修士論文 ライフストーリーに見る聴覚障害学生の支援 ~大学時代の「支援」を通して得たもの 令和元年度 筑波技術大学大学院 修士課程 技術科学研究科 情報アクセシビリティ専攻 浅井久美 筑波技術大学 修士(情報保障学)学位論文 目 次 第1章 日本における聴覚障害学生の在籍と支援 1.1. 障害学生の在籍について 1.2. 聴覚障害とは 1.3. 障害学生支援の現状 1.4. 就職後の課題 第2章 ライフストーリー研究について 2.1. ライフストーリー研究とは 2.2. ライフストーリーとライフヒストリー 第3章 本研究の目的 3.1. 本研究の目的 第4章 予備調査 4.1. 研究の目的 4.2. 予備調査の方法 4.3. 予備調査の結果 4.4. 考察 第5章 本調査:~二人のライフストーリーを中心に支援について考える~ 第1節 Aさんのライフストーリー 5.1. Aさんのプロフィール 5.1.1. Aさんとのコミュニケーションについて 5.1.2. 本人を取り巻く家庭環境 5.1.3. Aさんへのインタビュー 5.1.4. 大学生として 5.1.5. 入学準備 5.1.6. Aさんの大学時代 5.1.7. 教育実習について 5.1.8. Aさんの在籍していた授業での苦労話 5.1.9. ノートテイクを通した経験 5.1.10. コーディネーターからの働きかけ 5.1.11. Aさんを囲む友人たち 5.1.12. この大学を母校に選んだきっかけ 5.1.13. ボランティア活動・学生会について 5.1.14. 就職活動について・仕事について・社会人として 5.1.15.「支援」について思うこと ~支援はしてもらうだけじゃない~ 5.1.16. 支援の基礎は何だと思うか? 5.1.17. 印象に残っている人 5.1.18. 後輩へのアドバイス 5.1.19. 入学したての頃の自分にアドバイスするとしたら 5.1.20. Aさんのこれから 第2節 Bさんのライフストーリー 5.2. Bさんのプロフィール 5.2.1. Bさんの日ごろのコミュニケーション 5.2.2. 本人を取り巻く家庭環境 5.2.3. Bさんとのインタビュー 5.2.4. 高校生時代 5.2.5. Bさんと大学との出会い 5.2.5.1. 入学前 5.2.5.2. 入学後のオリエンテーション 5.2.6. ノートテイク付き授業開始 5.2.7. 難聴疑似体験 5.2.8. 支援について 5.2.9. 「障害の有無には関わらず、頼られる社員に!」 5.2.10. 社会人として 5.2.11. 支援者の視線で ~難聴者は、ノートテイカーがいないと勉強ができない~ 5.2.12. 支援者の減少について 5.2.13. 支援に対する思い 5.2.14. 支援に出会っていなかったら 第3節 考察 5.3.1. Aさんのライフストーリーに対する考察 5.3.2. Bさんのライフストーリーに対する考察 5.3.3 ライフストーリーに対する考察 5.3.3.1 「支援」との出会いと当事者性の発見 5.3.3.2. 支援の活用と周囲への働きかけ 5.3.3.3. 理解し合える友人との出会い 5.3.3.4. コーディネーターの存在 5.3.4. 大学生活で重要なもの 第6章 おわりに 参考文献 付録 1. 支援についてのアンケートご協力のお願い(公募) 2. 質問紙 3. インタビュー項目 謝辞 第1章 日本における聴覚障害学生の在籍と支援 1.1. 障害学生の在籍について 2006年に国連総会にて障害者権利条約が制定され、我が国も2014年1月に同条約を批准した。この過程で2013年6月に制定された障害者差別解消法に基づき、大学・短期大学等の高等教育機関(以下大学)おいても障害学生への合理的配慮の提供が法的根拠に基づき実施されることとなった。 現在、日本の大学では、3,212,010人の学生が学んでいる(日本学生支援機構, 2018)。このうち、障害のある学生の数は、3万3千人強であり(同上,2018)、これは、全学生の1%にも満たない数字である。しかし、それでも障害学生の高等教育機関への進学率は年々増加しており(図1)、調査が開始された2006年と比較すると、2万9千人弱の障害学生が増加している現状にある。 図1-1大学における聴覚障害学生の在籍数の推移 平成30年度(2018年度)日本学生支援機構 「障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告」より 一方、ひとくちに「障害学生」と言っても、その種別はさまざまである。例えば、「視覚障害」や「聴覚障害・言語障害」のように「感覚障害」と呼ばれる障害もあれば、「肢体不自由」や「病弱・虚弱」などの障害もある。また、日本学生支援機構の調査では、平成18年度より「精神障害」や「発達障害」についても、調査対象に加えることになったため、昨今では、これらの障害に対する世間の注目も上がっている。同時に、今までは特別に支援が必要だと考えられたり、もしくは手のかかる学生とされてきた学生達が、「障害学生」として、いろいろな困りごとや課題を持っていることが明らかになったため、結果として、こうした困難を抱える学生への支援を後押しすることにも繋がっている側面があると言える。 これに対して、数に大きな変動は見られないものの、大学に進学する聴覚障害学生の数が、年々漸増していることも上記調査から見てとれる。これによると、2006年当時は1,200名(聾378名、難聴796名、言語障害のみ26名)であった聴覚障害学生も、2018年度調査では、1,972名と増加している(同上,2018)。これらの学生にとって、非常に大きな課題となるのが、大学生活の主要な軸となる授業の受講であろう。教科書や参考書が充実していた高校までの授業とは異なり、大学の授業では、教員がさまざまな知識・技術を口頭で伝達する。このため聴覚障害があると、自ずと入ってくる情報に制限が生まれ、支援を希望する割合が高くなる。このため、彼らの在籍している大学では、後述する「ノートテイク」や「手話通訳」といった支援体制を徐々に整備しつつある状況にある(同上,2018)。 なお、大谷(2019)が編集を担当している書籍『耳の聞こえない人、オモロイやん!』の中で、難聴者ショージ君(仮称)の妻のランマさん(仮称、聴者)は、「聴覚障害があっても、平等に機会はあるべきなのに、どんなサポートが必要なのか、どんなサポートがあるのかを当たり前に知っている世の中になればいい。(P41)」と述べている。 これは、大学における障害学生支援のあるべき姿を示したものであり、まさに大学の中で障害学生支援を行っていくことの意義と重なると言える。 1.2. 聴覚障害とは ここで、本研究で取り上げる聴覚障害について、改めて説明をしておきたい。そもそも聴覚障害は、車いすや松葉杖のユーザーのように、外から「障害を持っている」と認識しやすい障害とは異なり、外見から障害があることがわかりにくい障害である。また、聞こえの状態も人ぞれぞれで、どの程度聞き取れるかを客観的に数値で示すためのデシベル【dB】という単位はあるが、それだけでは本人の聞こえの状況を理解することは難しい。聞き取りの状況を改善するために用いられる補聴器等の活用可能性も人によってさまざまで、単に弱く小さい音で聞こえる場合(伝音性難聴など)は、補聴器で増強することが可能かもしれないが、音が歪んだりひずんだりして意味を持つ単語として認識できない場合(主に感音性難聴など)には、補聴器を用いてもことばの聞き取りには難しさが残ることが多い。また、失聴した時期によって、ことばの獲得の状況やコミュニケーション手段、あるいは障害に対するとらえ方、考え方などが異なることも多く、音声言語を獲得した後に聞こえなくなった人を主に「中途失聴者」と言い、音声言語を習得する前に失聴した人、もしくは先天的な聴覚障害者を「ろう者」「難聴者」などと呼ぶ。しかし、この呼び方の違いは、その人自身が自分のことをどのようにとらえているかというアイデンティティとも関連してくる。この中には、障害を文化ととらえ、自らを「ろう文化」の中に生きる人と位置付けている人たちもいて、彼らの多くが自身のことを「ろう者」と呼ぶ。これは、聴力の程度とは別に、文化的な意味合いで自らを分類する際の名称で、多くの場合、「難聴者」や「中途失聴者」は、彼らの文化圏の外にいる人という意味を持つ。 一方、聴覚障害は周囲の人とのコミュケーションに大きな困難をもたらすことが多いため、障害ゆえに心理的な困難さを感じる人も多く存在する。大谷(2019)は、先にも紹介した著書『耳の聞こえない人、オモロイやん!』の中で、難聴を体験するためにイヤーマフを付けたときの体験を、次のように語っている。 「視覚的には何も変わらないけれど、急に「孤独感」が増す・・・。(中略)確かに中村さんはいるんだけれど、急に現実味がなくなった感じがする。(P76)」 ここから、聞こえなくなることにともなう心理的変化がよく伝わってくる。こうした心理的負担変化がその人にとって非常に大きな負担となると、耳の聞こえないことが理由で「二次的障害」が発生することもあり、場合によっては「うつ」などの精神症状に繋がることもある。 また、言語の獲得には、自分で発した音を聞く聴覚フィードバックが不可欠であるため、言語観念が形成される以前の幼少期に失聴すると、「ものには名前があることを知る」といった概念形成が遅れる場合があると上村・入山ら(2016)は論じている。同時に、ろう教育の専門性の継承や発展の必要性も指摘しており、聴覚障害による言語発達の遅れを引き起こさないようさまざまな教育がなされていることがわかる。こうした教育面での特性も、大学時代の聴覚障害学生への支援に影響として現れてくることがあるため、知っておくべきことがらと言える。 なお、「障害」という表記は、もともと「障碍」と書かれていたとのことである。しかし、「碍」という漢字が当用漢字に含まれていなかったことから、「害」の字が用いられるようになったいきさつがある。しかし、この表記は「障」すなわち困りごとが「害」をなすという意味にとらえられがちで、現在も「障碍」「障がい」「しょうがい」などさまざまな表記をされることがあるが、本研究では、現在の法律でも用いられている「障害」の表記に従うこととする。 1.3. 障害学生支援の現状 日本学生支援機構 平成30年「障害のある学生の修学支援に関する実態調査」の結果によると、平成30年度には、大学において、聴覚・言語障害で1,179名が入学試験における特別措置を受け、432名が合格している。そして、合格者の約75%程度が入学をしているという結果を見ると、障害学生の在籍学年により支援の必要性にはばらつきはあるというものの、毎年相当数の聴覚障害学生がその後の学生生活で支援を必要とすると考えられる。また、入学当初は支援を受けていなくても、半年から1年が経過した後に、大学教育の専門性の高さに気づき、支援が必要と自覚するようになる学生の姿も見受けられる。 しかし、日本学生支援機構による障害学生への学修支援に関する調査によると、約6割の障害学生が十分な支援を受けられていないことも実態として報告されている(同上,2018)。実際に、2,000人弱在籍している聴覚・言語障害学生の中で何らかの支援を受けている学生は1,194人という数字が上がっている。ちなみに、一番多い統合失調症などを含む精神障害学生への支援は5,132人、つづいて発達障害への支援は2,763人である。これらの学生をどのように支援していくかは、各教育機関ならびに障害学生をとりまく環境を構成する人々にとって重要な課題と言える。 こうした障害学生が周囲の学生と対等に学ぶ機会を得るために必要な変更・調整のことを「合理的配慮」と言う。合理的配慮の提供は、「障害者から社会的障壁の除去を必要としている旨の意思表明があった場合」を原則としており、建設的な対話をすることにより、障害に対して、当事者や教職員や学校側が「情報を共有し、ニーズと負担に関する双方の個別具体的事情を突き合わせる過程」を経ることになる(川島,2016)。 この結果、大学生活を送る上で提供されている支援の内容は、障害の種類によってさまざまであるが、聴覚障害学生については、「配慮依頼文書の(教員・学校関係者への)配布」(253件)、「FM補聴器、マイクの使用」(187件)、「(手書き)ノートテイ ク」(153件)、「パソコンノートテイク」(109件)などが多く提供されている現状にある(日本学生支援機構, 2018)。これに対して井上(2011)は、大学における支援の内容が、授業受講上の修学支援に留まりがちで、授業以外の場面における支援や障害学生の心理状態に配慮した支援の必要性を指摘している。実際に日本学生支援機構の調査(同上, 2018)を見てみると、授業以外の支援としては、「専門家によるカウンセリング」(41件)「インターンシップ先の開拓」(27件)などがあげられるにとどまっており、いずれも実施状況としては低い割合となっていることがわかる。 一方、このような支援を受けている聴覚障害学生の心理的変化については、霍間・原島ら(2013)が、1年次には支援を受けることへの違和感や抵抗感を抱いていた学生が、学年が進む中で、自ら環境調整を行うようになったり、支援から自立し、各専門分野に応じた授業受講の方法を選択したりする傾向にあると報告している。この中では、入学当初「通訳者に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった」と語っていた学生が、2年次には「通訳者への感謝の気持ちと、自分は通訳を受ける権利があるという気持ちのバランスをもてるようになった」と語るようになったなどの例が紹介されており、支援を受けるものとしての成長が、支援を受ける姿勢にも影響を及ぼしていることがうかがえる。同様に、杉中・原島・鈴木(2016)は、自身の行動範囲が広がることで、人との出会いや見方、考え方の広がりが生まれ、態度の変化に繋がっていること、聴覚障害学生支援を進める上では、学生がこうした体験を得られるよう、意識的に機会を提供していくことも重要な点を指摘している。ここから、実際に大学の支援担当者がどのような形で関わることが、効果的な支援につながるのか等、より詳細な研究の必要性が見て取れる。 1.4. 就職後の課題 前項に述べたような状況の中、就職活動を経て社会に出ていった聴覚障害学生が、卒業後、十分に持てる能力を発揮するために、準備期間としての大学在学中に、どのような学びと支援が必要なのかが問題になってくると言える。 2019年11月に難聴者でありながら就職したNHKで芸術祭大賞を受賞する作品を作った長嶋愛氏のことが朝日新聞の記事に掲載されているが、この中のエピソードに「『輝いている先輩』と紹介されたことにうそをつかないためにも頑張ってきた」ことがあげられている。 今回、聴覚に障害をもった方が、持っている才能を生かして、より輝いているために、(あるいは働くために)障害学生たちが大学に在学している間、どのような支援を受けたら、より本人らしくあることができるのだろうか。そのために、聴覚障害当事者を取り囲む教育機関や支援者、また家族は、どのようにあったらよいのかについて考察し、支援の可能性を考えたいと考えている。 そこで本研究では、大学入学の聴覚障害学生の体験に焦点をあて、彼らが在籍期間中に受けた支援に対するとらえ方や考え方が、どのように変化してきたのかをライフストーリー研究の手法によって明らかにするとともに、彼らの心理に影響を与えた出来事について、その内容と考え方の変化を丁寧に分析していくことで、大学における聴覚障害学生支援のあり方の一端について模索したいと考えた。 第2章 ライフストーリー研究について 2.1. ライフストーリー研究とは 「ライフストーリー研究」は、人の語り、すなわち「ナラティブ」をデータとして用いる研究方法である。 近年、社会学において、盛り上がりを見ている質的研究の手法であるが、桜井(2017)によると、この背景には「従来の考え方では理解することができない新しい社会問題が登場したことが大きい」のではないかとのことである。例えば、セクシャル・マイノリティや、障害者に関わる問題など、文字に残しておくことが難しい問題に対して、その人と、寄り添うかたちで調査をしなくてはならないという時代のニーズから発表した手法の1つである。 ライフストーリー研究は、研究対象者が語るストーリーをもとに、それがどう社会と繋がっているかを探るものであり、その個人が経験したことを、「客観的意味」へ変換していく研究だともされている(桜井,2010)。すなわち、「この人は、どう生きたか」が研究の中心になっているものであり、やまだ(2000)によると「人生の物語とは、意味づける行為であり、人生経験の組織化をすることである。そして物語の「語り直し」は、人生に新しい意味を生成する行為として重要でもある」とされている。 聴覚障害者を対象にしたライフストーリー研究には、大杉(2005)吉岡(2019)などがあり、いずれもろう者の長期間に渡る生き方を映し出したライフストーリーとして興味深いものがある。 2.2. ライフストーリーとライフヒストリー 「ライフストーリー」研究について説明をする際、よく「ライフヒストリー」との違いについて言及される。このうち、「ライフストーリー」は、個人の語り、あるいは 語りに焦点を当てた研究である。上記に挙げた桜井(2002)を参考に、亀崎(2010)は、ライフヒストリーとライフストーリーの違いについてまとめている。これによると、ライフストーリーは、「個人の人生、生活、などについて語った口承の語りを示す。」とされている。一方、「ライフヒストリーは、ライフストーリーを含む上位概念であって、個人の人生や出来事を伝記的に編集して記録したものである。」とのことである。すなわち、「ライフヒストリー」は、語りを「社会的、文化的、歴史的脈絡のなかに位置づけ」、社会や歴史の把握をしようとする研究である。これに対して、「ライフストーリー」は、「一般的に、個人が歩んできた自分の人生についての個人を語る」研究といえる。また、亀崎(同上)は、「(ライフヒストリーが)対象者の現実のみを描いて調査者を見えない「神の目」の位置に置くのに対して、(ライフストーリーは)調査者の存在を語り手と同じ位置におく。」としている。すなわち、「その人の生活や人間そのものをオーラリティ―を通して捉えようとする考え方(桜井, 2017)」であり、「編者のテーマや枠組みによる編集あるいは構成作業が含まれる(同上, 2017)」ライフヒストリーとは異なるものと言える。 表2-1にこれらの差異をまとめたが、本研究では、障害学生が在学中に受けてきた支援について、ライフストーリーの視点からまとめていく。ここでは、こうした支援について、当時の社会や大学がどのようにとらえ考えてきたかといったライフヒストリーではなく、支援を受けてきた障害学生の視点で、その内容をまとめることで対象となった障害学生が当時受けてきた支援について、どのように感じ、何を考えてきたのかを知るとともに、こうした事例を通して見えてくる障害学生支援のあり方の一端について考察しようとするものである。 表2-1「ライフストーリー」と「ライフヒストリー」の違い 桜井(2017),亀崎(2010)などを元に筆者が作成 ただし、この研究はすべての聴覚障害学生が大学で受けてきた支援について網羅して語っているのではなく、あくまでも研究の中で、対象として抽出した学生の例を紹介することにとどまるが、聴覚障害学生の支援を考えたときに、一つの考え方、たとえとして次のステップへの道筋を作るものになるのではないかという期待とともに研究を進めることにしたい。 研究の構成は、図2-1の通りである。 図2-1 研究構成の流れ 第3章 本研究の目的 3.1. 本研究の目的 福島(1991)は、その論文「『発達の保障』と『幸福の保障』」の中で、「発達」に関して、広辞苑の3つの定義を紹介し、中でも障害児(者)の場合、「個体がその生命活動において、環境に適応していく過程」が重要であると指摘している。同時に、障害児(者)の幸福実現にとっては、「運動としての発達よりも、『存在様式』としての『生活の豊かさ』」が重要であり、「『能力』が主体によって『現実に展開』され、下界や他者との相互交渉の中で、具体的に発揮されてこそ、主体の生活にとって価値あるものとなる」と述べている。 