日本におけるろう芸術の動向 管野奈津美,大杉 豊,小林洋子 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部 要旨:国立大学法人筑波技術大学障害者高等教育研究支援センターで,平成 23年度よりろう・難聴者の様々な生き方や考え方及び自立に必要な知識などを指導する「ろう者学」の指導カリキュラム及びコンテンツを開発・整備する「ろう者学教育コンテンツ開発プロジェクト」に取り組んできた。米国では数多くのろう芸術に関する文献が認められるが,日本ではろう芸術,そしてろう者の芸術活動についての研究・調査もほぼ皆無に等しい状況である。本記事では,まずアメリカのろう芸術の動向を概説する。そして日本の戦前・戦後においてろう芸術の主な担い手としてのろう美術作家がどのように活動してきたのかを,「ろう者学教育コンテンツ開発プロジェクト」で収集した資料をもとに概観し,そのろう芸術の動向が日本のろう者コミュニティにどう影響を与えてきたのか,ろう芸術が果たしてきた役割と重要性を探求していきたい。 キーワード:ろう者学,芸術,ろう芸術,デフアート,ろう者コミュニティ 1.はじめに まず聴覚障害者は主に視覚に頼って生活しているため,美術的センスが良い,または絵を描く能力が優れているという先入観が横行している。何が根拠とされているのかは不明だが,確かに過去優れた職人や画家が数多く存在するのは事実である。何故多くの職人や画家が輩出されたのか,過去の歴史を遡りながら,多くの職人や画家が輩出された社会的背景,そしてろう芸術の動向が現在のろう者コミュニティにどう影響を与えてきたのか整理していきたい。 2.米国におけるろう芸術の動向 米国では19世紀から既にWilliam Mercer(1765-1839)やJohn Brewster(1766-1854)など肖像画を描いて収入を得ていた者など,優れた絵画の描き手が多くいた[1]。Granville Redmond(1871-1935)はチャールズ・チャップリン主演のサイレント映画に出演したことでも有名で,優れた俳優であったのと同時に優れた画家でもあった[2]。1960年~70年代,市民権運動やベトナム戦争反対運動などで人権に対する意識が高まりつつあった当時,ろう者を取り巻く環境にも言語学としての手話研究の始まり,アメリカ・デフ・シアターの設立など変化が訪れ,ろう者コミュニティ内でろう者自身の手話やろう文化に対する意識も大きく変わっていった。そして1972年にBetty G. Miller(1934-)がギャロデット大学で開いた展覧会で展示された「社会的な抑圧に対するろう者の苦しみ」を表現した作品が,当時のギャロデット大学の教職員や学生,ろう者コミュニティに衝撃を与え,大きな反響を呼んだ。後のろう者アーティスト達にも影響を与えたことから,その展覧会が後述する「デフアート」をテーマとした展覧会としては最初のものと位置づけられている。その影響を受けて,様々なろう画家が手話やろう者をテーマにした作品を発表するようになった。後にBetty G. Millerは聞こえるアーティストが設立した「Spectrum: Focus on Deaf Artists」という団体に加わり,この団体は2年後に22人の画家やダンサーを含めたろう者アーティストで構成される団体に発展した[3]。また,1989年にワシントンD.C.で開催されたDeaf Way International Conference on Deaf Culture(略称:Deaf Way I,デフウェイ)にてろう者アーティスト9人により,「デフアート」の定義について検討がなされ,「デフアートはデフアーティストが創った作品全てを指す」ことから区別化を図るために「De’VIA」(「Deaf View / Image Art」の略称)という言葉を作り出し,「De’VIA」のマニフェストを発表した。すなわち,「De’VIA」とは「ろう者としての経験を反映・表現した芸術」[4]であると定義され,これが今日の米国におけるデフアートに対する見解のスタンダードになっている。そのため,米国のろう者コミュニティの中ではろう文化と密接したアートとして「De’VIA」の用語が好まれて使用されている。ギャロデット大学や国立ろう工科大学(NTID)では「De’VIA」のクラスが開講されたり,学内のギャラリーでも卒業生やろう者アーティストの作品が積極的に展示されたりするなど,「De’VIA」の概念を具体的に理解する場となっている。 3.日本における戦前のろう芸術の動向  (1928年〜1945年) 1928年(昭和3年)に日本で初めて誕生したろう者劇団「車座」の存在から記述を始める。