女性学・ジェンダー論の視点を取り入れたろう者学教材の開発 小林洋子,大杉 豊,管野奈津美筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部 要旨:聴覚障害学生,特に女子学生を対象に,女性学・ジェンダー論の視点を取り入れたろう者学教材の開発を進めた。まず,米国の高等教育機関において授業として成立している「ろう女性学」の概要や,使用されているテキストに関する情報などを収集し,その要素を抽出した。次に,この要素を整理した教材素案をもって,聴覚障害のある女性の有識者による研究協議会を開催し,教材を4個のテーマ(ろう女性の歴史,ろう女性学の定義,ろう女性を取り巻く家庭・地域社会,ろう女性とキャリア)で構成した。この手順で製作した映像教材を(1),本学の産業技術学部授業「デフコミュニティと社会参加」の教材として利用,(2)本学の管理するサーバにアップしてのインターネット公開およびDVD配布することによって,他の高等教育機関やろう学校,さらにろう女性の集まりなどで活用いただく予定である。この映像教材の活用が,聴覚障害学生のエンパワメントにつながることを期待したい。 キーワード:ろう者学,ろう女性学,女性学・ジェンダー論,教材開発,エンパワメント 1.はじめに 近年,高等教育機関における「女性学」や「ジェンダー論」に関する研究が見られるようになってきているのに合わせて[1,2],障害のある女性を対象にした議論についても見られるようになってきている[3, 4, 5]。日本は2014年に国連障害者権利条約に批准したが,その中に「障害のある女性」(第6条)という条文がある。この条文は,障害のある女性たちが障害者という集団の中にあるジェンダー差に注目する必要があると主張した結果,追加された画期的な条文でもある。ゆえに今後それぞれの障害のある女性の課題解決に向けた取り組みが望まれる。聴覚障害のある女性においては,聴覚障害のある女性を対象に記載した論文[6, 7]や聴覚障害のある女性が置かれている境遇について紹介している記録冊子やDVDが見られている[8, 9]。しかしながら,ジェンダーの視点,特に家庭・教育・雇用・地域などの問題を整理したもので,学校教育で活用できる啓発教材の開発研究は行われていない現状にある。本研究では,「ろう者学」と「ろう女性学」に関する国際的動向を踏まえた上で,「ろう者学」と「女性学・ジェンダー論」の視点を取り入れた高等教育機関の聴覚障害学生を対象とした教材開発の検討と開発を行うことを目的とした。 2.米国の高等教育機関における「ろう者学」の始まり 「ろう者学」は,ろう者としての生き方がいかに社会の中 で影響を受けまた影響を与えてきたのかを学ぶ学問である[10]。1980年に米国マサチューセッツ州にあるボストン大学で「ろう者学」が開講されたのを皮切りに1983年にカリフォルニア州立大学ノースリッジ校(以下,CSUN)において,米国で初めて公式な学科としてろう者学科が開設されたという経緯がある。「ろう者学」が誕生した背景には,女性の参政権の歴史や1950年代~1960年代の黒人(アフリカ系アメリカ人)に対する偏見や差別が著しかった頃に起きた公民権運動をきっかけに誕生した「黒人学」が深く関わっている。この動きは後に「女性学」「メキシコ系アメリカ人学」「同性愛学」など,学問として各地の高等教育機関で教育指導や研究の発展につながっている。 3. 米国の高等教育機関における「ろう女性学」の発展 「ろう者学」が始まってからしばらくの間は,ジェンダーによる差異について,例えばろう女性特有の経験である家庭・教育・雇用・地域などの問題を扱った研究は皆無であり,情報もほとんど共有されてこなかった。また,ろう女性のロールモデルの存在でさえも見えていなかった。CSUNでろう者学科が開設されてから10年目の1993年に,ニューヨーク州にあるロチェスター工科大学/国立聾工科大学(以下,RIT/NTID)において世界で初めて「ろう女性学」が開講され,後に1996年にはCSUN,1997年には米国の首都ワシントンD.C.にあるギャローデット大学でも開講されるようになった。また,「ろう女性学」の発展 に伴い,ろう女性による活動団体(Deaf Woman United,Abused Deaf Women’s Advocacy Service,Global Deaf Woman等)が設立されている。それぞれの団体によって活動目的は様々だが,ろう女性の生き方,ゴール達成,リーダーシップを図るためのエンパワメントを目指している。 3.1 授業の特徴RIT/NTID,CSUN,ギャローデット大学それぞれの授業特徴は,下記の通りである[10]。 【RIT/NTID】・ ろう女性の職業的自立と私生活における歴史的な概観 ・ろう女性に影響を及ぼす社会的,政治的,経済的な状況の探索と,他の女性との比較 ・難聴,中途失聴の女性,聴力を失った民族的少数者の女性も対象 ・学生は,社会的政治的な分析を通して全体的な傾向を把握し,その学んだことを自らの個人的発達とエンパワメントへの活用 【CSUN】 ・ろう社会および一般のアメリカ社会におけるろう女性について多領域における分析 ・ろう女性の役割に影響を与えた歴史的,社会的,政治的,教育的,経済的要因・ ろう女性の苦闘と成功の事例についての調査・ 現代のろう社会におけるろう女性の問題 【ギャローデット大学】 ・1848年米国ニューヨーク州で開かれた最初の女性の権利獲得のための会議「セネカ・フォールズ会議」から「女性学」が誕生するまで・ きこえる女性とろう女性が置かれている境遇の比較・ キャリア,教育的機会,出産,父権社会における議論 3.2 ギャローデット大学に見る最近の取り組みギャローデット大学は,世界で唯一の聴覚障害学生のた めの大学で,約2,000人の聴覚障害学生が在籍している。