高等教育における手話通訳の訳出 ―主題と主題に関する説明に注目して―   石野 麻衣子(筑波技術大学 障害者高等教育研究支援センター) 1.目的  現在我が国では、1,838 名の聴覚障害学生が高等教育機関で学んでいる。彼らに対し何らかの支援を実施する大学のうち17.2%が手話通訳を実施しており(日本学生支援機構,2017)、今後ますますそのニーズが増加することが予想される。しかし、高等教育場面で通訳可能な人材の確保は大きな課題であり、人材養成のためには、高等教育において必要な手話通訳技術を明らかにすることが急務である。  この課題に対し、吉川他(2010)は、大学院における手話通訳評価項目の試案を作成し、「通訳技術」「表現技術」、及び論理や態度の伝達を含む「講義に応じた技術(翻訳)」に大別されることを明らかにしている。この研究をもとに作成された、大学における手話通訳チェック表では、論理や態度の伝達が4項目に分類されている(PEPNet-Japan,2012)。さらに、これをもとに学部生、大学院生(修士課程)、大学院生(博士課程)別のニーズを明らかにしたところ、学習・研究内容の高度専門化に伴い、「話者の論理や態度の伝達」がより重要性を増していたことから、高度専門領域における手話通訳の不可欠な要素であることが示唆された(石野他, 2011; 吉川他, 2011)。しかし、具体的な通訳方略は明らかではない。  本研究では、先に挙げた「話者の論理や態度の伝達」に関わる4項目のうち、講義の議論の流れや論理展開が明確に伝わるかに着目し、主題と主題に対する説明がどのような訳出によってなされているかを明らかにすることを目的とする。 2.方法 1)モデル手話通訳の撮影  手話通訳者は、過去または現在、高等教育及び関連領域において手話通訳経験を有する手話通訳士5名とし、手話通訳歴は、平均27年(±8.8)であった。  共通の通訳題材は、事前に収録した講義「哲学」のうち20分間とした。手話通訳者には、講義で使用する資料を約1週間前に送付し、事前学習を行った上で収録に臨むよう指示した。  通訳は、大学院修士課程に在籍し、日常的に日本手話を使用するろう学生に対して手話通訳を行うことと仮定した。通訳者は、通訳題材のビデオ映像を見聞きしながら、音声日本語から手話への通訳を行い、これをビデオカメラで収録したものをモデル手話通訳映像(以下、通訳A~E)とした。 2)分析方法  分析は、手話通訳士資格を有し、日常的に聴覚障害学生支援に関わる者が行った。 (1)訳出の書き起こし  通訳題材のうち論理展開が明確な約5分間を起点談話とし、通訳A~Eの該当部分を分析対象とした。分析は、映像等に脚注を挿入する機能を持つソフトウェアであるELAN(開発:マックスプランク心理言語学研究所)を用い、語彙ラベル及び補足記号を用いて書き起こしを行った。 (2)起点談話における主題及び主題に関する説明の特定  約5分間の起点談話について、話題の区切りを特定し、それぞれの主題と、主題に関する説明のポイントとなる要素を特定した。 (3)主題及び主題に関する説明の訳出率   主題及び主題に関する説明について、各モデル手話通訳の訳出結果を、訳出あり(必要な要素を訳出している)または訳出なしに分類し、各通訳者の訳出率を算出した。訳出なしには、誤訳(間違った訳出)や減訳(不十分な訳出)も含むものとした。 (4)同一発話における訳出の比較  (3)の結果特色の見られたモデル手話通訳について、同一発話間で訳出の比較を行った。 3)倫理的配慮  本研究は、筑波技術大学研究倫理委員会にて承認(第H28-28号)を得て実施した。       3.結果 1)訳出語彙数  約5分間の同一起点談話を訳出するために各通訳者が使用した語彙数(指さし含む)は平均457.8語(±61.52)であった。語彙数の最少は通訳者Bの363語、最多は通訳者Eの512語であり、同一起点談話の訳出に使用する語彙数として最大で149語の差があった(表1)。  