■【新体制について】 「PEPNet-Japan新体制についての説明」 報告者:PEPNet-Japan事務局  PEPNet-Japanは設立から10年以上が経過したが、障害者差別解消法をはじめとする法律が施行されるなど、我が国の聴覚障害学生支援は大きな変化を遂げた。そこでPEPNet-Japanはミッションの再定義を行うとともに体制の見直しを図ることとし、平成30年度から組織体制を新たにすることとなった。そこで本シンポジウムの場をお借りして、PEPNet-Japan事務局長である白澤麻弓(筑波技術大学)から主な変更点やポイントを説明させていただいた。本報告では主に当日投影した資料を掲載するが、詳細についてはPEPNet-Japanウェブサイトを参照していただければと思う。 全体会 新体制について <スライド1> 日本聴覚障害学生高等支援ネットワーク(PEPNet-Japan)新体制について 日本聴覚障害学生高等教育支援ネットワーク 事務局長 白澤麻弓 <スライド2> はじめに 設立から10年以上が経過 法施行をはじめとする支援の広がり (記号)下矢印 ミッションの再定義 組織体制の見直し <スライド3> PEPNet-Japanの役割って? 聴覚障害学生支援のパイオニアとして、時代に横たわる種々の課題に取り組むことで、新たな事例やノウハウを生み出す 全国の大学における支援実践から学ぶとともに、支援が行き届いていない大学における支援体制を引き上げるために行動を起こす <スライド4> 何が変わるの? より多くの大学や機関、個人の方にも関わってもらえるように「会員制」になります。 活動方針は「総会」で決定、会員から選出された「幹事大学・機関」によって運営される形になります。 <スライド5> 会員って? 正会員大学・機関 準会員大学・機関 個人会員 (記号)こめじるし 詳細は当日資料P86をご覧下さい。 <スライド6> 会員になるメリットは? 正会員大学・機関の場合 PEPNet-Japan事業への参加資格 研修会等への優先参加 成果物の先行配布 ML等での議論の参加 総会での議決権 幹事大学・機関への立候補権 (記号)こめじるし 詳細は当日資料P86をご覧下さい。 <スライド7> メーリングリストはどうなるの? 現在のMLは今年度末を持って終了 来年度4月からは ①全会員向けの情報発信用 ②教職員に限定した情報交換用 等に分けて運用します。 会員種別により利用できるMLが異なります <スライド8> 入会方法は? 来年4月のご入会には ①正会員大学・機関 今年度1月中 ②準会員大学・機関 今年度中 ③個人会員 今年度中 詳細はPEPNet-Japanウェブサイトにて <スライド9> ご入会お待ちしてます! ■【パネルディスカッション】 「障害者差別解消法から1年を経て考える―障害学生の権利・教育機関の役割―」 ■報告者:伊藤康弘(北海道大学 特別修学支援室 准教授) ■企画趣旨  障害者差別解消法の施行を受け、支援体制は広がりをみせるようになってきた。反面、学生同士の関係性の希薄さや、建設的な対話を進めることが難しい学生の様子が課題として指摘されるようにもなっている。また、支援に携わる教職員からは、教育的な視点からこれらの課題について何らかの対応が必要と感じていながらも、それは権利保障の視点から見た障害学生支援のあり方とは逆行するものではないかと躊躇する声も聞かれている。  そこで、本企画では下記2点を討論の柱に据え、聴覚障害学生の権利保障を見据えた支援のあり方と教育的支援の関連性について、多角的な視点から議論し検討することで、今後の我が国における障害学生支援の将来像を模索した。 <討論の柱> 合理的配慮と教育的な支援は相反するものか。 ①聴覚障害のある学生にとって、大学における教育的な支援は不要なものなのか。 ②聴覚障害のある学生と合理的配慮を提供する学生の関わり合いは、合理的配慮の質に影響するのか。 ■講師 武田太一氏(日本福祉大学 卒業生) 松﨑 丈氏(宮城教育大学 特別支援教育講座 准教授) 石原保志氏(筑波技術大学 副学長) ■司会 伊藤康弘(北海道大学 特別修学支援室 准教授) ■話題提供  はじめに各講師から、聴覚障害学生の権利保障を見据えた支援のあり方と教育的支援の関連性について、それぞれの立場で感じることを話題提供していただいた。