同大学は150年以上の歴史を,博物館の開設やパネル展示などで紹介する広報の取組みに力を入れている。2015年9月には,「Deaf HERstory Exhibition(ろう女性の歴史の展示)」が学生アカデミックセンターの1階に開設された(図1)[11]。 図1 「Deaf HERstory Exhibition(ろう女性の歴史の展示)」 開設に先立ち,「ろう女性学」の第一人者である,Vicki Hurwitz氏,Arlene Blumenthal Kelly氏,Genie Gertz氏をはじめ,ろう女性運動の先駆け的存在であるろう女性達が集い,展示の内容について議論を重ねながら開設の実現に至った。展示は,「Women’s live(女性の人生)」「Movement and Action(運動と実行)」「Overcoming Struggle(苦闘の克服)」「Education(教育)」のテーマに分かれている。 3.3 ろう女性に関する文献「ろう女性学」で使用されている文献を紹介する(表1)。 表1 ろう女性に関する文献 【Deaf Women: A Parade Through the Decades】[12]発行年:1989年 著者:Majoriebell Holcombe,Sharon Wood 発行元:Dawn Sign Press 内容:ろう女性によって書かれた,スポーツ,宗教,教育等の分野で成功を収めたろう女性の紹介を載せた本 【A Comparative Analysis of Deaf,Women,and Black Studies】[13]発行年:1995年 著者:Charles N. Katz 発行元:Dawn Sign Press 内容:ろう者学,女性学,黒人学の比較分析について記述した文献 【Deaf Women of Canada: A Proud History and Exciting Future】[14]発行年:2002年 著者:Hilda Marian Campbell,Jo-Anne Robinson,Angela Stratiy 発行元:Duval House Pub. 内容:「Deaf Women: A Parade Through the Decades」を参考に書かれた本 【Woman and Deafness: A Double Vision】[15]発行年:2006年 著者:Brenda Jo Brueggemann,Susan Burch 発行元:Gallaudet University Press 内容:様々な著者によってかかれたろう女性の経験についてかかれた本 【Where is HERstory?】[16]発行年:2008年 著者:Arlene Blumenthal Kelly 発行元:University of Minnesota Press 内容:女性学の歴史,ろう女性学の在り方について論じた文献 3.4 文献調査のまとめ米国の高等教育機関における「ろう女性学」授業の概要や使用されているテキストに関する情報などを収集し,「ろう女性学」を授業科目として成立させるための要素を抽出した。「ろう女性学」が始まった背景に米国の歴史が関連していること,ろう女性の歴史は奥深く,社会的・政治的・教育的・経済的な影響を受けやすい状況にあったことを把握することができた。また,米国の高等教育機関向けにろう女性に関する書籍や教材が開発されており,実際に授業でも活用されていた。この要素を整理した上で,日本のろう女性有識者による研究協議会を開催し,議論で得られる結果をもとにろう女性学の映像教材を開発することにした。 4.教材開発研究 前章で整理した要素をもとに,本学が取り組む「ろう者学教育コンテンツ開発取組み」[17]で収集・開発した映像や一般の女性学での映像教材等を参考に,啓発教材の素案を作成した。次に,様々な分野で活躍する聴覚障害のある女性5名(聾学校教員,手話講師,研究者,聴覚障害女性当事者団体スタッフ等)を集めて有識者による研究協議会を行い,米国の高等教育機関における「ろう者学」及び「ろう女性学」の動向と本研究で作成する啓発教材の素案をもとに議論を進めた。また,聴覚障害のある女性としての一般的な経験やこれから取組むべき課題を集約した(図2)。 図2 聴覚障害のある女性による研究協議会の様子 議論を重ねた結果,聴覚障害のある女性は,特に結婚,子育て,地域との交流,人間関係,介護,仕事,健康,教育など様々な課題を抱えていることを把握することができた。 これらの状況は米国における状況と同様であった。映像教材開発に関しては,上述した聴覚障害のある女性に共通する経験とこれからの課題を,ろう女性の歴史,ろう女性学の定義,ろう女性を取り巻く家庭・地域社会,ろう女性とキャリア,それぞれのトピックに整理して,手話(字幕入り)による映像を主体とする教材を開発することがベストであるという結論に達することができた。