表1 訳出語彙数及び主題・主題に関する説明の訳出率   語彙数(語) 訳出率(主題)(%) 訳出率(主題に関する説明)(%) 通訳A 471 100.0 70.6 通訳B 363 62.5 52.9 通訳C 435 87.5 88.2 通訳D 508 100.0 76.5 通訳E 512 100.0 100.0 平均 457.8 90.0 77.6 SD 61.52 16.3 17.8 2)主題及び主題に関する説明の訳出率  起点談話内の主題及び主題に関する説明を特定したところ、8つの主題について、17の要素をポイントに説明がなされていた。これらについて、各通訳の訳出の有無を調べ、訳出率を算出した。主題の訳出率は平均90.0%(±16.3)であり、多くの通訳者が訳出していたが、主題に関する説明の訳出率は平均77.6%(±17.8)であり、最も訳出率の低い通訳Bで52.9%、最も訳出率の高い通訳Eで100%となっており、最大で47.1%の差が認められた。 3)訳出方略の違い  モデル手話通訳のうち、特色の見られた通訳B、通訳D、通訳Eについて訳出を比較した。特徴は表2の通り。  表2 各モデル手話通訳の特徴   通訳B 通訳D 通訳E 語彙数 少ない 多い 多い 起点談話の語順と訳出時の語順 近い 必ずしも一致せず 必ずしも一致せず 主題の訳出 やや落ちる あり あり 主題に関する説明の訳出 やや落ちる やや落ちる あり  通訳B、通訳Dの訳出がなされなかった主題及び主題に関する説明について、白澤(2003)が明らかにした「語レベルの変換作業」及び「文レベルの変換作業」を用い、訳出の傾向を分析した結果を表3に示す。  表3 訳出がなされなかった主題・主題に関する説明の変換作業 変換作業 レベル 通訳B 通訳D 省略 語 3 1 文 4 0 言い換え 語 0 1 文 4 1 統合・言い換え 文 0 1 計   11 4     以下に、特徴的な例の起点談話及び各モデル手話通訳の語彙ラベルによる書き起こしの一部を掲載する。語彙ラベルとは、手話単語の日本語訳のうち代表的なもののひとつをこの手話単語の見出し(ラベル)として、便宜的に記述したものである。手話における意味範囲は、日本語のそれと必ずしも一致しないため、語彙ラベルは使用された手話の正確な意味を示すものではない。記載のルールは表4の通りである。なお、主題にあたる箇所を下線で、主題に関する説明にあたる箇所を波線で示すものとする。  表4 語彙ラベル記載のルール 語彙ラベル・記号 意味 改行 文章の区切り /〇〇/ 語彙ラベル及び文法要素の1つの単位を示す /FS(〇〇)/ 指文字 /PT1(〇〇)/ /PT2(〇〇)/ /PT3(〇〇)/ 指さし。PT1は一人称、PT2は二人称、PT3は三人称への指さし。三人称の指さしで、具体的に示しているものがある場合は( )内に補足説明を記載している。 /R(〇〇)・L(〇〇)/ 左右の手で同時に異なる語彙を表す (〇〇〇) 補足説明 (1)文レベルの省略・言い換え(減訳) 起点談話: 社会の逆淘汰っていうのはどういうことかっていうと、こういうことですね。社会は、知能の優れた人間が一握りで、圧倒的な多くは知能の低い労働者階級だと。で、そういう労働者階級が社会を支配していくようになってしまうのを逆淘汰っていうわけですね。 通訳B(主題及び主題に関する説明の訳出なし(誤訳・減訳含む)): /頭/賢い/一部/FS(ブ)/人々/だけ/PT(人々)/他 /周り/労働/人々/頭/下/多い/PT(多い)/ /社会/的/PT(多い)/指示/逆/FS(トウタ)/言う/ 通訳D(主題及び主題に関する説明の訳出あり): /社会/FS(ノ)/逆 /なくす/PT(なくす)/書く/PT(資料)/ /書く/文/意味/何/言う/ /社会/言う/賢い/良い/拍手/言う/人々/一握り/周り/ほとんど/人々/賢い(首をかしげる)/下/言う/労働/者/従う/みんな/(一握りのまわり)/PT(一握りのまわり)/社会/乗り出す/中心/(上の立場の人間)/何/(上の人間を)押し倒す/必要/PT(押し倒す)/(下の人間が上がる)/PT(下の人間が上がる)/逆/つぶす/言う/逆/なくす/言う/方法/PT(逆淘汰)/やる/ 通訳E(主題及び主題に関する訳出あり): /逆/FS(トウタ)/何/意味/説明/PT(意味)/社会/PT(社会)/賢い/良い/人/集団(小)/周り/ほとんど/人々/賢い/ない/バカ/労働/人々/従う/レベル(低い)/多い/立派/レベル(高い)/R(少ない)/レベル(低い)/L(多い)/PT(多くの低いレベル)/社会/支配/R(少ない)・L(多い)/支配/逆/FS(トウタ)/言う/  主題にあたる「社会の逆淘汰とは何か」という教員の発話は、その後の展開の予測を助ける役割を持っている。通訳Bは、この発言を文レベルで省略し、言葉の意味の説明を始めている。一方、通訳Dは「社会の逆淘汰と資料に書いてある。この意味は何かと言うと」、通訳Eは「逆淘汰の意味は何かを説明する」と表出し、さらに最後に指さしで主語の明確化をしている。  主題に関する説明については、通訳Bは一見起点談話を文字通り再現しているように見えるが、誰が誰を支配するのかという主語と述語の関係が見えづらく、また、/社会/的/が起点談話の内容と合わず、文レベルでの言い換えの結果減訳となっている。通訳D、Eは、知能の優れた人と労働者の対比や、これらが多いまたは少ないという量的な対比を、訳出位置(上下)や、/R(少ない)・L(多い)/という訳出で明確化している。    (2)文レベルの統合・言い換え 起点談話: それを防ぐためには、そういう低能な人たちを、えー、無くしていくためにはどうしたらいいかっていうと、いわゆる、第一番目に、いわゆる、自然淘汰を性的なものに転換すること。これによって劣った性質の個人が、子孫を持つこと、そして自らの欠陥を遺伝させることが防げる。 つまり、えー、子孫も不妊手術だとかっていうことを行う。 通訳B(主題に関する訳出なし(誤訳、減訳含む)): /良い/いいえ/だから/頭/下/人々/みんな/排除/なくす/目的/方法/何/言う/ /自然/なくす/性/的/変える/ /下/個人/PT(個人)/産む/子ども/産む/産む/PT(産む)/自分/悪い/面/CL(遺伝する)/いいえ/防ぐ/できる/意味/ /子ども/CL(卵管を切る)/CL(卵管を切る)/CL(卵管を切る)/やる/意味/ 通訳D(主題に関する訳出なし(誤訳、減訳含む)): /とにかく/集団/PT(集団)/(男を上に上げる)/押さえる/ため/PT(ため)/最初/悪い/従う/人々/PT(人々)/遺伝子/持つ/人々/子ども/持つ/言う/PT(子どもを持つ)/から/また/遺伝/(子を空書)/PT(遺伝子)/から/国/操作/例/CL(卵管を切る)/みたい/言う/方法/排除/排除/排除/やる/必要/言う/考える/方法/1つ目/ 通訳E(主題に関する訳出あり): /困る/いいえ/ /防ぐ/したい/ /バカ/人々/減らす/必要/PT(必要)/場合/良い/人々/増やす/良い/だから/書く/ある/PT(ある)/自然/FS(トウタ)/排除/性質/性/FS(セイ)/的/物/変える/する/ /悪い/血/良い/いろいろ/PT(いろいろ)/排除/する/書く/ある/PT(資料)/ /PT3/つまり/例/結婚/赤ちゃん/生まれる/PT(生まれる)/ /悪い/遺伝子/持つ/人々/結婚/赤ちゃん/生まれる/防止/CL(卵管を切る)/行う/PT3(複数)/方法/ /つまり/遺伝/操作/修正/する/FS(トウタ)/排除/PT(排除)/違う(変換)/いろいろ/遺伝/血/遺伝/操作/PT(操作)/  起点談話は(1)の続きであり、(1)の主題に関する説明である。「自然淘汰を性的なものに転換すること」に対応する表出について比較すると、通訳Bは/もの/が表出されておらず、減訳となっている。