このことは、聴覚障害学生にとっても同様で、大学卒業後、それぞれがおかれた環境の中に、効果的に適応していけるためにも、大学生活を通して、さまざまな「能力」習得を援助するとともに、習得した「能力」を現実のさまざまな場面の中で効果的に展開できるよう支援していくことが大切と言えるだろう。 そこで本研究では、聴覚障害学生が、大学で学び、社会に出ていく過程において、十分に能力を発揮し、豊かな社会生活を送るために、どのような支援が必要なのか、その支援の内容について探ることを目的とする。そのため、ライフストーリー研究の手法を用い、インタビューを行い複数名の聴覚障害者の大学生活について聞き取ることで、彼らが学生時代に何を学び、何を習得してきたのか、その過程で聴覚障害学生に対する支援はどのような役割を果たしてきたのかについて検証する。このことは、聴覚障害学生にとって本当に必要な支援の内容を明らかにする一助となると考えている。 以上の目的を達成するために、ここでは二つの研究を実施する。 まず、第一段階では、対象となる学生に質問紙調査を行い、聴覚障害学生が置かれている現状と、入学から卒業に至るまでの間に受けてきた支援の内容やその変化、あるいは、それぞれのタイミングにおける支援のとらえ方を尋ねることで、学生たちの大まか な実態をとらえた。 これを受けて、第二段階となる本調査では、2名の聴覚障害者を対象に、ライフストーリー研究(桜井・小林, 2005)の手法に基づくインタビューを実施し、彼らが在学中に受けてきた支援とこれに対する考え方について聞き取りを行うことで、求められる支援のあり方を探った。また、このインタビューの過程で特に必要と考えられた1名については、支援者に対する聞き取りも行うことで、在学中の聴覚障害学生をとりまく状況をより鮮明に明らかにした。 第4章 予備調査 4.1. 研究の目的 本研究では、聴覚に障害のある学生が、社会に出ていく過程において、自身の持てる力を発揮し、より自分らしい方法で社会的に活躍していくための生き方を見出すために、どのような支援や経験を経ているのかを明らかにすることを目的とした。このための第一段階となる予備調査では、対象となる聴覚障害学生に質問紙調査を行い、聴覚障害学生が置かれている現状と、入学から卒業に至るまでの間に受けてきた支援の内容やその変化、ならびに、それぞれのタイミングにおける支援のとらえ方を尋ねた。これにより、対象者が大学時代に経てきた体験を明らかにするとともに、この調査の結果から、本調査の対象となる聴覚障害者の選定を行った。 4.2. 予備調査の方法 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク(PEPNet-Japan)の会員大学のうち、特に福祉系や教育系の学部を有しており、「支援」についてより積極的であろうと思われる20校を選び出し、そのコーディネーターもしくは障害学生支援担当者に、調査の目的と方法を説明したうえで、連絡が取れる卒業生に説明文と質問紙をメール添付でお送りいただくよう、協力をお願いした。この際、倫理上の観点から、広く対象者を公募する形としたため、実際に何人の方にご協力をお願いいただいたかは掌握しない形とした。また、人文系の授業と、理数系の授業では、出席する学生の支援(情報保障)はおのずと違ってくるため、対象者を拡散させないためにも、協力の依頼を人文系の大学に絞ってお願いした。そのうえで、対象者が回答をすることに対して強制を感じないよう、催促等はせず、あくまで本人の自由意志によりご回答いただけるよう配慮した。 対象者: ・高等教育機関卒業後5年以内で、連絡先が分かる聴覚障害者 ・中等度から重度の聴覚障害がある方 ・現在は社会でご活躍の方、もしくは、その準備期間の方 質問項目:受障の時期・障害者手帳の有無、普段よく用いるコミュニケーション 手段・教育歴・高等教育機関在学中に受けていた支援 など アンケート受け取り方法:調査用紙は、電子メールで送付し、同じく電子メールにて回答を受け取った。 調査期間(アンケート回収期間):2018年12月から2019年3月 倫理上の配慮:筑波技術大学倫理委員会にて承認を得た(承認番号H30-13)ほか、調査の実施においては、主旨を説明の上、本人の同意を得た。 *調査対象に関する調査倫理のガイドラインとして参考にされる「日本民族学会」の倫理基準を参考としている。ここでは、調査者、調査費関係、プライバシーの問題、研究成果の還元などの倫理基準を提示している。 4.3. 予備調査の結果 本研究の結果、以下の13名の聴覚障害の方から回答をいただいた。なお、実際には、もう一人、大学在学中の学生から回答をいただいたが、本調査の対象外ということで、結果からは除外した。 1)対象者年齢構成 調査に回答いただいた対象者の年齢は、表1のとおりであった。 表4 4-1 対象者年齢構成 年齢 人数 22~25歳 6人 25~30歳 5人 30~35歳 1人 35歳以上 1人 対象者の条件は、「高等教育期間卒業後5年以内」であり、入学時の年齢については定めていないため、少人数ながらもバラエティに富んだ年齢の方に回答をいただくことができた。 2)障害の状況 支援者に聴覚障害を受障した時期を尋ねたところ、表2の結果が得られた。 表4-2障害の状況 受障の時期 人数 出生時 6人 乳児期 4人 小学校(低) 1人 小学校(高) 1人 中学校 1人 出生時の回答が6名と最も多く、全員が障害者手帳を有しており、2名は70~90dBの重度聴覚障害者、11名は90dB以上の最重聴覚度障害者であった。 3)大学卒業までの教育環境: 幼稚部から大学までの教育環境を尋ねたところ表3のとおりとなった。 表4-3学卒業までの教育環境 特別支援学校 地域の学校 幼稚部 8 7(*1) 小学校 7 8(*2) 中学校 5 6(2件通級) 高等学校(*3) 3 10 大学 13名(大学院進学4名を含む) (*1)5件は途中まで特別支援学校。途中から地域の学校に替わっているようだ。 (*2)3件は地域の学校と通級の学校のに両方に通っている。 (*3)1件退学の後大検、1件は病院付属の言語訓練 大学入学まで特別支援学校に在籍した経験がない方は、4名だった。その4名以外は、期間が短い方もあるが、いずれかの時期に特別支援学校に在籍していた。ただし、完全に地域の学校在籍の方は、2名のみであり、あとの2名は病院付属の言語訓練校、もしくは言葉の教室に通っていた。なお、文部科学省平成29年の調査によると1,543名の聴覚障害のある高校生が特別支援学校に通っているという調査結果が出ている。 4)卒業後の進路: 大学卒業後の進路についてうかがった結果は、表4の通りとなった。 表4-4 卒業後の進路 高校卒業後の進路 人数 大学進学 9人(大検から入学1名を含む) 大学以上(院)進学 4人 大学検定試験合格して大学入学をした1名を含む、回答者13名全員が進学をした。 現在の職種(現職): 現在の仕事についてうかがったところ、表5の通りとなった。 表4-5 現在の職種 現職 人数 企業 4人 公務員 3人 教員 2人 大学院 1人 保育員 1人 その他 2人(1) (1)仕事に関する返答なしの1名と、ボクサー1名 2名は特別支援学校の教員、もしくは事務職員であった。 佐藤(2019)は、特別支援学校における教育経験から、地域の学校に編入した難聴の児童生徒が特別支援学校に戻ってきたときには、さまざまな心の傷を負っていることも多く、心理状態に配慮が必要であると述べている。また、そのような「Uターン生徒」への対応について調査を行う研究もあり(河崎,2014)、本研究の対象者の中でも、地域の学校の中で、何らかの困難を体験した学生が含まれているであろうことが想像できる。 5)人工内耳の利用:両耳、もしくは、片耳装用者3名。他10名は人工内耳装用 無し。 6)日ごろのコミュニケーション: ・日ごろのコミュニケーション手段として、「手話」「聴覚口話」「筆談」「その他」を選択するとともに、使用割合を記入いただいたところ、主に手話を利用していると回答した方が多く、半分以上の割合で手話を使うと回答した方が多く見られた。 ・「手話」の利用はないと回答した方が1名で、この1名は、日ごろは筆談中心のコミュニケーションをとっていて、そのほかの場面では、UDトークを利用しているという回答だった。 ・手話のみを使用していると答えた方は、1名で、この1名は大学卒業後、大学院に進学、現職に対する回答はなかった。 ・1名に関しては、手話の利用比率が7割と高く、そのほかの場面では、聴覚口話は使用せずに、筆談を利用していると回答した方もいた(1名)。 7)手話がわからない相手に対するコミュニケーション: ・重要な会話は筆談で、簡単なやりとりは、聴覚口話を用いているという回答が多く見られた。 ・興味深い回答として「相手がどの程度手話に習熟しているかで、聴者と手話で話すときも音声をつけている。ろう者と手話で会話するときは、音声はつけていない。無意識に使い分けている。」等の記載も見られた。 ・また、「初対面の相手には、声を出さずに筆談で。以前からの知り合いには、声を出して会話をする。」という回答もあった。 8)そのほかのコミュニケーション手段: ・スマートフォン、パソコンノートテイク、パソコンチャット、音声認識機能など、情報を文字に変換して相手に提示するといった回答が多く見られた。 (6件) ・「家族は口話、職場は混み合った話しが多いので筆談。場所(環境)や私の発音を理解できる人によって、コミュニケーション手段がかなり変わる。」 など、多様なコミュニケーション手段を使い分けている姿も見て取れた。 9)大学時代に受けた主な支援(全体的傾向): 大学時代に受けてきた支援の内容を入学から卒業までの時間軸に沿って尋ねたところ、以下のような内容が挙げられた。 まず、全体的傾向として、情報保障については手書きノートテイク、またはパソコンノートテイクのような支援があげられており、13名中12名がこうした支援を受けていた。(詳細記載回答項目について1名は記載がなかったので、合計人数との差異がでている)しかし、ノートテイクの使い方がわからないことや、支援の仕方(ノートテイクのお願い)と利用者が直接他の学生にお願いしなければならない方もあり、不安を抱えていたままの利用者もあったという回答もあった。また、音声の聞き取りを助けるため、教員にマイクの使用を、お願いしたり、FMマイクやロジャーシステム等を利用したりしていたと回答した方も3名いた。 一方、授業における情報保障の他に、支援室スタッフとの対話機会を設けてもらったことをあげた方もあり、ノートテイカー経験者との懇談会など4名の回答にこのような記述が見られた。 さらに、ノートテイクの講習会や支援を受けた上級生との懇談会など、さまざまな交流・研修の場があることで、支援に対する見方が変わったとする回答や、専任コーディネーターの存在、障害に理解のある教員の存在から、他の学生への聴覚障害への理解が進んだなどとする回答も複数見られた。 以下にこれらの回答のうち、主な内容を列挙する。 <授業支援> ノートテイク(手書き・パソコン)/IPテイク/学内のノートテイクサポート サークル/福祉学科実験助手によるノートテイク/大学院生によるノート テイク(他学年学生との交流)を経験し楽しむ経験 <機器使用> 授業教員の使用マイク(ワイヤレスマイクロホン)/FMマイク、ロジャー(音響システム)使用 <対話としてのサポート> 期末ごとのサポートスタッフ/支援室のスタッフへの報告や感想/学校のフィードバック、ブラッシュアップの姿勢/手話通訳担当学生との手話単語確認/実習指導者による1対1の対応/実験助手の先生の傾聴の姿勢(話しやすさ)/月一回程度の定期ミーティング/入学式後の全体での顔合わせの機会/ノートテイカーとの相談(打ち合わせ)による講義毎の支援の仕方を話し合った機会/入学前の先輩との顔合わせ(テイクの実演)/聴者の友人によるサポート <支援について考える機会の提供> 講習会/他の障害者の姿から支援について考える機会/「聴覚障害学生支援団体」との交流で何を考えているのか知る機会/自分の聴覚障害者への見方を見つめなおし、どんな支援が必要なのか、考えて伝える/大学のノートテイク講座、手話講座/難聴疑似体験 <その他> 1コマ500円図書券の謝金/専任コーディネーター/障害に理解ある教授陣 10)大学時代に受けた主な支援(時間軸に沿った変遷): 大学時代に受けてきた支援の内容を、時系列で見たところ、教養系の授業が中心となる1~2年生の授業では、パソコンノートテイクや手書きノートテイクによる支援を受けている学生が多い傾向にあった(12名)。一方、ゼミなど、対話形式の授業が増える3~4年生では、手話通訳など、多様な支援手段を用いている様子が見て取れ、3名の回答の中にこうした学年による変化が見られた。中には、いろいろと考えた結果、もともと3年次頃から受けていた手話通訳をやめ、パソコンノートテイクに切り換える選択をした学生などもおり、自分に合った情報保障手段を求めて模索する学生の姿が見て取れた。 また、2年次以降、自ら支援学生に対する養成講座の講師として指導にあたるなどして、支援に関する希望を伝えたり、支援学生の話を聞く機会が持てたことで、「支援者がどんな気持ちでいるのか知るようになった」と回答している例が複数見られた。さらに、自らも障害当事者であるコーディネーターの存在がロールモデルとなり、「自分を開示していくことの大切さを教えられた」と語るなど、支援体制がその後の前向きな生き方に繋がったのではないかと思われる例や、学内で難聴体験の機会を設けたことで、参加した教職員の聴覚障害への理解が広がり、「個別のニーズを把握して、きめ細かく対応してくれたことが嬉しかった」というコメントも見られた。 ただ、中には、授業が始まった最初の2週間は、パソコンノートテイクや手書きノートテイクがなく、講義の内容がわからずに、90分間が苦痛で大学を卒業できるのか不安を感じたとコメントを下さった方もいた。大学の担当者に状況を伝えたところ、「サポートはしたいのだけれど、学生が集まらないので待っていてほしい」と言われたとのことで、こうした事態を繰り返さないためにも、大学としての支援のあり方に検討が必要と考えられた。 以下、こうした環境の中大学生活を送った対象者のそれぞれのタイミングにおける気持ちや考え方がよく現れた記述を列挙する。 <入学前の状態> ・支援について説明を受け、自分で学生に支援を依頼することについて、不安を覚えたまま入学した。 ・Teaching Assistant主催の新入生顔合わせ会で、ノートテイクを経験し、初めて受ける支援に戸惑いを感じた。また、盛り上がっている雰囲気であったため、ノートテイクとグループでの話し合いのどちらに集中すればよいのか混乱して、逆に情報が入ってこなかった。また、周囲の目線も気になり、自分が「周りとは違う」「支援を受けている人」と思われることが嫌だった。 ・きちんと向き合ってくれそうな大学を探していた。 <授業面での支援> ○ノートテイクに関して ・パソコンノートテイクや手書きノートテイクがつくようになり、大学の先生の雑談がわかり、講義が楽しいと思えた。毎日朝から夜までほぼ講義でパソコンノートテイクや手書きノートテイクを見続けるのは大変だったが、一つも単位を落とさず卒業できた。 ・1年の時は、受動的にノートテイクを受けていたが、徐々にノートテイクに慣れてきたことで、自分の希望をノートテイカーさんに伝えながら、ノートテイクの方法を決められるようになった。 ・(パソコンノートテイクがあることで)聞くことに集中する必要がないことに楽さを感じていた。 ○変化していく支援・体制を受け止めた取り組み ・(4年)講義時 と違い支援の方がいないため、より主体的に支援をお願いするよう に意識が変化していったのがこの時期からであったと記憶している。 ・(自分のケースが影響し)地域公開講座で県内複数大学の情報保証支援体制をテーマに取り上げる。また、それを起点に県内各大学の情報保障支援学生らの交流が始まる。 ・入学試験面接で、しっかり私の話を受け止めてくれ、入学後、迅速に学生ノートテイク支援システムを作ってくださった。感謝している。(中略)情報保障は学校だけでなく、日常コミュニケーションでも必要と考えるようになった。(中略)また通訳者が中間に立つということは、聴覚障害者の特性について理解すべき通訳者がこちらの側に立ってくれるわけではない、という倫理問題も起こる。にも関わらず、実際の通訳制度は聴覚障害者に寄り添って通訳しているという矛盾があることに気づく。 ・(3年生)パソコンテイクが間に合わなかった時などに手話のできる学生が手話通訳をしてくれることがあった。手話通訳のほうがわかりやすい時もあったが、パソコンテイクの文字として残るメリットに助けられている点が多かった。手話通訳も情報保障の1つの手段として選ぶことができると嬉しいと思った。 ・支援はありがたがったが、高校まで通常学級であり、支援無しで授業を受けていたのと、障害を受け止めて居なかったため、支援を受けることに対して、劣等感を持ち始めた。その後、(中略)手話サークルに入り手話を覚える内に自分の障害を受け入れられるようになったと共に、1年半ほどかかったが、支援に対する劣等感もなくなっていった。 ・(英語の授業について)支援学生さんの英語のレベルが高すぎると,本人の理解を過剰に支援してしまうことにもなるため,バランスが難しいと感じた.(「リスニングが中心ではなく、リーディングやライティング中心の講義。本来の講義とは別の講義を受けた。」という回答もあった) ・自分の障害を開示していくことの重要さを教えられた気がします.そのような時間を重ねる中で,支援を得て学ぶことが当然のように選択できる社会を実現したい,障害者こそ教養の重要さを意識して自らの生活の質を上げていくべきなのではないかと自問するようになりました. ・グループディスカッションではパソコンノートテイクでも追いつかないことがあったため、学生のなかで手話が得意な学生を配置してもらえないか相談し、可能かどうかを検討して一部ではお願いすることができた。 ○そのほかの支援について ・個人的に、支援をうける経験は初めてだったため、様々な支援方法があることや、実際に支援を受けた感触をもとに、フィードバック・ブラッシュアップしていく学校側の支援の手厚さに大変驚いた記憶がある。 ・聴覚障害学生支援を、ボランティアで支援することに対して、疑問を持っていた時期があった。 ・(聴覚障害疑似体験は)みんな楽しくやっていましたが、本質の意味を皆さんに理解していただけたのかが疑問。 <精神面での支援> ・入学当初は周囲の健聴者とのかかわり方も分からず、ノートテイカーさん(学生)にも話しかけることができなかったが、ノートテイカーさんから声をかけてくださり、徐々に関われるようになった。 ・支援を受けることに対して、劣等感を持ち始めた。その後、大学内の同じ障 害を持つ友人とコミュニケーションをとるために手話サークルに入り、手話を覚えるうちに自分の障害を受け入れられるようになったとともに、支援に対する劣等感もなくなっていった。 ・(前略)その中で「健聴育ちだからお前は聾ではない」「補聴器を使っていないから難聴ではなくて聾だ」などと言われ、自分がどこに存在するのかとても悩んだ時期があった。 ・支援のトラブルや支援学生に対する要望については、本人が対応することを求める形であったため、一部の講義においては、講義そのものへの出席意欲に強く影響していた。 <その他> ・入学当初は、支援いただける講義数に制限があったため、支援外となった講義については、地域の国立大学に協力をいただき、支援学生をアルバイトとして雇った。その際、このような支援に心を寄せてくれる文化のある大学と、そうではない大学があることを実感した。 ・ゼミについては、(時間が不安定である)支援を依頼するのも難しく、また、大学院ともなると個人によってテーマが大きく異なるため、最後まで周囲の研究に共感できるところまで及ばず、孤立感が強く残った。 ・大学支援室のコーディネーターから自分の障害を開示していくことの重要さを教えられた気がする。そのような時間を重ねる中で、支援を得て学ぶことが当然のように選択できる社会を実現したい、障害者こそ教養の重要さを意識して自分の生活の質を上げることの大切さを学んだ。 ・キャリアセンターにも手話通訳をお願いできるようなシステムがあるとよいと思った。 4.4. 考察 予備調査の結果、大学における支援を通してさまざまに成長していく学生の様子が見て取れた。