植野(1995)は,大阪を拠点にしたろう者中心の劇団で,本格的でレベルも高く,演劇関係者やマスコミ関係者からも高く評価されたと述べている。当時は大正モダニズムの背景もあり,ラジオ放送の開始,無声映画からトーキー映画への移行もあり,音声情報から取り残されてしまったろう者達にとっては,手話劇は文化を楽しむ手段であったと指摘する。また,「車座」中心メンバーの藤井東洋男は大阪市立聾学校の教員で聾学校との結びつきも強かった。当時,聾学校がコミュニティの中心であったことがうかがえる[5]。戦前の美術作家においては,何人か確認されている。日本画家・高増径草(本名・高増啓蔵)(1901-1985)や島根県立浜田聾学校の美術教員を務めた藤田威(1917-1972)もいた。高草径草は官立東京聾唖学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)師範部図案科で日本画を学び,後に広島県立聾学校に赴任しており,藤田威は京都府立聾唖学校(現・京都府立聾学校)の絵画科で日本画を学んだ。他にも松本竣介(1912-1948)という画家が一般的に知られているが,彼が中途失聴であることはあまり知られていない。そもそも失聴がもとで,画家になることを決心したという記述が残されている[6]。そういう記述から,当時ろう者が職業を選択できる幅が限られており仕事に就くことが困難であったことが想定できる。また,聴覚障害のため,徴兵をまぬがれ,不具者として非国民として扱われ,孤独な中,戦時下の風景を描き続けた。このように激動の時代を生き抜き,静謐で時代を見つめる作品が多く残されている。 4.日本における戦後のろう芸術の動向と職業教育  (1945年〜1991年) 日本聾啞新聞1948年(昭和23年)5月号に,日展や京展入選経験の聾啞者画家を含めた青年7名が京都で研究会を開き,入選を目指し聴者のベテラン画家を招いて指導してもらったことを伝える記事があり,「耳が聞えず,ものがいえなくても總ては負けないと聾啞者ばかりが集まつて畵業ひとすじにいそしむ…」[7]という表現が見られる。日本聾啞新聞1948年(昭和23年)11月号では,当時の国立聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)から日展に3人入選したという記事があり,入選者の一人の大原省三(1920-1992)は以下のように述べている。「めくらには塙保乙一さんのような學者,宮城道雄さんのような音楽家が出ているのに聾啞の人達はそれ程の力を世に示さなかったそれが最近繪畵の面で世間に認識をもたれるということになつたのは嬉しい」[8]そして1949年(昭和24年)11月に,日本ろうあ美術家協会の主催で「第1回全国聾啞美術展」が上野で開催された。「ろうあ者特有の感覚の鋭さを社会に訴えて認識を深めさせる」という目的で企画され大規模な展覧会であったようだ。同時に上京した作家を呼び寄せ,日本ろうあ美術家協会結成式及び反省懇談会も開いている。日本画・洋画・工芸・彫刻・木工・洋裁・刺繍などの75品が出品され,連日入場者が5,000名程であったという[9]。1953年(昭和38年)に広島で第2回も開催されたが,その後は資金などの問題で開催されていない。ここで特筆すべきことは,1949年に戦後間もない頃,日本ろうあ美術家協会が設立され,ろう芸術家の展覧会が既に開催されていたことである。そして日本ろうあ美術家協会は日本において初めて結成されたろう芸術家の団体といえる。このように戦後初期の日本聾啞新聞・日本聾啞ニュースの記事では,聾啞者が絵画を描いて自立という表現がなされていた。当時は芸術というよりは,自立の手段として見なされていたといえよう。 聾学校においては,職業的な自立を図るために必要な技術を指導する学科やコース,例えば産業工芸,木工,洋裁,和裁,理容・美容,機械,印刷などの学科・コースが設置され,様々な職業教育が行われてきた。学生はそこで技術を身につけ,卒業後は様々な工場や店などで働くのが一般的であった。しかし企業や工場に雇ってもらうのも難しく,自ら店や工房を開いていた例もあったようだ。 その中でも筑波大学附属聾学校(現・筑波大学附属聴覚特別支援学校)は全国で唯一油絵を学べる美術専攻科(現・造形芸術科)が設置されており,数多くの卒業生を輩出した。中でも教員を務めた大原省三自身もろう者で,40年間近く教鞭を取り,多くの学生のロールモデルとなった。また,数多くの卒業生が日展や光風会展で入賞を果たしている。