その内容を以下にまとめる。 1.いち聴覚障害学生として 学生時代を振り返って(武田太一氏)  今日は卒業生の立場で話したい。地域の小中学校を卒業後、高等専門学校に入学し、その後日本福祉大学に編入、大学院まで進学した。また、アメリカに留学し、オーロニ大学に1年間、ボストン大学に3年間在籍していた。  高等専門学校に在学中、地域の手話サークルに通い始めたのがきっかけで、さまざまな聴覚障害の先輩に出会い、そこで「情報保障」という言葉を初めて知った。その後日本福祉大学に編入したが、その頃は聴覚障害学生が自分でノートテイカーを確保する必要があったので、チラシを作成したり、講義開始前にPRしたりしていた。福祉系の学部があるキャンパスではなかったため、人手確保は容易ではなかったが、手伝ってくれる人が見つかった時は安心した。見つからない時は自分の席の目の前にいた学生に直接声をかけるなどしてなんとか乗り切っていた。そして大学院に進学し、名古屋キャンパスに通うようになってからは、手話通訳士の方々にローテーションを組んでもらい、通訳を担当してもらうことができた。謝金はいったん自己負担で支払った後、大学から「障害学生援助金」が支給される形だった。後で戻るとはいえ、学生の身で謝金をいったん立て替えなくてはならなかったため、生活を切り詰めながら工面していた。このように日本での学生生活は情報保障の手配などに追われていたため、何を学んだかよりも、その苦労の方が印象に残っている。  アメリカでの様子についてはボストン大学のことを中心に話したい。専門がろう教育だったため、ほとんどの講義では先生が手話で話してくれたが、手話ができない先生の場合は手話通訳を派遣してもらっていた。ボストン大学では専任の通訳者を雇用していないが、フリーランスの通訳者に依頼する形で、障害学生支援センターのコーディネーターがコーディネートしてくれた。通訳を依頼したい授業の時間割を渡して通訳を手配してくれる。自分と合わないタイプの通訳者はブラックリストに載せてもらい、次からは依頼しないようにできたので、常に技術の高い通訳を受けることができ、快適に勉強することができた。アメリカでは情報保障で苦しい思いをしたり、悩んだりしたことはなかった。  学生の本分は勉強だと思うが、情報保障の手配に奔走したり、十分な情報量が受け取れなかったりすると、充分に学ぶことができない。日本での在学中は受け取ることのできる情報量の違いに苦しみを覚えていた。また、これから学ぶ後輩たちのことを考えると、このままでよいのか、と感じている。  現在は非常勤講師として教壇に立つようになり、逆に学生からの要求を聞く立場になった。ろう、難聴の学生にとっては、私の手話での講義はわかりやすいものだろうと思うが、視野狭窄や色盲の学生もおり、できる限り要望に添えるようにしている。ただ、アメリカでは、このような時に頼れる機関や団体があったことを考えると、日本との違いを感じる。今後日本がどのような方向に向かうのか注視していきたい。 【写真 武田氏】 2.「当事者性」を引き出す教育実践(松﨑 丈氏)  今日は聴覚障害当事者として、また聴覚障害学生支援に携わってきた立場から話題提供したい。聴覚障害学生支援には教員になってからも含めるとかれこれ20年近く関わってきた。聴覚障害学生の中の「当事者性」について話したいと思うが、その前に言葉の定義について述べたい。「当事者性」とは「自分にとって生きにくい状態になっている問題について、その問題を自分の問題として捉える、あるいは、支援者や専門家から取り戻す。そして、その問題のメカニズムを解明してみたり、その問題解決のために考えたり、問題解決の実践と研究をしてみたりする」ことを指す。そのメカニズムを解明したり、問題解決のために考えたり、自分自身が工夫して実践と研究を行うことは、当事者であれば誰でもできることではなく、さらに当事者が必ずしも「当事者性」を発揮できるわけでもない。当事者が「当事者性」を発揮するためには、またそれを引き出すためには「エンパワメント」が必要だと考えている。エンパワメントには4つの次元があると言われており(図1参照)、そのうち「1)カウンセリング(相談援助)次元」と「2)相互指示次元」は「回復」につながるエンパワメント、「3)アドボカシー(権利擁護)次元」と「4)ソーシャルアクション(社会変革)次元」は「変革」をめざしたエンパワメントと考えられる。