茨城地域居住ろう者の手話言語コーパス構築の研究 大杉 豊 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部 キーワード:ろう者,手話言語,社会言語学,コーパス 目的 本研究では,手話言語を日常的に用いる聴覚障害者をろう者と呼ぶ。本学がキャンパスを構え,教育活動を展開するつくば市を含む茨城地域に居住するろう者がどのような手話言語を用いているのかを把握することは,手話言語及び通訳などの面で本学が地域社会へ社会言語学的な研究成果を還元していくための基盤の一つとして位置付けられる。本研究の目的を(1)茨城地域に居住するろう者の手話表現を収録する,(2)手話表現協力者の手話言語と日本語に関する言語習得及び使用状況を調査する,(3)以上のデータを整理して手話言語コーパス構築の基礎とし,一部をインターネットで公開する,と設定した。 協力者の確保 茨城地域に居住するろう者の当事者によるネットワークとして最大のものである一般社団法人茨城県聴覚障害者協会に依頼し,茨城県立の聾学校に在学した年数が6年を越え,現在も茨城地域に居住し,自身の顔を含めた映像を一般に公開することに同意できる20名のろう者を確保した。その際に性別及び年代でバランスを取る調整をした結果,男性は30歳代,40歳代,50歳代,60歳代,80歳代,女性は30歳代,40歳代,50歳代,60歳代,70歳代から各2名の計20名という結果となった。ただし,男性30歳代の1名が当日撮影会場に来ることができなくなったため,聴覚障害者協会の役員が代わりに入る対応を取っており,この1名による手話表現データはあくまで参考という位置付けにしている。この1名については,言語習得と言語使用状況に関する調査は実施していない。 手話表現収録の方法と内容 手話表現収録は,幅8メートル×8メートル以上の広さを確保できる本学天久保キャンパス校舎棟211室にて,2016年11月11日に実施した。手話表現協力者が座る椅子とその背景に使われるパーティションの位置,映像カメラの種類,位置と角度などの調整,照明機材の種類,位置と角度などの調整については,2011年度より開始している「日本手話話し言葉コーパスプロジェクト」[1][2]で設定した規格・基準を本研究でも採用している。収録マニュアル等は下記サイト参照。http://research.nii.ac.jp/jsl-corpus/research/manual.html手話表現収録では,日本手話話し言葉コーパスプロジェクトで設定している通りの語彙課題と対話課題を用いた。語彙課題は,イラストと文字で構成されるスライドが100枚用意され,画面に映し出される1枚ずつに対して該当する手話単語を表現する内容である。対話課題は,(1)7分程度のアニメーション「キャナリー・ロウ(Canary row)」を別室で視聴した手話表現協力者がもう1名の協力者にその内容を伝える課題,(2)カレーのレシピについて自由に語り合う課題,(3)居住する地域で自慢できる事柄について自由に語り合う課題が準備された。また,手話表現収録の最初に,手話表現協力者をリラックスさせる目的も合わせて,手話の地域差,手話の年代差,海外の手話に関わる個人の経験をペアで話し合ってもらうセッションを設けている。 言語習得と言語使用の調査方法 手話表現収録に先立って実施した言語習得・使用状況の調査は対面形式で行われ,手話表現協力者の同年代ペアに同時に質問して答えた内容を調査者が記録する方法とした。質問項目は基礎項目群,生育時の家庭環境に関する項目群,聾学校に関する項目群,手話言語の経験に関する項目群,日本語の経験に関する項目群の5群で構成される。その内個人が特定できる可能性のある項目を省いて,調査結果を一覧にしたのが最後に掲載する表 1である。 同意手続き 手話表現協力者の同意手続きについては,筑波技術大学及び国立情報学研究所の研究倫理委員会での審査を経て,(1)研究の目的・内容・方法,(2)ウェブサイトでデータリストを公開,収録した映像データの一部をストリーミング配信,(3)NII-IDRから映像データと注釈データを第三者へ配布したときに想定されうる権利利益の不利益,(4)実施責任者の承認付きで第三者に配布される可能性,(5)プライバシーの保護,身体面,精神面等への配慮,不利益及び危険性に対する配慮,同意しない自由の保障等について,説明文書に基づき十分な説明を行うこととした。その際に,図1・2の資料も渡して,手話表現協力者がインターネットに映像が公開されることの意味と,破棄を申し出る方法があることを具体的に理解できるよう配慮した。その上で,手話表現協力者の同意表明は,書面への署名及び映像カメラへの手話表現の二種類にて確認を取る方法とした。 