当時は日展や光風会展に出展し,会員として登録されることがある一種のバロメータとみなされていたようである。聴者と同じように描ける,教育を受ければきちんとした技術を身につけられるということをアピールする手段の1つだったことがうかがえる。働きながら日展などに応募し続けるのがライフワークとなっており,卒業生同士のネットワークがあったようだ。東海にもろう者画家の交流団体があったことが確認されている。三ツ井詠一(1935-)は著名な九谷焼の陶芸家として名を馳せた数少ない職人であり,米国のギャロデット大学及び国立ろう工科大学(NTID)に招聘され,講師として教えた経験を持つ。三ツ井も1991年(平成3年)に東京で開催された世界ろう者会議の分科会で「日本は他の国に比べて,洋画家がとても多い。筑波大学附属聾学校に油絵を学べる美術専攻科があり,長い歴史を持つ。同時に,確かな指導力を持つ聾の教員・大原省三先生がいたのも大きな要因である。」[10]と述べている。このように日本において洋画家が多い背景として,聾学校による職業教育が非常に影響していたこと,そして筑波大学附属聾学校に美術専攻科があり,ろう者教員がいたことが大きな要因であった。 次にろう者演劇の歴史について再び述べたい。戦後「車,座」を引き継いだ「もくもく劇団」が大家善一郎によって設立されたが,全体的には停滞期が続いていた。1979年(昭和49年),アメリカのプロのろう者劇団「アメリカ・デフ・シアター」が来日・巡回公演したことにより,各地で手話劇が盛んになり,文化的振興がデフコミュニティ内で起きた。その中で,日本初のプロ劇団「日本ろう者劇団」や人形劇の「デフ・パペットシアター・ひとみ」も誕生した。その流れで全日本ろうあ連盟主催で「ろう演劇セミナー」が開催され,全日本ろうあ連盟内にも文化部が設置された。そして1990年(平成2年)「全日本ろう者演劇会議」が設立された。全国ろうあ者大会の祭典やアトラクションでも演劇が催されるようになった。別に「ろうあ者文化活動者会議」も立ち上げられ,ろうあ者の文化のあり方などが議論されるようになった[11]。 写真家・井上孝治(1919-1993)は福岡県立福岡聾学校中等部の木工科で家具製作を学び卒業したが,写真が趣味であった父親の影響で写真を撮り始め,自分の写真店を開いた。様々な写真コンテストに応募・入選していて地元・福岡のアマチュア写真家の間では知られていたようだが,晩年岩田屋デパートのキャンペーン広告に起用されたのがきっかけで広く注目されるようになった。自然体のありのままの子どもたちや大人の姿を捉えており,ろう者でありながら自由にどこでも出かけ,空気に溶け込んでいたかのように撮っていたということが興味を引いたようである。実際に店の常連客であった米軍関係者のつてで,当時行くのが困難であった米国占領下の沖縄を訪れ,当時の人々の生活の様子などの写真も撮っている[12]。西村功(1923-2003)は帝国美術専門学校(現・武蔵野美術大学)を卒業し,聾学校で教鞭を執る傍ら,二紀会を主な発表の場として制作活動を続けた。頻繁にパリを訪れパリの街の風景,特にメトロの駅やバスなどで行き交う人々や座る人々を題材にした絵を残した。八木道夫(1947-)は高校卒業後,肖像画家に弟子入りし,肖像画家として独立を果たし,著名人の肖像画を手がけるようになった。その傍ら,個展を精力的に開き,「ピエロシリーズ」を発表している[13]。ろう者画家 の中にはろう者演劇の舞台芸術を担ってきた者も多く,安元亮祐(1954-)もその1人である。安元は大原省三の教え子で,数多くの舞台芸術を手がけるとともに,ギャラリーで多くの個展を開いている。ここで一部のろう美術作家を挙げたが,他にも優れた美術作家は多数いる。それをまとめた資料は管見の限り乏しく,今後さらに調査しまとめていく事も課題であろう。 5.日本における近年のろう芸術の動向(1991年〜) 近年では,1995年(平成7年)木村晴美・市田泰弘による「ろう文化宣言」[14]に代表されるように,ろう者コミュニティを言語的マイノリティと位置づけ,ろう者独特の文化を見つめ直す動きに拍車がかかった。「D PRO」の団体が設立され,手話を第一言語としたバイリンガルろう教育を導入しようという動きも目立ち,手話語りなどのイベントも多く開催されるようになった。また,電子技術の発展でビデオ撮影や編集が容易にできるようになったことから,手話やろう者の生活をテーマにした映像制作を手がける例も増えてきた。ろう映画(デフムービー)の上映イベントも催されるようになったと同時に,「ろう映画」とは何なのかという議論も生じるようになった。 