山梨県立盲学校における先天盲ろう児教育実践の概要と資料の現状 飯塚潤一1),宮城愛美1),天野和彦2),岡本 明3) 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者支援研究部1) 筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター 障害者基礎教育研究部2)筑波技術大学 名誉教授3) 要旨:山梨県立盲学校には,戦後間もないころに行なわれた2名の先天盲ろう児への科学的手法に基づいた教育研究・実践の克明な記録,教材などの資料が残されている。我々はこの記録から先天盲ろう児の言語獲得,概念獲得のステップの解明の手掛かりが得られると考えている。本報告ではその教育実践の概要および資料の現状について述べる。 キーワード:先天盲ろう児,教育,実践記録 1.はじめに 生まれつき聴覚と視覚の両方に障害がある「先天盲ろう児」は,言語や物の概念の獲得が非常に困難であり,教育,支援のあり方が成長過程に大きな影響をもたらす。戦後間もないころ,当時の山梨県立盲唖学校(現山梨県立盲学校.以下山梨盲)で,2名の先天盲ろう児への我が国初の科学的手法に基づいた教育が行われた。彼らは野生児にも似た状況だったが,山梨盲の教諭・寮母東大の梅津八三教授らによる長年の試行錯誤ののち,点字,指文字(触指文字),声によるコミュニケーション手段を獲得した。山梨盲にはこのときの教育研究・実践の克明な記録,教材などの資料2,250点が残されている。ヘレン・ケラーが井戸水に触れ,「Water」という単語が水を表すことを“突然”悟ったという話は有名である。しかしそれは逸話的なもので,言語獲得の具体的プロセスについての詳細な記録はない。筆者らは,それは“突然”ではなく,日常生活と教育場面での多くの働きかけと反応の積み重ねの結果であると考えているが,これが明確に示されている文献は見当たらない。梅津の論文でも,実験教育場面で対象児が言語や物の概念を獲得していった過程が報告されてはいるが,日常生活における意思疎通,環境との関わりの様子などとの関係性はほとんど示されていない。山梨盲の資料には,梅津らの研究ノートなどの研究記録に加え,教諭・寮母方が対象児の生活の状況を克明に記録した生活記録,指導応録などがある。このように教育実践と日常生活の記録がセットになって保管されているのはおそらく世界にも他に類を見ない貴重な資料であると思われる。 筆者らは,梅津の論文とこれらの生の記録を時系列的に対照して詳細に分析することによって,先天盲ろう児の言語・概念の獲得や生活習慣獲得のより具体的なステップを解明する手掛かりが得られるのではないかと考えている。本報告では,この日本初の先天盲ろう児教育の概要と,保管されている資料の概要と現状を述べる。なお,山梨盲での教育実践に関する記述は主として文献[1]〜[10](多くは絶版.山梨盲所蔵),梅津教授の研究内容については主として梅津論文のすべてを収録してある文献[11]を参考にしたものである。 2.先天盲ろう児の発見 米国のヘレン・ケラー(1880〜1968),ローラ・ブリッジマン(1829〜1889),ソ連(現ロシア)のオリガ・イワノヴァ・スコロホドワ(1911〜1982)など,先天盲ろう児への系統的な教育は世界的には19世紀後半に始まったとされる[12]。日本では,山梨盲での約60年前の教育が,科学的手法に基づいた教育研究実践の最初であると思われる。1948(昭和23)年,山梨県立盲唖学校(当時)の堀江貞尚校長は,県下の盲児,ろう児の実態調査を行なった。その結果確認された多くの盲児,ろう児の中に盲ろう二重障害児5名がいた。4名は重度の知的障害や病気などから教育は難しいが,4歳の男児(以下,T男)は教育可能であると思われた。堀江はT男を教育することを決意し,受入れ準備を始めた。2歳のときの病気で失明・失聴したというT男は,生活訓練ができておらず歩行も充分でなかったため,教員が自宅に引き取って教えながら,おぶって学校へ行くという毎 日が続いたという。T男は1950(昭和25)年,正式に入学して寄宿舎に入り,本格的な学校教育が開始された。このころ盲唖学校は盲学校とろう学校に分離され,T男は盲学校(三上鷹麿校長)に入ったが,三上は堀江の考えを理解して盲ろう児への教育に熱意を傾けた。翌年にはこの話を聞いた横浜の児童相談所から,3歳のときに高熱のため失明,失聴した7歳の女児(以下,S子)が連れてこられた。三上はS子も受け入れた。二人とも食事,用便などのしつけがほとんどされていなかったため,教育はまず日常の基本的習慣づけから始められた。指示は身振りサインである。これには24時間を通した長い月日がかかったが,教員・寮母たちの献身的な努力により,やがて歯磨きや手洗い,食事,着替えなども自分でできるようになった。