回答者の中には、この様子を「大学生活を通して、様々な支援の方法を受けてきたことにより、自分の聴覚障害への見方を見つめなおすこととともに、具体的にどんな支援が必要か考えて伝えられるようになった。」と記述している方もいる。こうした記述にも現れているように、多様な支援手段を経験したり、支援を通して出会った人々と対話したりする経験から、支援手段への理解や自己理解を深め、能動的に社会に対して働きかけられる力を得ていることがわかる。 ただ、今回の調査では質問紙調査という手法を用いたため、そこで得られる結果は限定的で、具体的にどのようなきっかけでどんな風に学びを得ていったのかという学生の変化の機微については十分に把握できていない。また、このような学びを最大限に得るために必要な支援の内容についても十分明らかにされておらず、より詳細な調査が必要とされる。 そこで、本調査ではより少数の聴覚障害者に対象を絞り、大学時代の経験を丁寧に聞き取ることで、予備調査では得られなかった対象者の実態について明らかにしていきたいと考えた。 *巻末添付資料 ①「アンケート協力のお願い」(協力者宛依頼状) ② 質問紙 ③ インタビュー項目 第5章 本調査: ―2名のライフストーリーを中心に支援について考える― 1.目的 予備調査の結果、多くの対象者が大学時代に支援を受ける経験を通して、自己認識やさまざまな支援方法に関する理解を深め、より能動的に行動できる力を得ていることが明らかになった。いずれの対象者も、意味深い大学生活を送ってきたことが伝わってくる内容であり、本来ならば、全員にその歩みを尋ねたいところであるが、本調査の性格上、ここでは2名の対象者を選定し、より詳細な状況を伺った。ここでは、大学時代に多くの変化を経験したと考えられる2名の聴覚障害者を対象に、在学中に受けてきた支援と支援を通して感じたこと、考えたことを丁寧に聞き取ることで、将来の社会的活躍に結びつく支援のあり方について探ることを目的とした。 2.方法 1)対象者の選定 上記のような目的を達成するため、予備調査にてさらなる追加調査に協力可能と回答いただいた8名の中から、2名を対象者として選定した。この際、大学時代の経験とその後の社会生活の状況を結び付けて分析をしたいと考えたため、ある程度、時代背景が似ていて、かつ、大学時代に支援を通してさまざまな経験をしたことがうかがえる方々を対象としたいと考えた。この結果、次に示す2名の方々対象として選定された。 選定された二人の対象者を、ここでは便宜的にAさん、Bさんと記述することとする。 ・Aさん、Bさんとも、同じ時期に大学を卒業しており、大学まで、特別支援学校で学んでいたという経歴や約1年の社会人経験を有し、事務系の職種についているという点で、近い経歴を有していた。 ・Aさん、Bさんともに、大学時代に支援を通して多くの経験をしており、そのことが予備調査の結果から見て取れた。このうち、Aさんは、入学当初、「聴者との関わり方がわからず、テイカーさんにも話しかけることができなかった」と記載しており、聴者の世界に入っていくことへの戸惑いがあったことが感じられた。その後、「支援室にはコーディネーターだけでなく、聴覚障害のある先輩方もいらっしゃることがあり、学生生活の悩み等を相談することができ、助かった。」と、多くの人との関わりから大学生活の幅を広げていったことが見て取れ、さらには「2年生から3年生にかけて、支援室の学生運営スタッフとして、周りの学生に情報保障についてPRしたり、PEPNet-Japanのシンポジウムに参加したり、と様々な活動を通して情報保障について学び、考えた。」と、支援を通して積極的にさまざまな学びを得たことが推察された。 一方、Bさんもやはり、入学前は「まだ大学に入る前だったので、本当に配慮してもらえるか不安だった。」と、心細い胸の内を明かしていた。その後、同級生に対して自分の障害について話をしたことがきっかけで「いろんな友人に声をかけてもらえてうれしかった。発表してよかったと感じた。」としており、「同じ学科の友人らとノートテイカー募集の呼びかけ」をするなど、積極性を増していったことがうかがえる。その後、「ゼミではじめて手話通訳をつけてもらった」り、「4年生から再びPCテイクに戻った」りと、自分に合う情報保障手段を求めて模索している様子が伝わってきた。 ・また、これら2名のうち、Aさんは聴覚障害のある仲間の存在にも触れており、支援体制が充実した大学にて生活を送ったことがうかがえた。これに対して、Bさんは、「ノートテイカーの人数がだんだんと減ってきたため、危機を感じた。」とするなど、必ずしも体制の整っているわけではない大学にて4年間を過ごしたことが見て取れ、このような大学側の体制の違いが本人の大学生活に与える影響についても見ていけると考えた。 なお、Bさんに対してインタビューを行う過程で、Bさんの大学生活には2名の支援者が非常に深くかかわっていることが浮かび上がってきた。このため、Bさんに関わる補足的情報として、この支援者2名についてもインタビューをすることができた。 2)結果の記載方法 以下、2名のライフストーリーについて、次の章立てで書き進めることとする。 まず、第1節では、Aさんについて、その支援とAさんがどのように大学時代を送ってきたかを記載する。次に、第2節では、Bさんのライフストーリーを記載し、このBさんのライフストーリーをよりよく理解するために、2名の支援者(以下、支援者1・支援者2とする)へのライフストーリーインタビューを記載する。その後、AさんBさん2名のライフストーリーを振り返り、この2名にとっての大学時代とその「支援」がどのような意味を持っているのかを考察したいと考えている。 第1節 Aさんのライフストーリー 第2節 Bさんのライフストーリー 支援者2名のライフストーリーインタビュー 第3節 Aさんに対する考察 Bさんに対する考察 *ライフストーリーは、桜井(2007)にある桜井の手法に則り、以下のように表記する。 ①個人が特定できるような部分では、アルファベット表記を用いる。ただし、桜井の文献でも、必ずしもすべてに仮称を付しているわけではなく、また、語り手がすべて匿名での公表を望んでいるわけでない。このため、本研究では、固有名詞の公表方法については、対象者に確認の上、納得いただける方法を用いている。 ②ライフストーリーならびに本文の中で、語りを引用する部分は太字ゴシックで示すとともに、以下の記号を用いて話者や補足を示した。 AA:語り手Aさん (AB=語り手Bさん) *:筆者 +:共同研究者 〔 〕:直前の語句の意味 なお、インタビューの中では、Aさん、Bさん、2名の支援者が使ったことばをそのまま使用している。特に「パソコン、もしくは手書きノートテイク(ノートテイカー)」、「ろう学校」などは、話者によって、表記が異なっているが、いずれもインタビュー中の言葉ということで理解をいただきたい。また、AさんもBさんも聞き取りやすい口話を使用していたため、インタビューではできるだけ直接やり取りをしているが、聞き取りにくい部分があった場合は、インタビューに同席した手話がわかる共同研究者がその場で確認をするとともに、後日トランスクリプト(以下TCと表記)におこす際は、手話がわかる協力者に動画を見てTCの内容を確認してもらい、適宜修正するとともに、作成したTCをそれぞれ対象者本人にも確認いただいている。なお、以下にこのライフストーリーインタビューに臨むにあたって、準備したことと、行ったことを記しておく。 <インタビュー前> ①対象者との時間や場所の調整 ・対象者がアクセスしやすい場所であるか ・対象者の仕事や予定に不都合はないか ・インタビューに適した静けさや、手話を見るために十分な明るさがあるか等 ②インタビューについての打ち合わせ ・説明文を用いたインタビュー内容と守秘倫理についての説明 ・質問項目の内容検討 ・(インタビュー項目から)協力者に用意してもらいたいこと(内容)の連絡 ③セッティング ・貸し会議室の予約 ・対象者の同意を得て、インタビューの様子を動画と音声で記録。そのための機材等の準備 第1節 Aさんのライフストーリー 5.1. Aさんのプロフィール: Aさんは、2013年3月に大学を卒業し、インタビュー当時は24歳だった(*1)。聴覚障害が発見されたのは、2歳半くらいだったが、もしかしたら乳児期から失聴していたのかもしれないという。聴覚障害の程度は、難聴者として最重度(90dB以上)、障害者手帳2級を保持している。補聴器は右耳のみ使い、通常、左耳には補聴器も人工内耳も装用していない。 高校までは特別支援学校で教育を受け、大学は、国立の文系4年制大学に進んでいる。この大学で、特別支援教育の中でも、特に聴覚言語障害教育を専攻した。教育実習も経験した。 卒業後は、建築系の会社の事務を担当している。 (*1アンケートに答えてくださった当時(2018年12月ころ)、年齢について「23歳」と書いてくださっているが、全回答者の回答分析ののち、インタビュー実現はそのあと1年くらいたっている。 5.1.1. Aさんとのコミュニケーションについて 本人の聴力は、左右とも100dB程度(右101dB、左105dB)で、コミュニケーション手段は、普段は、聞いた音と口の形を照らし合わせながら理解する聴覚口話法が中心である。手話がわかる相手に対しては、手話と聴覚口話法を「5分5分くらい」で利用しながら、コミュニケーションをとっているが、手話がわからない相手に対しては、主に聴覚口話法を用いて、筆談と手話未経験者にも理解ができるような簡単なジェスチャーを併用している。小さい頃からそうやってコミュニケーションをとってきたので、初めて会う人は、難しい面もあるが、慣れてくれば読み取ることはできるとのことだった。 高校までは特別支援学校で育ったため、まわりにも聴覚障害者がたくさんいて、聴者の中で生活することは少なかったが、現在のコミュニケーション方法は、社会人になる前、特に、大学時代に鍛えられたという。というのも、大学は国立の4年制大学で、一般の大学に通っていた。特別支援教育専攻ということで、一般の社会よりは理解のある人が多かったと思われるが、それでも、他専攻の学生などと関わる機会も多く、手話を使わない聴者も多かったので、乳幼児相談の時から指導を受けた聴覚口話法によるコミュニケーションが主流の環境だったためである。 5.1.2. 本人を取り巻く家庭環境 家族内では、本人以外は全員聴者で、ろう者はAさん一人だけだった。家族とは、普段、口話と指文字で話をしている。早期教育の時に聾学校の先生から、ゆっくりはっきり話すようにと言われて実践していたが、あるときから早口が癖になった。 AA:小さい頃から、聴者の会話の様子を見て、「こんなに早く話してるんだ」と思った。それで、「自分も聴者に合わせて早く話したら、会話の内容がわかるようになるかもしれない」と思って早口で話すようになった。 本人によると、「会話は早口で話すもの」と思っていたそうで、「大人になるために、早口で話すことも必要なんだと思った」と、笑いを交えながら話してくれた。 そういうAさんとの会話は、とてもスピード感のある、ある意味リズムに乗った会話だった。そして、このことはメールでのやり取りでも感じられることで、メールでのやり取りが始まると、次の返信があるまで、心配を感じさせないタイミングであり、子供のころから、会話の速さだけではなく、コミュニケーション(会話のリズム)の取り方を学んでいったのかもしれないと感じた。 また、発声等については、専門家にアドバイスをもらうこともあったようだ。社会人(大人)になった最近でも、しっかりとそのことは受け止めていた。 AA:自分が聴者と話す時は、sとtの音が曖昧になるので、はっきり話すようにと言われた。あと、早口になっちゃうので、気をつけるようにとか。 5.1.3. Aさんへのインタビュー 直接のインタビューについては、2019年9月土曜日1回のみ。4時間弱。インタビューの打合せ等のため、メールでのやり取りをしてインタビューに備えている。 インタビューには本人の了解を得て、動画による録画と、音声録音を行った(結果的には、かなり明瞭な口話を使っていたため、音声による録音のみでも十分記録が可能な状況であった)。 インタビュー日時:2019年9月 インタビュー場所:当事者がアクセスしやすい静かな環境の貸会議室 Aさんに対して、インタビューの際、特に伺いたかった項目は以下の通りである。 .大学時代の「支援」と聞いて心に浮かぶエピソード ・大学の「支援」とはどんなものをいうと思ったか? ・そのためにイメージしたこと、備えたことはあるか? .大学に対する第一印象 ・なぜこの大学を受験しようと思ったのか? ・実際に入学して、履修した授業、単位数についてなど? .学生時代のエピソード ・履修した授業で、困ったことはなかったか? ・履修に対しての、どのような支援を受けたか?その感想は? .現在の生活について ・最近、学生時代の友人と会うことはあるか? ・会うとしたら何をするのか? 5.1.4. 大学生として Aさんは、5歳頃から、本を読んだり新聞を読んだりするのが好きな子どもだった。 AA:中学生ごろから、「高校を卒業したら大学に行くんだろうな」というか、「行きたい」と思っていた。 子どものころから、学問や知識に対するあこがれもあり、自然と大学への入学への期待につながっていったのだと言う。大学では、特別支援教育、特に聴覚・言語障害児への教育を専攻したいと考えていた。 5.1.5. 入学準備 Aさんの入学した年度は、聴覚障害学生が、Aさんのみだったようだ。合格後、大学の障害学生支援室の職員から連絡があり、話しをする機会があった。オープンキャンパスでは、大学ではどんな支援があるのかを実際に見るとともに、入学したら「手書きノートテイク」と「パソコンノートテイク」による支援を受けたいと希望を伝えた。この時の支援の内容については、Aさん自身も事前にどのような支援手段があるのかを調べて希望を伝えたとのことである。 AA:ノートテイクは、大学生活を送る上では、とても大事なツールであり、自分の耳の代わり。大学に入る前は、支援の方法や受け方について勉強をする機会はなかったけど、受験時に自分で調べて勉強した。たまたま聾学校高等部にPEPNet-Japanの情報保障支援に関するDVDがあったので、それを見て、勉強してイメージを作ったりした。 PEPNet-Japanは、筑波技術大学に事務局を置く大学間ネットワークで、聴覚障害学生支援に関するさまざまなノウハウを発信するとともに、必要な教材の作成・配布等を行っている。この中には、聴覚障害学生支援DVDシリーズとして、大学教職員や聴覚障害学生本人を対象に大学に求められる支援の内容を解説したDVDがあるが、Aさんは入学前にこれらのDVD等を入手して、事前に支援の方法について調べ、自分自身がイメージを持って大学生活に臨んだので、支援にはすぐに慣れることができたと言っている。初めて支援を受けたときも「へえ、こういう感じなんだなあ」と思ったくらいだと述べている。 また、ある意味、大学の第一印象ともなる障害学生支援コーディネーター(以下、コーディネーター)との出会いについて、Aさんは次のように語っている。 AA:大学は、聴者の環境なのに、コーディネーターが手話をできて、しかもろう者と同じぐらい上手で、情報保障もあって、「すごい!」と思った。情報保障があるということを知って、安心した。 ただ、実際にノートテイクを受けてみるとイメージとは違い、黒板に書かれたことを、見ることができなかったり、覚えなければならないことを書きとれなかったり、困った時期もあったという。しかし、そんな時期もいろいろ工夫しながら方法を身に つけていったと言う。そこから身につけたことは、「大事だと思った時にはすぐに書く!」だった。子どものころから読書が好きで、それまでも、学校でたくさんノートを取っていたことが功を奏したのかもしれないと語る。 実際にノートテイクを使ったのは、1年生のオリエンテーションの時が初めてだった。ノートテイクの使い方は、コーディネーターにも教えてもらいながら、実際にノートテイクを受けながら覚えていったという。ノートテイクの選択基準(手書きノートテイクを用いるかパソコンノートテイクにするか)は、基本的に大学のコーディネーターがノートテイカーの技術と授業の特徴をみて決めている。Aさんは、コーディネーターが、授業の特徴や利用者とテイカーの特徴(性格)を、日ごろから見ていてくれるおかげだと言っている。 5.1.6. Aさんの大学時代 学生時代は、概して勤勉な学生時代を送ったのではないかと思う。子どものころから目標としていた「教育実習」も経験をした。 1年生履修は、46単位くらい。手書きノートテイク対パソコンノートテイクの割合は、7:3ぐらいだったが、学年が上がるにつれ、専門的な用語が増えていったこともあり、情報をよりたくさん取れるパソコンノートテイクの割合が上がっていったそうである。だが、本人は、手書きノートテイクとパソコンノートテイクのそれぞれの良さと、どちらがその授業に相応しいのかを考えた末選択したので、その使用の比の差に対する特別の感想はないと述べる。 2年生履修は、45単位くらい。ノートテイクの割合は、手書きノートテイク5:パソコンノートテイク5の割合に変わってきている。本人が学校生活や大学の授業に慣れてきて、情報量が多いと考えられているパソコンノートテイクの方を好んで選び出した。 3年生は、20~30単位。専攻とする特別支援教員の授業が中心だった。これらの授業では、聴覚障害について、知識がある教員が多く、手話ができたり、口話が読みやすかったため、ノートテイクを使用することも減ってきたと言っている。本人の学年が上がってきたということもあるが、ノートテイクを取るのは後輩がほとんどだったと記憶している。 4年生は、授業が少なく、ほとんどが卒論と教育実習だった。なお、教育実習では事前指導(準備授業)もあったため、説明会などではノートテイクをつけてもらうこともあった。 5.1.7. 教育実習について 3~4年の時には教育実習を経験する。3年時は、大学の附属中学校だったが、毎年所属大学から聴覚障害学生が教育実習に来ている学校だったため、対応方法も慣れていたようだ。たまたま、Aさんを担当する指導教員も2つ上の聴覚障害学生を担当した教員だったため、やりとりを紙に書いてくれるなど、スムーズにやりとりを行えた。 AA:教育実習で授業を担当するときも、生徒に対して聴覚障害について紙に書いて配らせてもらった。生徒から質問があるときには、ホワイトボードに書いてもらった。たまたまタイミングがよかったのかもしれない。数学などは聴覚障害学生が少ないので苦労したかもしれないが、私は社会科で、指導教員も以前聴覚障害学生を担当していたので、進めやすかった。 5.1.8. Aさんの在籍していた授業での苦労話 教育課程では、教職免許を取らなければならず、1年生のうちに単位をたくさん取ったため、学校生活は忙しい毎日を送っていたように見受けられる。1年の時の授業では、特別支援講座の教員でないことが多く、聴覚障害に対する理解も少なかったようだ。そのため、教員(授業担当者)は、ノートテイカーの扱い方、接し方も分からなかったり、話が早かったりしたこともある。 大変だったのは、英語の授業。英語免許の取得を目指している先輩がノートテイクをしてくださり、表記の仕方など、工夫をしてくださったようだが、追い付かなくなると片仮名表記になることもあったようだ。しかも、いきなりスピーチテストがあるようなとき、その時はテストを受けなくてもいいと言われ、スクリプトをもらうようなこともあったそうだ。 また、印象に残っている授業の一つが、教職課程の必須科目である社会の授業(おそらく世界史)だった。この授業は、担当が外部の講師だったので、聴覚障害学生と関わるのがはじめてだったようだ。お互いにどう接していいかわからなかったという。 AA:だから、教員からもたくさんどうしたらいいかを聞いてくれて、話を積み重ねっていって、だんだんよくなった。授業が終わったあと、「パワーポイントで進めるのが早かった?」「大丈夫?」といつも聞いてくれた。だから、「大丈夫です」とか、「パワーポイントをめくるのが早すぎてついていない」とか、こちらも気持ちを伝えやすかった。先生との付き合い方というか、どんな風に話せばいいかがなど勉強になった。 合理的配慮の提供では、障害者からの意思の表明に基づく「建設的な対話」が重要な概念として示されている。 この社会教科の教員とのやり取りは、まさにAさんにとっての「建設的な対話体験」と言え、その後、大学の中でさまざまな合理的配慮を受けるうえでの学びになったのではないかと思う。 