DVD教材のみ製作して配布することだけを考えたが,より多くの人に見ていただくためにはDVD教材の配布に加えて教育用コンテンツとしてインターネットへの掲載もするとよいのではないかということで,その方向で検討を進めることにした。次に掲げるトピックに沿って手話による(字幕入り)映像教材の開発を進めた。各トピックについて聴覚障害のある女性当事者が手話で解説したり,先行の取組みで作られた既存映像の提供を受けたり,ろう女性の活動の様子を撮影したりして,映像教材の製作を終えた。映像時間は各トピック約20分程度で,はじめの紹介の映像時間も含めて約1時間半程度である(表2)。 5.おわりに 米国の高等教育機関における「ろう女性学」授業の概要,使用テキストの目次,展示テーマから「ろう女性学」の要素を抽出した結果(素案)をもとに,日本のろう女性有識者による研究協議会での議論を経て,ろう女性学の映像教材を開発した。この映像教材を,(1)本学の学部授業「デフコミュニティと社会参加」の教材として利用,(2) 本学の管理するサーバにアップしてのインターネット公開およびDVD配布することによって,他の高等教育機関やろう学校,さらにろう女性の集まりなどで活用いただく予定である。本取組みのように,ろう者学ならびにジェンダーの視点から聴覚障害者の男性女性それぞれの違いに着目し,ろう女性当事者の視点からみた教材の開発はまだ少ない状況にある。また,聴覚障害のある女性の実態も多様であることを考えると,今後は年代別や経験別にインタビュー調査をするなど,より多くの声を集めて,データ化したものを一般公開したり,これらのデータを分析して学校教育の教材開発につなげたりする継続した取組みが必要である。 参照文献[1] 鳥居千代香. 日本におけるジェンダー研究の重要性. 帝京大学短期大学紀要. 2004; 24: 17-51. [2] 井上輝子. 女性学と私:40年の歩みから. 和光大学現代人間学部紀要. 2012; 5: 117-135. [3] 吉田仁美. 障害者ジェンダー統計への注目. 岩手県立大学社会福祉学部紀要. 2014; 16: 43-50. [4] 長谷川涼子. 「障害と開発」における女性障害者のエンパワメント:アジア太平洋障害者センタープロジェクトの事例から. 2009; 14(4/5): 15-30. [5] 佐藤節子, 鎌田文穂, 我妻則明, 他. 障害児・者とジェンダーに関する一研究. 岩手大学教育学部附属教育実践総合センター研究紀要. 2005; 4: 201-214. [6] Kobayashi Y, Tamiya N, Moriyama Y, et al. Triple Difficulties in Japanese Women with Hearing Loss: Marriage, Smoking, and Mental Health Issues. PLoS ONE, 10(2): e0116648. doi:10.1371/ journal.pone.0116648, 2015. [7] 小林洋子, 田宮奈菜子. 聴覚障害のある女性が置かれている境遇を考える-ジェンダー視点からみた聴覚障害と統計. 医学のあゆみ. 2016; 256 (7) : 843-845. [8] 全日本ろうあ連盟婦人集会実行委員会. 太陽の輝きをいま. 全日本ろうあ連盟. 1971~2016. [9] Lifestyles of Deaf Women. 昭和を生きたろう女性たち~これからを生きるあなたへ~. Lifestyles of Deaf Women. 2011. [10] Gertz G, Boudreault P, eds. The SAGE Deaf Studies Encyclopedia, SAGE Publications, Inc. 2016. [11] Gallaudet University. Deaf HERstory Exhibition. Gallaudet University website(cited 2016-08-24), http://www.gallaudet.edu/museum/exhibits/deaf-herstory-exhibit.html. [12] Holcombe M, Wood S. Deaf Women: A Parade Through the Decades. Dawn Sign Press. 1989. [13] Katz CN. A Comparative Analysis of Deaf, Women, and Black Studies. In Katz CN (Ed.), Deaf Studies IV Conference Proceedings: Visions of the Past-Visions of the Future. Washington , DC: Gallaudet University College for Continuing Education 1996. [14] Campbell H, Robinsion J, Straty A. (Eds.). Deaf women of Canada: A proud history and exciting future. Alberta, Canada: Duval House. 