそういう扱いをしているという側面がある。また,同じ庁内に聞こえない職員が2人いるとして,この人同士を入れ替えるという形の異動もみられる。 ・健聴の職員も含めて,一般的にはキャリアアップを目指そうという人は非常に少ない。係長や課長の試験を受ける人が減っていて困っている状況。わざわざ苦労はしたくない,現状のままで十分という人が多い。 ・聴覚障害がある女性の場合,家庭において育児や家事を担い,その上に仕事に力を使うとなると,全ての力を仕事に注げる男性と比べてハンディがある。いわばダブルハンディがある状況の中で,キャリアアップ以前の苦労がある。 ・大学が貢献できることについては,一般の大学は都心にサテライト・キャンパスを開設して,平日夜や土日に社会人対象に教えている所も多い。同様に,聞こえない社会人を対象にしたサテライト・キャンパスを開いて,実際に仕事をする上で必要な実学や研究によって得られた成果をそこで提供していく方法もあるだろう。 文献[1] 石原保志.聴覚障害児者のキャリア発達とセルフアドボカシ―.ろう教育科学.2011;53(1):p.13-21. [2] 岩山誠.聴覚障害者の職場定着に向けた取組の包括的枠組みに関する考察.地域政策科学研究.2013; 10, p.1-24. [3] 文部科学省.キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告書,2004. [4] 大石忠.企業が求める職場適応能力とは.聴覚障害.2007; 670, p.10-16. [5] Super, D. E., Savickas, M. L. and Super, C. M. The Life-span, Life-space Approach to Careers. Career Choice and Development. 1996.