またこれらは、障害者差別解消法でいう「意思表明」にも関わってくるものである。エンパワメントを考えた場合、この「回復」と「変革」が大事になるのではないかと思っている。  障害者差別解消法の議論を見ていると、3)や4)にあたる「聴覚障害学生は意思表明ができるのか」という見方から始まっているように思う。しかし、幼い頃からさまざまな抑圧を受けてきた聴覚障害学生は自己を「回復」できずにつまずくことも多い。聴覚障害学生が自分だけで「回復」し「変革」するのは非常に困難である。だからこそ、学生に対する教育実践が必要になる。今日はいくつかその例を話したい。  まず、「回復」を目指した教育実践について。聴覚障害学生の多くは、幼い頃から家族等との会話の輪に入ることができず、コミュニティから阻害された経験を持つ。会話の内容を何度も聞き返すうちに嫌がられるなどの経験を重ねると、わかったふりをしたり、我慢したり、聞こえる人を恐れるようになったりという心理状態になることがある。そのような状態で大学に入学してくる聴覚障害学生は多いと思うが、支援室ですぐに自分の思いを吐露するのは難しい。そこで、私は学生の日常生活をよく観察し、気になったことを学生にたずねてみるようにしている。立ち話や食事の会話の中であくまでさりげなく、「友達との会話でわかったふりをしているように見えるけど、自分でも気がついている?」などと具体的な例を挙げてたずねる。その際、私自身の経験を加えて話すことで学生が語りやすい雰囲気を作ることもある。対話を重ねる中で「言ってもいいんだ」「取り繕う必要は無い」と思ってもらえるようにしている。  そうしていく中でさらに深く話を聞くようにしていくが、学生の多くは自分の行動(対処方法)について否定的に捉えており、例えば「わかったふり」にしても、「やってはいけないもの」のようにマイナスのイメージを持っている。そこで、「わかったふりをするようになったのは自分で考えて?それとも誰かに言われて?」とさらに突っ込んだ質問をしていき、自分の生き方と対処方法が結びつくように促していく。すると、自分がとってきた行動はその時生きていくうえで必要なことだったのだ、と気づくことができるようになる。このように改めて「自己物語」を語ることで、より自分を振り返っていけるようになる。  「自己物語」の特徴は、「現在」を物語の結末として、出来事や経験をつなぎあわせて一貫性のあるものにしていくことである。しかし聴覚障害学生の多くはそれまでの抑制された経験から、出来事や経験がばらばらに存在してしまっている。先ほど例で出した「わかったふり」の意味づけのように、それらを一貫性を持って整理していく必要がある。  また自己物語と回復にも関係があり、自己を物語るということは自己ケアにもつながるという話がある。それは一度語るだけでは難しく、同じ話を何度も繰り返して話すうちに自己が回復していく。その時のさまざまな感情を落ち着かせるために、何度も繰り返し語ることが重要になってくる。それができるようになってくると、それまでの経験をもとに、これから自分はどう生きていきたいか、意思を示すことができるようになり、一貫性も出てくる。  次に変革を目指した教育実践の例を話したい。比較的聴力の軽い難聴学生がおり、普段の会話では聞き取りができるが講義では難しく、講義担当教員に配慮を依頼するも、なかなか理解してもらえなかった。先ほど話したように自己物語を語ることで回復をはかったあと、本人が自ら周りにより理解してもらうにはどうしたらよいかを考え、卒論のテーマとして取り上げた。自分の聞こえ方について、周囲にどのようなイメージを持っているか聞き取ったところ、実際の聞こえ方との差が大きいことがわかり、それを埋めるためにどのような説明をする必要があるか考えた。その経験をもとに、自分の取扱説明書「トリセツ」を作成して職場でも活用したところ、理解してもらいやすくなったとのことであった。  最後にまとめとして、「当事者性」を引き出す教育実践について。今まで話したように聴覚障害学生が意思を表明し、生きていくためには、「回復」と「変革」を念頭に置いたエンパワメント支援が重要になる。