5.1.9. ノートテイクを通した経験 1年の時は、必修が多く、ぎっちり授業が入っていたようだ。ノートテイクは先輩ばかり。2年生の時は、本人が「自分の授業に新しいノートテイカーを入れてもいいよ」とコーディネーターに話していたため、先輩と後輩は半分くらいだったといっている。なお、Aさんの大学では、ノートテイカーは無償であり、完全なボランティアだったとのことである。これは、教育系の大学で支援に関する理念やボランティア学生の育成システムがしっかりと浸透しているからこそできる体制なのであろう。 2年の時、一番大変だったのは、世界史の講義だったという。 AA:手書きのテイカーは、早口のロシアの歴史をノートテイクすることが大変だった。いきなり厳しい講義のノートテイクをお願いしてしまった。 そのような中、ノートテイカーには「聴者でも聞き逃すこともあるのだから、分かったところだけ、聞き取れたポイントだけ書いてくれれば良い」と伝えた。教員からは、資料も用意してもらったりもしたが、講義の内容が専門的過ぎて、終わった時は、「大変だったよね」とノートテイカーに言ったこともあった。ノートテイカーと一緒に先生に話をしに行ったこともあり、そんな時、教員は、最初は少しゆっくり話してくれるようにもなったけれど、また専門的な深い話になると熱くなるのか、早口になったと話してくれた。3年生の時に同じ先生の授業を履修したが、その時は、迷わず「パソコンテイクにしてください」とコーディネーターにお願いしたという。 また、外国人の英語講師のとき、どうしてもノートテイカーが見つからず、講師自らがiPadを使い、話しかけた音声を認識し、文字で表示してくれたこともあった。英語のみで使えるアプリのようだったが、「外国は進んでいる!」と、当時は驚いたと記憶しているそうだ。 ノートテイカーへは、自然に心遣いすることができたようだ AA:やっぱりノートテイカーは、初めは慣れていなかったが、「最初だからこういものだな」と思っていたし、むしろ思ったよりうまいと思ったぐらい。テイカーに、ノートテイクを嫌だと思われるのは嫌だったので、「聞き取れるところだけでいいよ」とアドバイスをした。だから、「下手だな」などと思ったことはない。 ノートテイカーとの気持ちのいいやり取りは、大学での在籍期間も増え、経験も重ねてきたことで身についていったものと考えられる。 AA:1年の時は、それまでの経験で聴者と関わることが少なかったため、自分からは話しかけられない時もあったけれど、ノートテイカーの方から話しかけてくれて話ができるようになった。でも、3年生になったら、ノートテイカーが後輩たちなので、「(今度は)自分から話してあげないと」と思って、積極的に話しかけた。 5.1.10. コーディネーターからの働きかけ ノートテイクが終了し、ノートを支援室に返しに行くので、その際にコーディネーターとはよく話をしていた。毎日とは言えないが、ノートテイクを使っての授業の様子など、コーディネーターが細かく確認をしたようである。 AA:自分から話さなくても、コーディネーターの方から「今日はどうだった?」と聞いてくれることも多かったし、「支援学生がこう話していたけど大丈夫だった?」などと聞いてくれることもあった。 聴覚障害系の授業では、教員も手話ができて口話も読み取りやすかったので、ノートテイクによる支援はなし。それ以外の授業は、すべて支援をつけていた。支援の必要性については、本人が希望を伝えるが、そのうちどの授業に手書きノートテイクが必要で、どこにパソコンノートテイクをつけてもらうかといった調整は、コーディネーターがやっていた。手書きノートテイクは全員できるが、パソコンノートテイクは技術がないとできないので、支援者の人数は全体の40~50%ぐらいだったそうだ。コーディネーターは、それらの学生の空き時間や授業の内容などを鑑みてコーディネートをしていた模様。 AA:支援室というのは、自分が生きやすくなるために大切な存在だし、欠かせない存在。どうすれば生きやすくなるかというヒントをもらった。友達とは、お互いを知ることで、互いに生きやすくなる。 「自分を知るということ」や「ノートテイカーの気持ちを知ること」は、Aさんの支援についての基本的な姿勢かもしれない。 また、学校のコーディネーターからは、こんな働きかけもあったようだ。 AA:1年のとき(ボランティアサークル活動)は、受け身だった。わからない事も多くて。でも、2~3年生で、スタッフとして活動するようになり、コーディーターからも主体的に活動してほしいという働きかけもあって変わった気がする。 5.1.11. Aさんを囲む友人たち 同じコースの人は、みんな手話を覚えてくれたそうである。2年生の後半からは、みんなが手話を使えるようになった。当時、同期の聴覚障害学生はAさんしかいなかったし、他の友人たちも、「聴覚・言語障害教育コースだから手話を覚えないと」という気持ちがあり、最終的には手話で議論ができるぐらいになったようだ。「すごくありがたかったし、恵まれていた。」というのが本人の感想である。 卒業後、当時の友達は、みんな県外に出てしまったので、あまり連絡を取ることはないそうだが、彼と同じ専攻の同期の男子学生とは、1年に1回は必ず会って、キャンプをしたりしているそうだ。この専攻の中では男子学生は少なかったので、基本的に彼らとは仲がよく、よく一緒にお酒を飲みに行ったと言う。 AA:授業を受けるときも、みんな自分を取り囲むように座っていた。同じコースだし、私を一人にしちゃいけないと思って周りに固まってくれたんだと思う。だから、講義の前でも一人でいることがなくなって、普通の大学みたいに楽しく話ができた。 そんな彼も、最初はまだ聞こえる友人達とどのように関わればいいかわからなかった時期もあったそうだ。 AA:大学1年の時だったか、プライベートなことでショックなことがあって、ボランティアの合宿に、そのショックをひきずったまま行ってしまったところ、周りの友達がそれに気付いて、夜、自分を引っ張り出してくれて、「何かあったの?」と聞いてくれた。それで、自分の話を聞いてくれるんだと思って、話し始めたら、心を許すことができた。それまでは、聴者と関わろうとしなかったけれど、友達から自分の方に近づいてくれて、自分をオープンにしたら楽になった。それで、仲良くなったら、支援について何かあってもお願いができるようになったし、聞こえないことや支援について議論したりできるようになった。 この体験から「支援が受けられない」と後ろ向きになるのではなく、自分からオープンに話すことの大切さに気付いたという。しかも、それは、友人の「何かあった?」の一声に誠実に関わったため学ぶことができた、大切な学びだったと言える。 これは、インタビューを行ったときの筆者の印象であるが、Aさんは、基本的に人に好かれるタイプではないかと思う。「大切にしてもらえる」というのは、Aさんが周りの人を大切にしてきたからではないだろうか。 AA:友達ってそこまで多くなくていいし、「聞こえるかどうか」と「友達ができるかどうか」は関係ないと思う。僕も仲の良い人は数えるぐらいしかいないし、友達が多い人もいれば、少ない人もいる。ろう者の中でも、聴者 の友達が多い人もいれば、ろう者の友達がいっぱいいる人もいる。それぞれ生きやすい形であれば、なんでも良いのではないだろうか。 では、Aさんは、友達との関係の作り方をどうやって学んできたのか。 AA:自分の場合は、(友達は)語り合える人がいい。今の聴覚障害専攻の学生たち、はじめは、うまく話せなかった。はじめは向こうが手話を学びたいと言ってくれたけど、自分はうまく自分を出せなかった。でも、相手が自分のことを知りたがっているんだと気づいたので、自分も頑張って近づこうと思った。その後ちょっときっかけがあって、腹を割って話すことができて、そこからは、自分の思っていることを言ってもいいんだ。受け止めてくれるんだと思った。 授業のことに話題を戻そうと思う。 ゼミは、担当教員がろうだったため、手話を使わないと教員に伝わらず、自分にとっては未知の体験だったという。 AA:聴学生の手話のフォローをしたりするぐらいだったし、ゼミ生も3人しかいなかったのですごく話しやすい環境だった。二人の学生も学年では手話のうまい学生だったし、困らなかった。 4年生は、授業は少なく、ほとんど卒論と実習だったそうである。教育実習の事前指導等では、学生全員を集めた説明会等があったので、そうした場ではノートテイクをつけてもらっていた。 5.1.12. この大学を母校に選んだきっかけ インタビューの後半、筆者が疑問に感じていたことを本人に尋ねてみた。それは、「なぜ、自宅から離れて大学に通うことになったのか?ご家族との仲は、うまくいっていなかったのか?」という質問である。 AA:どうせチャレンジするなら東京とかじゃなく、違うところに行きたかった。また、大きな自然災害のあとだったので、その現場を肌で感じたいとおもった。 これに対して、Aさんは上記のように語ってくれた。ここには、実際に被災地の人々とつながりを持ち、そこで自分ができることをやってみたいとする彼の気持ちが見て取れた。この背景には、人が困っていること、求めていることを受け止めたいとする彼自身の姿勢を感じ取ることができ、こうした姿勢が、人とのつながりを起点とする「支援」の出発点にもなっているように見受けられた。そしてこのことが、Aさんの生活であり、その後の仕事のライフステージとなったこの地、この大学を選んだきっかけの一つになっている。 また、この大学を選んだ理由の一つとして、情報保障について調べた結果であったことも述べていた。 AA:情報保障も進んでいるし、オープンキャンパスをみて、みたもの感じたもの全てが「すごい!!」と思った。自分の知っている健聴世界とは違いすぎて!「聴覚障害について学びたい、聴覚障害教育について学びたい、教員になりたい」と思った。 また、「聴者の環境に行きたい、自分にとっても挑戦になる、この先生のところで学びたい!」率直な感動を覚えたようだ。さらに自分の歴史(過去)を振り返って、こうも語る。 AA:だから、本当にこの大学は自分の中では輝いていた感じ。ずっと聾学校という狭い世界にいたから、社会に出る前に、外の世界を見ておきたかった。聴者との関わりにも慣れておきたかったし、ここなら自分も成長できると思った。おかげで、いろんな人と会えたし、PEPNet-Japanとも会えたし、思っていた以上に大きな体験ができた。 この時期を、一つの自分にとっての成長の時期ととらえている。そのような時期を持つことができたのは、Aさんの努力に加え、さまざまな意味で幸運だったと思わざるを得ない。 5.1.13. ボランティア活動・学生会について ボランティアをすることや、地域の聴覚障害学生達の会(以下、学生会)などの機会を通じて、聴者とのコミュニケーションは、大学在学時代に増えていったようだ。インタビューに出てくる学生会(聴者、聴覚障害学生がともに聴覚障害や学内の情報保障などについて学ぶ会)では、3年時に会長も務めている。 AA:「聴覚障害学生の会」は2年生の時から運営委員として活 動していて、聴者と一緒に聴覚障害の問題について考える活動をしていた。トータルコミュニケーションについて議論したり、聴者と議論する機会も多かった。自分の大学の人だけでなく、他団体の人と、芋煮会や動物園に行ったこともある。また、これらの福祉団体を取りまとめる福祉協会があり、その総会に出たこともあった。まわりは大人ばかりで、そういうところで活動ができたのも、いい経験になった。 会話の機会をたくさん持つことで、年齢に相応しい「ことば」を使うことにも慣れていったと思われるし、なにしろ、「コミュニケーションをとる」ということへの心の壁を取り除いていったのではないか。それにしても、ご本人の努力はいかばかりかと驚きと感動さえも感じる。 5.1.14. 就職活動について・仕事について・社会人として 仕事については、もともと公務員を目指していたという。 AA:公務員採用試験では、筆記試験が重要だったので、とにかく独学した。また、親に頼んで面談の練習をしたりもした。でも、筆記は通ったが、面接で落とされた。 公務員試験の面談は、質問を紙で用意してもらって、口話で返答した。企業の採用試験の時は、口話のみの受験だったが、静かな環境で書いてくれたりしたとのことである。事前に自分から配慮をお願いしていたこともあり、担当者も会社の中にいた聴覚障害者にどうしたらいいか聞いて対応してくれたようだ。このため、コミュニケーション面では困らなかったという。 現在の会社は、障害者枠で採用された。公務員試験に不合格になった後、障害者の就職活動を支援する会社に相談して希望を聞いてもらい、その時募集している会社を、とにかく全部受けるつもりで応募したそうである。そのうち話が来たのが2つ。内容や条件をみて今の会社を選んだ。浪人するのも厳しかったので、とにかく職に就こうと探していて、今の仕事にたどり着いたという。 現在の大学生の就職事情を考えれば、受けた会社は少なく、だから「優秀であった」とか、「就職先をしぼっていた」と思いがちである。しかし、よく考えてみると、そうではない。Aさんが受けることができる会社、逆に言えば、Aさんを受け容れ ようとしてくれる会社が、かなり限られたものだったのかもしれないということだろう。そして、このような社会の状況が変わることが、今のこの聴覚障害支援の分野で働く人たちの希望なのだと思う。 AA:周りの友人は、みんな教員採用試験等で緊張をしていたし、大学にもいなかったため、あまり話をすることはなかった。 5.1.15.「支援」について思うこと~支援はしてもらうだけじゃない~ AA:今、会社の同じ部署にもう一人聞こえない人がいて、その人とはいろいろと話をする。UDトーク(*1)、ブギーボード(*2)、チャットソフト(*3)などを使ってもらっているので、あとは自分がそれをどう活かすかだと思っている。ハード面は揃っているので、自分がどうすればコミュニケーションを取れるかを考える番。支援はしてもらうだけじゃなくて、自分も合わすようにしないと。 (*1)パソコンやスマートフォンで利用できる音声認識のアプリケーションで、主に聴覚障害者とのコミュニケーションを、円滑に行うために用いられる。 (*2)キングジム社より販売されている電子メモパッド。筆談用に用いられている。 (*3)パソコンとパソコン、パソコンとスマートフォンなどをつないで、タイピングにより会話できるコミュニケーションツール 支援について、大学時代のように考えるようになったのは、中・高校生のころからだったようである。しかし、大学の時、ノートテイクを受けるようになって、みんな頑張って書いてくれているのに、利用者が何もしないのは違うと思ったという。考え方に「変化」というよりも「成長」を感じる。 AA:お互い歩み寄りが大事だし、学生会の活動の中でも、利用者がどうしたらいいか考えて、声をだしていかないと。受けているだけだと、ただの「おぼっちゃま」になる。それじゃあ、助けてくれる人もいなくなるし、自分の首を絞めることになるだけ。やってもらって当たり前じゃない。やってもらって当たり前だと思っていたら、支援者がいなくなった時に自立できなくなる。 支援を受けるということへの「緊張感」。というよりも支援を受けることができないかもしれないという「危機感」を常に感じていたのではないかと感じる。それは、今まで、難聴の先輩が、就職はしたが、職場での支援が合わなかったり、その故もあって人間関係等に躓きもあり、このことがAさんに、ある意味の「危機感」を伴って、日々の人とのかかわりを経験することを強いているのではないかとさえ感じられる。しかし、この「危機感」は、筆者にとっては、とても前向きなすがすがしい「危機感」に感じられた。「支援者がいなくなった時に自立できなくなる。」という発言には、Aさんの意気込みのようなものさえ感じられる。 5.1.16. 支援の基礎は何だと思うか? AA:支援の基礎はやっぱり手書きテイク。これは、すぐにできるボランティアだと思う。大学によっては、専門の人にお願いすることもあるそうだが、自分としては学生にやって欲しいと思っている。学生同士ならお互いに話をして、お互いで作りあげることができる。それがきっかけで支援の道に進む人もいると思う。 「支援」は「ボランティア」だとAさんは言う。「ボランティアとはなにか」ということは、別の議論になってくるが、「ギブ アンド テイクの関係」を持ち込めれば、ボランティアもまた、素晴らしい機会になるのではないかと思う。ここにAさんの「支援は受けるだけではない」という考えも当てはまると考える。 AA:テイクについては、改善点があるわけではなく、むしろ利用する人がどう使うかが大事だと思う。大学の中だったら、利用学生が自分からどうすれば、どう改善できるかを周りの学生と話す機会を作る。シンポジウム(*)など、当事者が勉強する機会があるといいと思う。PEPNet-Japanのシンポジウムでやったように、あるテーマについて「こんな時どうするか?」を聴者とろう者、それぞれで話し合うなど。 *「シンポジウム」:PEPNet-Japan主催による日本聴覚障害学生高等教育支援シンポジウムの意味。 AA:支援学生と一緒に考える機会があるといいかなと。これでお互いを理解することができれば過ごしやすくなるし、ダイバーシティ、多様化社会にもつながると思う。話さないと、お互いのことがわからない。勝手に想像して、イメージが悪くなる。このきっかけを作ることが大切。 「支援」の大切なことの一つは、「人とのかかわり・人とのつながり」なのではないか。Aさんは、この「かかわり」のためにも、お互いに良い関係を作ることができるように、日ごろからのあり方が問われているのだと言っているのだと思う。 5.1.17. 印象に残っている人 「印象に残っている人は?」という質問に、「今まで出会った人全て!」という答えが返ってきた。 AA:でも、とくに支援という面では、コーディネーターや議論し合える大学の友達、シンポジウムでの話など。情報保障に関わったことで、支援に関する成長になった。卒論でも、当事者研究として、聴者と関わらなかった自分が聴者と関わるようになった理由を取り上げてまとめた。 このように考えるようなったきっかけは、2~3年の時、情報保障のスタッフとして動いていた時期だったという。当時、支援について考える機会がとても多かった。あとは、教育実習で支援を自分でお願いする経験があり、これも大きかったという。 AA:この時期は生活のすべてが学びだったと思う。 5.1.18. 後輩へのアドバイス インタビューの最後に、後輩へのアドバイスをお願いした。 AA:中高の後輩だったら、自分の障害について知っておくこと。支援を使ってどう生きるかを考えておくこと。仕事を辞める先輩達を見ていると、他の 人とコミュニケーションがうまくいかなかったりして人間関係が悪くなって退職している。ああなっちゃだめだと、反面教師にしていた部分もあるけど、きっと、そういう人達は自分がどう支援してほしいのかがわからなかったんだろうなと思う。 AA: 自分にはどういう障害があるのか、どういう支援があるのか、自分はそれをどう活かすかを考えなきゃいけない。将来のために聾学校でもそういうことを教えるべきだと思う。 「支援がうまくいかなくて、仕事を辞める事」を支援のせいにだけするのではない。「支援はしてもらうだけのものではない」という彼の考えからきているのだろう。「支援を使ってどう生きるかを考えておく」「自分の障害について知っておくこと」「自分がどう支援してほしいのか」「聾学校でもそういうことを教えるべき」ではあるが、その前に、いやそのことを通して、「自分のことを知ることの大切さ」を言っている。 AA:(聴覚特別支援学校では)周りが支援してくれていることにも気づいていない学生たちが多い。だから、中高のうちに、(支援について)深く考えることはできなくても、触れるだけでも違うと思う。 AA:2回目の教育実習は、普通の中学校で聴覚障害者を受け入れたことのない学校だった。なので、みんなが聴覚障害者と関わったのは、初めてだったようで、ブギーボードを見せただけでもみんな集まってきて、私の存在や 持っているものすべてに興味があったみたい。自分が持っているものをオープンにすればお互いに理解が進むんだと気づいた。 聴覚障害者であろうが、聴者であろうが、普段あまり接することがない世界の人のことは、分からないことが多い。「わからないこと」を、素直に「わからないけど・・」と尋ねることができる関係でいたいと思うのは、筆者だけだろうか。 