先天盲ろう児の教育は,言語教育から入るのではなく,身の回りの生活訓練から進めるべきであるというのはソ連(現ロシア)で,前述のスコロホドワなどの教育に当たったソコリャンスキー,メシチェリャコフらも強調しているところであるが,その業績はまだ日本には伝えられていなかったと思われ,堀江,三上らがそれを知るすべはなかったであろう[13].しかし両者の教育方針に共通するところがあるのは興味あることである.生活訓練の次は言語である。点字と物との結び付けの訓練が,彼らが好きな飴や菓子と,「あめ」「かし」と点字で打ったカードを工夫して,忍耐強く続けられた。しかしこれはなかなか進歩しない。のどや唇を触らせて言葉を読み取らせる「触話法」もほとんど進まない。教員たちには焦りと諦めが強まっていった。堀江は「盲児への教育経験から,盲ろうであっても比較的簡単に言語シンボルを理解させることができると考えていたが,楽天的空想に過ぎなかった」と述懐している[14]。そのような中,1951(昭和26)年,心理学者の梅津八三東大教授が旧知の三上を訪ねて山梨盲に来て,偶然に盲ろう児二人に出会い,教諭たちが壁に突き当たっている様子を見た。半年後,再び盲学校を訪れた梅津は,教諭たちの試行錯誤の結果,約30種類の身振りサインでの交信が周囲の人との間にでき上がっていて,日常のことについては行動をコントロールできるようになっていたことに驚いた。しかし梅津はもっと複雑多様なことに対して,普通の人と同じように自他をコントロールできる「言語行動」の信号系を彼らも獲得できないものかと考えた。今の方法はアメリカの先例を真似たものだが,それ以上はうまく行かない。改めて方法を考えてみるべきだと直感したのである。このときのことを梅津は,「どうしてよいか分からなかったが,『何とかしなければならない』からやがて,『これは何とかなるかもしれないぞ』というふうに変わってきた。」と述べている。 3.梅津八三らによる教育研究実践 梅津は専門の心理学の知見をもとに仮説を立てた。「言語行動」は人に先天的に備わった仕組みの活動であり,盲ろう児も適切なきっかけを与えてやればその仕組みを発動できると考えたのである(この考えは,それ以前のソコリャンスキーたちの知見と一部一致するところがあるが,梅津が彼らの研究をどこまで知っていたかは分からない)。そしていろいろ組み合わせて使える「高単位」の信号系を得ることを目標とした。つまり,文字を覚えるにしても,それを自由に組み合わせて無限の表現ができるようになる必要があるとしたのである。三上は梅津とともに1952(昭和27)年に「盲聾教育研究会」を発足させた。三上,梅津に加え,東大から中島昭美助手(のちに東京水産大学教授。財団法人重複障害教育研究所を創設)ほかの研究者,山梨盲からは志村太喜弥教諭ほかが加わった。研究会メンバーは頻繁に山梨盲を訪れ,夏休みには合宿を行ない,また盲ろう児を梅津や中島の自宅に泊まらせてともに生活した。その中で科学的知見に基づく教育方法が模索され,実践が始まったのである。我が国における先天盲ろう児教育の夜明けと言えるであろう(梅津らはこの教育実践の状況を克明に記録し,授業ノートや指導記録,盲ろう児の日記,往復書簡などのデータ類すべてを残している)。梅津は段階を経て訓練することにした。いきなり点字の訓練をするのではなく,まず物の形に対するカテゴリー形成の訓練から始めた。これは板に開けられている三角形,正方形,円形の穴に,ちょうどはまる形の板をはめ込む「形態板」作業である(図1)。成功したら菓子を与える。次に点の位置の識別,それから実物と点字の結合に入る。物の名前の点字カードと,名前の点字を貼った物を比べて選ばせる。やがて物と点字の間に対応関係が成立するようになった。単語は徐々に増え,動詞なども学習し,文章を組上げて高単位の交信ができるようになった(約2年)。 図1 「形態板」作業 つづいて音声による発信の訓練に入った。まず口の形をつくることを教え,次に意図的に息を出すこと,声帯を緊張変化させることへと順に進み,最後にこの3つを統合して訓練し,徐々に言葉が出せるようになった(約1年)。ローマ字指文字による言葉の受発信も訓練され,さらに算数,社会などの教科の学習も行なわれた。これらは点字学習,発声の矯正などもあわせてT男,S子や,その後入学した2名の盲ろう児が転校や卒業するまで続けられた(約15年)。このようにして,先天盲ろう児は奇跡とも思える発達を遂げたのであるが,これは科学者の研究と現場の教員・寮母方の献身的な実践努力とが見事にかみ合った成果といえる。 4.山梨盲での記録・資料の保管・整理 山梨盲ではこのように素晴らしい教育実践が行われたが,T男,S子ほかが卒業したあと,この盲ろう児教育は打ち切りとなってしまった。志村教諭はこのとき山梨盲を辞して国立特殊教育総合研究所(現国立特別支援教育総合研究所.