冒頭で司会の伊藤先生から「権利と教育的支援は相反するものか」という問題提起があったが、私はそうは思わない。両者には強い関連がある。聴覚障害学生が自分の権利を主張するには、どのように主張したらよいかの教育的支援が必要であり、それには「回復」と「変革」のためのエンパワメントの支援が必要ではないか。自分の「あり方」を「権利」にも含めることができるのではないかと考える。今後の聴覚障害学生支援は合理的配慮や意思表明だけに焦点を当てるのではなく、「回復」や「変革」も踏まえて行っていく必要があるのではないかということを最後に提起して終わりたい。 【図1 松﨑氏当日投影スライドより】 「当事者性」とエンパワメント Cox & Parsons(1997)によるエンパワメントプロセス 1)カウンセリング(相談援助)次元 個人が自分の弱さを見せて、自己への信頼を回復。 2)相互指示次元 お互いの体験の語り合いでつながりを確認する (記号)右矢印権利擁護や社会改革の力に。回復を目指した教育の必要性。 3)アドボカシー(権利擁護)次元 身近なところに自分の権利や要求を主張してみる。 4)ソーシャルアクション(社会変革)次元 運動への参加、社会資源の開発、制度改革など。 (記号)右矢印権利保障的視点と重なる部分。変革を目指した教育上の必要性。 【写真 松﨑氏】 3.障害者差別解消法から1年を経て考える(石原保志氏)  今回のテーマについて、障害学生支援を自分なりに3つの観点に整理した。まずは「権利保障的観点」で、障害者差別解消法(以下、差別解消法)をはじめとした法制度に基づく対応を指す。ここ数年障害学生支援のスキームの中では、差別解消法の施行を受け、法が何を求め、どこまで配慮すべきなのかということが熱心に語られている。古くは米国におけるADA法あたりから始まっている。要するに、法律を守るために何をどこまで行えばよいのかという観点である。  2つ目に「福祉的観点」が挙げられる。具体的な話をすれば、同級生に聴覚障害学生がいて何の支援もなく困っているような場合、同級生でノートテイクをしてあげよう、となる。そもそも聴覚障害学生支援はこの辺りからスタートしている。このことを総称して、言葉は適切ではないかもしれないが「福祉的観点」とした。この観点が世論を動かし、結果的に障害者権利条約も含めた法律につながっている。これが聴覚障害学生支援の原点だとも思う。  3つ目が本日のテーマである「教育的観点」である。これは、学生の潜在的能力の伸長や自己の障害観、社会適応能力の育成を意識したもので、障害学生支援「及び」なのか「合わせて」なのかはわからないが、先ほど松﨑先生が話されたエンパワメントを意識した関わりを持つ視点である。単に情報保障などの合理的配慮を提供するだけではなく、もう少し人を育てていこうという観点であり、私自身もそう考えている。  なぜそのように考えるのか。中央教育審議会は、平成20年に「大学の機能」、つまり「大学とは何をするところなのか」として7点を挙げており、そこには「教育」や「養成」という言葉が何カ所かで用いられている。要するに大学というのは、高等教育、つまり教育の専門性が特に高い部分に社会的シーズがあり、そこを担うのが大学であると言える。「人を育てる」という役割は、今や大学の当たり前の機能になっていることが見て取れる。  次に「権利保障と教育の間の相反」について。本日のテーマは「障害学生支援と情報保障が相反するのか?」が1つのテーマだと思うが、「相反する」具体的な例を4つ挙げた(図2参照)。まず例1として、「自分の聴覚障害の開示を拒む学生への対応」を挙げた。中には割り切って、支援を申請してきた学生のみを対象にすることを申し合わせている大学もあろうかと思う。障害の開示を拒むのは障害認識の部分とも関係してくるとは思うが、そこを深く掘り下げると、教育的なところに入って行かざるを得ない。松﨑先生が「回復」という言葉を使っていたが、そこに入っていかざるを得ないと思う。  2つ目は、「障害学生本人の意思を確認しないまま、学生から一方的な支援範囲を提示」する例。例1よりも学生が自分の障害を開示しているが、自分に何が必要なのか具体的に認識しておらず、どのような知識が自分に有効なのか、支援の具体的なことを知識として知らない。