5.1.19. 入学したての頃の自分にアドバイスするとしたら AA:入学したばかりの自分に対しては、もっと自分をオープンにしようと伝えたい。「おはよう」とあいさつだけでもいいから、一歩ずつ相手と関わってみう。いきなりオープンになんてできないと思うので。 AA:聴者に対しては、小さい頃、聴者にいじめられたと言うか、うまくいかなかった経験があった。また、時代的にもいじめが多かった頃で、新聞等にもたくさんでていたので、臆病になっていたのだと思う。でも、大学時代に先輩がすごく積極的に話しかけてくれて、同級生にも 指文字ができる子がいて、その子も話をしてくれて、それがつみかさなって、自分が大きく変われたんだと思う。 この発言を聞いたとき、筆者は、ただ単純に驚いた。Aさんが、「いじめられたこと」を「うまくいかなかった経験」と言い換えたことである。この「マイナスにしがみつく」のではなく、「前に進みやすい状況に身を置く」ことは、支援を受けてきた Aさんが、努力して身に着けてきたことなのだろう。これまでに学んできたAさんの経験が、このような結実になったのなら、素晴らしいことだと感じられた。 5.1.20. Aさんのこれから AA:教員になりたい気持ちもあったので、大学での専攻も選び、教職を経験したけれど、今のまま教員になるよりは、他の仕事をして、社会人としての経験を積んでからやりたいと思った。 AA:メールだと、聴覚障害のあるなしは関係ないので、同じ人としてしっかりしないと。だから、今も迷ったときはすぐに調べるようにしている。毎日が勉強。 Aさんは、後輩に向かって、アドバイスとしてこうも言う。 AA:会社だと、自分は内勤だけど、現場とか会議の多い業種だと、それぞれ自分で動かないと、向こうも考えてくれない。会社は忙しいので人のことを考える余裕がない。だから、そういう当事者がうごく視点を大学時代に身につけた方がいい。 これは、社会人をしている「Aさん」の、自分への「期待」と「課題」だと考える。AさんとAさんを取り巻く人たちから、「支援を受けやすい社会」「支援をしやすい社会」を発信していったら、今の社会を「住みやすい」と感じる人が増えるのではないかと期待をせずにはいられない。 第2節 Bさんのライフストーリー 5.2. Bさんのプロフィール: Bさんは、インタビュー当時、その年2013年3月に大学を卒業した22歳だった。ちなみに、もう1名のインタビューを受けてくださった対象者Aさんは、23歳である。 社会での経験が、大学での支援を受けた彼女(あるいは「彼」)に影響し、大学時代の語りに大きな変化がでないように考えて聴覚障害者を選定し、ご協力をお願いをした。このことからも、社会に出て早い時期のこの年代を対象とすることにした。 Bさんの診断が確定したのは乳児期だそうである。ほぼ出生時の、言語概念を獲得する前の失聴と考えてよいかと思う。聴覚障害の程度は、難聴者としての最重度(90dB以上)、 障害者手帳2級を保持している。両耳補聴器を装用しているが人工内耳は使用していない。 高校までは特別支援学校で教育を受け、大学は私立の文科系4年制大学で、学んだ。 卒業後は、現在の会社の出向先で事務職として働き、社内で「ダイバーシティ」についての講演なども担当している。 5.2.1. Bさんの日ごろのコミュニケーション Bさんは、高校までは特別支援学校に通っていたため、周りのみんなが手話を使って話すことができる環境にいた。また、幼少期から聴覚口話法の訓練も受けており、必要ならば口話を使うこともできたということである。 高校卒業後、普段、手話がわかる相手に対しては、手話と聴覚口話法を7対3くらいの割合で使用しながらコミュニケーションをとっている。手話がわからない相手に 対しては、主に聴覚口話法を用い、そのほか、筆談と手話未経験者にも理解ができる程度のジェスチャーを用いている。 5.2.2. 本人を取り巻く家庭環境 家族内では、本人以外全員聴者で、ろう者は彼女一人だけだった。高校までは特別支援学校にいたBさんにとっては、「聞こえない」ことも「必然」であり環境の一つだったと話す。 5.2.3. Bさんとのインタビュー Bさんとのインタビューには、本人の了解を得て動画による録画と音声録音を行った。Bさん(聴覚障害者本人)は、かなり明瞭な口話を使うことが可能であったが、インタビュー後トランスクリプトをおこした上で、再度、音声と動画を見ながら、内容の確認を行った。また、その際、対象者が音声と同時に手話も使っていたため、手話の読み取りが可能な研究者1名によって書き起こした内容に誤りがないかどうか確認を行った。 また、Bさんについては、在学中、彼女の支援を担っていた支援者2名にもインタビューを行うことが出来た。同じクラス、同じ年齢の2名で、いずれも現在は大学を卒業して民間企業で勤めている。この2名は聴者であり、口話でのコミュニケーションが可能であった。 インタビュー日時:2019年9月、11月、各約3時間。 加えて、支援者のインタビューを11月に1回約4時間。 インタビュー場所:東京都内の当事者がアクセスしやすい静かな環境の貸会議室 日程を換えて行った支援者のインタビューも、同貸会議室を 利用。 インタビュー時の使用言語:対象者とは、手話と口話を使い、後日スクリプトを作成し、内容を本人に確認してもらった。支援者の二人とは口話でのインタビュー。 インタビューの際、特に伺いたかった項目は以下の通りである。 .大学時代の「支援」と聞いて心に浮かぶエピソード ・大学の「支援」とはどんなものをいうと思ったか? ・そのために準備したことはあるか? .大学での授業に対する第一印象 ・実際に入学して、履修した授業、単位数についてなど? ・ノートテイカーに対して心掛けたこと。 .学生時代のエピソード ・履修した授業で、困ったことはなかったか? ・履修に対しての、どのような支援を受けたか?その感想は? .現在の生活について ・最近、学生時代の友人と会うことはあるか? ・会うとしたら何をするのか? なお、インタビューの日時、場所の調整、内容の確認などの打合せとして、複数回のメールの やり取りをしている。 5.2.4. 高校生時代 Bさんの、高校生時代は、本人にとって、総じて「あまり学校に行っていない時代」と映っている。特に2年生から3年生までは、自分自身でも「引きこもっていた 時代(保健室登校の時代)」と話しており、精神的な負担からしばらく授業に出られなかった時期があったそうだ。引きこもりがちなことから「ニートになるのではないか」と思ったこともあったようだが、今は会社に行っているので自信がついてきたと語る。 そして、この時代に、のちに「忘れられない人」となる担任のC先生に出会うことになる。S先生は、先生方の中でも、特に生徒達への教育支援に熱心な先生であったとのことで、Bさんだけでなく、他の学生にとっても、在学中から卒業後に至るまで、いろいろな機会に支援をしてくださった方の一人である。 そんなBさんは、中学3年生の時に東日本大震災を経験している。その時に、ある親子に出会い、一緒に避難をした経験から「ろう者と聴者のコミュニケーション」に関心を持つようになったという。なお、この「ろう者と聴者のコミュニケーション」は、それ以来、Bさんの関心を持つテーマになっており、Bさんは4年間の卒業論文でも、このことに関連した論文を書いている。また、あるハンバーガースタンドで注文をした際、アルバイトの店員に手話で接客をしてもらった経験から、ろう者と聴者のコミュニケーションを題材に作文を書き、全国ろう作文コンクールに応募して、努力賞を受賞する経験もしている。このことは、Bさんにとって、忘れられない大きな励みとなっている。 5.2.5. Bさんと大学との出会い 5.2.5.1 入学前 Bさんと大学とのはじめの出会いは、入学前の相談の場だったという。もちろん、その前に入学試験を受け、合格しているが、大学側の担当者としっかりと向き合い、話し合いをしたのは、このときがはじめてだったようだ。この場では、当時の学生委員長とBさんが入学を希望している学科の主任、それから障害学生担当の職員が参加し、話し合いが行われた。この場では、先にも紹介したS先生が同行してくれて、通訳者としての役割を担当すると同時に、大学側の支援体制についての情報を収集したり、大学関係者の理解を得るために話をしたりする役割を担ってくれたようだ。話し合いの中では、大学で行われる授業の様子について説明がなされ、考えられる配慮について説明をいただいたとのことである。また、Bさんの方からも、配慮のお願いをしたとのことで、担当職員からも、「安心して学んでもらえるように頑張る」との返答を得ている。 この時の心境について、Bさんは、まだどういう風に支援をしてくれるのか、具体的に想像ができず、不安を感じることもあったけれど、「まじめに聞いてもらった」という印象を受けたと話している。そのため、授業に対しても「安心して臨めました」とコメントしており、この段階では、授業への参加について大きな不安がなかった様子が見て取れる。 なお、この時に「期待する配慮」の内容として、Bさんがお願いをしたことがらは、①聞こえないので、普段からゆっくりと話しをしてほしい。②伝わらないときは、筆談をしてほしい。③ノートテイカーの負担にならないように、授業中、先生方にはゆっくりと話をしてほしい。④体育など実技系の科目の時は、ホワイトボードなどを使って筆談をして欲しいといった内容だったそうである。 このことについて、本人は「まだ、大学の授業がどんな様子で行われるのかイメージができてなかった」と語っている。高校までは特別支援学校で学び、「聞こえないのが当たり前」で、難聴者ばかりの環境で学んできたため、聴覚障害について深く考えたことがあまりなかったとのことで、入学後の支援についてもある程度は自分自身で調べ、準備はしていたとのことだが、実際に授業に出たときにどんなことに困るのかは想像がつかず、言われるがままにならざるを得ない側面もあったのだろう。 5.2.5.2. 入学後のオリエンテーション 一方、はじめて聴覚障害者の世界から出て聴者の世界に入ることに対しては、「不安しかなかった」という。しかし、入ってみるとすぐに慣れてきて、心に余裕が出てきたと語っている。 AB:入学時の学科オリエンテーションで、他の同年代学生に聴覚障害について話す機会があった。耳のことをオープンにできたが、友人が本当にできるか不安だった。緊張はあまりしなかった。その発表の後は、いろんな友人に声をかけられるようになり、嬉しかった。発表してよかったと感じた。 ノートテイクについては、大学に入学する前、高校時代に1回だけ、経験したことがあるという。しかし、この「ノートテイク」は、聴者の教員による、難聴高校生のための任意の英語の塾のようなところであったらしい。教員は手話ができず、教員の隣のプロジェクターで確認をしながらの授業であったようで、結局ノートテイクの使い方が分からずに大学に入学することになった。また、それ以外に「聴覚障害」について深く学んだ経験はなく、先の中学時代のエピソードや高校時代のS先生との出会いをきっかけに、自分なりに考えた程度だったとのことだった。 5.2.6. ノートテイク付き授業開始 Bさんの記憶によると、学年ごとの履修コマ数と雑感は以下の通りである。 1年次:18コマ。教養基本演習(*1)を含み忙しかった。1日4コマ、朝から夕方まで、授業が続く日もあった。 2年次:17コマ。基礎ゼミ*2のプレゼンテーション:テーマに基づく調査とディスカッションを行う掲示で、「空襲と下町」をテーマに取り上げ、準優勝をする。 3年次:16コマ。土曜日も授業あり。 4年次ゼミ:週5コマ。基本的な授業は、3年生までで終わらせたため、ゼミに集中できるようにした。 AB:学校に行く日も減ったので、旅行に行きまくっていた(笑). 卒論のストレスを解消するために、たくさん出かけていた。 *1:大学生の知識として、基本的に持っていなければならないアカデミックな知識(論理的な)文章表現の方法などを学ぶ授業。 *2:ゼミで必要になってくる知識として、基礎的な論文などの学術的表現に慣れるための授業。また、学科によっては、統計学などの授業がこれにあたることもある。 1年時(入学時)は、ノートテイカーも十分に確保できていたそうだ。ここでは、「某サポーターズ」という学生課職員を中心に集めた有償ボランティア(アルバイト程度の謝金)グループによる支援が行われていて、Bさんが希望するすべての授業に2名のパソコンテイカーが配置されていた。ただし、英語の授業だけは、ノートテイカーが1名だったようである。 AB:大学の時は、授業を受けることは好きだった。人の話を聞いて、そこから考えて学ぶの が自分には合っていた。大学は英語以外は楽しかった。英語も情報保障はあったけれど、英語を聞いて書くのが大変だとテイカーも話していて、心から楽しむことはできなかった。英語の授業は、聴者に合わせた勉強方法だったと思う。 大学では、学生の有償ボランティアによるパソコンノートテイクで情報保障支援をしていた。プロの要約筆記者によるノートテイクも数コマ配置されており、Bさんは「情報量が多くてわかりやすかった」と言っているが、大学側の予算の事情もあり、学生のノートテイクに頼らなければならなかったようである。 そのような中でも、Bさんは、ノートテイカーがより気持ちよく支援を担当してくれるよう心掛けてきた。例えば、毎回の授業では、ノートテイカーに声をかけ、沈黙の時間をなくすようにした。こうすることで、ノートテイカーも、困ったことや愚痴を話しやすくなり、そこからノートテイクや情報保障のシステムを改善していく糸口になると考えてのことだったようである。 *:聴覚障害の人も大学に入るときには、準備が必要だと思うか?心の準備とか? AB:自分は特別に勉強したことは無く、ノートテイクを受けている中でお互いにいい関係を築くためにどうしたらいいのか、自分なりに考えて行動したのが声をかけることだった。沈黙の時間をなくして、気まずさを感じないようにたわいもない話をするとか。こちらが話しかけることで、むこうも話をしてくれるようになって、いい関係を作れるようになったと思う。 2年生になると、それまでのノートテイカーが卒業してしまい、Bさんは、ノートテイカーの数の不足と質の低下が気になっていたようである。けれど、学生有志で行う学習会は続いており、参加をして技術をあげた学生も数人いたようだ。 3年生になり、ゼミが始まると、ディスカッション形式で授業が進むようになる。このため、はじめは手話通訳を使ってみたが、授業のスタイルに合わず、パソコンテイクに戻すという選択をしている。手話通訳を利用すると、メモを取る間にも通訳が進んでしまい、話の内容が頭の中に入ってこなかったといっている。幸いにもBさんが在籍していた大学では、ノートテイク(手書き、パソコン 以下同じ)の際、当事者に限りログを支援室からもらうことができた。そこで、ノートテイクは、Bさんにとって、勉強のしやすい情報保障であったのであろう。 ゼミでは、校外学習もあり、ノートテイクについての考え方も担当教員と学生との間で異なる部分があった。そのため、人間関係がギスギスしていた時もあり、だれも支えになってくれる人がいなくて大変だったという。教員が自らノートテイクをしていた時期などもあって、この時期は、大学在学中に一番落ち込んだ時期だったと思い出している。 AB:教員と学生の方向性が違った。「テイク(ノートテイクの意味。以下も同じ)をしていると、ノートが取れない」と(教員と学生の間で)意見が食い違った。教員もテイクの学生の意見を聞くタイプではなく、関係がぎこちなくなった。自分のためのテイクに対して、批判がおきたのは、悲しかった。 Bさんによると、ゼミの中では「ノートテイク」の方法を巡って、教職員と学生たちとの間で、意見の対立があったとのことである。特に、このゼミの担当教員は「同じ授業に出ている学生同士で助け合いながらノートテイクをするのが大切」という考えを持っていて、学生達にそのようにするよう働きかけた。しかし、学生達にとっては「ノートテイクをしていると、授業の内容が頭の中に入ってこない」「参加している学生がノートテイクをするのはおかしい」と考えていたとのことで、ノートテイカー の話を聞くことを心がけてきたBさんにとっては、心を痛めたできごとだったのではないかと思われる。 この時期、Bさん自身もプライベートでいろいろあったようで、支えになってくれる人が誰もいなくて苦しかったという。大学で一番落ち込んだ時期だったそうだが、ゼミ後半は、やり方も変わり、自分の気持ちを立て直すことができたそうだ。 5.2.7.難聴疑似体験 この時期、ノートテイカーの人数を確保するために、Bさん自身もさまざまな努力をしたとのことだった。その一つが、高校時代の担任であるS先生にご協力いただいて行った「難聴疑似体験」である。これは、ヘッドホンを使ってノイズを流し、音を聞き取れない状態にしたうえで、唇を読むなどの体験をするもので、先生にお願いをして大学に来てもらい、参加者を集めて実施したとのことである。 AB:2年生の3月下旬(3年生になる直前)、学科の同期学生と教職員とで難聴疑似体験をしました。難聴を体験するためのはずが、みんなは楽しそうにやっていました。「シーン」となることよりも良いのですが、本質の意味をみんなに理解していただけたのかは、疑問です。 この疑似体験は、教職員と学生を対象に行ったのだが、春休み中ということもあり、本来、ターゲットにしたいと思っていた学生達は2名しか集まらなかった。でも、教職員は約10名も参加してくれたとのことで、ここに参加した教職員が、聴覚障害について興味を持ってくださり、この後、この教員を通して、「聴覚障害に対する理解がじわじわと広まった」と感じられたそうである。 この経験について、Bさんは「(先生方が)春休み中の時間を割いてでも参加してくれたのが嬉しかった」と語っている。 3年生になり、それまでのノートテイカーが卒業してしまい、ノートテイクをする学生が減ってしまった。そのことを、Bさんも、時には支援者も一緒に、大学の障害学生担当スタッフや、直接ゼミの教員に訴えにいったという。校外学習もあり、情報保障の希望をゼミ教員にも出すが、同じセミの学生が支援を申し出ることもあり、ノートテイクへの謝金としてのお金を得つつ、授業を受けていることにも、「ノートテイクをするとは?」と考えるきっかけになる。 Bさんのインタビューをしていくと、その話の中に、特に3年になってから、同じゼミを履修し、理解をしてくれたうえで、「支援者」として一緒に活動してくれた2名が登場してくる。この二人については、本章後半で支援者の立場として受けてくれたインタビューについて紹介したいと思う。 この2名が、ノートテイカーを増やすために、Bさんとしたことは、以下のとおりである。(以下、「支援者1」、「支援者2」と記す。) ①ポスターを作成し、学内に貼りまくる(ママ) ②教員一人一人を訪ねて訴える ③クラス(ゼミ)での最初にPRをする この時期は、支援者の人にとっても苦しい時代だったようだが、その後、就職活動も始まり、履修の授業のコマ数が減ったこともあったため、ノートテイクへの関心が薄れてきた時代であった。この結果、「難聴者、聴者とのコミュニケーション」に興味関心の対象が移っていったという。 5.2.8.支援について 「支援は、思いやりである」とは、Bさんが最終的に行きいついた一つの結論のようなものであるようだ。 AB:「関心がない」、「興味がない」と困っている人がいても助けない。思いやりを持ち、聴覚障害というハンディがあっても、一緒に仕事ができるように何とかしようと思える気持ちが大事。今、「自分も障害者と向き合って、問題の解決に向けて動きたい」と言ってくれた後輩が入ってきた。そういう考えを持つことが大事だと思う。 さらに AB:聴覚ハンディがあっても、一緒に仕事ができるように、何とかしようと思える気持ちが大事。 AB:テイカーの困りごとを聞いていると、一方的にサポートを受けるのではなく、自分も支えなくてはと思うようになった。 Bさんが語る「高校時代」にも出てきたが、Bさんにとって、高校時代の一時期は少しつらい時期でもあったが、その語りを聞いていると、この頃の経験から人の痛みに敏感になり、今のBさんに繋がっているのではないかと感じる。Bさんは支援をしてくれる学生に対して、とても暖かい声掛けを繰り返しているが、こうしたコミュニケーションを学んだのも、高校時代の経験があったからであろう。そういう意味でも、Bさんを作り上げる大切な時期であったのだろうと考えられる。 