以下,特総研)に転出し,すべての教育資料を特総研へ移して梅津とともに整理を始めた。梅津はこの資料・データ類に一つずつ克明にカードを作成し,番号を付けて整理している(山梨盲では梅津カード,梅津番号と呼んでいる)。これらはその後,特総研の中澤恵江研究員(現横浜訓盲学院学院長。全国盲ろう教育研究会会長)らによってさらに整理され,番号を付けて丁寧に保管されていたが,2011(平成23)年,すべての資料が山梨盲へ戻されたのである。山梨盲では「盲ろう教育研究委員会」を設立して,この2,250点にも上る膨大な資料を,劣化防止策をとって保管し,また梅津が作成した教材の整理カードと教材実物との照合,資料の電子データ化などに取り組んでいる。また年報発行や資料展開催などの広報活動にも努めている。現在,山梨盲に保管されている教材・資料は以下のようなものである。<資料>対象児の使用した点字学習テキスト,カード等対象児が記した日記や学習プリントや触画等研究者や指導者による対象児の学習の様子の記録等通知表,学級日誌及び寄宿舎日誌等,学校の記録対象児と研究者の往復書簡<教材>概念形成学習に関わる教材(手触り・位置・方向・順序・形態等の弁別教材)数や点字を使った記号操作学習に関わる教材教科学習の教材(時間・数・点字・理科・数学等の教材および「かや盤」*,触地図等) * 三上校長の工夫による,蚊帳網を使った盲児用書字・ 書画版(現在のレーズライタ―)発声及び口型に関わる教材<その他>当時の指導をまとめた研究報告書指導経過をまとめた指導系統図画像,映像,音声記録写真: 学校生活,日常生活(家庭・寄宿舎・その他)   の場面等映像: 指導の経過を記した16oフィルム等録音: 発声の過程を記した音声記録等これらの資料は空調の行き届いた一室に,プラスチックケースに収められている。各資料には通し番号が付けられ,その内容,梅津番号や保管ケースの番号が記載されたリストが作成されている。 5.梅津八三らの教育手法・日常活動資料分析の準備 これらの山梨盲での先天盲ろう児教育については,梅津らの論文のほか,いくつかの報告書にまとめられている。そこには,日本で初めての先天盲ろう児教育に関わった方々の献身的な取り組みの様子や,教育実践・研究の経過などがまとめられていて,歴史的にもまた研究資料としても貴重な文献である。とくに梅津の論文は,一貫して進めてきた盲人の認知行動・心理の研究の知見をベースに,先天盲ろう児への教育という未知の課題に対して取り組んだ科学的研究の実践過程が述べられていて,大変興味深いものである。これらには盲ろう児への働きかけとその結果について,実験結果と考察が詳細に述べられている。しかし,物の概念,物の名前の理解が日常の個々の指導場面において,いつ,どう発現してきたかなど,具体的なポイントについてはあまり明らかになっていない。一方,前述のように,指導記録,寄宿舎日誌,盲ろう児が作成した点字日記など,現場の毎日の資料が大量に残されている。そこで筆者らは,改めて梅津らの論文とこれらの生の資料を時系列的に対照して,盲ろう児が個々の指導に対してどのように変化したか,彼らの持つ内部的な力がどう引き出されてきたかなどを分析するための準備を進めている。膨大な量の資料があるため,現段階ではこれまでに山梨盲で作成した資料リストをもとに資料の全体を把握し,分析すべき資料を抽出する作業を行なっている。現在は,寄宿舎日誌,点字による教材,往復書簡などについて,リストと現物の対照・確認,紙数カウント,劣化状況確認などの作業を行なっている。これまでのところ,リストと現物の不一致がかなり見受けられ,リストの再構築が必要と考えている。また,全体の紙数(ノートのページ数,点字用紙の数など)は数十万枚,録音記録は磁気テープ数百本,木型教材・模型教材など数十点が存在することが判明したが,その多くは劣化が激しく,原資料の取り扱いに細心の注意が必要である(図2)。今後の調査のためにも資料の電子化,データベース化を急がねばならないことを強く感じ,別途その検討を進めている[15]。 図2 劣化した資料(指導応録の一部) 6.山梨盲での記録・資料の保管・整理 山梨盲における先天盲ろう児への教育実践の概要と資料の状況について報告した。現在,資料の状況調査を行なうとともに,その資料を基に分析作業を始めているが,今後さらに教育段階を詳細に分析し,実証研究や盲教育への応用や先天盲ろう児の言語獲得プロセスの研究を進めていく予定である。なお本研究の一部は,筑波技術大学平成27年度および平成28年度競争的教育研究プロジェクト「先天盲ろう児教育実践記録の分析及び盲ろう教育の歴史に関する基礎研究」の一環として行なったものである。 7.謝辞 本研究に日ごろから大きなご支援をいただいている,山梨県立盲学校校長ほか教員の皆様,引田秋生山梨県立盲学校元校長,梅津八三教授のご子息の梅津光生早稲田大学教授,千葉大学市川熹名誉教授,早稲田大学藤本浩志教授,工学院大学長嶋祐二教授ほかの皆様に心より感謝いたします。 