2002. [15] Brueggemann BJ, Burch S. Women and Deafness: Double Visions. Gallaudet University Press. 2006. [16] Kelly AB. Where is Deaf HERstory? In Bauman HDL (Ed.), Open your eyes: Deaf Studies Talking. Minneapolis, MN: University of Minnesota Press. 2008. [17] ろう者学教育コンテンツ開発プロジェクト. ろう者学教育コンテンツ開発プロジェクトホームムページ(cited 2016-08-24), http://www.deafstudies.jp. 表2 映像教材の構成 Development of Deaf Studies Educational Material that Conveys Gender and Women’s Studies Viewpoints KOBAYASHI Yoko, OSUGI Yutaka, KANNO Natsumi Division for General Education for the Hearing and Visually Impaired,Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired,Tsukuba University of Technology Abstract: We developed educational material for Deaf Studies that conveys Gender and Women’s Studies viewpoints and focuses on students who are deaf and hard of hearing, especially female students. First, we collected information on the course syllabi for Deaf Women’s Studies at higher education institutions in the U.S., as well as educational material such as textbooks used in the courses. After identifying the main factors contributing to the effectiveness of Deaf Women’s Studies classes in the U.S., we organized and created draft educational material. We held a study meeting led by experts on women who are deaf and hard of hearing, and agreed to develop educational material structured around four themes: 1) History of women who are deaf, 2) definition of Deaf Women’s Studies, 3) families and local communities surrounding women who are deaf, and 4) careers and women who are deaf. We plan to utilize this educational material in two ways. (1) It will be used in the course “Deaf Community and Participation in Society” offered at NTUT. (2) So that other higher education institutions, schools for the deaf, and meetings led by women who are deaf and hard of hearing can use it, we plan to upload the information to the server administered by NTUT, make it available on the internet, and/or distribute it in DVD format. We hope that the utilization of this educational material will empower students who are deaf and hard of hearing.Keywords: Deaf Studies, Deaf Women’s Studies, Gender and Women’s Studies, Educational material development, Empowerment