Bさんの、「どこかでいつも孤独を感じていた」という言葉は、とても考えるべき言葉だと思う。大谷(2019)は、その著書の中で「そもそも、僕らが聞こえている音と、 彼らが聞こえている音とは違うんだ。(中略)理解をしようとするその姿勢こそが重要なんだと改めて思うのでありました。」と語っている。「同情」ではなく、「理解をしようとするその姿勢」、「共感」するということを大切にするということが、支援するときには必要なんだということを考えさせられる。 5.2.9.「障害の有無には関わらず、頼られる社員に!」 社会人になったBさんたちに、筆者は「社会に出て、何を目指すの?」と質問し、Bさんは「私は、主査までキャリアアップして、障害の有無にかかわらず、頼られる社員になりたい!」という。筆者の周りにいる同世代の人で、社会に出てからの目標を、「主査までキャリアアップして、頼られる社員になりたい」と言い切ることは、まれなことであると思う。自分の人生をどのように見ているか。別の言い方をすれば、自分はどういう人間になりたいと思っているのか。それまでのライフストーリーの集大成を、どこに置くかと言っているのではないだろうか。そこに「障害の有無にかかわらず」という一文を添える。こう言って社会人としての一歩を始めているBさんのこれまでの歩みに、さらに関心がわくのである。 なお、「主査」とは、一般職の中で一番高い社員等級だそうである(Bさん談)。その社会のカテゴリーによって、「等級」の示し方には若干の違いがあるのだと思う。最近SNSなどで知るBさんは、仕事とは少し離れた舞台(環境)の中にいることが多い。事実、学生だった時期を知っている自分にとっては、どんな社会生活を送っているのだろうと思っていた。また、会社を「職場として」選ぶ際にも、そのような社内で細かい等級を知って就職する人は少ないのではないかと思う。言い換えれば、Bさんは、その職場での経験によって、毎日考えを重ねながら社会人生活をしているのだろうとさらに期待をするのである。 5.2.10.社会人として 現在の職場には(2019年度11月現在)、他に難聴者はいないという。隣の席に座り、仕事の話に限らず、話を聞いてくれる「指導者」(*)の存在は、Bさんにとってほっとできる(気を休めることができる)存在のようだが、それでも、上司との関係については、まだ四苦八苦しているようだ。 *「指導者」:Bさんの中で、または、Bさんの会社環境で、どのような意味で用いられているかがあいまいではあるが、「上司」ではなく、「同期」でもなく、「先輩」として、アドバイスをくれる、いろいろな話ができる人のような方と見受けられる。 4月からは、ジョブコーチに関わってもらっている。仕事の優先順位、コミュニケーションのズレを指摘されている。このコミュニケーションのズレについては、「ろう文化」と称されることととらえられるものなのかもしれないが、ここでは論じないでおく。最近では、業務日誌をつけ、優先順位をはっきりさせることを習慣づけようとしていると話していた。 Bさんは、卒業論文のテーマとして「難聴者と聴者がともに働ける社会」をとりあげ研究していたが、これは、Bさん自身が高校時代からずっと模索し続けてきたテーマであり、かつ、これからも社会人として取り組み続ける課題となるのだろう。今、職場には、ほかに聴覚障害者がおらず、孤独だと感じることがあるそうである。 今後の課題は、自分が言いたいことを簡潔にわかりやすく伝えられるように、伝える力をもっと磨きたいと思っているということである。 AB:聴者から一方的にサポートを受けるだけだとダメだと思う。臨機応変、相手に合わせて自分もコミュニケーションの取り方を換える。一方的に支えられるのではなく、お互いに支え合うことが大事。 5.2.11.支援者の視線で ~難聴者は、ノートテイカーがいないと勉強ができない~ Bさんのインタビューをしていく中で、Bさんの大学生活にとって支援者1、支援者2が大きな意味を持って語られていることに気がついた。そこで、ここで、彼ら(彼女ら)について、紹介させてもらう。 Bさんと支援者達は、同じ学科の専攻であり、出会いは大学入学時であった。 支援者1と支援者2は、この後、特に同じゼミ生として関わる大学3年生から、関わり方が密になったと思われる。それぞれ地域もばらばらの高校からこの大学に入学してきた。 支援者1は、大学に近いところに住んでいたようである。アルバイトをして普通に過ごしたら、楽しい大学生時代を送ることもできたのかもしれないと思う時期もあったようだが、何か人と違う「大学時代」を送ろうと思ったのかもしれない。「嫌なことは嫌」とはっきり言うタイプだとは、Bさんの言葉である。 その支援者1とは違い、支援者2は静かに物事を受け取る人柄のように見受けられた。ノートテイクを引き受けたのは、もちろん、Bさんの人柄にひかれたのが大きいのだとは思うが、支援者1にさらりと誘い込まれたことに加え、「将来のためにタイピングの腕をあげたかった」からだと、この後、何度か同様の発言を聞くことになる。「支援」(「パソコンノートテイク」)に対する最初の当人のイメージが、人によっては様々であり、また、だからこそ、誘う人を限定せずに「支援に巻き込んでいく」ことが大切なのだと感じさせられる。 結局、「なぜ、ノートテイクをしたの?」という問いに対して、二人とも、「Bさんが友達だったから」と答えた。「聴覚障害学生」以前に、「友達」であることの大切さを思わされる。しかしそれとは逆に、聴覚障害学生が「友達」と感じるタイプとは違う人であったら、支援を受けることができただろうか?どんな障害学生でも支援を安 心して受けられる、支援を受けられることが障害学生の人柄とは離れた大学のシステムとして定着していたら、このような疑問は浮かばないのかもしれないと思うのは、期待を込めたこの筆者の感想である。 支援者1は、入学前にSNSの同じ大学の入学予定者が集まるコミュニティの中に Bさんを見つけていた。その時は、ただ「同じ専攻に希望する学生がいることに、安心した」という程度だったが、入学式での出会いについてはこう語る。 支援者1A:入学式でお母さんと一緒にいるところで出会って、明るかったので、「へえ、暗くはないんだ」と思った。難聴とは聞いていたと思うけど、普通に話せるんだなと思った。 支援者2A:入学式後の集まりで、「あ、いるな」と思った。彼女自身が親しみやすかったし、怖いもの知らずなところがあったので、関係は持ちやすかった。どんどん来てくれたし。 参考までに、彼女たちのコミュニケーションについて紹介しておく。 *:当時は口話で話したの? 支援者1A:はい。発音が聞きづらいことはあったけど、基本的には分かったし、分からないときは筆談で話していた。 彼女たちが支援者として参加するようになったきっかけについては、もちろんBさんと同じ学科専攻であって、Bさんの周りを巻き込むような性格も影響しているが、大学の障害学生担当の職員から、「やらない?」と後押しされたことを話している。その後、この障害学生担当職員は学内異動しているが、後任者とは、特にこの支援者2 名とBさんも交え、ノートテイクに対する問題(特に人数が少ないことに関して)をよく話したという。 5.2.12.支援者の減少について 高校時代、学外での講演など、特別な機会にBさんがノートテイカーが必要な時は、両親が担当をした時もあったようだが、大学時代は、基本的に大学と本人に任されていたようだ。 *:支援者が減ってしまった時どうしたの? 支援者1A:自分たちで友達を誘いまくった。後輩に会うたびに、「どうよ?」と聞いていた。また、授業で話をしたり、ビラを作ったり。でも「こんなん学生がやることなのか?」とも思っていた。実際、学生課にもそう話をしたが、回答はよくわからなった。 また、こうも言っている。 支援者1A:(ノートテイカーの数が少ないと)コマが埋まらないし、難しい(そのノートテイカーが)何を目的でテイクを始めているのかも違うし、いろんな人がいて、私がやめら!」と言えないし、難しいなと思っていた。 5.2.13.支援に対する思い *支援について(ノートテイクについて)どう思うか? 支援者1A:授業内容よりも、先生が面白いことを言った時に、文字にしたら面白くなくなるから、難しいなと思った。 支援者2A:はじめは、ノートテイクがそんなに難しいとは思っていなかったけど、始めたら「テイクがすべてだ」ってわかって、打てないときは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 支援者1A:Bさんは、(内容がわかるかどうか)言ってくれるからよかった。私たちはBさんのことを知っていたから、(パソコンテイクを)打てなかった時に、もっと頑張ろうと思えたけど、当事者を知らないと、捉え方がだいぶ違ったと思う。 こんなことも言っている。 支援者1A:(支援をしていて楽しかったことは)先生の話って、文字にするとこん感じなんだなとか、面白かった。Bさんと同じ授業を受けているので、その話を共有できるので楽しかった。 「共有できる」ことが、「楽しいこと」「嬉しいこと」であり、そして「悲しいこと」や「大変なこと」の出発点でもあるということを、彼女たちのコメントからも改めて教えていただいた。 5.2.14.支援に出会っていなかったら *:Bさんの支援をしていなかったら? 支援者2A:テイクをやっていなかったら、たぶん普通の大学生だった。バイトして遊びに行って、なんとなく過ごしていたと思う。テイクをしたから人に興味をもって、いろんな人がいるんだなとか思うようになったし、自分のちょっとした行動が人にとっては大事なんだということがわかった。 支援者1A:自分一人でやっても、それは独りよがりなだけだし、Bさんのことを知らないと本当に必要な支援にならない。 そして、支援をしていた経験が、役に立ったと思うことを聞いてみた。 支援者1A:「聴覚障害」というものを教えてもらった。正面で話さなきゃいけないとか、合図をしてから話すとか。でも、ちょっと気を遣う部分はあるけど、それ以外は普通の友達。 この「友達」という感覚が、彼女たちにとっても、Bさんにとっても、相手を特別に思う気もちに繋がっているようだ。 支援者1A:ほかのテイカーがテイクをしている時、横にいたり、テイクをした気になっていた(笑) 支援者2A:(テイクをしたことで)ちょっと待てるようになった。ちょっと声かけてみようかなとか、見ているだけじゃなくて、自分ができるならやってあげようと思うようになった。 なぜ、支援(ノートテイク)にのめりこめたのかを聞いた。 支援者2A:やっぱりBさんが友達だったから。(支援は)最初は、手取り足取り全部テイカーがやるものと思っていたけど、自分たちだけが頑張っても利用者が何を求めているかがわからないと、押し付けになるだけで支援じゃない。だから、支援する側も頑張らないといけないけど、される側も 何かを言ってくれないと、成り立たないものなんだって思うようになった。 支援者1A:支援というと、手話ができるとか、タイピングができる人がやってあげることと思っていたけれど、でも実際には、汚い殴り書きのメモでも支援になる。自分にできる事でいいんだって思い始めた。 また、高校時代に学生会で活動をしていた支援者1は、サポーターズ(支援者学生グループ)のリーダーも担当しており、メンバーにはノートテイクのやり方、学校の支援体制の仕方など、不満を感じたときは、はっきり言ってほしかったと話している。 この後、4年生になって、支援の基本に「シスターフッド」*の考え方があるという大学の理念を知り、「学生主体だったんだな」と思ったそうであるが、合わせて、「軸になる学生が引っ張っていくから成り立っていたけど、その人がいなくなると困るわけで、そんな状態でいいのか?もっと真剣に考えてほしい。」と思ったと語っている。 *旧約聖書の時代からの女性神学の考え方で、「女性と女性が共に生きる関係」という「共生型」を重んじるもの 実際には、卒業して数カ月しかたっていない3人だったけれど、集まってみると、昨日も会っていた友人のような親しさで話し始める。もっと言えば「見つめ始める」。そんな3人は、「濃い」大学在学時代を過ごしたのだろうと感じられた。 第3節 考察 1節、2節では、大学時代に聴覚障害学生支援に出会い、支援を通してさまざまなことを学んできた二人のライフストーリーを見てきた。ここでは、こうした二人の大学生活についてまとめるとともに、両者がどのようなステップを経て社会生活に繋がる力を得てきたのかについて考察したい。 5.3.1. Aさんのライフストーリーに対する考察 予備調査では、記述数こそ少なかったAさんだったが、大学在籍中は、友人や支援者に囲まれ、多くの意味深い時間を過ごしてきたことが伝わってくる語りだった。 今は、多くの大学で大学、入学決定後、大学における支援についての説明や当事者からの質問に答える機会を設けていると思われるが、Aさんについても同様に、大学側から連絡があり、話を伺うことができたとのことである。ここで、支援についての説明に加えて、聴者でありながら手話を使いこなすコーディネーターの姿に驚きを感じ、安心して大学生活を始めることができたとのことであった。 また、はじめは聴者との関わりに不安を覚えていたというAさんだったが、在学中は、障害学生支援室のコーディネーターはもとより、多くの友人たちに「囲まれて」大学生活を送っていたという。このことは、Aさんのインタビューで聞かれた、「授業を受けるときは、みんな自分を取り囲むように座っていた」という発言からも如実に伝わってくる。また、Aさん自身も、いろいろな大学から集まってきた学生たちによって運営されている「学生会」の活動に積極的に参加し、合宿をしたり話し合いをしたりしてきたとのことである。この会には、支援に携わっている聴者もたくさん参加しているとのことで、こうした機会に、聴者との関わり方も経験し、学んでいったものと思われる。 このように見ていくと、人との関わり方に不安を表明していたAさんの大学生生活は、結果的に聴者との会話に満ちた時代だったようだ。現在も、「地域の野球サークル に参加し、週末はプレイを楽しんでいる」とのことだが、こうした趣味を通して聴者の世界に入っていく際に感じる壁も、学生時代の経験があったからこそ、少なくなっていったのではないかと感じさせられた。 5.3.2. Bさんのライフストーリーに対する考察 Aさんとは対照的に、大学における支援体制の不足から、さまざまな悩みをもって大学時代を過ごしたBさんの予備調査では、各学年で受けてきた支援の内容やそれについての感想が細かく記載されていた。 インタビューを開始した後も、特に3~4年生以降、支援者が不足して苦しんだ時代のことを中心に、それぞれのタイミングにおける自身の気持ちや考えを、しっかりとした言葉で語ってくれて、さまざまな壁にぶつかって悩みながらも、一生懸命自分の意思で解決方法を模索してきたBさんの姿が見て取れた。 そんなBさんの大学生活は、比較的、順調な滑り出しを迎えていた。特別支援学校を卒業し、はじめて聴者の世界に入ることに対して「不安しかなかった」と語っていたBさんだったが、入学式のオリエンテーションの際に、自分の障害について説明ができたことから、少しずつ話しかけてくれる友人もでき、1~2年生のうちはすべての授業で何らかのノートテイクが配置されていて、特に大きく困った内容については語られていなかった。 しかし、3~4年生になると、それまで支援に入ってくれていたノートテイカーが卒業し、ノートテイクを担うことができる学生の数が減ってしまい、「一番苦しかった」と本人が語る時期が訪れる。しかし、こうした中でも自分のことを理解してくれる支援者とともに、障害学生支援担当者もとを訪れたり、支援者募集のポスターを貼ったり、授業の始めに自身の障害について説明し、支援の呼びかけをするなど、か弱くもたくましい姿を見せていた。こんなBさんのそばには、いつも仲の良い2名の支援者の姿が あった。ノートテイクの方法や支援者募集の方法まで、ともに語り合っていたであろうこの2人とは、ともに成長し、ともに支え合う関係だったようで、本人たちが「友達」と語る以上の深い関係性によってつながり合っていることがうかがえた。 なお、このようなBさんであるが、インタビューの最後で「いつもどこかで孤独を感じていた」ということばも漏らしていた。学生時代から、ストレス発散のために一人旅に出ていたと語っていたその様子からは、どこか寂しさを抱えている様子も伝わってきた。この背後には、支援が行き届かないことにより、悩んだり傷ついたりした経験も影響しているのかもしれないと考えられ、ここから大学における障害学生支援のあり方を考える糸口があるように思えた。 5.3.3 2名のライフストーリーに対する考察 両者のライフストーリーを比較的に分析した時、対照的なのが、大学における支援体制の違いであろう。Aさんは、大学を選ぶときに、すでに大学の支援体制がとても充実していることを知って選択しており、実際の支援でも、コーディネーターをはじめとする関係教職員の力が大いに発揮されていたことがわかる。このため、こうした人々によって作り上げられた支援体制の中に入り込み、かつ、自らもよりよい体制を作るための担い手として、支援グループの一翼を担うことで、「支援体制」や「支援」について、本人なりの価値を発見してきた。 一方、Bさんの大学には、一定の支援制度はあったが、その内容は決して十分とは言えず、在学中は望むような支援が得られずに、大いに苦労した様子が語りから伝わってきた。大学には、障害学生支援を担当する教職員はいたが、そうした教職員との関わりよりも、同じゼミに所属する2名の支援者と行動を共にすることが力になったことがうかがえた。 このように、大学の支援体制としては、大きく異なる環境で4年間を過ごした2名であったが、結果的に2名とも「支援は、障害当事者が受けるだけでよいものではない」という考えにたどりついている。Aさんは、支援を受けても不十分な状況があるのだとしたら、それは利用者側に工夫が求められているのだという点について触れ、「(支援者側に)改善点があるわけではなく、むしろ利用する人がどう使うかが大事だと思う。」と話していた。また、Bさんもノートテイカーも苦労をしている現状や、支援者が足りない状況を目の当たりにし、「支援は当事者が受けるだけのものではない」と感じて、さまざまな行動を起こしていた。 このような様子を見ていると、この2名が大学時代の支援を通して、大学卒業後、十分に能力を発揮し、豊かな社会生活を送るためには、自分はどうあるべきなのか。また、社会を巻き込むためにはどうしたらよいのかを考え、実践に導く力を得てきたのだと感じさせられる。では、どのようなプロセスを経てこうした力を得るに至ったのか、ここでは以下の4つの視点から改めてそのプロセスについて振り返るとともに、そうしたプロセスを支えるために大学としてできる支援のあり方について整理分析していきたい。 5.3.3.1. 「支援」との出会いと当事者性の発見 Aさんは、大学生活の始めは、「受け身」で「聴者と関わろうとしなかった」と話していた。特別支援学校で育ってきたAさんにとっては、ある意味自然なことであったかもしれないが、大学で初めての聴者の社会に入って戸惑いもあったのだろう。このため、ノートテイカーとのコミュニケーションについても、初めは遠慮がちだった様子が伝わってきた。しかし、1年生の合宿で「友達から自分の方に近づいて」きてくれたことがきっかけで、ノートテイカーとの関係にも変化が現れ、2年生に上がる頃には、コーディネーターに対して「自分の授業に新しいノートテイカーを入れてもいいよ」と伝えるなど、先輩としてノートテイカーを支えていく力を身に着けるに至っている。 また、難しくてノートテイカーが書き切れない授業では、「聞き取れたポイントだけ書いてくれればいい」と伝えたり、うまく書けないことにより、ノートテイカーが負担に感じないように、「この授業は大変だよね」などと思いやる言葉をかけたりするなど、だんだんに自らノートテイカーをリードしていく姿がそこにはあった。 このように、自ら支援者を気遣い、育てていくようになる様子は、Bさんにも共通して見られた。Aさん同様、高校まで特別支援学校で育ったBさんは、はじめて聴者の世界に入ることに対して、「不安しかなかった」と語っていた。 しかし、入学後のオリエンテーションで自身の障害について説明をしたことが自信になったのか、支援に入ってくれるノートテイカーに対して、より気持ちよく支援を担当してくれるよう心掛けてきた様子が伝わってきた。