また,2005年横浜で「聾ろうロウデフアートフェスティバル 2005」も開催されている。聾者としての芸術「デフアート」とは何かを模索することを目的とした芸術祭であり,1960年代に劇映画を数篇製作したろう者の深川勝三監督による「楽しき日曜日」の上映,米国のろう映画の研究者・Jane Norman博士の「デフシネマとは?」の講演会などが催された。米国のデフアートの第一人者Chuck Baird(1947-2012)による「デフアートとは?」の講演会も開かれ,「De’VIA」の紹介もなされたようだ。このように「デフアート」の概念を掲げてろう文化を啓発するフェスティバル企画は日本において初めてであったと思われる[15]。乗富秀人という画家も「デフアート」をテーマにした絵画を描き続け,「手話で生きたい」というデフアート絵本を出版している。最近では「Deafhood(デフフッド)[*注1]」をテーマとした展覧会「Deafhood +生きるために声するのか 声のために生きるのか」も諸星春那によって開催され,インスタレーション(展示空間を含めて作品と見なす手法)として箱型補聴器や発音訓練で使われる道具などが展示され口話教育に対する問いかけも取り上げられるようになった。 6.「ろう者の経験を反映させた芸術」としての視座 管野(2015)は,欧米のろう者アーティストの作品を比較した結果,テーマは様々といえども,根本的にはろう者としての自分を表現している傾向が認められることを示した。社会的にマイノリティとして孤立してきた悲しみ,自分たちの母語である手話への抑圧に対する苦しみ,聴者世界の中で生きる葛藤,ろう者としてありのままに生きる姿勢などろう者としての姿が表現されている。彼らにとって,芸術を通して自分を表現することが,聴者社会で「自分らしく生きる」手段だったといえよう。興味深いことにこの傾向は,他のマイノリティアート(先住民,女性,黒人,ラティーノ,セクシャルマイノリティ)と共通している。ろう者である彼らの作品には,国,そしてそれぞれ育ってきた背景や手話,文化が異なりながらも,世界各地で共通したテーマが描かれており,ろう者としての経験は世界共通であることをも示している[16]。では日本の場合どうだろうか。近年,デフアートをテーマとした作品も見かけるようになったが,戦後描かれた作品を分析してみると例えば西村功は作品の中で耳がついていない人物を描いている。どういう意図があったのかは明らかになっていない。そして八木道夫はピエロをテーマとした絵を長年描き続けており,化粧を施しどんな時でも舞台で人を笑わせているピエロをろう者である自分と重ね合わせたという。まるで偽りの仮面を被っているかのように,ピエロの二面性はろう者と通ずる部分があるのではないかと考える。このようにろう者であることがテーマに隠されているのではないかと考察できる作品例がいくつかある。今後さらなる分析が求められるであろう。 7.まとめ 戦前はろう者が仕事に就くのは極めて難しく,食いつないでいく手段として画家や職人の道をやむを得ず選択していた状況があった。聾学校の美術教員として勤めている者もいた。戦後は職業教育が主流で,手に職をつけ,生活していくための自立の手段であった。京都府立聾学校に絵画科そして筑波大学附属聾学校に美術専攻科があり,特に美術専攻科にはろう者教員がいたことから多くのろう画家が輩出された。近年は「ろう文化」の表現手段としてデフアートが用いられるようになり,言語的マイノリティとしてのろう者の表現方法として強調されるようになってきた。特にこの辺りは「障害者としての自立」から「文化としての確立」への変換期であったといえよう。このように日本におけるろう芸術の動向を整理していけたことは大きな成果であった。米国ではろう者アーティストがともに活動・集結し,ろう芸術とは何かと議論する機会があったが,日本においては戦後,美術作家同士の交流団体が結成されたが,現時点ではそういうネットワークは確認されていない。様々な分野で制作活動をしている当事者が集まり,日本におけるろう芸術とは何か議論する機会を持つことも今後求められるのではないだろうか。ろう芸術はろう文化のひとつのあらわれとして認識されつつあるが,1990年代以降使われるようになった「デフアート」の概念の変化を捉えた研究はなく,言語的マイノリティとしてのろう者の表現方法,そして「ろう者の経験を反映させた芸術」という認識もまだ弱い。今後は作品・資料を詳しく調査し「,ろう者の経験を反映させた芸術」の視座に立った分析が求められるであろう。 注1)「Deafhood」は「Deafness」の対語としてパディ・ラッド博士が提起した「ろうであること」を意味する文化的な概念であり,医療的な視点とは一線を画するものである。 