図1 同意手続きに使用された資料(1) 図2 同意手続きに使用された資料(2) 成果 手話表現収録については,計20名から手話表現を収録し,語彙課題は語彙毎に,対話課題は会話毎に切り取って編集した動画を得ることができた。動画は全てFlash videoとQuickTimeのファイル形式2種類で製作され,計45ギガバイトの容量となっている。写真1は語彙課題の編集された動画,写真2は対話課題の編集された動画の画面である。 写真1 語彙課題の編集された動画の画面 写真2 対話課題の編集された動画の画面 語彙課題の編集された動画は性別と年代から手話単語の表現を視聴できる形のインターフェイスにてインターネットで一般公開される。http://research.nii.ac.jp/jsl-corpus/public/ibaraki/shuwa/対話課題の編集された動画も性別と年代からそれぞれの課題を視聴できるよう整備されるが,一般公開はされず,「会話コーパスの利用に関する誓約書」を国立情報学研究所に提出する研究者のみに利用を許可する方式としている。手話表現協力者19名の言語習得と言語使用に関する聞取り調査の結果は表1に示されている。全員が生後3歳までに失聴しており,生育時に家族にろう者がいたのは19名中8名となっている。ただし,ろう者の家族が使用していた手話言語の状況,きこえる家族の手話言語使用状況に注意が必要である。聾学校については,全員が茨城県内の聾学校に在籍していたが,その期間は6.15年と幅があることが見て取れる。手話言語及び日本語の経験を見ると,手話言語も日本語も家庭や学校で学んだという回答が圧倒的である。現在の家庭では家族全員が手話言語を 使用しているが,日本語は全員ではないとする回答が散見される。家庭外での使用では,ろう者と会うときや手話通訳を利用するときに手話言語を用いるという回答に対して,日本語はきこえる近所の人や職場のきこえる人と会うときに用いるとする回答が多い。これらの回答から,本研究の手話表現協力者が,基本的に家庭や学校で手話言語と日本語を学んで育ち,現在もこの二言語を場面に応じて使い分けている,すなわちバイリンガル状況に生きているという姿が見えてこよう。 成果の今後における教育研究上の活用及び予想される効果 本研究で構築される手話言語コーパスは茨城地域に居住するろう者が用いる手話言語を語彙と会話の両方で観察し,言語習得と言語使用に関する調査結果のデータと合わせて,社会言語学的な視点で分析できる意味で,本学の学部及び院における手話学及び手話言語学の教育に有効な教材となる。一方,茨城県及び県内各市町村で実施されている手話奉仕員・通訳者の養成事業においても,全国共通で使われることを前提に作成されている教材では得られない,茨城地域居住のろう者の手話表現を語彙と会話両方において確認できる意味で,手話講習会等での副教材としての活用が期待される。 謝辞 本研究は坊農真弓(国立情報学研究所)との共同研究として進められたものであり,本研究で得られた手話表現及び言語習得・言語使用に関する調査結果のデータは筑波技術大学と国立情報学研究所において共有されている。なお,手話表現収録及び言語習得・言語使用に関する調査の現場では岡田智裕(総合研究大学院大学),坂井肇(筑波技術大学),手話表現協力者のコーディネートについては一般社団法人茨城県聴覚障害者協会手話対策部長,手話表現映像収録及び動画データ編集(技術)については株式会社らくだスタジオの協力を得ている。本研究は,筑波技術大学平成28年度学長のリーダーシップによる教育研究等高度化推進事業(代表:大杉豊)及び平成27年度科学研究費助成事業(学術研究助成基金助成金)国際共同研究加速基金(国際共同研究加速強化)(代表:坊農真弓)にて実施された。 参照文献 [1] Bono M, Kikuchi K, Cibulka P, and Osugi Y. Colloquial Corpus of Japanese Sign Language: A Design of Language Resources for Observing Sign Language Conversation. Proceedings of The 9th edition of the Language Resources and Evaluation Conference, 2014; p.1898-1904. [2] 大杉豊,坊農真弓.手話人文学の構築に向けて(2)-手話言語コーパスプロジェクト-.手話・言語・コミュニケーション.2015;No.2: p.99-136. 表 1 手話表現協力者の言語習得・言語使用に関する聞取り調査結果