例えば、毎回の授業では、「沈黙の時間をなくして、気まずさを感じないようにたわいもない話をするとか。こちらが話しかけることで、むこうも話をしてくれるようになって、いい関係を作れるようになったと思う。」と語っているように、Bさん自身がノートテイカーのことを理解し、良い人間関係を持ちたいと思って、積極的に話しかけていった様子が見て取れる。また、本文中には詳しく記載できなかったが、「あの先生の話は書きにくい」「早口で困る」といったノートテイカーの愚痴もよく聞いていたとのことで、こうした経験がBさんの中でノートテイクというものの理解を深める機会にもなっていったのだろう。このことをBさんは、「テイカーの困りごとを聞いていると、一方的にサポートを受けるのではなく、自分も支えなくてはと思うようになった。」と語っていた。 こうしてノートテイカーの気持ちを一生懸命考えながら関わり続けてきたBさんだからこそ、3年次のゼミで、担当の先生とうまく考え方が合わなかった際に「自分のテイクに対して、批判がおきたのは、悲しかった。」と語ったのだと考えられる。「支援は思いやり」とするBさんの言葉からは、支援をする人が、受ける人を思いやるだけでなく、受ける側も支援をしてくれる人の気持ちを思いやり、互いにサポートし合う関係性 を築き上げていった様子が浮かび上がってくる。 このように、多少の道のりの違いはありこそすれ、AさんBさんともに、「支援」や「支援者」との出会いを通して、自分の心を開く術(すべ)を学び、ただ支援を受けるのみでなく、支援者を支えるという利用者の役割について発見していることに気付かされる。それは、障害当事者としての自身の立場や役割について考える「当事者性」の芽生えとも言え、自身の生き方を考えるきっかにもなっていることと推察される。 5.3.3.2. 支援の活用と周囲への働きかけ 一方、2名のライフストーリーを見ていると、支援者との関係性のみでなく、自分自身が支援を使いこなせるように工夫するとともに、自身が学びやすい環境を作るために、周囲の人々に対して働きかけていく様子も伝わってくる。 例えば、Aさんは、大学入学前から入学後の支援について情報を集めるため、「高等部にPEPNet-Japanの(中略)DVDがあったので、それを見て勉強してイメージを作ったりした」と話していた。ただ、実際にノートテイクを受け始めてみると、ノートテイクを見ながらではノートが取れないなど、苦労もあったとのことで、コーディネーターのアドバイスも受けつつ、「大事だと思ったときにはすぐに書く!」などの技術を身に着けていったという。 また、非常勤講師が担当する社会の授業では、先生自身が聴覚障害について知識がなかったとのことで、先生からも「たくさんどうしたらいいかを聞いてくれた」。この結果、具体的に自分のニーズを伝えるという経験を積むことができ「先生との付き合い方というか、どんな風に話せばいいかがなど勉強になった。」と語っていた。こうした経験が、教育実習等にもつながり、「生徒から質問があるときには、ホワイト ボードに書いてもらった」など、自ら環境に働きかけ、工夫を依頼する姿勢に繋がっていったものと考えられる。 また、このような力を身につけるに至った背景には、学内の支援に関する活動や「学生会」での運営委員としての活動、さらにはそうした活動を通して得た「他団体の人」との関わりも大きかったようで「まわりは大人ばかりで、そういうところで活動ができたのも、いい経験になった。」と語られていた。 一方、Bさんのライフストーリーでも、大学生活を通してさまざまな形で環境に働きかけていった様子が見て取れた。Aさんと同様、大学に入学する前には、自分自身で支援について調べ準備をしていたとのことだったが、高校まで特別支援学校で学んできて、「聞こえないのが当たり前」だったこともあり、大学に入るまでノートテイクを受けた経験はほとんどなかったとのことである。唯一、経験になるかと思えた難聴者のための英語の塾のようなところでも、ノートテイクをうまく使いこなすことができず、入学前の相談を終えた後も、「まだ、大学の授業がどんな様子で行われるのかイメージができてなかった」と語っていた。 しかし、この相談の場では、高校時代の恩師であるS先生が大学関係者に対して聴覚障害や求められる支援の内容について話をしてくれたとのことで、大学側も前向きな姿勢を示しており、Bさん自身も「まじめに聞いてもらった」という印象を得ている。 その後、Bさんは、先にも述べたとおり、入学時のオリエンテーションの時に、時間をもらって自分に聴覚障害があること、また、そのために支援が必要であることを伝えている。この結果、ところ、数人の学生に声をかけてもらえたとのことで、「嬉しかった。発表して良かったと感じた。」と話していたことが印象的であった。 このように、自身の障害のことを語ってくれる先生の様子を見て、周囲に対して働きかけるための方法を学習し、次は自分のことばで自分の障害について語ることで、周囲の人とつながれたとのことで、この成功体験が「不安しかなかった」と語っていた入学 時の気持ちを払拭してくれたのだと考えられる。 その後のBさんの様子は、支援者2名のインタビューを通してうかがい知ることができる。支援者2は、インタビューの中で「支援する側も頑張らないといけないけど、される側も何かを言ってくれないと、成り立たないものなんだって思うようになった。」と語っている。これは、複数いる聴覚障害学生の中で、Bさんはとてもはっきりニーズを伝えてくれたから助かったという文脈で話されたことばで、友達としても、また利用者として参加しているノートテイクの勉強会等の場でも、支援を受ける立場でさまざまな意見を伝えてくれたとのことであった。 同様に支援者1も「Bさんは(内容がわかるかどうか)言ってくれるからよかった。私たちはBさんのことを知っていたから、(パソコンテイクを)打てなかった時に、もっと頑張ろうと思えた。」と語っており、Bさんがニーズを明確に伝えたことが、支援者にとっての助けにもなっていたことがうかがえる。 さらに、3~4年生になってノートテイカーの数が足りなくなってきたときにも、支援者2名は、ポスターを作成したり、教員一人一人を訪ねていったり、授業の中でPRをしたとしていたが、この活動には常にBさんがともにいたという。またBさん自身も、高校時代のS先生をお呼びして、聴覚障害の疑似体験を行う等、周りの人の力を借りながらも自ら大学を動かそうと奮闘してきており、こうした努力が「聴覚障害に対する理解がじわじわと広まった」きっかけにもなっていた。 5.3.3.3理解し合える友人との出会い ここまでに述べてきたように、支援の使い方を学び、積極的に周囲に働きかける力を得てきたAさん、Bさんであったが、その根底には、心を開き合える友人の存在も大きかったのではないかと考えられた。 Aさんが入学した大学は、自宅からは2時間以上離れた場所に位置している。「聴者の環境に行きたい」、「被災地の現場を肌で感じたい」という思いがあってのことだったが、家族から離れ、高校時代の人間関係からも離れて作り上げる生活は、きっと心細さもあったのではないだろうか。はじめは「聴者と関わろうとしなかった」とするAさんであったが、大学1年生のときの合宿で、友人が暗い顔をしている自分に気づき「何かあったの?」と聞いてくれたのがきっかけで、「自分の話を聞いてくれるんだ」と思ったと思い、友人との付き合い方も変わっていったとしていた。 その後の大学生活は、Aさん自身が「恵まれていた」と語るように、友人達に「取り囲まれ」、楽しい生活を送ったことが伝わってくる。このことは、同じ学年の友人達が皆、熱心に手話を覚えてくれた、最終的には手話で議論ができるほどになっていたと話していることからも伝わってくる。 一方、Bさんも友人には恵まれた4年間だったのだろう。高校時代、「ニートになるのではないか」と語っていたほどに引きこもっていたBさんが、大学を卒業し、今社会で立派に活躍している背景には、友人との出会い、特にインタビューにも答えてくれた2名の支援者との出会いが大きな支えになっているのだと考えられる。それはAさんのように、決して“たくさんの友人に囲まれて過ごした”大学時代ではなかったかもしれないが、本当に信頼できる友人に出会い、互いに支え合いながら成長した4年間だったように見受けられる。 そんな支援者の一人である、支援者1がBさんの存在を知ったのは、入学前のSNSだったという。「この大学に入学する」という投稿を見たそうで、Bさん自身も大学でさまざまな人に出会うことを楽しみにしていたことがうかがえる。 また、先述のように入学式後のオリエンテーションで自身のことを説明した後のBさんは、積極的に周りの友人とも関わりを持っていたようで、この様子を支援者2名も「明るかった」「怖いもの知らずなところがあったので、関係は持ちやすかった。どんどん来てくれたし。」と笑いながら語っていた。 その後のBさんと支援者2名の関係は、「友達」であり、かつ深い部分で “支え合う”関係だったようで、このことはBさんのインタビューにおいて、本文には示さなかったが繰り返し二人の名前が登場していたことからも伝わってきた。同様に、支援者2名もBさんとの関係について、「普通の友達」と語ると同時に、「「聴覚障害」というものを教えてもらった」「テイクをやっていなかったら、たぶん普通の大学生だった」と語っており、Bさんの存在から学んだものの大きさが伝わってくると考えられた。 ただ、そんなBさんであったが、大学生活を通して、「どこかでいつも孤独を感じていた」とも語っていた。この発言には、心の奥に抱えている寂しさを感じさせるものがあり、逆に人との関わりを強く求めていたBさんの姿も浮かび上がってくる。そんなBさんだからこそ、ノートテイカーとの関係づくりには人一倍気を遣い、相手の気持ちを大切にしながら支えるという発想が生まれたのだろうし、数は少ないけれど本当に信頼し合える友達との出会いを大切にし、関係を作り上げていったのではないかと思えてならない。 5.3.3.4.コーディネーターの存在 ここまで、Aさん、Bさんの大学生活について、当時者性への気づきから環境への働きかけ、さらにはその基盤となった友人との出会いについて述べてきた。以上のように、さまざまな道を通りながら、結果的には同じような価値を発見してきた2名であったが、彼/彼女らを取り巻く大学の体制には大きな隔たりがあった。この点がどのように2名の大学生活に影響したのかについて、考察しておきたい。 まず、Aさんの大学は「情報保障も進んでいて」、オープンキャンパスで支援の様子を知ったAさんも「見たもの感じたものすべてが「すごい!!」と思った」「自分の中では輝いていた」と語っていた。 そのときの印象は、大学に入ってからも続いていたようで、支援室の存在について訪ねられたときにも、「自分が生きやすくなるために大切な存在」「どうすればいきやすくなるかというヒントをもらった」と語っていた。この背景には、常にAさんにとって必要なことを聞いてくれるコーディネーターの存在があったようで、ノートテイクを受けたAさんに「今日はどうだった?」「支援学生がこう話していたけど大丈夫だった?」などと声をかけてくれたり、Aさんのニーズを見ながら支援手段を選んでくれるなど、日々、気にかけてくれる存在だったようである また、支援室の活動の中でも、主体的に動いてほしいという働きかけがあったとのことで必要な時には背中を押しくれる存在だったとも言えよう。 それとは対照的に、Bさんのインタビューからは、コーディネーターをはじめとする支援担当者の姿がまったく見えてこない点で印象的であった。入学時に、支援担当者と面談をしたと語っていたとおり、もちろんBさんも、障害学生支援担当のスタッフとの会話は持ってきたのだろうと思われる。しかし、Bさんの語りには、こうした会話の内容はほとんど含まれておらず、支援者2名とのエピソードが多数出てくる状況だった。これは、Aさんには見られなかった傾向で、ノートテイカーが不足していた時も、支援担当者にノートテイカーを募ってくれるよう話をしに行った時も、一緒に行ってくれた支援学生の様子については語られていたが、支援担当者についてのエピソードは一切語られることがなかった。また、ゼミの教員に対して話をしに行った時も同様で、何度か「そのときの支援担当者の様子は?」と尋ねてみたが、そこで受けた支援の内容については、話してもらえることはなかった。こうしたことから、Bさん自身がある意味コーディネーターをはじめとする支援担当者との関係性に寂しさを抱えているように見受けられた。それは、自身のニーズを受け止めてもらえない寂しさなのか、それとも言っても変わらないというところからくる諦めなのかわからないが、結果的に、そのような寂しさからか、支援者2名とともに自分たち達の足で歩く選択をしているように受け取れる。もちろん、この背景には、Bさんの口から語られないところで、大学側からの支 援もあったのだと思うが、少なくとも今のBさんの心の中に残るものにはなっていなかったことが見て取れたる。 では、そんなBさんにとっての大学生活とは、いかなるものだったのだろうか。支援が思うように得られない事で、つらく不自由な思いをしたことは、ライフストーリーを聞かせてもらうかぎり間違いないことだろう。また、もしBさんの大学で支援体制がもっと整っていたら、きっと、Bさん自身の生活にも変化が訪れたことだろうと思う。ただ、こうした苦労の多い時期を過ごしながらも、Bさんの口からは、決して大学生活全体がマイナスな時間だったという語りは出て来なかった。むしろ、苦労した時代を通してかけがえのない友人を得たことが伝わってくる語りであり、そうした点においては、Bさんの人生において欠くことのできない大切な時間を過ごした時期だったのだと考えられる。 そして、このことは、支援者2名についても共通していることだと思う。インタビューの中で、支援者二名に対して、「なぜ一生懸命支援を行うのか」と問いかけたところ、迷わず「友達だから」という答えが返ってきた。2名とも支援を始めたきっかけは、職員さんに誘われたり、「タイピングの腕をあげたかった」からと語ったりするなど、決して積極的なものではなかったかもしれないし、言わば「巻き込まれた」支援だったのかもしれない。しかし、その2人とも、4年間の支援を通して多くのことを学んだであろうことは、前項で述べた通りである。これは、支援を通して支援者1・支援者2ともに特別な大学生時代を送ったということであろうし、当事者としての障害学生も支援者も、大切な出会いをしたと言うことだと思う。 5.3.4. 大学における障害学生支援に求められるもの 本項では、異なる大学に入学した2名のライフストーリーから、支援を通して社会で生き抜く力を得てきたプロセスを振り返るともに、そのために必要なサポートの内容に ついて考察してきた。 ここから、両者とも大学時代に当時者性に気づくきっかけを得て、支援学生との関係性の中に利用者としての役割を見いだしている他、環境に対して働きかける力を養って来ていることが明らかになった。また、その根底には信頼できる友人との出会いがあり、心を開いて話ができる人の存在が、一歩前に進む原動力に繋がっていることがうかがえた。 松﨑(2019)は、手話サークルのように、意思疎通が可能なコミュニケーション手段を共有している集団への参加が、「社会的障壁」に対する認識の転換を促す貴重な経験になると述べており、聴覚障害学生にとって、必要な経験であると指摘している。AさんBさんとも、このように気兼ねなく何でも話せる存在の中で、活動できる場を得たことが、一歩外の社会に踏み出す力になったのだろう。 一方、支援体制の不十分な環境で大学時代を過ごしたBさんの体験からは、障害学生支援に本当に大切なものが何なのかが見えてくる。Bさんにとって、大学の障害学生支援担当者は「見えない」存在であり、「何を言われているのかわからない」存在であった。これに対し、Bさんの支援者2名は、インタビューの中で、支援にとって大切なことは、当事者の話を聞くことだと語っていた。これは、「自分一人でやっても、それは独りよがりなだけだし、Bさんのことを知らないと本当に必要な支援にならない。」「自分たちだけが頑張っても利用者が何を求めているかがわからないと、押し付けになるだけで支援じゃない。」と語っていたことからも伝わってくる。大学の支援担当者による支援ではなく、支援者2名と歩き出す決断をしたBさんにとって、こうした自分の気持ちを受け止め、話を聞いてくれる人の存在は、何より重要なものだったのではないだろうか。 福島(1991)は、障害学生支援について語る論文の中で、「なにを幸福とするかは、すべて個人がそれを定めることを承認しつつ、その能力の開花に平等の機会を保障する 組織を作ること」であり、これが、「個人の幸福の追求と教育とが直接に結び合うこと」だとしている。つまり、本人がやりたいと思うことを認め、それにチャレンジできる機会を保障することが、本人にとっての幸福の実現に繋がるものであり、このような環境を作り上げることで、自己実現を支えていくことが教育の役割ということなのだろう。 このような点から、大学における障害学生支援を進めていく上で、欠かすことのできない要素は、まず聴覚障害学生のニーズを聞き取ることであり、これをもとに関係各機関での調整を経て、可能な限りの合理的配慮の提供へとつなげていくことと言えるだろう。この過程では、聴覚障害学生のニーズをもとに、本人と話し合いを重ね、具体的な実現方法を修正・検討してくことになるが、まずは本人の気持ちを聞き、受け止める、こうした「対話」こそが「合理的配慮」の基盤であり、かつ、すべての「支援」の基盤でもあるのだと二人のインタビューを振り返って改めて感じるところである。 第6章 おわりに 大学に入学をする聴覚障害者は、それまでの人生においても、聴覚に障害がある故に受けるさまざまな困難を、それぞれの処し方で乗り越えてきたのだろう。その上で大学に入学し、新たな環境に馴染む努力をして、そこから「新しい自分」を作ろうと模索するとともに、さらには一般学生と違った苦労をしつつも、社会人として歩みだすための準備をする。その中には、精神的にも不安な気持ちがあるだろうことは、十分過ぎるぐらい想像できることである。 彼らが大学4年間の中で十分に学び、知識を受け取るためには、大学における障害学生支援が重要で、その中心となる障害学生支援コーディネーターや障害学生担当職員を、どのように養成・支援していくかは、今後の障害学生支援にとって大きな課題である(石井, 2009)。 一方、障害学生への支援は、多大な時間や労力が必要とされるものであり、担当職員のみでは、担いきれないのも現状である。しかし、やまだ(2000)が述べているように、ライフストーリー研究において、「読者」もまた「意味生成の共同行為」の担い手なのだとしたら、障害学生支援においては、コーディネーターや担当職員のみならず、聴覚障害学生自身も、またその学生に関わる友人や支援者も、皆、大切な共同行為の同労者であると言える。そしてそれは、関係する各人に時間や労力において負荷をかけるものであるという点において、議論は必要であるが、本調査のライフストーリーインタビューを見る限り、大切な負荷でもあり、意義深い経験になることも事実だろう。 同時に、聴覚障害学生にとって、必要な「支援」がどのようなものであり、また、それがどのような「効果」をもたらすかは、支援を利用する利用者だけでなく、支援に関わるすべての人の関心事であるべきであろう。いみじくも、Bさんの理解者である支援者2が「ノートテイクがそんなに難しいとは思っていなかったけど、始めたら「テイクがすべてだ」ってわかった」と語っていたが、ノートテイクがなければすべての情報が 絶たれてしまうBさんの状況を大学側が認識していたら、Bさんが体験した苦しみも変わってきたのではないだろうか。こうした認識を広げるためには、インタビューに応えてくださった2名の利用者が、日々、ノートテイカーの立場を考えながら気遣いをしていたように、聴覚障害者を取り囲む支援者だけでない聴者の学生も、聴覚障害者の目線で日々の大学生活をとらえていかなければいけないだろう。 大谷(2019)には、「今後の社会で望む一番のことは?」という問いに対して、「教育かな。小さい時から授業でも、世の中には聞こえない人もいるということをどんどん紹介してほしい。そして、聞こえないとはどういうことなんだろうということを、みんなでもっと考える機会を設けてほしい。(中略)“聞こえる”“聞こえない”のレッテルを外せば、皆一緒だってことを、早い段階から皆に理解してほしいな。」と答える聴覚障害者の姿が描かれている。