通訳Dは、起点談話を大きなひとつのまとまりとして翻訳しており、文意は正しいものの、「自然淘汰」「性的なものに転換」という学術用語やこれを用いた文が落ちており、減訳となっている。通訳Eは、翻訳しつつも学術用語やこれを用いた文は起点談話の語の並び通りに伝えており、かつ、語の並び通りに表出することで日本手話としては意味が通りにくくなることを考慮し「資料にあるように」と加訳してから訳出している。 4.考察・まとめ  上記の結果より、高等教育の講義を題材にした同一起点談話に対する訳出は、訳出方略に幅があることが明らかになった。少ない語彙数で、起点談話に近い語順で訳出した場合、主に「語または文の省略」によって主題または主題に関する説明が落ちていた。一方、語彙数が多く、起点談話の語順と必ずしも一致しない通訳の場合、主題の訳出はなされるものの、主題に関する説明は「語または文レベルの言い換え」によって訳出率が落ちる訳出方略が存在した。これは、日本語から手話への翻訳の過程で生じたものと考えられる。ただし、翻訳しても主題に対する説明が漏れなく訳出される訳出方略も存在した。  さらに訳出を詳細に分析した結果、高等教育の講義における音声日本語から手話への通訳では、主題や主題に関する説明を訳出する際に ①起点談話の文意や起点談話内に登場するものの関係性を明確に伝えるための翻訳を行うことが重要であること ②講義における発話では、学術用語やこれを用いた文が存在し、起点談話の単語や語順を大きく変えた翻訳をすると、これらが落ちてしまうことに考慮する必要があること ③ただし②に考慮した結果、起点談話の語順に近い訳出をすると日本手話としては伝わりにくくなるため、専門用語やこれを用いた文と手話による訳出を聴覚障害学生がリンクさせるための補助の役割としての加訳を行う必要があること、の3点が明らかになった。 5.今後の課題  本研究は、講義における手話通訳の訳出分析を行った。この結果、高等教育の手話通訳において重要な訳出方略が明らかになった。今後は、大学院生または高度専門領域に従事するろう者によるモデル手話通訳の評価を実施し、高等教育においてどのような訳出がろう者にとってのわかりやすさを実現するのか明らかにしたい。    6.参考文献・ウェブサイト 石野麻衣子・吉川あゆみ・松﨑 丈・白澤麻弓・中島亜紀子・蓮池通子・中野聡子・岡田孝和・太田晴康(2011)学術的内容の高度専門化に伴う聴覚障害者の手話通訳に対するニーズの変化.第49回(2011弘前大会)日本特殊教育学会発表論文集,363. 白澤麻弓(2006)日本語―手話同時通訳の評価に関する研究.笠間書房,72-96. 日本学生支援機構(2017)平成 28 年度(2016年度) 大学、短期大学及び高等専門学校における障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果報告書.  http://www.jasso.go.jp/gakusei/tokubetsu_shien/chosa_kenkyu/chosa/2016.html 日本聴覚障害学生高等教育ネットワーク(PEPNet-Japan)情報保障評価事業(手話通訳)ワーキンググループ(2012)大学での手話通訳ガイドブック―聴覚障害学生のニーズに応えよう!―.34-35. 吉川あゆみ・松崎 丈・白澤麻弓・石野麻衣子・中野聡子・岡田孝和・太田晴康(2010)大学院における手話通訳評価項目の試案作成.日本特殊教育学会第48回大会発表論文集,238. 吉川あゆみ・石野麻衣子・松崎丈・白澤麻弓・中野聡子・岡田孝和・太田晴康(2011)高等教育における手話通訳の活用に関する研究―学術的内容の高度化に対応するための手話通訳の技術的ニーズに着目して―.日本社会福祉学会第59 回秋季大会報告要旨集. 謝辞 本研究実施にあたり、多くの手話通訳者にご協力をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。本研究はJSPS科研費 16K16870の助成を受けたものです。