参照文献 [1] 山梨県立盲学校編.昭和36年度文部省指定実験重複障害児研究報告書―盲聾唖教育の研究―.1962 [2] 山梨県立盲学校編.盲ろうあ教育.山梨県立盲学校.1965 [3] 文部省初等中等教育局特殊教育課.山梨県立盲学校における盲聾教育に関する研究−文部省指定実験学校報告書−.1970.[4] 志村太喜弥.重度・重複障害児の教育盲ろう児の指導実践に学ぶ.コレール社(武蔵野市).1989 [5] 冨田和子.ある盲聾児の初期指導.山梨県立盲学校.1997 [6] 山梨県立盲学校編.創立80周年(盲ろう教育開始50周年)記念誌.1999 [7] 山梨県立盲学校編.創立90周年記念誌.2008 [8] 山梨県立盲学校編.山梨県立盲学校創立90周年記念事業盲学校「温故知新」講話シリーズ講話集.2008 [9] 岡本 明.先天盲ろう児教育の夜明け−山梨県立盲学校における実践記録−.ノーマライゼーション2012年8月号,pp.36-38.2012. [10] 山梨県立盲学校盲ろう教育研究委員会編.山梨県立盲学校盲ろう教育研究委員会年報第3号.山梨県立盲学校.2014. [11] 中澤恵江編.心理学梅津八三の仕事,第1巻〜第3巻.春風社(横浜市).2000. [12] メシチェリャコフ.坂本市郎訳.盲聾唖児教育−三重苦に光を−.ナウカ(千代田区).1984. [13] 広瀬信雄.盲ろう重複障害児教育の創始におけるイワンA.サカリャンスキーと堀江貞尚.山梨大学教育人間科学部紀要.2000;Vol.1 No.2.pp242-249. [14] 堀江貞尚.ろう盲(二重障害)児.東北大学教育学部研究年報昭和28年.1953 [15] 岡本 明,天野和彦,宮城愛美,ほか.先天盲ろう児教育資料の分析および資料電子化の試み.電子情報通信学会福祉情報工学研究会資料:WIT2016-27,pp.31-36. An Overview of Education for the Congenitally Deafblind at Yamanashi Prefectural Schoolfor the Visually Impaired and Archival Materials of the Education IIZUKA Junichi1), MIYAGI Manabi1), AMANO Kazuhiko2), OKAMOTO Akira3) 1) Division of Research on Support for the Hearing and Visually Impaired,Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology2)Division for General Education for the Hearing and Visually Impaired,Research and Support Center on Higher Education for the Hearing and Visually Impaired, Tsukuba University of Technology3)Emeritus Professor,Tsukuba University of Technology Abstract: Soon after World War II, education for two congenitally deafblind children was provided at Yamanashi Prefectural School for the Visually Impaired. Archival materials such as instructional materials and detailed records of this educational effort are still treasures retained in the school. It is expected that clues regarding the acquisition of concepts and language by congenitally deafblind children could be obtained by analyzing these materials. In this paper, we describe an overview of the education and status of the materials. Keywords: Education for the congenitally deafblind, Historic archival materials