これは、大学における障害学生支援も同様で、大学という教育機関が担っている大きな役割の一つと言えるだろう。 また、本論中ではあまり触れることができなかったが、こうした理解を広げていくためにも、聴覚障害者自身が、早い段階から自分の障害や情報保障について学び、障害学生として、大学で支援を受ける際にどのような準備をしておかなければいけないのかについて考える機会を提供することも重要であろう。これについてAさんは、「自分にはどういう障害があるのか、どういう支援があるのか、自分はそれをどう活かすかを考えなきゃいけない。将来のためにろう学校でもそういうことを教えるべきだと思う。」と語っていたが、大学においても同じような立場の障害学生同士のつながりを形成し、自身の感じている困難について話し合い、情報を共有するための時間や場所を提供していくことも大切なのではないかと考える。 やまだ(2000)は、ライフストーリーの意義について次のような言葉を記している。「私たちは、過去の出来事を変えることはできないが、物語を語りなおすことによって、過去の出来事を再構成することが可能になる」「人生の物語とは、意味づける行為であり、人生経験の組織化である」。 本研究において、予備調査にご協力いただいた13名の方、そして特にインタビューなどを通してご自分の支援に関わる経験を語ってくださった4名の方々は、語り直すことで自分の人生を意味づけることができただろうか。当事者である障害学生たちが、大学で支援を受けるということがどのようなことなのか、さらには、自分自身で支援を依頼し、活用していくために、日ごろから何を心掛けていたらいいのか。「語る」ために、また、自分にとっての「答えを見つけるため」に、本研究の問いかけが、対象となった方々の人生の意味付けに貢献し、さらには新たな人生の組織化に向けて、一歩後押しするものになっていれば、研究者としてこの上ない幸せである。 参考文献 参考文献 ・福島智(1991)『発達の保障』と『幸福の保障』―障害児教育における『発達保障論』の再検討.東京大学教育科学研究,第10号.P55-63. ・福島智(2011)「盲ろう者として生きて―指点字によるコミュニケーションの復活と再生」.明石書店.東京都. ・東野充倫(2009)聴覚障害者の非公式なコミュニケーションへの待遇戦略:当事者のライフストーリーの分析から. 社会問題研究, P103-116. ・井上恵梨子(2011)高等教育における障害学生支援のための基礎的研究. 関西学院大学先端社会研究所紀要,第6号,P125-133. ・亀崎美沙子 (2010)ライフヒストリーとライフストーリーの相違―桜井厚の議論を手がかりにー. 家政大学博物館紀要,第15集,P11-23. ・窪間郁実・原島恒夫・森晴子・四日市章(2012)聴覚障害大学生の情報支援ニーズの変化.聴覚言語障害,41巻.P15-22. ・松﨑丈(2019)聴覚障害学生支援における合理的配慮をめぐる実践的課題.宮城教育大学紀要, 第53巻,P255-266. ・永井紀世彦(1999)聴覚障害者のインテグレーションと大学教育―大学における情報補償を左右する諸要因―.手話コミュニケーション研究.通巻32号,P32-44. ・大久保孝治(2009)ライフストーリー分析 -質的調査入門 . 学文社.東京都. ・大杉豊(2005)「聾に生きる」.全日本ろうあ連盟.東京都. ・大谷邦郎(2019)「耳の聞こえない人、オモロイやん!と思わず言っちゃう本」. 手話エンターテイメント発信団oioi編著, 星湖舎,大阪府. ・桜井厚(2002)「インタビューの社会学―ライフストーリーの聞き方」. せりか書房,東京都. ・桜井厚・小林多寿子(2013)「ライフストーリー・インタビュー 質的研究入門」せりか書房,東京都. ・桜井厚(2017)「ライフストーリー論」 現代社会学ライブラリー7. 弘文堂.東京都. ・桜井厚(2007)ライフストーリー研究における倫理的ディレンマ.先端社会研究,第6号, P87-111. ・桜井厚(2010)ライフストーリーの時間と空間.立教大学紀要.第60巻,4号,P481-499. ・桜井厚(2017)対話的構築主義との対話 ライフストーリー研究の展望(聞き手 西倉実季). 現代思想, P60-84. ・佐藤茜(2019)野津田の丘から.日本聾話学校発行広報誌.第38号. ・杉中拓央・原島恒夫・鈴木祥隆(2016)高等教育機関に在籍する聴覚障害学生が支援に対する態度を変えた契機.Total Rehabilitation Research,Vol3,P15-24. ・高橋万由美・小林美穂(2005)高等教育機関における聴覚障害学生への支援. 宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要,第28号.P305-317. ・やまだようこ(2000)展望 人生を物語ることの意味-なぜライフストーリー研究か?.京都大学. 教育心理学年報,第39号.P146-P161. ・上村千尋・入山満恵子(2016)聴覚障害の児童生徒が感じる困難とその教育的支援. 新潟大学教育学部研究紀要, 第 9 巻 第 1 号. P167-172. ・ 浦部奈津実・岩田吉生(2011)日本の高等教育機関における聴覚障害学生の受け入れ状況の現状と課題.障害者教育・福祉学研究, 第 7 巻.P17-P24. ・吉岡佳子(2019)「ろう理容師たちのライフストーリー」.ひつじ書房.東京都 ・日本学生支援機構(2018)「平成30年度(2018年度)障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告書 」日本学生支援機構,東京都. 巻末資料 支援についてのアンケートご協力のお願い(公募) 聴覚に障害がある方が、十分な支援を得て次のステップに進めるよう、大学における支援のあり方を探る研究をしています。 添付のアンケートを開き、ご協力いただけますようお願いいたします。なお、支援についての実態をより正確につかむことができますよう、できるだけ多くの方にご協力を頂きたいと願っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。 アンケート内容:ご自身が高等教育機関在学に受けてきた支援について等 研究論文(修士論文)テーマ:「ライフストーリーに見る聴覚障害学生支援のあり方 ~自己肯定感と主体性の醸成にポイントをあてて」 アンケートに要する時間:30分~ アンケート対象者:社会に出て2~3年の聴覚障害者(中等度~重度)で、在学中にノートテイクやパソコンノートテイク、手話通訳などの支援を受けてきた方 アンケート回答締め切り:2018年12月16日 アンケート回答方法:説明文書をお読みいただき、ご理解いただいたうえで、アンケート本紙をメール添付で返送ください。紙媒体での回答をご希望の場合は、お手数ですが①同意書と②アンケート本紙をプリントアウトの上、下記住所までご送付いただければ幸いです。返送用の郵送料の返金については、ご返送の方に直接個別にご相談させていただきます。なお、個人情報の取り扱いについては、十分に留意し、実施担当者 浅井久美が学内に保管等いたします。 なお、アンケートの内容を分析ののち、立場等のバランスを考えたうえで、数名の方にインタビュー調査をお願いしたいと思っております。語っていただきます内容は、仮名によりご本人による発言であることを明記するとともに、個人情報に十分配慮したうえで、修士論文ならびに研究論文に記載されることがあります。この際、論文の著作権については、著者に帰属することといたします。以上の趣旨をご理解の上、インタビューを引き受けていただける方は、質問紙の最後の項目に、インタビューが可能であることを明記の上、①氏名 ②連絡先(e-mail アドレス)③ご住所 をお知らせください。後日、こちらからご連絡させていただきます。 *回答の有無や、回答の内容については、仲介をしてくださった教育機関コーディネーターの方などにお知らせすることは一切ありません。また、個人情報に十分配慮をして取り扱わせていただきますのでどうぞよろしくお願いいたします。 返送先: 浅井 久美 E-mail: (連絡先記載) 住 所: 〒305-8520 茨城県つくば市天久保4-3-15 国立大学法人筑波技術大学技術科学研究科情報アクセシビリティ専攻 差支えない範囲で以下の質問に、お答えください。答えていただくにあたり、ご不明の点、ご意見がありましたら、遠慮無くご連絡下さい。(担当者:浅井久美 e-mail : (連絡先)本調査の主旨に同意し、調査を受けることにご協力いただける場合は、下記所定欄に「チェック .」を入れてくださるよう、お願いいたします。 私は、研究課題名「ライフストーリーに見る聴覚障害学生支援のあり方~自己肯定感の獲得と主体性の醸成に焦点をあてて~」に関し、研究の目的、研究の内容・方法、プライバシーの保護、身体面、精神面等への配慮、不利益及び危険性に対する配慮、同意しない自由の保障、著作権等について説明文書の内容を十分に理解し納得しましたので、私の自由意志により本研 究の研究対象者となることに同意します。ただし説明にもあった通り、この同意は一切の不利益を受けることなくいつでも撤回できるものであることを確認します。 1.回答者御自身のプロフィール 年齢: ご所属: 2.あなたの障害についてご記入ください。 受障の時期: 出生時 ・ 乳児期(0~3才)・ 小学校低学年(7~9才)・ 小学校高学年(10~12才)・ 中学校(13~15才)・ 高校(16~18才)・ 大学以降(19才~) 聴覚障害の程度: 軽度(25~40.)・中等度(40~70dB)・重度(70~90.)・最重度(90dB以上) 障害者手帳の有無 あり 級 ・ なし 人工内耳の装用について ( 有 年 ・ 無 ) 普段よく用いるコミュニケーション手段(それぞれの手段について割合を書いてください) ( 例: 4/ 10 = 用いているコミュニケーション全体を「10」とした場合の、10分の4くらいに相当) 手話がわかる相手に対して: 手話( / 10 )・ 聴覚口話( /10 )・ 筆談( /10 ) その他( /10 ):(例:音声を取りながら口形を読むなど ) 手話がわからない相手に対して: 手話( / 10 )・ 聴覚口話( /10 )・ 筆談( /10 ) その他( /10 ):(例:音声を取りながら口形を読むなど ) *聴覚口話=保有聴力を活かし、支援機器(補聴器など)に加え「唇・口形を読む」などによって表現する方法。 聴覚障害の他に障害はありますか( 聴覚障害のみ・ 有 (例 視覚など) ) 3.あなたの教育歴について*「転校」などにより選択が複数有る場合は、両方に〇をしてください。 幼稚部 ( 特別支援学校 ・ 通級指導教室/難聴学級 - 地域の学校 ・ その他( )) 小学校 ( 特別支援学校 ・ 通級指導教室/難聴学級 - 地域の学校 ・ その他( )) 中学校 ( 特別支援学校 ・ 通級指導教室/難聴学級 - 地域の学校 ・ その他( )) 高等学校 ( 特別支援学校 ・ 通級指導教室/難聴学級 - 地域の学校 ・ その他( )) 高等教育機関 ( 大学院 ・ 四年制大学 ・ 短期大学・ 専門学校・ 筑波技術大学 ・その他( ) 卒業後(現在の職種 何年目 ) (職種例:エンジニア・美容系・営業・食品・建築・販売(サービス)・公務員・教員・事務職・金融系・医療系 など) 4.高等教育機関在籍中、大学から何らかの支援を受けていましたか?( はい ・ いいえ ) 在学中に受けていた支援について、あなたの印象や当時考えていたことをお聞かせください。また、それは入学から卒業まで、どのように変化しましたか?変化のプロセスにあわせてそれぞれの時期に感じていたことをご記入ください。 書く欄が足りない場合は、質問紙裏面もお使いください。 5.大学在学中、聴覚障害や支援について、特に印象に残っているエピソード、転機になった出来事などがありましたら、内容を自由にお書きください。 例:「学内に手話サークルを作り、支援者の学生の話を聞くことで、支援をする人がどんな気持ちでいるのか、知るようになった。」 6.今後、何名かの方に大学生活に関するインタビューをお願いしたいと考えています。90分間×複数回にわたるインタビューになるかと思いますが、ご協力いただくことは可能でしょうか?語っていただく内容は、ご本人が高等教育機関中に受けた支援について、どのような支援を受けてきたのか?支援に対してどんな考え方をもっていたのか、そのように考えるようになった理由はなにか?またその支援が現在の自分にどんな影響を与えているかなどです。ご本人のお名前や登場する大学名、団体名などは、アルファベットなどにより匿名性を保持しつつ、ご本人による発言であることを明記するとともに、個人情報に十分配慮したうえ、修士論文ならびに研究論文に記載されることがあります。この際、論文の著作権については、著者に帰属することといたします。以上の趣旨をご理解の上、なにとぞご協力のほど、よろしくお願いいたします。 インタビュー: できる ・ できない ・条件が合えばできる (具体的な条件があれば ) 今後、インタビューについて、ご連絡させていただいてもよろしいでしょうか?可能であれば、氏名と連絡先をご記入ください。 ご氏名: 連絡先(e-mail @ インタビュー時のコミュニケーション手段として、どのような方法を希望されますか?参考までにお聞かせください。なお、インタビューアーは、聴者(簡単な手話なら可)となります。: ( 手話通訳 ・ 口話や筆談 ・ パソコンによるチャット ・ メール ・ スカイプ ・ その他 ) 本調査:インタビュー項目 <インタビュー> 【プロフィール確認】 Q:本人の現在の所属等(社会人経験、所属部署など)確認。 Q:高等教育機関在籍中の専門(学部など)確認。→なぜこの専門に興味を持ったのか。どんな勉強をしたのか) Q:ご本人の障害について確認。障害があることからくる不便さ(主に大学時代)。 【大学入学まで】 Q:家族環境の中でのコミュニケーション。家族(両親)とのかかわりで、印象に残っていること。 ・どのような家庭に産まれたのか?(家族にはほかにろう者(難聴者)はいるか(アドバイスをもらえる人がいるか)) 【大学時代】 Q:大学在籍中にうけてきた支援は?途中で変化があったとすれば、その変遷について概略。また、特に大きく環境や考え方が変わった時はあったか? Q:高校時代(特別支援学校)、大学の授業についてどのような説明があったか、それについて持っていた印象。 Q:なぜ大学に入学することを選んだのか。入学への不安などがあったとしたら、背中を押してくれるものは何か。 Q:大学の担当者と高校の担任の関係。 Q:大学の中に、フランクに話ができる人(先輩など)がいたか? Q:特に、1年生のオリエンテーション時期はどのようなものだったか。 ・特別なアドバイザーはつけてもらったか。 Q:大学での1年目の授業では、どのような学生時代だったか? 聴覚障害のことを話した後、できた友人とは、どのような人だったか。(コミュニケーション手段(手話)に関心を持っていたか など) Q:大学で授業をうけたうえでの感想(1年時)、印象。そのことから「支援」というものをどう考えていたか。(「支援」とは、どのようなものだと思ったか?) ・当時、大学について、相談することができる人はいたか?→それは誰で、どんな相談をしたか? Q:教員が全員支援について好意的だったわけではないと思うが、当事者として、好意的な教員と、そうでない教員とは、何が違うと思うか。またそれらの教員間の意思疎通は、スムースに言っていると思えたか。 Q:自分の専門に勉強したいことをはっきりさせ、ゼミでの学びが始まる3年生は、どのような授業だったか? ・何を基準にゼミを選んだのか? ・ゼミの教員との間柄、コミュニケーションは、良好だったか? ・ゼミでの他の学生とのコミュニケーションは問題がなかったか? Q:卒業時の就職活動 など、授業外で受けた支援についての意見、エピソードは?→キャリアセンターのスタッフとのコミュニケーションは、問題がなかったか? Q:大学在学中、一番コミュニケーションをとった人は誰か?(友人、先輩、指導教員、コーディネーターなど) 【支援について】 Q:上記の流れの中で、支援の内容や受け方、考え方は、変わったと思うか。(2年から3年。3年から4年 など)もし変わったとしたら、そのきっかけは何だったか。 ・特に印象に残った出会った人(支援者・コーディネーター等)はいるか?→なぜ印象に残っているのか? Q:特に印象に残っている支援・支援者はあるか?それはなぜ印象的なのか? Q:在学中、学内外の支援団体を利用したことはあるか?そのことについて、支援を依頼する経緯と感想・意見など。 Q:自分が受けた支援に対して本人が考える改善点を自由に。(自分が受けてよかった支援とは?) 謝 辞 本論文の執筆に際し、多くの皆様のご指導とご協力、また、励ましをいただきましたこと、心から感謝申し上げます。特に、聴覚障害者支援については、単に前職において障害学生支援担当をさせていただいたというだけで、わからないことだらけだった私が、こうして支援に関する研究を手がけ、現状の一端を垣間見ることができたのも、筑波技術大学の授業でたくさんのことを教えていただいた多くの先生方、また、同時期を共に過ごした大学院生の皆様のおかげです。なかでも、筑波技術大学に受験を決めた最初から力づけてくださった白澤麻弓先生には、感謝と尊敬の思いばかりです。 つたない知識によって書き上げた論文のご指導をいただくうちに、白澤先生の聴覚障害者支援への熱情に触れ、修士論文を書き上げのための指導以上にたくさんのことを教えていただきました。論文を書き上げるころには、今後も、この分野の発展と社会での関心の拡散を祈らずにはいられなくなりました。 また、本論文を書き上げる過程では、PEPNet-Japanの会員大学のコーディネーターの皆様に質問紙の配布について、多くのサポートをいただきました。みなさまのサポートが無ければ、この研究も始まらなかったと思いますし、結果として得られた回答が、私の聴覚障害学生支援の現状を知ることへの後押しとなりました。この論文が、そのご尽力に報いられるものになっているかは甚だ疑問ではありますが、少なくとも、「大切なことを大切である」と感じる一市民が増えたこと、そして、今後、そのためにどんなことができるのかを考える小さな力が一つ生まれたことは、この論文を読んでくださったみなさまにご報告できるのではないかと思います。 さらに、この論文を書き上げるために、予備調査に回答をくださった13名の皆様、そして、お忙しい中、ライフストーリーインタビューにお付き合いくださったAさん、Bさん、そして2名の支援者の方にも、感謝をお伝えしたいと思います。特に当事者であるAさんBさんには、さまざまな障壁に遭遇しても前向きに、進まれてきたそのお姿に心 動かされました。また、Bさんの大学時代を共に歩き、今は社会に出た支援者のお二人にも、きっと今後、後に続く人々を導いてくださることに感謝いたします。 研究手法にしたライフストーリーについては、ライフストーリー研究所の桜井厚先生や、その勉強会の集うみなさまに、講習会や勉強会における具体的なアドバイスをいただいた他、「人」に対する熱意からたくさんのことを教えていただきました。 その他、副指導教員としてご指導をお願いした大鹿綾先生、論文の査読をしてくださった大杉豊先生、小林洋子先生はじめ、先輩方、院生の皆様、職員の皆様、そして、PEPNet-Japanの事務局を担当しながら、私たちの指導や支援をしてくださった助教の先生方にこの場を借りて感謝申し上げます。 本研究を通して、いろいろな困難に出会いながらも自身に合った方法で学業を続け、社会に出ていった、当時の聴覚障害学生の姿をありのまま記すことができれば良いと思っております。聴覚障害者であれ、聴者であれ、まずは「人」に関心を持ち、共に歩もうと思う気持ちを、皆さんの姿から教えていただきました。そんな思いを世の中に広げていくことを、この論文が小さな力でも後押ししてくれれば良いと思っています。 末筆になりましたが、ここに記せなかった方々を含め、いろいろな形でご協力くださったみなさまに、心から感謝申し上げるとともに、今後、聴覚障害者、聴者が共に、聴覚障害者支援の発展に向けて手を取り合って進むことができるよう願っております。 2020年2月 浅井久美