参照文献 [1] Sonnenstrahl D. M. Deaf Artist in America: Colonial to Contemporary. DawnSignPress(San Diego), 2003; p.3-12. [2] Schuchman J. S. Hollywood Speaks: Deafness and the Film Entertainment Industry. University of Illinois Press(Chicago), 1988; p.23-24. [3] Lane H, Hoffmeister R, Bahan B. A Journey into the Deaf-World. DawnSignPress(San Diego), 1996; 138-143. [4] 管野奈津美.「聞こえない」芸術表現の可能性を模索して.In: NPO法人日本ASL協会.日本財団聴覚障害者海外奨学金事業10周年記念報告誌 ~奨学生のこれまでと今後の飛躍~.2015; p.43. [5] 植野慶也.日本におけるろう者演劇活動と文化①.月刊福祉.1995; 5: p.74-75. [6] コロナ・ブックス編.松本竣介 線と言葉.平凡社(東京),2012. [7] 日本聾啞新聞.昭和23年5月号; p.1. [8] 日本聾啞新聞.昭和23年11月号; p.1. [9] 日本聾啞ニュース.昭和25年4月号; p.3. [10] Mitsui E. Deaf Painters in Japan. In: World Federation of the Deaf. Proceedings, XI World Congress of the World Federation of the Deaf. World Federation of the Deaf (Tokyo), 1991; p.686-690. [11] 大槻芳子.ろう芸術・ろう文化の歴史と展望.平成6年度障害者文化芸術振興に関する実証的研究事業報告書.公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会.(cited 2016-8-16)http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/other/z00017/z0001705.html [12] 黒岩比佐子.音のない記憶 ろうあの写真家 井上孝治.角川学芸出版(東京),2009. [13] ベター・コミュニケーション研究会.特集 芸術.季刊 いくおーる.1996;19: p.10-11. [14] 現代思想編集部.ろう文化.青土社(東京),2000. [15] ヨコハマ経済新聞.聾者による芸術祭「デフアートフェスティバル」日本初開催.2005年11月16日. [16] [4]; p.45 Deaf Art Trends in Japan KANNO Natsumi, OSUGI Yutaka, KOBAYASHI Yoko Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology Abstract: The Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology have developed an educational curriculum for Deaf Studies, which provides information about a diverse range of lifestyles for the deaf and hard-of-hearing, and provides them the knowledge necessary to develop independent living skills. This paper describes Deaf art trends in Japan by exploring the influence and the role of Deaf art in the Japanese Deaf community from the sources collected by educational contents development project for Deaf Studies. Keywords: Deaf studies, Art, Deaf art, Deaf community