そういう学生にその知識を与えたり、あるいは情報保障を体験させたり、そして考えさせることをやるのかどうか。この辺りが、教育的支援というか、教育そのものだと私は思っている。  例3は「教員は科目的内容に最適な手法を主張するが情報保障が困難」な例で、特に実習や実技、ゼミなどの科目で、どのように情報保障を作り込むのかという課題を持っている大学が多いと聞いている。教員としては科目内容の修得にリアルタイムの情報保障が必要と考え、手話通訳が適当であると提案しても、高度な内容に対応できる手話通訳者がいるかというと、なかなかそういう人材はわずかであるのが現実だと思う。これも、権利保障と教育の間の相反の1つである。  例4は「学生同士の助け合いで支援を行うべきという考え方」を挙げたが、現実にこのような実践を行っている大学は多いであろうし、学生同士の相互補助的な支援を基盤として障害学生支援を行っている大学もあろうかと思う。例えば同級生が同じ授業を受講している聴覚障害学生のノートテイクを担当する場合、その同級生の教育の保障をどうするのかという課題が出てくる。あるいは別の学部の上級生が担当したとしても、ノートテイクにかなりの精力を費やした時、その学生の教育はどう保障されるのかという課題も出て来ると思う。  次に「学生の能力の伸長と支援の間の相反」について。例えば、手話通訳と日本語のリテラシーに関しては、ノートテイクのスキルが聴覚障害学生の求めるレベルに追いつかない場合もあれば、一方で分かりやすく要約することが重視される場合もある。あるいは、話し言葉と書き言葉の違いを考慮しながら、できるだけ話し手の日本語を漏らさずに表出することが求められる場合もある。これは手話通訳でも同様の状況があるだろう。  教育実習や臨床実習における支援者の帯同の例を挙げたが、例えば聴覚障害学生の教育実習に、手話通訳者が帯同するとする。これは教育観点からするとどうなのか、という課題がある。良しとする見方もあれば、困難場面の対処を体験させたいといった社会適応能力の育成の視点で考え、不要と判断される場合もあるだろう。これは教育的観点からもどちらが良いと一概には言えないという例である。  次に、キャリア教育を専門とする立場から述べたい。私自身はやはり「体験」がエンパワメントやセルフアドボカシーを育てていくと考えている。その中で一番懸念するのは、聴覚障害学生が卒業生後、自分から意思表明ができない状況に陥ってしまうことである。学生たちは就職してすぐに、新人研修などで自分のニーズを説明しなくてはならない場面に出くわす。しかし自分のことを説明することができない。松﨑先生が「トリセツ」という言葉を使っていたが、その「トリセツ」や文書でなくても、最低必要なニーズを説明できるようにするためには、やはり早い時期から自分で体験することが必要だと思っている。しかし、親や先生が先回りして支援してしまうことで、その体験の場が奪われていたのかもしれない。それは、障害認識とエンパワメント、セルフアドボカシーというような意識や能力を高めるためにはどうだったのかということが疑問に思われる。  最後に「大学の管理・運営上の課題」として4点を挙げた。まず、大学が有すべき機能としての障害学生支援をこれから各大学に位置づけていくことが必要になってくるだろう。各大学の実状に即した体制を構築することが必要になろうかと思うが、学生中心の支援体制なのか、あるいはトップダウンの体制なのかなど、各大学の規模や状況に応じてさまざまな形があるだろう。また、支援者、支援組織と教育組織を含む組織間の連携も必要だが、支援担当部署や支援担当教職員と他部署との連携が難しく、教育にも良い影響を及ぼさないという例もあるだろう。障害学生支援室とキャリア支援室との連携がなかなか取れないということもよく聞くところであるが、組織的連携をどう作っていくのかという課題があると思う。それから3点目として、すべての教職員に対する理解・啓発も重要である。今や全教職員が障害学生支援について最低限だけでも学んでおくという時代に入っているといえよう。そして4点目には「教育と支援に相反に関する理想的かつ現実的な方針、方策の決定」を挙げた。国公立大学であれば対応要領を平成28年4月に公開していると思うが、それを順次改定していく必要があり、私立大学においても同じような手順が必要になってくるということである。 【図2 石原氏当日投影スライドより】 権利保障と教育の間の相反? 例1 障害の開示を拒む学生への対応 例2 障害学生本人の意思を確認しないまま大学からの一方的な支援範囲の提示(学生自身の主体性も希薄) 例3 教員は科目内容の習得に最適な手法を提示するが情報保障が困難 例4 学生同士の助け合いで支援を行うべきという考え方。 4.全体会パネルディスカッションを振り返って(成果と課題)(伊藤康弘)  今回のパネルディスカッションは、障害者差別解消法の施行から1年余りが経過した節目となる時期を捉えて、高等教育における障害学生の修学支援の現状と今後の課題の検討を企図し、聴覚障害のある当事者、教育的支援を担う支援者、キャリア教育の専門家という異なった立場の3名の講師に多角的な視点から情報提供をいただくことにした。また、副題「障害学生の権利」と「教育機関の役割」という2つの側面からアプローチすることで、できだけ多くの参加者と問題意識を共有し、協議を進めていきたいと考えた。  講師からの情報提供の中で印象深かったのは、武田氏と松﨑氏の学生時代の体験談であった。学生時代のエピソードでは、情報保障の獲得までのプロセスをお伺いし、やはりお二人のパーソナリティによるところが大きいことを改めて確認することになった。今日、障害者差別解消法が施行され、お二人の時代とは制度的には大きな改革が実現したものの、聴覚障害のある学生が自らの権利を意識し、一人一人が必要な合理的配慮の提供を求めていかなければならない状況は変わっていない。そのため、他の学生と同じように平等を基礎とした学ぶ機会を確保するためには、まず自らの権利を意識して、主体的に大学に意思の表明を行い、積極的に建設的な対話を進めていかなければならない。さらに、それらを遂行するための能力を身につけ、高めていくためには、松﨑氏が「エンパワメントの4つの次元」の中で整理した「変革」(「アドボカシー(権利擁護)の次元」)や石原氏が整理した「教育的観点」という視点に基づき、大学が「教育機関の役割」を担い、学生が自らの権利を意識して、建設的対話ができるようにエンパワメントしていくことが望まれる。  パネルディスカッション全体を振り返ってみたときに最も心に残った提言は、聴覚障害のある当事者である松﨑氏だからこそ気づくことができた、「回復」(「カウンセリング(相談援助)次元」と「相互指示次元」)のエンパワメントであった。「回復」のエンパワメントは、聴覚障害という障害種別を超え、すべての障害に共通する重要なアプローチである。それにもかかわらず、残念ながらこれまで見過ごされてきてしまっていた。武田氏や松﨑氏と同様に、これまでも様々な障害種別において、先駆的な役割を果たし、今も活躍し続けている障害当事者は少なくない。だが、一方で松﨑氏が学校現場のエピソードとして語っていたように、日常生活の中で「自分は周囲に迷惑をかけているのではないか」と感じたり、あるいは「自分自身の問題ではないか」と考えたりする自己否定につながる体験を積み重ね、深く心が傷ついている学生が大勢いることも現実である。松﨑氏が「回復」の重要性を指摘したのは、未だ障害のある学生が日常的に様々な場面で自己否定につながる体験に遭遇し、大きな心理的ダメージを受けていることを物語っている。だからこそ、障害のある学生の自尊感情を高め、当たり前にセルフ・アドボカシーを意識できるよう、「カウンセリング」と「回復」の視点の重要性を障害学生支援にかかわるすべての関係者が理解しなければならない。石原氏は情報提供の中で、「大学の機能」として、「『人を育てる』ことは、大学の当然の役割として捉えることができるようになってきている」と述べられていた。今後、教育機関としての「大学」は、障害のある学生に対して、そのことをも念頭において、エンパワメントをしていく必要があるだろう。  パネルディスカッションの最後に投げかけられた「合理的配慮の範囲について、情報保障に限定するのか、個別の指導あるいは支援にまで踏み込むのか」という参加者からの問いかけは、まさに松﨑氏が指摘した「変革」(「ソーシャルアクション(社会変革)の次元」)の具体的な検討事項として、今後、継続して論議を尽くさなければならない大きなテーマではないだろうか。 【写真 趣旨説明をする筆者】